4章2話 動き出した神聖国
ある日のサン・フルーヴ帝国宮殿、皇帝の執務室にて。
メディシスの新・基礎医薬生物学、と表紙に書かれた分厚い教科書を手にし、エリザベートII世はそれをぺらぺらとめくっていた。ページは風をはらんで、女帝の、清楚にまとめあげた髪の毛をふわりとさせる。
顔を近づけたり遠ざけたり。ふむふむ、ともっともらしく感心してみせたり。
「なるほど」
ぱたん、と女帝は教科書を閉じた。
ごくりと生唾を飲むのは、ファルマとパッレ。
女帝の手に持つ教科書の第一著者と、第二著者だ。
「わからぬ」
(申し訳ないけど、そうでしょうよ)
ファルマは心の中で相槌を打った。
「謄写機で刷られた医学・薬学書とな。余にはさっぱり分からんが」
完成した教科書も目新しい発明品のうちに入るのだろうか。入るのだろうな、と念のため女帝に献上にきたファルマとパッレである。パッレは「陛下への献上なんて一生に一度あるかないか分からない! 俺にも行かせろ!」と暴れ、宮殿ではインフルエンザが流行っていたので、化学療法中の彼は感染症のリスクを考えて行かせないようにしようと思っていたのだが、まあファルマと一緒に行動している限りは聖域があるので大丈夫かと考え直し、二人で献上式の場に臨んだわけである。
一世一代の晴れ舞台で、パッレの緊張がファルマにも伝わってくる。
「メディシス兄弟。そなたら、見事な働きである」
「ははっ」
「光栄に存じます」
ファルマとパッレは畏まり、二人で一礼する。
(あっ、そういえば! 頭!)
深々と頭を下げるパッレの頭に思わず注目をしてしまうファルマだが、パッレはウィッグが取れないように固定していたらしい。神殿での失敗に学んだようである。ファルマはいらない気を回した。
「クロード」
「は」
女帝は、献上式に立ち会っていた侍医長クロードを手招きし、教科書を手渡した。クロードは相変わらず、襞襟のついた真っ黒なコートを着ている。
「侍医長としてこの書籍の価値を評せ」
「は、ただいま拝読させていただきます」
クロードが厳しいまなざしで、教科書をあらためる。デタラメを書いていないか、学術的に正しいか否かを。
「お二人はこちらへ」
ファルマとパッレは執務室の隅に用意された椅子に腰かけるよう、侍僕にすすめられる。クロードが目を通している間、女帝は国務卿を呼びてきぱきとほかの執務をこなす。
クロードの査読にはしばしの時間を要した。涼しい顔をして待つファルマとは対照的に、侍医長という帝国いちの医師に、ファルマの代筆とはいえ著書を審査されて恐縮しまくるパッレは、今にも倒れそうだった。そんなパッレを見かねて、ファルマは耳打ちする。
「気分悪そうだけど大丈夫か?」
「あ、ああ……お前よく平気だな。心臓に毛が生えてるんじゃないか?」
皇帝や侍医長の前でも堂々としているファルマに、圧倒されるパッレだった。
「生えてないよ」
「誰がハゲてるって?」
「言ってない」
ごほん、とクロードから咳払いが聞こえたので、ファルマもパッレも私語を慎む。皇帝の前で私語など厳禁である。
国務卿と一仕事を終えた女帝は、執務机に置いてあった紅茶を優雅に飲み干し、腹部をさする。
「昼になった、小腹がすいたのう。さて、そなたらも空腹であろう。余と食事でもせぬか」
ファルマとパッレ、そしてクロードは昼食(déjeuner)に誘われた。
「光栄にございます」
皇帝の傍に座ることを許され、食事を共にするということは至上の名誉であり、その栄誉に浴すパッレは一生の自慢にしたいと言って興奮していた。ファルマは診察の後、いつも女帝と一緒に食事をしているのだが、それは敢えて言わないことにした。
皇帝の食事は、宮廷人たちに公開されるものである。
皇帝は準備の整った非公式の食事部屋の円卓の窓際に座し、窓は開け放っている。皇帝の着座を見届けた後、ファルマとパッレも席につく。濡れたナプキンを給仕たちが持ってきてパッレやファルマに差し出し、手を拭く。ファルマとパッレはフィンガーボールに、神術の生成水で水を張り、コップも満たす。
女帝は火属性神術使いなので、専属の水属性神術使いが水を給した。
女帝の周りには大勢の宮廷人が控えていた。衆人環視の中食事をするあたり、フランスのルイ14世の宮廷生活に似ていると、ファルマは思わないでもない。
「ファルマ、来ていたのか! 母君の診察に来たのか?」
皇子が入室してきて、ファルマの来訪を歓迎した。
「うさぎ狩りに行くぞ」
「お久しぶりです、殿下。後ほど、うさぎ狩りの前に診察をさせてください」
何で皇子がお前を知っているんだ、とパッレが目で尋ねる。それに何で無資格のお前が皇族を診察できる! とでも言わんばかりだ。
(もはやこれまでか)
ファルマはさりげなくコートを脱ぐ。コートの下のファルマのベストには、王冠型のバッジがついていた。宮廷薬師のバッジである。帝国で四人目の宮廷薬師、ということになる。
「ひ!?」
初めてそれを目にしたパッレは、顎が外れそうになっていた。ファルマが宮廷薬師であるということをパッレが知ったのも、まさにこの瞬間だったのである。
ファルマは完全に、自らの立場と所有している資格をパッレに言いそびれていた。
「どうした、料理が口に合わんか?」
奇声を発したので女帝に声をかけられ、パッレは畏まる。
「い、いえ。大変美味しうございます」
「それはよかった。心行くまで堪能してくれ」
「ありがとうございます」
ファルマの宮廷での立ち位置を理解し、ロイヤルファミリーぐるみでファルマを重用して親しくしていると知ったパッレは、もはや言葉もなかった。
もう帰りたい、宮廷についてくるんじゃなかった、と思ったパッレである。
オードブルが10皿、肉が3皿、魚が2皿、4皿のアントルメ(デザート)が、毒見のあと、素晴らしい細工の施された銀の食器に載せられ運ばれてきた。ド・メディシス家の食卓よりさらに、宮廷料理というべき豪華で贅沢な料理である。ゆっくりと食事をすすめ、皇子や女帝と気の利いた会話を挟みつつファルマたちが満腹になってきた頃には、別室で査読をしていたクロードは、教科書に一通り目を通していた。
「御苦労、そなたも食事をするといいぞ」
「はっ、ありがとうございます。ざっとですが拝読させていただきました。一つ疑問なのは、ファルマ師はどこでこの知識を修めたのですか?」
ファルマとクロードの視線がかちあった。ファルマはしばし答えに詰まる。
「……お教えいただくわけにはまいりませんか?」
真綿で首を締めるかのように、攻めの姿勢に入るクロード。それを見た女帝は、ファルマに助け船を出した。
「あー、クロードよ。あまり少年を困らせるでない」
「そうですね。これは教科書というより私の妄想の編纂物にすぎません、現時点では」
ところが、ファルマは唐突にクロードに同調した。
「っ、ファルマ⁉」
何を言い出すんだ、そう思ったのだろう。パッレは慌ててファルマをたしなめようとした。しかしファルマの言葉は続く。
「症例を集め、多くの医学者と薬学者の医学的手法に基づいて統計解析がなされ、これらの治療法が有効であると評価され、この知識が今後も更新され続けるとき」
そこでファルマはクロードから女帝に視線をうつす。
「これははじめて本当の教科書となります」
「ほう……」
女帝はファルマの言葉に圧倒された。
「はっ、白血病の項は、私が一例の症例として、身をもって検証しました」
パッレはすかさずファルマを弁護した。
それを聞いたクロードは、冷ややかな笑みを浮かべたあと、恭しく教科書を女帝に捧げた。そういえばと思い出したファルマは、
「侍医長様にも一冊、用意してございます。ぜひお目通しいただければと」
「用意がいいな、感謝する」
クロードは教科書をファルマから受け取り、所感を述べた。
「できればもっと時間をかけて精読させていただきたく、医学的な検証を必要としますが、これは未知の知識の宝庫でございます。これらが創作知識やデタラメではなく全て正しいとすると、これまでの医学史を覆さねばなりません。旧来の医学、薬学は過去のものとなり、無用のものとなりかねませんな」
クロードはそう言い切ってしまうと、手持無沙汰になったらしく、かけていた眼鏡をポケットにしまった。
「検証には百年以上、いや二百年はかかりそうです」
クロードの感覚は正しい、とファルマは頷いた。今、この世界ではどうやっても再現、検証できない技術も教科書の記述に含まれているからだ。
ファルマはクロードの学問へ向き合う真摯な態度を評価したいと思った。
女帝はクロードの話を聞いて少し考え込んでいたが、
「ではそなたと宮廷侍医団に、この医薬学書の検証を任せる。客観性を重視し、過ちはただちに暴き出し訂正をさせよ。二百年かかるものならば、すぐにでも始めねばならぬ」
「仰せのままに。私も、この書物とは無関係ではいられませんからな」
クロードはファルマに目配せをする。
何のことを言っているのか要領を得ないファルマと、さらに意味が分からないパッレが目をしばたかせる。
「再編される帝国医薬大学校の医学部長にならないかと、君の父上に誘われてな」
(そうだったのか。知らなかった……)
ブリュノも水面下でいろいろと動いているようである。
最近、大学に詰めたきりで、殆ど家に帰ってこない。ちなみに、クロードとブリュノは、お互いに尊爵でかつ侍医長と筆頭宮廷薬師でよきライバル関係にあるのだが、ここにきて手を組むことになったようだ。
医師と薬師、医学部と薬学部の連携はこのうえなく強力なタッグだった。
「それは心強く存じます。ありがとうございます」
「君も総合医薬学部長、教授になるのだろう」
それを聞いたパッレは目が飛び出そうになった。そして実際にむせた。宮廷に来た以上、もうパッレに隠せはしない。
「僭越ではございますが」
「だから話を受けたのだ。君が学生たちに何を話すのか、同じ大学にいれば聞けるだろう」
ちなみにこの侍医長であるが、手術が上手い、というのはほかの侍医やブリュノに聞いたところ、本当のようだ。雑菌だらけの素手で手術をするためにこの世界ではほぼ必ず起こるといっていい、手術後の感染症で死亡させてしまう確率が高いだけで、細い血管を縫ったりするのもお手の物、手術中も殆ど血を出さないし、神術を使いながら細やかな仕事をするという。
この世界の平均的な外科医の手術より、彼の手術の成功率は高い。
そのあたりの問題であれば、清潔の概念を教え、術後に抗生物質などを使いクロードの手術をサポートするだけでぐっと患者の生存率も向上するだろう。クロードは名医となれるはずだ。
「君の父上は、帝都と帝国医薬大学校を世界一の医療拠点にしたいようだな。随分と大それたことを考えたものだが……」
面白いじゃないか、とクロードは不敵な笑みを浮かべる。
それを聞いた女帝は、ナプキンで口を拭って食事を終え、彼に尋ねた。
「クロードよ、そなたはファルマを支援するのだな」
「私は医師であり、医学者でもあり、いつも真理の僕です。正しい学説を受け入れます」
過去の常識にはとらわれない、とクロードは述べた。
「白死病のみならず黒死病を退けた全く新しい学問体系であれば、患者のために受け入れるべきでしょう」
「うむ」
ファルマの薬学のおかげで一命をとりとめた女帝も、大きく頷いた。ファルマがいなければ、今頃女帝はあの世行きだったのだ。
「陛下。一つ御赦しをいただきたいことが」
全員が食事を終えた後、クロードは女帝にある提案をした。
「帝国で処刑された罪人を解剖することをお許しいただけますでしょうか」
これまでは、医学生の解剖学実習を動物での解剖で済ませるか教師の解剖を見て学ぶというものだった。だが、これでは解剖学の理解には程遠い、とクロードは考えたようだ。
「医学生は一人一体、人体を解剖すべきだと考えています。それに、ファルマ師の教科書を拝見して、これまでの解剖学の教科書は使えないことが分かりましたから、もっと詳細かつ正確な解剖学の教科書を、教授と学生で作り直す必要があります」
「侍医長様……」
ファルマは意外な人物から心強いバックアップを受けることになり、彼の計らいに感動していた。ファルマはブリュノが帝国薬学校を再編する態勢に入ったため、既得権益の権化ともいえるクロードとは敵対しかねないのではないかと思っていた。
「うむ、許そう」
銃殺刑ではなく、絞首刑での処刑にしてほしい、という要望もクロードから出された。
遺体がきれいな状態の方が、実習教材として助かるからだ。
「よろしくお願いいたします、侍医長様」
ファルマは深く頭を下げた。
…━━…━━…━━…
1147年2月下旬。厳冬の頃。
サン・フルーヴ帝国から遠く離れた神殿の総本山。神聖国の礼拝堂からは神官たちの歌声が響き、神官や神官見習い、巫女たちがせわしなく広場を行き交い、大小の聖堂の屋根には雪が降り積もっている。玄関廊や回廊に荘厳に並ぶ神像にも霜がつき、等間隔に配置された聖騎士たちは警備の目を光らせていた。
神殿組織は、地上にではなく地下に枢要部がある。地上に見えている壮麗な建築は、主に観光客や信者の為のおかざりの建築だ。大神殿の地下には強力な破邪結界の張られた迷宮があり、それは世界中の悪霊の襲撃にも耐えうる地下要塞である。
だが、このたびは大神殿地上部の大会議室で、年に一度の世界中の守護神殿の神官長を集めた枢機会議が行われていた。神殿組織は最高指導者である大神官を頂点に、十名の枢機神官長、その監視下に各地の守護神殿の神官長が各神官を束ねるという形になっている。
今、会議に参加しているのは、世界各地から集った百名を超える神官長たちだ。すり鉢状の大会議場で、中央に祭壇、そして枢機神官長と大神官の席がもうけられていた。
枢機会議では大神官ピウスの挨拶と祈祷のあと、各国の教区の近況と信徒の様子、悪霊の活動状況を報告するのが次第である。
「諸卿らに伝えておかねばならぬことがある」
会議の冒頭に、司会をつとめる枢機神官長の一人が爆弾発言を放った。
「今、何らかの守護神が現世に降りている可能性がある」
「なっ、……それは真にございますか」
当然ながら、各地の神官長がざわめく。
「どの守護神がご降臨召されているのですか?」
「それは定かではない」
神官長たちが騒然となる中、サン・フルーヴ帝都教区神官長サロモンは黙して議席に座していた。現在、どの守護神が地上に降りているのか。知っているのは場ではサロモンだけだ。
サロモンは身じろぎひとつせず、平静を装っていた。しかし、枢機神官長はそんな彼の心を見透かしたかのように、祭壇の上に掲げられた世界地図の一点を、杖で示した。
「おそらくは、サン・フルーヴ帝国に降りている。この二年間、サン・フルーヴ帝国の悪霊の活動は悉く抑えられ、目撃情報が皆無だ」
悪霊は偏在することはあれ、いなくなるということは珍しい。だから、各地の悪霊の出現の様子をつぶさに観察していれば、異変がわかる。
追い出された悪霊たちは、辺境や隣国へと移動していた。帝都を避けるかのように。
それに、サン・フルーヴ帝国の帝都はあの黒死病を退けたという報告が入っている。神の加護があったとしか思えない。そう、枢機神官長は説明した。
「サロモン神官長 前へ」
「はっ」
もはやこれまでとサロモンが席を立ち、どう答えたものかと思案しながら、中央の壇上へと上がる。
彼は大注目を集めた。サロモンは決められた所作で大神官の前に跪く。
「サン・フルーヴ国帝都での悪霊の目撃例はほぼ皆無だ。守護神がサン・フルーヴ帝都を守っておられるのではないか。事情を知っておるな、サロモン」
大神官ピウスが静かに口を開く。有無を言わせぬ威圧を伴ってだ。
ピウスは世界各国の国王、皇帝すら屈服はせると言われる神殿の最高宗教指導者である。元異端審問官であり恐れを知らないサロモンも、この男の視線には射竦められる。
一言一言には、神力が宿っているように錯覚された。
「いいえ、寡聞にして……」
「守護神に誓ってそう言えるのか? 宣誓せよ」
サロモンは聖典に手を当てての宣誓を強要された。
世界中の神官長の見守る前で、サロモンの信仰を試される。この上ない屈辱であり、サロモンは固まった。偽りの宣誓を行った者は、神の怒りをかうとされる。
「どうした、できないのか。宣誓してみよ」
大神官が厳かに命じる。サロモンは自らの信仰に従順であろうとすれば、黙するのが最善だと考えた。ピウスの眼光が鋭くなる。
「知っているのだな。……帝都のどこに降りておられる」
「天上に戻られては困るのだぞ、早く大神殿にお迎えせねば」
神殿枢機部は、守護神を拘束しようとしている。
やはりそうだ……と、サロモンは言外に察した。そこで彼は堂々と答えた。
「仮に帝都にいらっしゃったとしても、不干渉が最善だと考えます。神殿が守護神様に対して、守護神様のなさることの邪魔をする以外に、いったい何ができるでしょうか」
「何を言うか! 下界の汚い場所ではなく、清浄な大神殿でお過ごしいただくよう計らうのが神官のつとめというもの、すぐにでも大神殿にお迎えすべきなのだ!」
枢機神官長は激昂した。
だがそれは建前だ。昔から大神殿のやってきたことといえば守護神を拘束し、神力を搾り取って禁じられた秘儀に使おうとするか、守護神を匿っているという大義名分を手に入れ、世界各国への支配を強めただけだ。
そして大抵は、守護神はそんな人間たちに愛想を尽かせ、消えてしまうか天上に戻ってしまう。何度繰り返しても、神殿は学ばないようだ。
サロモンは静かに溜息をついた。
「守護神様が滞在しておられる場所が、一番のお気に入りなのです。神様は故あってそこにいらっしゃる。神様の居場所を人間が決めるべきではない」
今、この世界に降りている守護神は一柱しかいない。
少年ファルマ・ド・メディシスに憑いている薬神だ。彼はこれまでの守護神とは一線を画し、世界各地を漂泊するでも信仰を強要するでもなく、少なくとももう二年も現世にいて薬局などひらいて、庶民と交流している。
守護神の地上への滞在としては異例の長さだった。
そして地上に降りた彼は、これまでの守護神と違い神であることを自覚しておらず、それを受け入れられない、少し風変りな神格である。異端審問官であったサロモンが彼を卑劣な方法で襲撃したにもかかわらず、許すどころか、手当をほどこすような温厚な性格、そして薬神として人を救うことの重責を思い悩んで、サロモンに相談しにくるような素朴な神格だ。
最近ではファルマにも頼りにされている、よい関係を築けているのでは、とサロモンは思っていた。
人々はファルマから返しきれないほどの恩恵を受けるが、神殿が彼に対してできることは何もない。ただ彼のしたいようにさせ、彼の足跡を記し、彼が心地よいと思っている居場所を守り、できるだけ長くそこにいてもらうだけだ。
そんな事情を話したところで、大神官が理解できるとも思えなかった。彼らはファルマの神格や思いを無視し、神力の塊としてしか見なしていないのだから。
「白状するつもりはないのか」
ピウスの言葉に、怒りが滲んでいた。
「ならば反逆とみなすぞ」
サロモンに詰め寄る枢機神官長たち。サロモンの事実隠蔽行為は、神殿への反逆罪にあたる。聖典に手を当てての宣誓もできず、ファルマの事を話せもしないサロモン、彼には異端審問官による拷問か、神脈の閉鎖が待っているということは明らかだった。
「調べはついているのだ。幾つもの神殿の秘宝を間に噛ませて小賢しく工作しながら、秘宝 薬神杖と、月神の聖剣を交換したようだな。また、帝都では薬学分野やその他の分野で目覚しい発見が相次いでおると各地から報告があがっている。帝都に降りているのは薬神なのか」
「猊下……」
サロモンはピウスに怯えた視線を向け、そして言葉を失った。
「そのようだな」
ピウスが断じる。
「なに。帝都で最近”現れた”薬師を探せばよいのだ、お前に聞くまでもない」
帝都で二年以内に名を上げた薬師というと、ファルマ以外にいない。明日にでもバレてしまいそうだった。
「黒死病を退けた、腕利きの薬師がいるはずだ。すぐにでも探し出せ」
――どうやら、ファルマは目立ちすぎたのだ。




