4章1話 尋常性疣贅とヒトパピローマウイルス
それから日が経ち、1147年2月の半ばになった。
帝都には寒気が下り、その日も例によってどか雪だった。
白血病から生還し、一命を取り留めたパッレは、白血病の血液学的完全寛解後の再発予防のための化学療法を行っている。彼の経過は順調で、白血病細胞も顕微鏡では見えないまでになった。
感染症予防のため外出を控えているパッレが闘病中に驚異的なスピードで代筆をし、その筆の速さに助けられ、ファルマは「メディシスの新・基礎医薬生物学」というシリーズの教科書を作り上げた。本の厚みは、ファルマの第二関節ほどの分厚さになっていた。ブリュノのはからいで教科書は製本され、各地の医学系・薬学系大学に販売されることになった。
(著書の書籍化は久しぶりだなぁ)
前世では何冊となく薬学のテキストを出版してきたファルマであるが、ガリ版で大量に刷られた立派な装丁の書籍を手に取り、紙とインクのにおいを嗅ぐと、感慨深いものがあった。
ファルマは真っ先に、刷りあがった教科書をエレンに見てもらう。エレンはラッピングされた本を受け取り、あらたまって眼鏡をかけなおした。
「謹んで拝読させていただきますわ、これからもご指導ご鞭撻くださいませ、ファルマ教授」
「どうしたんだ、変なモノでも食べたのかよ」
エレンの茶番劇が始まったので、ファルマは苦笑する。
「だって大偉業だわ、ファルマ君とパッレ君二人でこれだけの量を書いたんでしょ?」
「それぞれ半々ぐらいだよ。あと、ロッテにも人体の絵を描いてもらったよ」
宮廷画家であるロッテの人体イラストは、テキストから素人っぽさを抜いて本格的にしてくれた。
「ロッテちゃんもお手柄ね。大学が始まる前に、何回か通して勉強しておかないとね」
「そうだよ、エレンにも講座を持ってもらうんだから。読んでおいてよ。……これができたからもう、半分ぐらいは人生で思い残すことはないよ」
兄弟二人で魂を削って書いた、といっても過言ではなかった。ファルマの知りうる薬学知識のうち、最低限のこと、ものの考え方はパッレに伝えた。あれほど膨大な知識を一気に伝えてパッレに大きな負担をかけたが、パッレの頭の出来が良くて助かった、とファルマは今では思う。
パッレが凡才であれば、ファルマは代筆を頼むこともできず、全部教科書を書かなければならなくなる。二度目の過労死まっしぐらだっただろう。ノバルートから半年に一回帰ってきて、何かと面倒くさい兄だったのだが、今ではすっかり頼れる兄となっていた。また、パッレもファルマを尊敬してくれていた。
「まだ12歳でそんなこと言わないのよ」
既に人生を達観してしまっているファルマを、エレンがたしなめる。
「そうですよっ、人生これからですよっ!」
ロッテがファルマを勇気づける。
もし今、自分がこの世から消えてしまっても、最低限の知識は残せそうだ。そう思うと燃え尽きそうになるファルマだった。医学、生物学に関しては総論から各論まで、薬学はさらに詳しく、ファルマの知る薬の全構造式は記しておいたし、合成経路もしたためた。科学技術が発展して創薬が可能になったら、一つ一つクリアしてゆけばいいだろう。
そして願わくば、ファルマの知る現時点までの「地球の現代薬学」を超えて、新たなページを刻んでいってほしい。そうも思うのだった。
「ロッテにもあるよ、セドリックさんも、よければ見てください」
ファルマはロッテとセドリックにも同じものを手渡す。
「ありがとうございます、ファルマ様」
セドリックも謹んで受け取った。
「えっ、そんな貴重なものを、いいんですか!? 内容は多分、分からないですけど! 私には勿体ないですけど!」
ロッテはまさか自分がもらえるとは思わなかったので、満面の笑みになる。
「ロッテも挿絵を担当したじゃないか、勿論受け取ってよ。それから、ロッテが読んでおいたほうがいい項目もある。応急処置の部分とかね、しおりを挟んでおいたから」
三人がラッピングをほどいてみると、それぞれ三人の好みの色の宝石のついた皮のしおりが入っていた。ファルマからのプレゼントだ。
「ファルマ君ってこういうところ、本当にマメよね」
「できる男と言ってほしい」
「できる男でございますな」
セドリックが、茶目っ気たっぷりにほめそやす。
「あらっ、できる男ファルマさん。アンプロワーズさんに渡すハズのお薬、渡し忘れてるわよ」
アンプロワーズとは、慢性の胃炎を患っている商人の患者だ。
「しまった! 渡しに行ってくる」
ファルマが黒いコートを羽織り、外に出ようとすると、その薬袋をさっとロッテが受け取った。
「私がおつかい行ってきます! アンプロワーズさんのお屋敷なら分かります」
「そう? じゃ、ありがとう。お願いするよ」
ロッテは風のように薬局を出ていった。
ファルマは一階に降りて、バイトの薬師たちにも教科書を手渡した。今、異世界薬局では三名のアルバイトを採用している。ファルマとエレンの都合に合わせて、ヘルプで入ってくれている。ファルマの姿を見かけると、休憩時間でだべっていた三人は起立した。
「教科書……でございますか」
彼らも、仕事の合間に読んでおいてくれると助かる。
「俺と兄が書いたんだ。少しずつでいいから、読んでおいてくれ」
「ありがとうございマス。謹んで拝読いたしマース」
一級薬師ロジェ。彼は失業中だったのをネデール国からファルマが引っ張ってきた青年薬師で、サン・フルーヴ国の言葉は片言なのだが、腕は良い。
「あ、あ、ありがとうございます、店主様。必ず暗記してきますっ!」
大学を卒業したての新人、女性二級薬師レベッカも嬉しそうだ。彼女は奥手な性格で、特にファルマを見ると緊張してしまってまともに話せなくなるのだった。
「んー、暗記は無理かな。読んで理解してくれたらそれでいいよ」
「これは難しくて大変そうですね。子供を寝かせてから少しずつ勉強しましょう」
子だくさんでアルバイトをいくつもかけもっている、肝っ玉母さん薬師のセルスト。彼女も二級薬師で、調剤が速い。しかも彼女はノバルート医薬大の出身である。
「ぼちぼちでいいよ」
負担になってはいけない、と思うファルマである。
「ファルマ君、薬師足りてるわよね。私ちょっと診療に出てくるわ」
「気を付けて」
エレンにも、もともとの自分の受け持ちの患者がいる。彼女の診る患者は、有力な貴族たちだ。彼女は週に一回、半日、診療日を定めている。
「さて、午後も頑張るかな」
まだお昼の休憩時間も終わらないうち、薬局の前に馬車が止まった。ロッテがお使いに出て行ってすぐのことだ。門番の騎士がファルマを呼びに来たので、ファルマも大貴族の来訪だと分かる。ファルマは普通、重病人でもない限り、相手が大貴族だからといって出迎えに出たりしないが、恩人については身分がどうあろうが出迎える。
「ごめんなさい、まだお休み時間中だったかしら」
「これはメロディ・ル・ルー(Mélodie Le Roux)尊爵閣下。構いませんよ、ようこそ」
ファルマは会釈をする。帝国いちの金属、ガラス加工技術を持つ医療火炎技術師、メロディ尊爵が馬車から出てきた。メロディが薬局に足を運ぶのは初めてである。
メロディは髪もすっかり伸び、化粧もばっちりとして身なりも整え、いちだんと美しくなっていた。今日は巷で流行している、ウェストを細く絞り後ろ腰にだけボリュームのある、いわゆるバッスルスタイルの白いドレスを着用している。ドレスのフリルを彩る紺色の大きなリボンがおしゃれで眼にも楽しい。メロディ尊爵が外出したりドレスで着飾れるのは、病状が安定している証拠だった。ふっさふさの羽根帽子を取って、メロディは会釈した。
「薬師ファルマ様、ごきげんよう。先日はお礼の手紙と心づくしの贈り物をありがとうございました」
パッレの治療のために酸素ボンベの容器を作ってもらったあと、ファルマはメロディに礼状を送るのを忘れていなかった。
「こちらこそ、ボンベの依頼でお世話になりました。あのように複雑で大掛かりなものを、たった一日で作ってきてくださって……おかげで兄の命が助かりました。兄も大変感謝しております」
メロディの仕事の速さに、ファルマもパッレも助けられた。
「あれでよかったでしょうか。内部の圧力に耐えられたでしょうか」
「ええ、問題ありませんでした。素晴らしい加工品でございました」
「そうですか。では安心しました。お手すきのときに私の診察をお願いしてもよろしいでしょうか」
メロディがとりにきたのは、統合失調症の治療薬だ。
久しぶりに見た彼女は、統合失調症・緊張型の発作も薬で制御でき、調子がよさそうだった。ファルマはメロディの問診と診察し、同行した家令にも普段の様子を聞く。
「はい、メロディ様はとてもお加減がよさそうにお見受けいたします。お仕事も充実しておられますし……日中はお散歩に、領地の視察、そして依頼品の制作、最近は夜会にもお出かけでございます」
家令は喜ばしそうに、メロディの日ごろの様子を報告する。統合失調症の治療過程で、無気力になっていったり、認知機能障害が現れたりすることがあるが、メロディはそのような症状もないようだ。そして、この治癒寸前という時期に再発したり、ほかのタイプの精神疾患になりやすい。
「そうですか。よさそうですね。お薬を減らしましょう」
薬の組み合わせも変える。それで、家令に、何か変わったことがあればすぐ教えてください、と申し伝えておく。患者だけでなく、周囲の見守りが必要な病気である。
「完全にお薬を飲まなくてもよくなることはありますか?」
「今の状態なら、飲まなくても大丈夫です」
ほっとした表情を浮かべるメロディ尊爵。これでやっと”普通の”生活が送れるようになる、そんな期待が胸に迫ったのだ。しかしファルマは、
「が」
と、言葉を続ける。診眼を使っても、ほぼ治っていると判断できる。それでもまだ手放しで喜ぶ段階ではない。
「統合失調症は、急に薬をやめるとかなりの確率で再発します。予防をかねて、服薬は続けましょう」
「わかりました」
メロディは納得する。せっかく良い経過をたどってきたので、もうひとつ我慢のしどころだ、とファルマは説明した。
「もう檻の中で過ごす生活に逆戻りしたくありません。ファルマ師のお薬のおかげで、私はこうして健やかに過ごすことができます。あなたは恩人です、あなたが私の正気を取り戻してくださいました」
「いえいえ、こちらこそ」
ファルマからすれば、常々マーセイル製薬工場で使う器具類を大量に発注しそれを要求通りに仕上げてくれること、それから今回の無理難題を聞いてくれたメロディには頭が上がらない。
「では、他のお客様に差支えますし、これで失礼いたしますわ」
にっこりとほほ笑み、席を立つ前にメロディが髪をかきあげたしぐさを見た時、ファルマははっと違和感に気付いた。
「お待ちください。メロディ様、お手を拝見してよろしいでしょうか」
「まあ、どうして? 恥ずかしい」
メロディは指をひっこめようとした。
「どうして恥ずかしいのですか?」
「職人の手です。道具を持ちますのでタコがたくさんできていまして」
恥じらってから、おずおずと両手をファルマの前に差し出す。
「最近、それは増えていませんか?」
「納期の早い発注が続いたからかしら」
メロディは思い当たるふしがないわけではなさそうだ。だが、ファルマはにっこりとほほ笑んだ。
「違いますよ。タコもありますが、半分ほどはイボです。それからここ、削りましたか?」
いぼが平らになっている部分があった。
「はい、具合が悪かったのでナイフで削りました……」
何がいけなかったのかと返すメロディ。
「それも、増える原因になったかもしれませんね」
「”尋常性疣贅”」
念のため、診眼で確定する。疣贅というのは、いぼのことだ。ファルマはメロディの手を取って、顔を近づけいぼの下にある血管の様子を確かめた。
「これはですね、ウイルスによってできたいぼです」
ウイルスというものの存在を、ファルマはメロディに説明してきかせる。このいぼは、皮膚の傷つきやすい部位によくできる。職人であるメロディは手を傷つけることも多かった筈だ。
「このウイルスを殺す薬は、今のところありません」
メロディ尊爵の掌のパピローマウイルスは、皮膚の比較的深くまで感染している。
「そんな……治らないのでしょうか。これ以上増えたら困ります」
「治療は薬で治せる場合もあるのですが……ちょっと待ってくださいね」
液体窒素を用いた治療については、それで効果があるか診眼では判定できなかった。そして念のため、ファルマは薬を唱えて診眼ではかる。
「”サリチル酸”」
「”グルタルアルデヒド”」
いぼのできている部分の角質をふやかしてとる方法もあるのだが、必ずしも効果があるわけでなく、メロディ尊爵に対してはこれらの薬は効かないようだ。
「あなたには薬は効かないみたいですね」
その時、おつかいから薬局に戻ってきたロッテは、思いがけずファルマがメロディの手を握り、掌に顔を近づけているのを目撃した。彼女はぎょっとして、思わず薬局の陰に隠れてしまった。
「えっ……今の……もしかしてキ……?」
キス?
パッと見、そう見えたのだ。男性から女性への、手の甲ではなくて掌のキス。それは、プロポーズを意味していた。ファルマとメロディはそんな仲だったのか……と、ロッテは混乱する。そういえば、メロディの治療のために、何度かメロディの屋敷にファルマが通っていた時期があった。
「その時に、少しずつ親密になられたのかな……全然知らなかったな」
というのも、ファルマが異性の体に触れるのは珍しかった。診察の時以外は、必要に迫られない限り殆ど触らない。それに、メロディは手の病気ではなかったはずだ。ロッテだって、ファルマに触られたことはほぼないといっていい。それが、あんなに親しそうに……。
考えてもみれば、ファルマとメロディはお互いに大貴族。メロディは尊爵でもあり、年の差はあってもファルマの結婚相手としても申し分ないだろう。
「そうだよね……」
彼にとってのロッテは、ただの召使でしかない。分かっていたことだが、そう思うと彼女は惨めな気持ちになった。ロッテはじっと自分の手に視線を落とす。ファルマが定期的に作ってくれるローションのおかげで、水仕事をしてもいつも手はすべすべだ。これ以上高望みなんて、できるはずがないのに……。
「ご結婚されたら、ド・メディシス家のお屋敷を出ていかれるのかな。……ファルマ様とはもう、薬局でしか会えなくなるのかな」
はあ……、とため息がこぼれる。ロッテは目の前が真っ暗になった。そして、手持無沙汰にその辺りにあった雪を集めてこね始めた。
そんなこととはつゆ知らず、メロディの手を観察し終えたファルマは、メロディに治療方針を説明していた。
「仕方ありません、液体窒素でイボを焼きましょう。それから、お屋敷に戻ってお茶を飲んでもらいます」
この、尋常性疣贅に対して、絶対に治る治療法はない。標準的なのは、液体窒素で皮膚ごとウイルスを焼き、皮膚組織が壊死するのを待ち、ウイルスを少しずつ削ってゆく。そういう治療になる。液体窒素での処置の時に麻酔なしでやるのが標準的だ。激痛を伴うので興奮して火炎を出されてもいけない。
相手は火炎術師。液体窒素を蒸発させてしまったら、治療ができなくなる。
「はいっ」
メロディはきょとんとする。
「痛いかもしれないけど回数が少なくて済む治療と、痛くないけど回数が多い治療、どちらがいいですか?」
「私は痛がりなので、痛くないほうがいいです」
メロディは怖気づいた。
「分かりました、今日は痛くない治療のほうにしておきますね。麻酔をかけましょう」
ファルマはリドカインを含む軟膏をメロディの指に塗った。
「手の感覚がなくなるまで待って、麻酔が効いて来たら教えてください。はい、次の人どうぞ」
その間に、ファルマは少しずつ増え始めた他の患者の診察をこなしてゆく。メロディは患者の邪魔をしないよう薬局のカウンセリングコーナーに座って、行儀よくその時を待っていた。次第に指先の感覚がなくなってくる。ファルマは次から次へと患者を診ていった。子供ながらに確かな目と腕を持った薬師なのだな、とメロディは改めて感服した。
「麻酔が効いたと思います」
メロディがファルマの前に手を見せにやってきた。
「分かりました」
ファルマは調剤室に引っ込む。
「”液体窒素”」
そして、物質創造で液体窒素を作り出し耐低温容器に入れ、綿を巻いた棒の先端を、-196度の液体窒素に浸す。綿棒の先端は凍結し、超低温を維持している。
「さて、焼きますよ」
店舗に戻ったファルマはメロディの手を取り、全てのいぼに液体窒素の綿棒を押し当ててゆく。液体窒素に触れると激痛を伴うが、押し当てる時間が短ければ、痛みはそれほどでもない。それに、麻酔もかかっている。メロディは殆ど痛みを感じなかった。
「もう終わりですか?」
「はい、これでいいです。5日後にまた来てください、ウイルスの勢いが盛り返してくる前に、また焼きます。一気に取り切ってしまいましょう」
処置はすぐに終わった。そして、ファルマははとむぎ茶を渡す。パピローマウイルスのいぼには、はとむぎ茶が効く場合がある。ファルマはあらかじめマーセイル領で栽培させておいたものを、薬局に仕入れてストックしていた。
「ありがとうございました。これで安心です」
ほっとしたメロディは、代金を支払い、ファルマに懇ろに礼を述べた。
「お大事に」
エレンが診療から戻ってくると、ロッテが薬局の前の階段に腰かけていた。そして……、
「どうしちゃったの、ロッテちゃんたら。この作品たち」
薬局の前に、周囲に積もった雪でこしらえたと思しき雪だるまがたくさん並んでいた。ロッテが何も考えまい、考えまいと思っているうちに、店の前一列にたくさん作ってしまったのだ。それがまた、アーティスティックで、今にも動き出しそうなほど素晴らしい造形になっている。
それと引き換えにロッテの手は、赤く腫れあがっていた。
「あらあら、水属性神術使いでもないのに、素手でそんなことするもんだから……何があったのよ」
「夢中になって作ってしまいました。手が痛がゆいですっ」
しゅんと鼻をすするロッテ。
「当り前よ。しもやけになっているわ。もう……仕方ないわね。メディークのクリームを塗ってあげるわ、一週間もすれば治るから」
エレンが薬局の中に薬を取りに行こうとすると、ロッテがエレンのコートを引っ張る。
「ああっ、中に入ってはいけませんっ、エレオノール様!」
「あら、どうして?」
「そのっ。今、メロディ様がお越しなので……ファルマ様と……」
「診療中なのでしょ? それがどうしたの」
ロッテは慌てふためいていた。
「ファルマ様、今、プロポーズ中で……お二人の時間のお邪魔をしてはいけないと思って」
「えっ? プロポーズ?」
エレンは思わぬ言葉に、声が裏返り脱力した。
「ファルマ君が、プロポーズねえ……好きな人、いたの! むっつりなんだからあの子」
ファルマをまだ子供だと思っていたのはエレンだけで、十二歳のファルマといえど、確かに結婚相手を考えてもおかしくない時期になっている。結婚問題に関しては、父親である伯爵からエレンもお見合い話を少しずつ薦められはじめたので、彼女もようやく結婚を意識をしはじめたころだ。
「進んでるわねえ、ファルマ君たら」
噂をすれば、メロディが薬局から家令と共に出てきた。心なしか嬉しそうに。そして、ロッテとエレンに「ごきげんよう、お世話になったわ」と弾んだ声で挨拶をして馬車で屋敷に帰っていった。
「どう思う?」
エレンがロッテに耳打ちする。
「お嬉しそうでしたね。当然だと思いますっ、ああ、メロディ様はファルマ様のプロポーズをお受けになったのでしょうか。ファルマ様は素敵なお方ですから、メロディ様だって……」
ロッテの口から魂が出かけていた。そんな二人の背後から、間が悪くファルマが声をかける。
「ロッテ、お使いありがとう。遅かったけど何かあった? あ、エレンもお帰り」
「なんでもないですっ、薬局に来た子供たちが楽しんでくれるかなー、って雪だるまを造っていただけで」
ロッテはファルマに話を聞かれたのではないかと、驚いて飛び上がり、言い訳をはじめる。
「ロッテちゃんたら、雪だるま作りすぎてしもやけになっちゃってるわ」
「ええっ……ちょっと診せて」
ファルマは呆れながらも、ロッテの両手をとった。さりげなく差し出されたその手の温かさに、ロッテの鼓動が跳ねる。
「だめですっ、ファルマ様にはメロディ様というお方が……」
だが、それはメロディを傷つけるからと、ロッテはぐいっとファルマの手を押し戻す。
「そうよそうよファルマ君。二股はやめなさいよ」
エレンも加勢した。
「何を言ってるんだ?」
話を聞いて、ファルマはバツが悪そうに笑った。笑い話もいいところだった。
「あれは手を診ていただけだよ。メロディ尊爵にはイボができていたからね」
「本当ですかっ! 本当なんですねっ!?」
ロッテが信じて、嬉しそうな声を上げた。
「でも何でそう思った?」
「なんででもないですっ!」
その日、ロッテは上機嫌で、食べきれないほどの豪華なおやつをふるまったという。




