3章15話 パッレの安息と医薬連携強化
尊爵家ド・メディシス家2階のある一室にて。
「ふむ……俺ときたら何をしても似合うな。ハゲても美男とは。美しいというのも罪なもんだ、はーっはっは!」
パッレは、ブランシュの髪の毛で作られたブロンドのウィッグを装着して鏡の前でポーズを決め、ご満悦だった。ブランシュの髪は艶々として非の打ちどころがない。髪型をセットしている途中だ。
「大きい兄上ー、ブランシュとおそろいなのー」
ブランシュは短くなった髪を両手で引っ張って、お揃いの髪色であることを強調していた。
「はっはっは、どうだーおそろいだぞー! お前の髪だからな! そりゃそうだ、あーっはっは!」
パッレも髪の毛を両手でつまんで上に引っ張ると、カツラが浮いた。
「もうだめだ。笑かさないでくれよ兄上」
自分のものではない髪を見てしんみり。という場面になるかと思えば、ファルマが吹き出しそうになるほど、今日も陽気なパッレである。
以前はクールな印象の銀髪美青年だったパッレは、金髪ウェーブに変身し、甘い印象になっていた。
辛い白血病治療に耐え、脱毛に備えて丸坊主にしたわりには、悲観的にもならず思ったより前向きな兄で助かったと思うファルマである。
「兄上はいつもこう、攻めの姿勢だな」
見習いたくはないが、とファルマは思う。
「お前は何でそう控えめなんだ? 後ろ向きな男はモテないぞ?」
積極的な方が女受けがいいのだ、などと指導されて閉口するわけである。
「あのねー、私知ってるよ。小さい兄上はモテてるって母上が言ってた」
「何それ初耳なんだけど。ちょっと聞かせてよ」
ぜひとも詳しく話を聞きたいファルマである。
「んーとね。ダメー!」
きゃっきゃと面白がって部屋を出て行ったブランシュを、ファルマは形だけ追いかける真似をする。
そういえば、とパッレは急に真面目な顔になり、ウィッグを装着したままファルマに質問を振ってきた。
「完全寛解といっても、白血病細胞が残っているんだろう?」
「その通り。兄上の状態は、“血液学的”完全寛解、つまり顕微鏡観察をして殆ど細胞が残っていない状態。とはいえ、体内には計算上、10億個の白血病細胞が残っている」
ファルマはグラフを書いて、パッレに説明する。
「なっ、そんなにあるのか!」
全然安心できないじゃないか、むしろ何が寛解なんだとパッレは危機感を煽られる。ブランシュは、10億と聞いてもぴんとこずに、ぽかんと口をあけていた。
「気を抜けないことがわかっただろう? とはいえ、1兆個から減ったんだからいい経過だよ」
「おう……まだまだだな。こうしちゃいられない、次はどうすればいいんだ」
パッレは神妙な顔になった。治療を急ぎたいのだ。
「顕微鏡で見える白血病細胞が0%になったあと、更に100万個レベルまで減った状態を目指そう。それが”分子的”完全寛解だ」
「んー、また同じ薬をやるのか」
パッレはごくりと唾を飲み込む。
「ああ、同じ薬をあと3クールやる。ATRAの服用と抗がん剤は続けよう。3年間再発しなければまず安心、5年間再発しなければもう再発しないと考えていい」
そうすれば、白血病細胞は0個になることはないが、治癒といってもいい状態になる。
「道のりは遠そうだ。それで、すぐ次の治療にうつるのか?」
薬神様の試練だと思って艱難辛苦を乗り越えればきっといいことがあるさ、とパッレは前向きだ。
「休憩だよ。骨髄で正常な細胞が回復してくるまで休憩」
ここが病院であれば一時帰宅可、という状態だ。
でも、ここはパッレにとっての実家なので休憩ということになる。
「やった……」
ただでさえ陽気なパッレの表情が更に明るくなった。
「やったね兄上! 高い高いしてー!」
パッレは、部屋に戻ってきたブランシュを高い高いする。
「外にはいつから出られる?」
「外出していいよ。俺もついていっていいなら」
パッレはパジャマを脱ぎ捨て、こうしちゃいられないと服を着替え始めた。感染のリスクを考え、ファルマが同伴することになった。ブランシュも暇なのでお供する。
というわけで、兄妹三人で帝都散策である。
パッレは久しぶりの市街の空気を楽しんでいた。一か月近く治療をしていたので、もう、二月になろうとしていた。
「あー、街の空気がうまいな」
「どこに行きたい?」
「そりゃ、あそこに決まってる」
ブランシュが行先を尋ねると、パッレが真っ先に目指したのは神殿だった。
「えーまたー? 美味しいもの食べに行こうよー」
パッレは礼拝堂に入ると跪き、薬神の像の前で祈りはじめる。ブランシュは水神の方にぶらぶらと出かける。
「おかげさまで、試練を乗り越えることができました」
パッレはしみじみと彼の守護神に報告をした。『よくやったな』などと声をかけたいファルマだが、今回は薬神のフリをして腹話術で兄を騙すのはやめておいた。それに、神官長が柱の影から覗き見しているのがバレバレだ。
「弟の手を通じて、お救いいただき感謝しております」
その時、ハプニングが起こった。
(兄の頭が危ないっ!)
パッレが平伏するものだから、カツラがずれてきている。ファルマは後ろからカツラのポジションを直したい気分だったが堪える。
「重症患者になるという、またとない経験ができました。これは私の成長のために薬神様が課された試練だったのですね!」
勢いよく頭を上げた瞬間にカツラが滑り落ちた。パッレは辺りを見回して、誰にも見られなかったことを確認し何事もなかったかのように再び装着する。
ファルマも見なかったことにした。
「大きい兄上、小さい兄上ー、お祈り終わったー」
「もう終わったのか。ブランシュ、お前はお祈りが雑すぎだぞ! ファルマは薬神様に祈ったのか?」
「ん? あ、うん……」
ファルマの周りの神殿の床が光っているのには気づかなかったようだ。
市内を散策するパッレに付き合いブランシュと共に屋敷に送り届けた後ファルマは、本当に久々に異世界薬局に戻ってきた。
「懐かしき職場だ」
職員たちはお昼休憩中だったので裏口から二階に上がる。
ファルマが部屋に入ると、三人が一斉に振り返った。
「あっ、ファルマ様! きゃー久しぶりです!」
ロッテが駆け寄ってきた。
「ただいま、はいこれ。美味しい紅茶を買ってきたから皆で飲もう」
ファルマが差し入れをロッテに手渡すと、ロッテは嬉しすぎて紅茶の缶を抱きしめて喜びを表す。
「紅茶に合う美味しいお菓子も用意しますね!」
「おかえり、ファルマ君」
エレンがほっとしたようにファルマを見つめる。
「今までありがとうエレン、ロッテ、セドリックさん。任せきりにして悪かったな」
「はーっ、あなたがいないと心細かったわ。不思議ね、子供店長が主戦力の薬局だなんて」
エレンはメガネを拭きながら、じみじみとファルマの出勤を歓迎する。彼女はほっとしたようだった。
ファルマが休んでいる間、薬を調合したりするアルバイトの一級薬師はいるが、診断をつけられるのはエレンだけという状態だった。だから、きちんと診療がこなせるか、毎日が緊張の連続だった。確実に効く薬を求めて患者がやってくる。患者の期待を裏切るわけにもいかなかったし、子供店長以外の薬師はダメだという悪評を立てられるのも不本意である。
「エレン、ちょっとやせたな」
「痩せたわよー! 毎日胃が痛くて」
ストレスで痩せたようだった。悪い事をしたな、とファルマは申し訳なく思う。
「胃薬いる?」
「そうじゃなくて」
「エレンだから任せたんだ」
「ほらすぐそうやってファルマ君は買いかぶるから~」
とはいえ、ファルマと共に働いてきたエレンは、数多くの症例に出会ううち、難しい症例に遭遇しない限り、だいたいのところは診られるようになっていた。また、ファルマから疾患鑑別フローチャートを渡されていたので、それを頼りに留守番はこなせた。
「ロッテちゃんもよく手伝ってくれてたし、セドリックさんにも助けられたわ」
「ファルマ様とパッレ様はずっと頑張っておられましたもんね。そしてエレオノール様も奮闘しておられました」
ファルマの来ない間、屋敷と薬局を行き来するロッテが、ファルマとエレンの間の連絡係のような役割を負っていた。
「はいっ、みなさん! できました、フルーツガレットですよ! ファルマ様の買ってきてくださった高級なお紅茶といただきましょう」
ロッテは、ガレットというクレープのようなお菓子をささっと焼いて、フルーツを包み、ティーセットにしてファルマたちの前に出す。ロッテが趣味にしているお菓子作りも、段々と手際がよくなってきている。
「ファルマ様のおかえりなさいませ会ですね! わあっ、いい香りです」
ロッテが紅茶をそそぐ。
「ありがとう。今日からちゃんと働くよ」
最近はのっぴきならない事情で不在にすることが多かったが、できれば薬局に腰を据えたいファルマである。
「それで、もうすっかりいいのね。パッレ君は」
「すっかりではないけど、もう生死の境をさまようなんてことはない筈だ」
生死の境ときいて驚いたのはエレンである。
「えっ、そんな大事になっていたの? 本人は大したことないって言ってたのに?」
「危うく死ぬところだったよ」
想像以上に深刻だったと聞き、エレンは狼狽した。
「もう……強がりなんだから。パッレ君は。元気になってもらわないと張り合いがないわ」
とエレンは勝気な言葉を述べる。
「で、そのパッレ君は家で何してるの? 屋敷の中で静養?」
「俺がこれまで書いた教科書を読んで、誤字脱字や言い換えがないかチェックしてくれてる。それから、まだ書いていない部分の代筆」
ファルマの書いた教科書は地球の医学薬学知識をもとに書いたオリジナル語彙満載なテキストなので、それをこの世界で馴染み深い言語に置き換える、という作業をパッレがやってくれている。
ファルマも一応、この世界の言語は問題なく使えているつもりだが、やはり異世界語なのでやや口語的だったり、回りくどかったり、医学的にみて一般的ではない表現もちらほらあるらしい。そういう部分は、パッレから見て違和感があるようだ。
そこをパッレがブラッシュアップして、より学術的かつ専門的な、格式の高いテキストに仕上げる改稿案を練ってくれている。これは、ファルマにとっては何より大きな助けとなった。しかも、パッレはファルマが書いた部分まで全部読んでしまって、続きはまだかと催促してくる。
「え、代筆って言った? 何でパッレ君が教科書書けるのよ」
エレンはパッレがちゃっかりファルマから薬学知識を学んで、教科書が書けるまでになっているのがショックだ。
「俺が口頭で教えた部分を、書いてもらっているんだよ。だから代筆」
パッレに口頭で薬学知識を伝えてパッレがテキストを書き、書いたものをファルマが確認し加筆するという作業工程は効率的だった。
口語はともかく書き言葉に関しては、ファルマに書けない事はないが書くスピードが遅かった。さらにパッレはノバルートで化学のはしりを習ってきているので、化学式や構造式も教えれば理解する。こうなると、パッレに新しいセクションを説明しては代筆してもらった方が速かった。
ファルマの仕事はぐっと軽減されたし、パッレも「ふはは、これが最新知識か!」といって喜んでいる。更に、パッレは謄写機の謄写紙のガリを切る作業も楽しんでいた。
「メディシス家の兄弟薬師様は、本当にすごいですよね」
とロッテが二人を褒めると、
「……お師匠様も入れて、メディシス家の三人よね。さすが名門薬師の家柄だわー。で、その教科書は大学で使うの?」
「そのつもり。今回の兄上の治療のときに思ったんだけど、新しく開設する総合薬学部の必修課程として、薬学に加えて、注射や採血、その他の処置が必須科目だと思うんだ。白血病のような病気の治療は、ただ薬を飲んで天命に任せて効果を待つ、というものでは無理だ」
「ファルマ君の言っている処置って医者がやるんじゃないの?」
「薬を扱う以上、薬師もできたほうがいい。もちろん医師との連携も強化しないとと思う、あと、各種の検査部、技師の養成もいずれ必要だ」
薬師の教育だけでなく、医師や技師との連携を図らなければならないというのは、ファルマが常々思っていたことだ。薬学だけ進んでも、医学が旧態依然として追いついてこなければちぐはぐだ。
「そうねえ……サン・フルーヴ帝都に医学校はあるんだけど。影が薄いわねえ」
帝都にはサルレノ医学校という医学校はあるにはあるが、教育水準はあまり高くなく、存在感も薄く、結局優秀な学生はノバルート医薬大に国外流出している始末だった。名門、ノバルート医薬大が強すぎなのだ。ちなみに帝国薬学校と、サルレノ医学校は立地的にはかなり近いのだが……。
「お父上に頼んで、総合薬学部でそういう教育が出来るようにしてもらったら? それに、新たな学部の裁量は、学部長であるあなたが握っているんでしょう?」
エレンが思い切ったことを言った。
「薬師は人に針を刺したり切ったりしてはいけなかったよな」
「それは医業ね、でも法律で決まっているわけではないわ」
「そうなんだ!」
ファルマは目からうろこが落ちる思いだった。
その日の夕食の席で、ファルマはブリュノに相談してみた。
「確かに、薬学校の限界を感じる場面は多々あった」
「はい、薬を処方するだけでは限界があります。注射や点滴などの処置のできる薬師の養成が必要だと」
ブリュノは気難しそうに髭をいじる。新しい概念の治療法には、新しい枠組みが必要なのだということは、ブリュノには理解できた。
パッレは信じられないといった顔をしていたが、ブリュノは賛成に回った。
「早速、教授会に諮ってみよう」
その後の教授会と、サルレノ医学校との協議により、サルレノ医学校、帝国薬学校は統合されることになった。
新体制では、
医学部→旧サルレノ医学校
薬学部→従来の神術と薬草をベースとした薬学を教える学部
総合医薬学部→ファルマが学部長を務める、新薬を取り扱う学部
臨床検査学部→臨床検査技師(微生物、血液、病理学検査などの臨床検査を行う技術者)の養成学部
の四学部を擁する。
全学部共通の教養課程の二年間のカリキュラムは、ファルマが担当することになった。これに関しては、特にファルマの負担は増えなかった。
もともと予定していた総合薬学部の講義を、教室ではなく大講堂で教えればいいだけだ。
医学・薬学の基礎知識を全学生が共有した後、その後は学部独自のカリキュラムに専門化してゆけばよい。医学・薬学の基礎がわかれば、なんでもかんでも悪霊のせいにしていたこの世界の医学薬学の何が合っていて、何が間違っているのか、学生たちが独自で検証して取捨選択してゆけるようになる。
神術との組み合わせを試すのもよいだろう。そして数年後には、多くの専門家を誕生させるだろう。
「思ったより大規模な話になったな」
ファルマは舌を巻く。エレンも驚く事態となった。
「それだけ、お師匠様がファルマ君に賭けているのよ」
そのうち、現代地球と同等水準の学生、薬師を輩出できるようになるかもしれない。そうして大陸全土で、あるいはこの異世界のいたるところで、帝都と同水準の医療を提供できるようになればいい。
そんな希望を抱いたファルマである。
「ぼちぼち頑張るよ」
ということで薬師育成校であったサン・フルーヴ帝国薬学校は、二年後からサン・フルーヴ帝国医薬大学校へと名称を変え、サン・フルーヴ帝国の一大医学薬学拠点として生まれ変わることが決まった。
3章終了です。4章へおすすみください。
 




