3章13話 寛解導入療法(4~6病日目)
パッレが急性前骨髄性白血病であると診断をつけ、すぐに治療を開始したファルマは、手始めに白血病細胞を減少させる寛解導入療法を行っていた。
診断後一日目よりATRAを飲み始める。白血病細胞を正常な白血球へと変える分化誘導の目的でだ。
二日目より、ATRAの補助としてイダルビシン(抗がん剤)を投与。
その、ATRAとイダルビシン併用療法から二日後、つまり治療四日目のことだった。
順調に白血病細胞の数を減らしていたパッレに重篤な副作用がおこった。
ATRAによって一斉に白血病細胞が白血球へと成熟。血中に急激に増えた白血球は炎症物質を出し、パッレの肺をおかし、肺出血と呼吸困難を引き起こしたのだ。
ATRAの副作用、およそ20%強の患者に発生すると言われている、レチノイン酸症候群(分化症候群)の発生である。
パッレの肺では出血が起こり、ファルマはメチルプレドニゾロン(ステロイドの一種)の大量投与(パルス療法)を開始している。
これを切り抜けたとしても、肺出血が起こった患者の五年生存率、つまり治療開始から五年後生存している割合は、30%程度だ。短期的にも長期的にも、危険な状態にあることがわかる。
「ほかに何かできることはないのか、俺は!」
薬だけしか使えない自分はなんて無力だ、とファルマは痛切に思った。
ファルマは左手で物質創造を行い酸素をパッレに供給し続ける。無尽蔵の神力によって不眠不休で持続すれば数日単位では酸素を供給することはできるだろう。
その間に、ステロイドが出血を止めるのを祈る。
でも、それだけでパッレが快復するとは思えない。
「そうか……」
パッレの呼吸音を聞きながら、ファルマは思い出したことがある。
薄暗い室内で、ファルマは右手を前に突き出した。肝心なものを、自分の部屋に置きっ放しにしていた。
手放してはならなかったものだ。
「……来い!」
薬神杖は屋敷の内壁を透過し、猛烈な勢いで飛んできてファルマの掌に吸いついた。ぱしっと軽快な音がした。持ち主のもとに参じた杖を、彼は握りしめる。
(これはできれば使いたくはないけれど……やるしかない)
ファルマは、”免疫力を高め薬の効果を最大限に発揮する”という、薬神杖固有の秘術を思い出した。
免疫力の増強は、感染症であったペストの時には非常に有効だった。
しかし白血病において、免疫力の増強というニュアンスがさらに白血球を活性化させるという文脈でとらえると、状況は悪化の一途をたどる。
肺出血は強く現れるだろう。
「やるしかない」
それでももう、試してみるかみないかの判断の瀬戸際まできていた。迷っている時間はない、放っておけばパッレは力尽きるということを、診眼は明らかにしている。
ファルマは診眼を通して、治療法としての秘儀の効果を事前に諮ることにした。
これまでファルマは治療薬を決定するために診眼を用いてきたが、秘儀の効果も見積もりができるのではないかと考えたのだ。
「頼む、薬神杖。教えてくれ」
(”始原の救援”を使うとどうなるか教えてくれ)
診眼を通して、物言わぬ薬神杖は応えた。赤かった光が青へと転じる。
状態は改善するらしい。
薬神杖の力は、やはり患者の延命を図るようだった。
「よっし!」
秘儀は効く。ファルマは恐れずにパッレの体軸に対して水平に杖を構え、パッレに押し付ける。
そして静かに瞑目した。
「"始原の救援"」
薬神杖が輝き、パッレの体表に薬神の聖紋が現れる。
それはパッレを優しく包み込むかのように薄く発光を始めた。
「う……う」
パッレが呻き声をあげ喀血した。それでも出血が少しおさまってきたのか、パッレの呼吸の粗さがとれてきている。
(よし……処置のための時間は確保できたぞ)
ステロイド療法を行っているので、肺出血は2~3日でおさまるはずだ、そう信じたい。
「ファルマ様、何かお手伝いを。お部屋に入ってよいでしょうか」
先ほどハンドベルを鳴らしたので、真夜中にもかかわらず使用人たちが起きてきた。ロッテの声も聞こえる。
「一人二人、手伝ってほしい」
「かしこまりました」
ブリュノも飛び起きてやってきた。パッレの免疫力が低下している状態がブリュノにはよくわかっていたので、感染対策として手洗いと着替えをしてやってきた。
「父上、手がふさがっていますので手伝って下さい」
ファルマはブリュノに指示をする。彼は左手でパッレに酸素を供給しているので、片手がふさがっているのだった。
「ああ、任せろ。お前はパッレの口に手を当てて何をしているのだ?」
「呼吸がしやすいよう助けています」
本当は挿管(チューブを挿して気道確保をすること)したほうがよいのかもしれないが、人間相手にやったことがないので躊躇した。
薬神杖を持ったファルマは、ブリュノには全身が発光して見えた。
その神秘的な光景に、ブリュノは圧倒された。
「言う通りに準備して下さい」
ファルマはパッレの前から離れず輸血、輸液の準備や器具の準備をブリュノに言いつける。ブリュノは有能で、ファルマが用意していた麻酔を打つ準備などを手際よくこなす。
「ありがとうございます、助かります」
助手の存在の有難さを、ファルマは思い知る。
鶏鳴が夜明けを告げる頃には、不眠不休で処置にあたってきたファルマは疲労困憊だった。
その甲斐あって、パッレの容体は少しずつ落ち着いてきている。
ファルマがうつらうつらすると、物質創造が途切れる。
すると酸素不足になったパッレの呼吸が苦しそうになる。また、時折血痰を吐いたり喀血するので、それで喉を詰まらせないようにする必要もあった。
「ファルマ」
ブリュノの声にはっと目を覚まし、物質創造を再開する。
「すみません、意識が落ちていました」
「無理をしているからな……これを飲め」
手製の体力回復を図るポーションを調合し、ファルマに差し出した。薬の効きにくい身体になっているファルマだが、喉を潤すためにありがたく貰う。
「嬉しいです、ありがとうございます」
(あれ……?)
暫くすると眠気が吹き飛び、気力が充実しはじめた。気のせいではない。
「効いた……」
(エレンのは効かなかったのに?)
過労のため薬局での居眠りが多かったファルマに、栄養ドリンクだといってエレンから同じ組成のものを貰ったことがある。だがエレンのものは、精神的なものより大きな効果を感じられなかった。
「どうした」
「いえ、父上の薬はよく効きますね」
ブリュノの守護神は薬神。だからファルマと相性がいいのだろうか、とファルマは首を捻る。
「薬の調合は神術の領域だ、熟練者の薬はよく効き、未熟者の薬は効かん」
彼の言っていることは本当なのかもしれない、とファルマはブリュノを一層見直した。
「私にはお前の術のほうがよほど興味深い。その、お前がパッレに飲ませているという酸素はどうやって作っている?」
ブリュノには、ファルマがパッレの口に手を当てているだけにしか見えない。
何なら手で口を覆っているので息苦しいのではないか、とブリュノは懸念する。ブリュノになら言ってもいいか、というか隠せないか……とファルマは部分的に白状した。
「父上が水を出せるように、私は酸素やその他の物質を出すことができます」
「なんと!」
ブリュノの目が驚きに見開かれた。
「やはりそうであったか。今までの薬もそうやって創っていたのだな。隠さなくていい、それで合点がいく」
「はい、実は……」
「本格的な合成をしている様子がない、原料も買い付けている形跡がないので、何か秘密があるとは思っていた。そうであったか……」
ブリュノはこれまで、詳しく追及しなかったが、どうやって新薬を調達をしているのか怪しんでいた。ファルマの説明を聞いて腑に落ちたようだった。
「手をかざしているだけにしか見えないのに、そんな高度な神術を使っているとは……やはりお前は、薬神の力を授かっているのだな」
「薬神の力かどうかはわかりませんが、そういうことができます。でもこの方法も効率が悪いと思いますので、酸素の工業生産も必要ですね……マーセイル工場でそのうち生産できるようにしようと思います」
酸素ボンベの必要性を痛感したファルマである。でないと、ファルマが生きた酸素ボンベとして患者に寄り添わなくてはならなくなるし、三人以上の患者を抱えた場合に供給不可能になる。
それを聞いてブリュノは前のめりになる。
「酸素はどうやって作るのだ、今からでも大学の実験室で作れないのか」
ファルマが何日もぶっ通しで酸素供給できるわけがない、逆にファルマが倒れてしまう。
彼を気遣う意味合いもあった。
「実験室で作れる酸素は微々たるものですので、工業的には空気を圧縮して一旦液体にしてから、それを分別蒸留して酸素を取り出します。今、薬学校にある設備では耐圧性から困難ですね」
ファルマが物質合成した液体酸素をボンベに詰めてもいいが、ボンベがない。
「空気が液体に……そんな馬鹿なこと」
「圧力をかければ空気は液体になります」
物質の三態について、ファルマは手短に解説する。こんな時にでも説明してしまうのは、学者としての性だろうか。そんな雑談をはさみながら、容体を見る。
「メロディに、そのボンベとやらを造らせよう」
「……メロディ尊爵なら、できますかね」
「およそ金属加工において、彼女にできないものはない。私はそう思っている」
その日のうちに、ブリュノはメロディに、ファルマの言う通りのものを発注した。
パッレは少し症状がおさまりはじめたので、点滴による麻酔の量を減らしてゆく。
麻酔の量が最小限になったところで、パッレの意識が戻った。
「気づいたか、パッレ」
ブリュノがベッドサイドでパッレの手を握る。
「何が起こったのでしょう……急に呼吸ができなくな……ぐっ」
パッレの口の前にファルマの手がある。無意識に払いのけると、途端に息苦しくなった。
「手を当てるよ。息が楽になるから」
ファルマが元の状態に戻す。
「息苦しくない……どうなっているんだ」
状況を確認すると、パッレは点滴に繋がれていた。ファルマは何を点滴しているのかを教え、これまでの経過を話す。
「副作用が出たんだ」
「肺出血だと……? よく生還できたもんだ」
パッレは話を聞いて、ぞっとしたようだった。パッレの常識では、重篤な肺出血を起こせば窒息してまず助からない。パッレやブリュノの手持ちのあらゆる薬でも治せないし、その治療法は確立していなかった。激しい副作用が生じるかもしれないという説明はファルマから聞いていたものの、真に受けていなかったが、まさか自分の身にふりかかるとは、とパッレは竦む。そして、この病気の恐ろしさを思い知った。
「ファルマのおかげだ、ファルマがいなければ、この病気は助かるものではなかった」
ブリュノが素直に認めた。しかしファルマは、
「ステロイドが効いてよかったよ」
自分の手柄ではなくて薬のおかげだというファルマの謙虚な姿勢は、パッレも見習うところがあると感心する。それはブリュノも同感だった。
「ファルマ、お前は偉大な薬師だな……そして、いいやつだ」
パッレはファルマを認めざるをえなかった。照れも何もなく、ストレートにファルマに伝えた。
「頑張ろう、兄上。今が正念場だ」
「ああ、頑張るさ」
パッレは力強く頷いた。治療に前向きな患者は助かる、とファルマは信じた。
翌日の午後のことだった。
「これ、もしお気に召していただければ、パッレ様のお部屋に飾っていただけますでしょうか」
ロッテが、ブリュノの交代で今日も病室に入るファルマを呼び止めて、額縁に入れた絵をファルマに手渡した。 掛布をとると、キジの遊ぶ川辺の風景画だ。素晴らしい出来栄えだった。数日で描き上げたようだ。
「すごい……何でこの題材を?」
「はい、パッレ様のお好きなフルーヴ河のせせらぎと水車小屋、Feisan de colchideの油彩でございます。パッレ様のお気に入りの場所で、おひとりでよくそこへお出かけでしたから。懐かしいかなと思いまして」
「ありがとう、兄上の部屋は殺風景だったから飾ってくれると思う」
お気に召すとよいのですが、と謙遜するロッテに、ファルマは感謝の言葉をかける。病室の中に入れないながら、ロッテもパッレのことを気にかけているのだ。
「それから、皆からの激励のお手紙でございます」
使用人たち、そしてベアトリスやブランシュたちからの寄せ書き、サン・フルーヴ帝都の写真集をまとめて、表紙にロッテが装画を付けたものだった。
「いいね、これ……元気出ると思うよ」
「この絵は?」
「はい、パッレ様の守護神の薬神様をイメージした装画でございます。加護がありますようにと」
表紙に描かれた優美な少女神の装画を見て、ファルマはたじっと目が泳いだ。ロッテの中では、薬神のイメージは神殿での伝説の通りの美少女神らしい。
「薬神ってこんなイメージなんだ?」
「はい、優しくて清らかで、それでいて気品のある子供の女神さまかなと! パッレ様の守護神ですから、お顔にはこだわりました!」
「えっと……うん、いいね! 喜ぶと思うよ」
ファルマはあたりさわりのないコメントでやり過ごす。やはりロッテには色々とカミングアウトできないと思うファルマである。
「ファルマ様も、心身ともにご無理のないよう、パッレ様の治療をよろしくお願いいたします。付き添いが私ではだめなのは分かっています、でも私ができることであれば何でも申しつけください」
それではっ! と言ってロッテは小走りに走っていった。いい子だな、とファルマは改めて実感する。
「ああ、この絵は素晴らしいな。元気が出る、それにこの精巧な白黒の絵は何だ?」
「写真だよ。帝都の街並みや、家族の写真だ」
「これはいいものだ……」
パッレの顔に、久しぶりに笑顔が浮かんだ。かくも孤独な闘いかと思っていたパッレに、彼の快復を願っている人間が大勢いるということを分からせてくれたロッテのプレゼントは、まさに差し入れとしてうってつけだった。
「ロッテは元気の塊だからな。皆応援しているんだ、あと一息、頑張ろう」
ファルマもパッレの喜ぶ顔を見て笑う。
そしてロッテと使用人たちからのプレゼントは、パッレの目を折々に楽しませ、勇気づけた。
本日は昼12時にも更新しますのでよろしくお願いいたします。




