3話 宮廷薬師見習い ファルマ・ド・メディシス
ファンファーレが屋敷の中に鳴り響く。
「何が始まるんだ?」
「ファルマ様、お食事の時間ですよ」
彼を呼びにきたロッテが早く早く、とせかす。
「おなかすいたな。ロッテも食べに行く?」
腹は減るものだ、何をしていても。
「使用人はご主人さまが終わったあとです」
「そういうことか!」
育ち盛りのロッテも早く夕食にありつきたいのだろう。それでせかすのだ。
食堂に集まってきた家族の顔を、ファルマは初めて確認する。
「起きたか。よく眠っていたから寝かせておいたのだが」
「はい、ご心配をおかけいたしました」
最初に声をかけてきたのは、金色の顎髭をたくわえた碧眼の男。眼光の鋭い長身痩躯の人物だ。屋敷の主人にしてファルマの父親、ブリュノ・ド・メディシス(Bruno de Médicis、37歳)。
彼は代々王侯貴族を専門に診察し薬を処方する宮廷薬師で、帝国の中心部にあるサン・フルーヴ帝国薬学校の総長を務めている。水属性の神術使いだ。
この世界では特殊技能を持つ優れた貴族に、「尊爵」という爵位が与えられている。階級は尊爵、公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵となっている。
つまり尊爵である彼は大貴族、というわけだ。
「まあ、回復してよかったわ。どうなることかと思ったのよ」
そんな声をかけてきたのは銀髪碧眼の、清楚な雰囲気の貴婦人。ベアトリス(Béatrice 34歳)、母だ。名門貴族の出身で風属性神術の使い手だという。
「兄上ー、もうだいじょうぶ? 痛くない?」
金髪碧眼で巻き毛を腰まで伸ばし、愛嬌たっぷりにファルマを呼ぶ幼女。ブランシュ(Blanche 4歳)、妹だ。幼いながら父と同じ水属性神術の使い手だ。
幼くしてこの美貌。将来はさぞ美しくなるに違いないと、ファルマは確信する。
ちなみに留守にしてる兄パッレ(Palle 16歳)。ファルマが名前の件で同情を寄せる兄は、世界最先端の医薬大学、遠い異国のノバルート医薬大学校で薬学を学んでいるエリート。全寮制のため、年に一度か二度しか帰ってこない。
そんな家族が顔を合わせ、広い食堂の大きなテーブルに着席した。
父は机の上に用意された陶器の手洗い用水盤に、水の神術で澄んだ水を注ぐ。
妹のブランシュもいっぱしに自分の水盤に水を張り、母親の水盤も満たす。母親は貴族であるが属性が違うので、水を造るのは娘の仕事だ。
ファルマも平静を繕いつつ彼の前にある水盤に水をたくわえ、手を洗った。
テーブルクロスの上には、直にパンとナイフとスプーンが置かれている。ブランシュが神々への祈りの言葉を紡ぎ、家族が復唱して食事が始まる。
(あ、食事、意外とおいしい)
香辛料たっぷりの鶏のブルーエをはじめ、野うさぎのシチューなどが次々と給仕される。ファルマはロッテに聞いていたテーブルマナーを守り、ゆっくりと食べるように心がける。彼は生前は食事の時間も惜しんでカロリー●イトのようなものばかり食べていたので、その貧乏舌っぷりは異世界でも大いに役立った。
(働きすぎてまともに食事をしたこともなかったな、俺)
一口一口美味しさをかみしめながら、異世界の味覚に舌鼓をうつ。
「ねえファルマ。それでも、体にさわりはないの? あのような雷に打たれて……」
食事が始まってほどなくして、母がファルマを気遣う。
そういえば家族の中で母だけがブドウ酒を嗜んでいた。父は患者からの呼び出しに備え、水を飲んでいる。彼が自分で拵えたきれいな水をだ。檸檬など絞って香りをつけていた。
「記憶が少し混乱しているようです。じきに思い出すでしょう。ご心配なさらず、母上」
ファルマは落ち着いて応える。両親には敬語で、父上母上呼びだ、とロッテに聞いていた。いかにも大貴族の子息といった二人称である。
「しかし命拾いしたな。脈が完全に止まったのだが、落雷直後にお前に飲ませたポーションがきいたのだろう」
満足そうに口を挟んだ父は、彼の薬師としての腕に自信を深めたようだ。何で心停止して息もしてない人間にポーション(水薬)を飲ませたんだ、とファルマは咽せそうになった。よく窒息しなかったものだ。
(いや、ひょっとするとそのポーションが凄く効いたのかもしれないし)
書物に書いてあった処方を見る限りそんな訳はないな、と思ったけれども。
ファルマという少年は寡黙で物静かな人物だったというから、暫くはそのキャラを壊さないよう振舞わねばならない。
そういえば、もとのファルマ少年はどうなったのだろう。落雷で一度死んだというから、記憶も消えてしまったのかもしれない。そう思うと居たたまれなかった。それに彼の体を乗っ取ってしまったようで後ろめたかった。
だがファルマ少年は死んだのだ、ファルマ少年の自我は消えてしまっている。
供養のためにも、彼の分まで生きよう。
と、もと薬学者の彼は心の中でファルマ少年に手を合わせた。
「でも記憶があやふやではいけないわ、心配よ。しっかりと無理をせず養生するのよ。悩みがあれば何でも言いなさい。食べたいものもあれば、作らせましょうね」
ブリュノの亭主関白ぶりに比べ、ベアトリスの気遣いは多少なりと嬉しかった。
「はい、ありがとうございます母上、嬉しいです」
その後、一言二言ファルマと言葉を交わした母は、ファルマの人格が変化したことに違和感を覚えなかったようだ。それもどうかとファルマは思うのだが、とにかく事前にロッテにファルマの普段の様子や口調を聞いていたのが幸いした。
「数日は安静にしておくがよい。次の往診には、ついてこれそうか?」
食事を終えたブリュノが、ナプキンで口を拭いながら思い出したように念押しをする。何のことだろう、とファルマが愛想笑いをすると、ファルマの記憶がまだ曖昧だと察したブリュノは、補足した。
「陛下の往診だ」
「思い出しました。同行いたします」
見習い薬師は師の仕事を見て研修すべきで、宮廷薬師の仕事に同行するものだ。普段のファルマはわずか十歳でありながら、父と共に診察の見学や手伝いを行っていたらしい。
普段は王侯貴族の往診が主だが、今回は父ブリュノの患者の中でももっとも身分の高い、やんごとのない人物。
陛下というと、サン・フルーヴ国皇帝・エリザベートII世しかいないだろう。
(それは大仕事だな)
女帝相手にどんな薬を処方するつもりなのだろうと、ファルマは身がすくむ思いだ。治療に失敗して縛り首、なんてことにならないことを祈る。
「ところで、今日お前の両腕の火傷に使った軟膏、ゲオライドの産地と調合方法は?」
出た。ロッテの言っていた抜き打ち薬学試問だ!
「主成分のハーブ、ティンパーラの産地はラハーラ地方、調合はカテッソの油、トカゲの目玉、こうもりの翅の粉末とともに満月の夜、身を清め祈りをささげながら聖水で一晩煮つめたものを、翌日から3日間天日干しし、乾燥したものを細かくすり潰したものです」
考える間もなく、先ほど予習していた書物の知識がファルマの口をついてすらすらと出た。ファルマ少年が暗誦していた記憶を借りたのだ。
思わず調合方法を口走ってしまったが、現代日本の博士号を持つ薬学者であった彼はなんとも言えない、情けない気分だ。
しかし、この場をやり過ごすには仕方がない。
屋敷をたたき出されても困るのだ。
「覚えていたか。さすが私の息子だ」
そんな事情は露知らず、父は満足そうに大きく頷く。ちなみにあの怪しげな軟膏は長時間皮膚に触れているとかぶれてくるので、短時間だけ使うのが正解である。その点、彼は早々に薬草を取り除き、腕は水できれいに洗っていた。知らず、父を満足させる行動をとっていたのだ。
「よろしい。体調に特に問題がなければ、明日よりエレオノールの授業を再開してよいか」
(知らない人だな)
後ほどロッテに確認したところによると、
エレオノール・ボヌフォワ。
父の一番弟子の薬師で、ファルマの家庭教師だということだった。
…━━…━━…━━…
「おかしい。絶対におかしいわ。別人みたいだもの」
ファルマの目の前の女性はテーブルの上で指を組み、ぽつりと吐いた。
向かい合って座した妙齢の女性の一声にファルマはたじろぐ。
彼女こそはファルマの家庭教師にして父の一番弟子、美貌の一級薬師、エレオノール・ボヌフォワ(Eleonora Bonnefoy16歳)だ。艶やかな銀髪の髪を左右にわけサイドに流して涼やかな印象だった。マットな質感の淡い空色の長くタイトなドレススカートには、活動性を重視してか大胆なスリットが入り、肩は大きくあいている。
目のやり場に困るほどの豊かなバストを組んだ腕の上にぽいんと乗せていた。細いフレームの、銀の眼鏡をずらしてかけてファルマを見つめる。
(服飾がフリーダムすぎるな。メガネもあるのか!)
この世界が中世ヨーロッパに相当するのなら、それ相応の服飾文化なのかとファルマは想定していたが、必ずしもそうではないらしい。いかにも中世ないでたちのド・メディシス家が保守的なだけだった。どちらかというと彼女の装いは、ファンタジー世界の住人のそれで、カジュアルだ。さすが異世界。とファルマは感心する。
「そうですか? 気のせいだと思いますよ!」
「よそよそしいわ。敬語だし」
エレンとの会話パターンを仕入れていなかったな、とファルマは反省する。師弟関係なのだから、敬語だと決めてかかっていた。
(どう話そう。友達感覚で付き合える先生キャラ、で通してるのか?)
エレオノールとの待ち合わせ場所は、屋敷の敷地に沿って流れる大河の中州。その庭園中央に位置する、白い石造りのガゼボ(西洋式東屋)のような建造物の中。日差しはガゼボのドーム状の屋根によってさえぎられ、庭園を吹き渡る風が優しく心地よい。
ガゼボの下にはベンチと円卓があり、優雅な屋外の学びのスペースだ、そこに二人は向かい合って座っている。
そこは、父の所有する薬草園だった。薬草園が中州にあるなど、洪水で流されてしまわないか、とファルマは気をもんだが、ド・メディシス家は水の神術使いであるため、父が術を使っていて川の氾濫で薬草園が流されることはない。だが、高価な薬草ばかり栽培しているので、泥棒には狙われる。もちろん、ド・メディシス家の財産が盗まれないよう、薬草園の警備は夜間も万全の体制になっている、そんな薬草園だ。ファルマが待ち合わせ前に薬草園を見て回ったところ、元の世界にあったおなじみのハーブ、漢方で用いる植物も発見した。異世界ならではの未知のハーブもあった。
「普通に話すよ、エレオノール先生」
呼び方はエレオノールでいいのだろうか? それとも、ボヌフォア先生? などと探り探りの会話はすぐに途切れてしまう。
「エレンでしょ? まーだ、何っか違うわね」
「わかった、白状するよ。雷に打たれて記憶が曖昧なんだ」
「もう、それ早く言ってよ」
やっぱり、とエレンは拗ねたように口を尖らせた。
「確かに雷に打たれると性格が変わるという言い伝えもあるけど……そのうち戻るかもしれないし、そのままなら仕方ないわ。命が助かっただけでも感謝しないと」
立ち上がり、振り向きざまにエレンはにこっと口角を上げる。透明感のある笑顔は眩しかった。ガゼボから出て、彼女は河辺へと向う。ファルマも後に続く。
「今日の授業は薬学講義ではなく、神技の確認にしましょう」
神技(神術の技)は全て覚えているか、とエレンはファルマに問う。
エレンは以前のファルマ少年に数々の神術を教えてきた。
カンのよい優秀な生徒だったようだ。
「水を造ってコップに入れることならできるかな!」
冗談めかしてファルマがそう言うと、エレンは額をおさえて、
「覚えてないってことがよく分かったわ」
ファルマは筆記用具を手に、エレンの講義に聞き入った。