3章8話 薬神の悩み相談と、薬神伝説
マーセイル領から戻ってきたファルマは、製薬工場の従業員の診断と投薬にも精を出していた。
彼は処方と経過観察、そして工場の内部のプラントの施工状況を確認するため薬神杖でマーセイルと帝都を往復している。
そして、忘れずに女帝にカメラと写真を献上した。
宮廷では、ファルマは宮廷薬師というより発明家のポジションにおさまってきたようだ。
女帝は写真をいたく気に入って、家族写真やグラビアのようなものを何枚も廷臣に撮らせていたので、写真集が発売されるのも本当に時間の問題かもしれない。
女帝監修の皇子ルイのフォトブックができそうだというのは、ファルマも耳にしたところだ。
案外、女帝はカメラ女子になるかもしれない。そんな暢気なことを考えた彼であるが、彼女はただのカメラ女子ではなかった。
帝都の街並みを記録させはじめたのだ。
そういえば、写真が発明されてすぐ、地球の歴史でもフランスの街並みを記録させはじめたという。
ロッテの話だと、写真の発明によって宮廷工房では肖像画家たちがお役御免になるのではないかと、戦々恐々としているそうだ。当然ながら、写真を発明したファルマに恨みの矛先が向けられ始めているという。女帝の手前もあり、大っぴらな態度にはできないようだが。
(やらかしてしまったかなあ……画家には悪かったな)
女帝への献上が義務化しているので、彼が個人的な目的で行った発明は、すぐに帝都の中枢部を揺るがしてしまう。多少想像できたことではあったので、ファルマは肖像画家たちには申し訳ないことをしたと思う。それでも、写真が登場したことにより、地球史では印象派やポスト印象派、キュビズムなどが出てきたので、こちらの世界の画壇でも何らかの変化は生じるだろう。
写真によって生じる利害のうち、利はかなり大きいはずだ。
となると緑内障の宮廷画家ダレのシュルレアリスム的画法や、ロッテのアールヌーボー的画風がさらに見直され評価を受けるわけで、独自性の高く写実的でない画法を研究に取り掛かる肖像画家もちらほら出始めるかもしれない。というのは、ロッテの話の中でファルマが今後を予測したことだ。
技術史の変遷とともに、芸術も移り変わるのだ。だが、わずか2年あまりで、というのはいささか急すぎたかもしれない。
(カラー写真の再現はしばらくやめとこう)
ひょっとすると、写真を着色する画家も出てくるかもしれないし、余計な恨みを買って刺されたりしたくはないものである。
…━━…━━…━━…
少し手がすいて休日がとれたので、ファルマはその日、一人で出かける支度をしていた。
「ファルマ様、こんな早くにどこに行かれるんです?」
「いや、ちょっとね」
ロッテは早起きなので、身支度もきちんとして召使の服を着てエプロンをしている。彼女は相変わらず、仕事量をファルマが減らしたとはいえド・メディシス家の召使をやっていて、ファルマとブランシュのお世話係をしていた。「おはようございます」とファルマを起こして着替えを持ってくるのがロッテなので、朝いちばんに出ようとしても、ロッテを出し抜くことは難しい。一人で身支度ぐらいできるし、と思えど、そういうわけにはいかないのが上流貴族だった。
ロッテにブーツを磨いてもらい、コートを着せてもらいながら、ファルマは何とか彼らをまく方法を考えていた。ロッテは手を抜かず身支度をしてくれる。ほかの使用人に任せるより、ロッテの仕事は丁寧だった。
「あにうえー、ブランシュもつれてってー」
まだパジャマで出てきたブランシュは、大胆に寝癖がついたまま人形を抱きしめている。
「ブランシュ様、少々お待ちくださいね。今お着換えをお持ちします。そのあと、お朝食にしましょう。お嬢様のお好きなラッシーも出しますよ」
ロッテがブランシュに微笑みかけた。
「あぃ」
ブランシュは眠たいのか、こくんと頷いたまま目がとろんとしている。
「ねーあにうえ、どこにいくの?」
ブランシュはファルマが行先を告げないので行先を知りたがる。
「ちょっと散歩! 昼までには帰るから」
「いやー! ブランシュも行くー!」
「ばいばい、二人とも!」
「行ってらっしゃいませ。お気をつけて」
ロッテは玄関口まで出てきてお辞儀をする。
何とか二人を振り切った。早朝の帝都に、愛馬を走らせる。目的地はサン・フルーヴ帝都の守護神殿だ。
神官長は毎日のように薬局に来るし、神官に見つかるとちょっとした騒ぎになるので、彼が自発的に神殿に通うことはあまりなかったのだが、今日は日ごろの悩みを相談しようと決めてきたのだ。
その悩みはというと、
(どこ方面からも薬神薬神言われすぎでキツイ)
という切実なものだ。
ファルマは数々の特殊能力は備わっているものの、彼は「薬神」ではないと考えていた。
しかしここのところ、確かに脇が甘かったような気もするが、ほぼ全方位から薬神扱いされて辛さも募る。
ロッテとブランシュと母ぐらいだ。彼を人間扱いしてくれるのは。だから、彼は彼女らと接するのが一番気兼ねがなかった。
女帝やエレンは事情を知ったうえでファルマのことを理解してくれているので、数少ない理解者という、これまた大切な存在なのだが。
であるからには、薬神ではないと否定できる材料がほしかったし、もし本物の薬神だというのなら、それなりの心構えがいる。中途半端な状態が一番モヤモヤするのだ。
守護神殿は、帝都の中央部、女帝の宮殿にほど近い場所にある。
「おはようございますー」
「はああっ! ファルマ様ではないですか、よくぞいらっしゃいました」
神官長サロモンは、午前中の祭儀を前に祭壇や祭具を整えていたところだったが、何もかも放ってわたわたとファルマを出迎えに来る。ファルマの来訪を受けた神官たちはソワソワしはじめ、ことのほか嬉しそうだ。その過剰な崇拝も、多少鬱陶しいというか悩ましい理由だ。
「今日は神官長さんにお話を聞きたくて」
ファルマが神殿に入ると、相変わらず神殿の床が青白く光る。
(やっぱやりづらいな、神殿は……)
別室に通され、神官長自ら茶と菓子を出された。
「あの、おかまいなく」
黙っていたら「供物」がどんどん出てくるのではないかと、ファルマはストップをかける。
「で、今日は何のお話で」
「折り入って薬神の伝承について聞きにきたんですけど」
「それを御身がご存じないというのも妙な話ですが」
サロモンは、むしろあなたのほうが詳しいでしょう、と目をしばたかせた。
「いやあの、俺はそういうのじゃないんです」
とはいっても、状況証拠は揃いつつある。
人間には使えないという薬神杖を使い、数々のチート能力を持ち、おまけに影がない。
でも、ファルマは薬神になるという天啓を聞いた覚えもなければ、それという自覚もさっぱりない。
「ご自身がそうだと、認めたくないということですかな。私と初めてお会いした時には、”祟るぞ”と脅されましたので、ご自覚があるのかと思いましたが」
神官長は穏やかに笑った。
「あれは勢いとその場の雰囲気で。はったりというやつです」
ファルマは過去の黒歴史をほじくり返され、恥ずかしくなった。
「さようでございましたか」
神官長は納得する。
「伝承では薬神ってどんな神だったんです? まず、薬神には影がなかったんですか?」
「守護神は光そのものだと聖典に記述がありますので、必然的に影がないという解釈です」
「なるほど」
(直接的にそう書いてあったわけじゃないのか)
神官長はどっこいしょ、別室から分厚い聖典を運んできて、ファルマの目の前に置いた。華美な装飾の施された聖典は辞書ほどの分厚さがあり、筆写本であり原典ではないという。
神官長は薬神について書かれている聖典の一部分を要約した。
薬神は突然、流り病の前の年にあらわれた。
少女の姿を借りた神は「薬神だ」と名乗り、流行り病をたちどころにしずめ、人々の病を診て病める者にふさわしい薬を与えたという。
右手に雷の形をした完全な聖紋を持ち、薬神杖で空を飛んだのだそうだ。
薬神は不死身で、物質をすり抜ける神体を持っていた。
天と地を往き来する力があり、聖なる泉の力を使って時々天界に帰った。
薬神は段々と地上に戻ってこなくなり、ある時、天界に戻ったきり帰ってこなかった。
薬神が現れた期間は約一年間、一度きりだったそうだ。
そして、薬神杖だけが秘宝として残っている。
「そういう話だったんですか……ありがとうございます」
(転生してもう、一年は過ぎてる)
とりあえずのところ、ファルマが消える気配はない。それが、なによりありがたいことだ。
「薬神は何歳ぐらいでした?」
聖紋が出たのが10歳なのではないか、と女帝の話を聞いたファルマは疑う。
「そこまではわかりません、少女としか伝わっておりません」
結局、薬神というものがその少女に何かが憑依したものだったのか、もともと少女神だったものが地上に降りたのかまではわからなかった。
(うーむ……世界的な流行病が蔓延するかもしれない少し前に転生した俺の状況は、途中まで一言一句伝承のまんまだな。不死身なのかは分からないけど)
ファルマの能力と聖紋を見た者が、ファルマを薬神認定してしまう理由もなんとなく理解できた。
というか、結構前からかなりの一致をみていたので、言い逃れができない。
(俺が不死身なのかどうかはさておき、俺には”天界”に行く方法なんてわからないぞ?)
もしかして、その”天界”というのが地球だったりしないだろうか、という希望も働いた。
(地球から来た神憑きは、地球に帰ってしまったんじゃ)
そうであれば、ファルマ自身も地球に戻れるのではないかと考えてしまう。
「あ、そうだ。そういえば薬神のほかの神も、頻繁に地上に来るんです?」
(ほかの神憑きにも相談してみたいよな。もしかしたら、中身地球人かもしれないし)
「あなたが降りておられる時は、ほかの神は降りませんよ」
「そうなんですか!」
ファルマはがっくりきた。
それぞれの守護神は、一柱ずつ地上に降りるのだそうだ。薬神が降りている間はほかの神は降りない。数百年前までは、入れかわり立ち代わり頻繁に降りていたそうだが、最近はめっきりと降りなくなったという。神憑きは、消える前に秘宝を残して地上を去る。それで多くの秘宝が地上には残されて、それらは総じて人間には触れられず使えないので、聖遺物となっているだけのようだ。
「なので、今、この世界に降りているのはファルマ様、つまり薬神だけです。ファルマ様が地上においでになっているだけでも感激ですし、こう何というか、あなたはとても人間味があると申しますか、普通に暮らしておられる姿を拝見できるだけでも奇跡です」
サロモンの評価でいうと、ファルマは人間くさい神、ということになっているらしい。
「俺のこと、観察しているんですか?」
「それはもう、あなたがこの世界で成したすべてのことは、その時代の神官が記録してゆく義務があります。そうやって、聖典は新たなページを増やしてゆくのです」
ファルマの業績の記録。それも、神官としてのサロモンの仕事らしい。
「それに、神様にこう言うのも変ですが、あなたはお人柄がいい」
サロモンいわく、地上に降りてくる神が必ずしもよい神だとは限らないようで、中には一国を焦土に変えたり、人々を虐殺した邪神もいたという。それを思えば、益神の降臨は大歓迎といったところだ、と神官長は言う。
「もし俺がそうだったとして、薬神の仕事って何だと思います?」
「あなたがまさに、今なさっていることではないでしょうか。数々の薬を創り出し、人々を癒すことです」
サロモンは、ファルマが”薬神としての仕事”をしているのだと勘違いしているらしい。
「仕事だと思ってしているわけではないです」
「つまり……病気の人を見ると放っておけないからそうしているというわけですか。ふむ」
神官長はようやく、ファルマの葛藤を少し理解したようだった。
「ともかく、あなたが肩身の狭い思いをせず、できるだけ長く現世にとどまっていただきたいのです」
「俺だってもう死にたくない、この世界で健康に長生きしたいです」
それはファルマの心からの叫びだった。
「それが辛いのでしたら、薬神だと言われて気負わなくてもよいのではないかと思います。そう呼ばれても、あだ名ぐらいに思っていれば」
「俺の気の持ちよう、ということですか」
かつて地球上でヒポクラテスが医聖などと呼ばれたように、そういう二つ名だと思っていればいい、と神官長は言っているようだった。
「あだ名かぁ」
それは、ファルマの心をすっと一つ楽にした。
「なんだか肩の荷が下りたような気がします」
「あなたのお心に沿うように帝都神殿ははからいますし、お悩みがあればいつでも神殿へ」
神殿は本来、悩める者に力を貸す場ですのでな、とサロモンは笑った。
過剰に騒ぎすぎないように、普通に接するように神官たちには申し伝えておくとサロモンは約束した。勿論、サロモン自身も。
「そろそろ祭儀が始まりますので、私はこれで。それから大秘宝のレプリカがようやく明日、神殿に届きます」
「レプリカまた見に来ます」
「いえいえ、お持ちいたしますよ」
などと会話を交わしながらファルマが応接室を出て、礼拝堂を通り抜け外に出ようとすると、
「うわーっ!」
ファルマは、集ってきた神殿の信者たちを見てのけぞってしまった。信者たちの目が充血していたのだ。5割ぐらいになるだろうか。無意識に目をかいている人もいる。その、目をかいた手で席や神殿の扉をいじったりする。そうやってウイルス感染が拡大してゆくのだ。
「みんな目が赤いじゃないですか」
診眼を使わなくとも明らかだった。
「”流行性角結膜炎”」
(あー。完全に流行っちゃってる)
熱心な信者ほど祭儀や礼拝への参加率が高く、感染したのだろう。
「今日はお説教を長めにしてください。終わっても誰も外に出さないように」
「はい、何か病気が見えましたか」
確かに目が赤いな、と神官長も気付く。
「目の病気ですよ。これは流行ります」
一人とてそのまま家に帰してはならない。
神官たちにも、「祭儀が終わるまで誰も出さないように」と伝えると、祭儀が終わるまでにファルマは馬でひとっ走りして人数分の抗菌目薬を用意してきた。
ファルマは祭儀が終わると、聖堂の入り口に陣取り、帰りの信者たちの中から患者を見つけては結婚式の二次会のプチギフトのように配ってゆく。
点眼薬の使用説明書。目が赤い間の日々の過ごし方、できるだけ他人との接触をしない、目を触った手でどこにでも触れない、などの指南のプリントと一緒にだ。
流行性結膜炎はアデノウイルスの感染によっておこり、非常に感染力が強いので、感染を広げないように気を付けなければならない。アデノウイルスに効く薬は存在しないが、抗生剤やステロイドを点眼することで症状を和らげることができる。症状のひどい人を見極めて、ファルマは薬を配ってゆく。
「これは何?」
目を真っ赤にしている老婦人が尋ねる。
「目薬です。あなたは流行り目を患っているので。これは人にうつります」
「そういえば妻に目が赤いといわれたな」
紳士が、目薬とプリントを受け取っていった。
「私も目が赤いみたいだ」
目薬というものは帝都の薬店ではこれまででも一般的だったので、特に抵抗もなく彼らは受け取っていった。
「いやあ、ありがとうございます。助かりました」
患者全員に配り終え、ほっと一息ついているファルマに、サロモンは懇ろに礼を述べた。
「神殿が感染場所になっていたら、せっかく来てくださった信者さんにも気の毒ですからね」
ファルマは答えた。
「こうやって、放って置けないんですね、あなたは」
神官長は、同情を禁じ得ないようだった。
「俺と同じことを、皆もできるようになればね」
「それには、教育ですかな」
それまでの道のりは果てしなく遠そうだ。
そして翌日。
「先日は、どうもありがとうございました。やっと例のものが届きました」
今回は警備の神官なども連れず、神官長がわざわざ大秘宝のレプリカを異世界薬局に届けに来た。本物であれば警備が必要だが、レプリカなので気楽である。
「これ……」
ファルマは木箱に入れられた大秘宝のレプリカをあけて見て、思わず頬をつねってしまった。
「材質を再現できなかったのですが、実際には半透明のものです。三千年前の地層から発掘されました」
(嘘だろ……どういうことなんだ)
「大秘宝というからには、何か凄い神力があるんですか?」
「はい、神力を蓄えているようですが、使い方が全くわからないのです」
神官長は首を振る。ひょっとするとファルマならば使い方がわかるのではないかと思い、見てほしかったという。エレンとロッテ、そしてセドリックも順番に回し見た。
ファルマは、やはりこの世界は夢なのではないか、と本気で思ってしまった。
そのレプリカには、日本語と英語で薬谷 完治(KANJI YAKUTANI)と書いてある。
さらにいうと、T大学大学院 薬学研究科 ○×講座と書いてある。
サロモンの言っていた大秘宝とは、ファルマの前世で使っていた大学の職員証だったのだ。
もちろん、それは磁気データが入っている何の変哲もない身分証だった。大学の各施設に出入りするためのデータも入ってはいるだろうが。
「あの、この文字は何と書いてあるのでしょうか?」
神官長は期待を込めたまなざしで、職員証に記された所属学部の記述のあたりをなぞる。
「あー、見覚えがあるような気もしますが……少し時間を下さい」
教えたとしても、特に意味はないだろう。ただの名前なのだから。
「よろしくお願いします!」
神官長は、レプリカを渡して帰っていった。
(三千年前の地層から見つかったって……何でそうなってるんだ?)
エレンは近づけたり遠ざけたり、片目をつぶってみたりして、身分証についていた写真、つまりファルマの前世の姿を見つめた。何を言われるのかとファルマがドキドキしていると、
「黒髪だなんて珍しいわね。神族なのかしら」
「神像ですかね」
なんて凄いものを見てしまったと、ロッテも手で口を押さえる。
「うん。何でかしら、やっぱり他人の気がしないわ」
「神様に向かって恐れ多いですよっ、エレオノール様!」
「そうね、気のせいよね」
エレンの勘の良さに一瞬ドキッとしたファルマだったが、バレずに済みそうだったのでほっと息をつく。
(何であるんだろう、職員証。地球とこっちの世界を繋ぐ唯一のものだ)
何としてでもそれの実物を見に行かなければならない、ファルマはそう思った。




