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【完結済】異世界薬局(EP4)/【連載中】世界薬局(EP4.1)  作者: 高山 理図
Chapitre 3 異世界薬学と現代薬学 Pharmacie d'un autre monde et pharmacie moderne (1146-1147年)
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3章3話 テルマエと、未完成の火神紋

「お前の発明した謄写版とやらを、陛下に献上したのか?」

 ある朝のことだった。ファルマは、自宅でブリュノに指摘され、大変な失態を思い出した。

(失敗史も繰り返す……か) 

 ファルマはそういうところが、すっぽりと抜け落ちていた。


「失念しておりました。すぐ陛下に献上に参ります」

「発明もよいが、仕事を抱え過ぎて無理をせんようにな」

 ブリュノはコートに袖を通しながら、ファルマを気遣う。

(いや、父にも仕事振られてるんですけど。大学教授とか)

 どの口がそれを言うのか、とファルマは反論したい気分だ。そこで、

「父上にひとつ、お伺いしたいことが」

 これもいい機会だ、そう思ってファルマは尋ねる。食卓ではなかなか聞けなかった。

「どうして私を大学教授に推しました?」

「ああ……それに関しては私が推したわけではないが、教授どもがお前を薬局で働かせているのを黙っていなくてな。私に関してはお前が思っているように、時期尚早だとは思っている」

 ブリュノは視線をはぐらかし、言葉を濁した。

 子供が教授などと、本来ならばふざけるのもいい加減にしろと言われるところだ。

 せめて成人してからにしてほしかった、とはファルマも思う。


「だが、お前がいつまでその状態を保っているかと、私は懸念している」

 ブリュノの答えはこうだった。

(そういうことか……神官長も言ってたな)

 彼がいつまで前世の記憶を持ったままこの世界にいるのか、それはファルマにも分からなかった。神官長の言ったように、「神々とその化身が現世に現れるのは一瞬」だという前例を調べて、ブリュノのみならず、教授陣も不安になったのだろう。

 ファルマは返事をすることができなかった。確信がないからだ。

 ひょっとすると、明日にでも彼の自我は消えてしまうのかもしれない。


「もし、時間が有限であるなら、お前には大きな仕事に専念してもらいたい」

 患者一人一人を診るのは時間を取られる。

 その時間で研究に打ち込み、数々の新薬を世に打ち出し、薬学の体系を完成させ、すぐれた後継者を多く残してからこの世を去ってほしいというブリュノの合理的な思考が垣間見えた。

 それは非人間的でもなんでもない、実に学者らしい発想だった。ファルマ少年の父親としての立場からいうと非人道的に見えるが、公益のためにそうせざるをえないのだ。


「今、世界に生きている目の届く範囲の数千人を助けるより、時代を超えて残る偉業を残してほしい。そのほうが、目の前の人間のみを救うより結果的に多くの人間を救える。私はそう思う」

「……時代を超えて残る……?」

 ブリュノのいう事ももっともだった。

(わかるよ、父、わかる。その思いは……俺も前世で直面したジレンマだ)

 父はつまりファルマに、前世のように生きてほしいと言っているのだ。

 前世のファルマは、彼が一生のうちに出会うであろう患者より、未来で助かる何万、何百万人の為に新薬を開発してきたといっても過言でない。その結果、彼は研究室で寝起きをし、データと向かい合い、患者と向かい合う事ができなかった。その生き方が、間違っていたとは思わない。

 ただ、過労死をしたのだけは間違っていた。彼がもう少しだけ自分の体をいたわっていれば、まだ多くの人々の為に働けたかと思うと、悔しくて仕方がない。


(でもな……今回は、それだけで終わりたくないんだ)

 それは、この世界に来てから決めたことだ。

「私は、自分の手で患者さんを助けたいと思っています」

(今度は患者さんに寄り添って、その生と死をしっかり見届けながら生きていきたいんだ) 


 それを聞いたブリュノは、ファルマの目を見つめてゆっくりと頷く。

「お前の人生だ。お前の好きにするがよい。まだ小さな身に大きな負担をかけて、申し訳ないとは思っている」

 父は頭を下げた。そして、だが、と言って言葉を繋ぐ。


「もしお前が効果を試したい薬ができたら、ぜひとも私の体を使ってくれ」

 父は、ただファルマに責任と仕事を押し付けたわけではなかった。

 私は喜んでお前の薬を受ける。そう言って父は背を向けると、後ろを振り返りもせずシモンを従えて馬車に乗った。

 彼もまた、大学の総長でありながら、日々の診療のために患者のもとに向かうのだろう。


 エントランスに取り残されたファルマは、前世での記憶、ブリュノの思いなど色々な感情が胸に迫ってきて、ぼんやりとその場に佇んでいた。

 そんな彼をめがけて、パタパタと後ろから小さな足音が聞こえてくる。

「兄上!」

 妹のブランシュが後ろから声をかけてきた。振り向くと、彼女は予想に反して精一杯の変顔をしていた。

「ぷっ、あっははは」

 まさかそんな顔をしているとは思わず、素で噴きだすファルマ。母が見たら「まあ、はしたない! やめなさい!」と叱られること間違いなしだろう。彼女はファルマが思い切り笑ったのを見て、嬉しそうに「あはは」と、一緒に笑った。

「父上と一緒にむずかしいことばっかり考えてるの、よくないよ。あたまがわーってなっちゃうよ。あたまがわーってなったら、よくないと思うんだもん」

「そうだな」

 ファルマは癒されてブランシュを抱き上げる。するとブランシュは手を伸ばしてきて、ファルマの口角を両人差し指で無理やりぎゅっと上げようとするのだった。


「ほら、兄上。にっこり」

「うん、ありがとうブランシュ」

 ブランシュは抱き上げられたまま、ファルマにぎゅっとやって頬ずりしてきた。


  …━━…━━…━━…


 その後のサン・フルーヴ帝国宮廷にて。

 皇帝、エリザベートII世は恭しく納められた発明品をあらためていた。

 ますます洗練されたロッテデザインの超美麗多色刷りイラストカードと謄写版一式を持って、皇帝への献上にやってきたファルマを前に。


「献上が遅れまして申し訳ございません」

 ファルマは冷や汗を流しながら平謝りだった。多忙にしているうちに女帝への献上をすぐ忘れてしまうので、発明品献上係を専属に雇いたいぐらいだ、と思う。だが、女帝はファルマが直接説明に来なければ許さないだろう。それが皇帝というものだ。

 皇帝はイラストカードをかわるがわるに眺めて、しばし沈黙を保っていた。「真っ先に持ってまいれ」と言われていたのに献上が遅れたので首が飛ぶのではないか、とファルマが冷や冷やしていると。

「ふむ、見事な発明品と印刷物の出来栄えだ。というか誰だこのシャルロットという画家は、余の耳に入っておらんぞ。画壇にはまだ出ておらんのか」

 謄写版の発明もだが、女帝はロッテのイラストに興味を示した。ロッテのもともとの作風なのだろう、どう見てもアールヌーボー、アールデコ調で描かれた美麗人物イラスト五枚セット、大いにお気に召したようだ。ファルマから見ても、素晴らしいできばえだと思う。

 女帝の機嫌を損ねないよう、ロッテにはイラスト製作を頑張ってもらった。ロッテは鼻歌まじりにささっと描いて楽しそうに製作していたが、才能が開花しはじめていた。「ロッテは絵の天才じゃないのか!」と褒めると、「私、天才でしょうか!」とその気になっていた。無邪気なロッテである。


 というわけで、

「当薬局の職員の、趣味の製作でございます。画家ではありません」

「うむ、見れば見るほど味わい深い。気に入った。その者は平民か」

「はっ」

「平民だろうがかまわん、近日中につれてまいれ。よいな」

 女帝曰く、宮廷画家として召抱え、宮廷内のステンドグラスやガラス工芸品のデザインをさせたいというのだ。皇帝の気に入ったものは手に入れる、それが物であっても人であっても。

(うわあ、ロッテが大変なことになった!)

 写実的な油彩が全盛の画壇で、デザイン画に価値を見出すあたり、女帝の美的感覚、流行感覚はすぐれていた。以後、女帝のお気に入りとあってサン・フルーヴ帝都でアールヌーボーが流行りそうな気配がプンプンだ。

(ロッテの人生での最大事件、もとい美術史の重大事件がおきたぞ……)

 ロッテは尊爵家の屋敷で幼少時より行儀見習いはしているので、たとえ皇帝の前に出ても粗相はないと思うが、皇帝お抱えの画家になるなどと伝えると、本人が気絶してしまうかもしれない。

「この絵をもとに、ステンドグラスを作らせよう。その者はどんな褒美を所望するだろうか」

 とりあえず一枚、気に入ったイラストで、お抱えのガラス職人にステンドグラスの試作をさせたいという。気の早い女帝のことだから、今日にでも作らせたいのだろう。

(ロッテの褒美か……ロッテはわかりやすいよな)


「お菓子がいいと思います」


 本人に聞かなくても、絶対に間違いないはずだ。女帝や皇子が時々つまんでいる高級菓子、ショコラなど食べたらもう昇天してしまうだろう。そして、ドはまりしてしまうだろう。

「うむ、では最高級の菓子を作るよう料理長に命じておこう。それから、朗報だ」

 褒美と言って、女帝はあることを思い出したらしい。

「と、申しますと?」

「そなたが褒美にと所望しておったテルマエのひとつが完成した」

 ファルマが所望したと言ったが、ファルマは直接所望していない。「温泉に行きたい」と言っただけなのだが、ノアの告げ口の仕業だ。ノアは準騎士となり、もう小姓ペイジではないのだが、なんだかんだで皇帝の側近としてまだまだ使いっ走りをしている。それが出世の近道だと知っているからだろう。今だって、この献上式の場にしれっと紛れ込んでいるのだ。

「は、早いですね……さすが陛下」

 女帝は帝都に五つのテルマエの建設を命じたが、そのうちの一つがもう完成したという。まだ一か月あまりしか経っていない。照明も惜しまず、夜を徹して造らせたという。

(このあたりが、皇帝だよなあ)


「そうであろう、そうであろう」

 あっはっはっは、と豪快に笑う女帝。

「帝国の功労者への褒賞を急がせるのは当然である」

 男らしいことを言う、脳筋女帝であった。

「余はそなたに、新浴場を一番に見せたくてな!」

 女帝は上から目線でファルマを見下ろす。

(あっ、陛下そんな、献上が遅れた俺にあてつけのように……!)


「そういうことだ、これから浴場にまいるぞ」

 玉座から立ち上がる女帝に、廷臣たちも追従する。今日一日、浴場は彼女のために貸切だという。

「こ、これからですか!?」

 ファルマが献上式のために宮廷に来るというので、驚かせようと思って湯船の支度をさせていたのだという。まだ浴場はオープンしていないが、当然、皇帝が一番先に貸しきって入浴する。貴族、庶民はその後だ。ちなみに、ロッテの希望通り、平民も貴族と同じように、浴場は分けられているが入浴できることになった。

 皇帝が宮殿から出るのは久しぶりということで、浴場まで盛大なパレードが行われた。騎馬隊に守られ、豪華な白馬の10頭牽きの馬車でだ。宮廷の正門が開き、女帝が民衆の前に姿を現す。

 そしてファルマは、よりにもよって女帝と同じ、白馬の牽く特別な帝室馬車に同乗させられた。皇帝の馬車には民衆の熱い視線が向けられる。天気がよいので、ホロもあげられていて丸見えだ。陛下の隣にいるのは異世界薬局の子供店主ではないか、と大騒動になっているようだった。

「陛下! 陛下!」

 熱烈な陛下コールで耳が痛いぐらいだ。

(ああ、なんてこった……)

 顔を真っ赤にしながら女帝の隣で縮こまるファルマだが、女帝は意に介していない。

「ほれ、平民どもが見ておるぞ。しゃきっとせんか」

「は、はい」


 民衆の視線や拍手を受けながら、ようやくのことで馬車は帝都浴場(Thermes de Cité Impériale)に到着した。

「わあ、すごい! 立派ですね!」

 ファルマはできるだけ大き目のリアクションを心掛ける。女帝は、ファルマのリアクションが見たくて浴場に連れ出したと言っているのだから。

「うむ、なかなかだな」

 真新しい公衆浴場は、大貴族の屋敷を改装して造成されたもので、かなりの敷地面積を持っていた。外観は宮殿のようにしか見えない。その構造には女帝が直々に数々の注文をつけたという、一大娯楽施設である。浴場の職員が外でずらりと皇帝の到着を待っていた。それだけでも、皇帝の権力の強さがうかがえる。

 女帝と共に馬車を降り、高価なガラスを惜しげもなく使った立派なエントランスホールを抜けると、脱衣場の入り口が見えてきた。入口は二つある。

「あの、ちなみにお伺いしたいのですが……その浴場は男湯と女湯、わかれています?」

「うむ、きちんと分けてあるぞ。風紀の乱れはゆゆしきことだ」

(よかった……だから、男女別に貴族と平民用で4つの浴場があるってことだよな)

 紳士の彫刻のある男湯らしき入口へ向かおうとすると、女帝に呼び止められた。

「そなたは余と一緒に王族専用の浴場に入るのだ。女湯から入れるぞ」

「な、なぜですか陛下ぁ!?」

 声が裏返ったファルマである。

「せっかく造らせたのだ、別々ではつまらんではないか」

「お、恐れ多いです……陛下と二人きりで入浴だなんて……」

 この浴場の客は、今、二人しかいない。

 皇帝と、ファルマである。女帝はあくまで、ファルマの驚きと称賛とリアクションを見たいようである。

「はっはっは、そなたはまだ11歳、男女もへったくれもなかろう。ませたことを言いおって」

 ファルマは力強く腕を握られると、強引に女湯の入り口へと連れてゆかれる。

 脱衣場はかなり広いスペースがとられて、数百人は収容できそうだ。休憩スペース、マッサージルームもある。

「こちらだ、いくぞ」

 女帝は何の躊躇もなく素っ裸になると、ズンズンと大股で歩きながら浴場へと向かった。ぷりっとした形のよい生尻が目に飛び込んできて、ファルマは顔をそむける。

(何だこれ、陛下の無自覚サービスかよ)

 服を着たお付きの侍女が数名、彼女の後を追った。ファルマは脱衣場に取り残されるのも困るので、布で前を隠しながら慌てて浴場へ向かう。

 大浴場は素晴らしかった。広いドームの中に、かけ流しの湯が張られた、現代でいう25メートルプール一杯分の面積もある、円や長方形の大浴槽が複数。それぞれ温度が違ったり、デザインが違ったり、噴水のようなものがあったり、入浴剤が入っていたり。内装も贅沢で、大浴場の中には大理石で作られた彫像や、観葉植物などがセンスよく配置されていた。高くそびえる太い白柱が、ローマ風を思わせた。女帝は中庭にある、総ガラス張りの皇帝専用の浴場へと向かう。

 浴場に入ると、透明な湯をたたえた湯船に真紅のバラの花びらが惜しげもなく浮かべられていた。バラが香り立つ。

「うわー……さすがです」

 ファルマがあまりの壮観に言葉を失っていると、女帝は満足そうに腰に手を当て、くるりと後ろを振り返る。全くの無防備にだ。

(ああっ、陛下そんないきなり振り向いたら、み、見えてしまうではないですか!)

 ファルマが顔を覆おうとすると、さっ、とお付きの侍女が二人、シルクの布で女帝の前面をファルマから遮った。

(ありがとう侍女の皆さん! いい仕事してくれて)

 危ないところだった。25歳の女帝の肌は若々しく、腰は細くくびれ、胸は豊で(シルクごしにシルエットが見えるだけだが)そのスタイルはパーフェクトだった。皇帝には恥ずかしい部分がないので、下々の者のようにこそこそと隠さないのだ。

 そこで、神聖な皇帝の玉体が誰かの目に触れないよう、侍女が隠すのである。


 体を洗って湯で流し、バラ風呂に浸かる。湯の音が室内に響き渡る。湯煙が立ち込めて、侍女がゆっくりと扇で二人を煽ぐ。恐れ多くも大帝国の皇帝と二人、同じ湯に。


「どうだ、気に入ったか。そなたの保養のために造らせたのだ、ゆるりと休むがよいぞ」

(皇帝の権力、凄すぎます……)

 うっかり温泉に行きたいと言ってしまったことに端を発し、こうなってしまったかと思うと、恐れ多すぎるファルマである。

「あの、ありがとうございます」

「うむ。そなたが喜べば、余も満足である」

 女帝はルビー色の瞳を細めて、にっこりとほほ笑んだ。バラの花びらが彩る彼女の肌は、大人の女性の色気を感じさせた。金のメッシュの混ざる銀髪を無造作にかきあげた彼女は、メイクを落としても超絶がつくほどの美人だ。帝王の衣装を脱いでみれば、そこにいるのは可憐な一人の女性だった。女帝は未亡人だという。エレンに聞けば、夫(王配)は結婚後まもなく、戦地の流行り病で亡くしたとのこと。それ以来細腕(?)一つで、立派に帝国を支えているのだ。けなげでもあるな、とファルマは思いなおす。


 ぼんやりと女帝と並んで、時間を忘れ浴室の外の庭の景色や、小鳥が舞い降り遊ぶ様子を楽しんでいると、ふと女帝がファルマの上腕に目をとめていた。

「えっ?」

 そして女帝は、どんどん距離を詰め、食い入るように見詰めてくる。うっかりしていた。両腕の傷を見られてはならなかったのだ。

「謎が解けた、そうであったか」

 女帝は目を見張った。そしてそのまなざしは、羨望の色をはらんでいた。


「これは聖紋ではないか」

(やべっ……!)

 今更隠そうにもどうしようもならない。

「完全な薬神紋だ」

 女帝はそうであることを確かめるように、深く頷いた。ファルマの傷は、暗闇で少しだけ光を放つ。

「あの、これって、やっぱりそうなんでしょうか」

 ファルマは女帝が聖紋の正体を知っているようだったので、観念して聞いてみた。

 彼女は帝国最強の神術使い、今更隠しても何もかもお見通しだろう。


「これを見るがよい」

 女帝はすっと右足を湯船から出す。ふくらはぎの内側に、燃え上がる炎のような痣があった。


「えっ!? もしかして聖紋ですか!?」

(聖紋持ち、俺以外にもいるのかよ!)

 ファルマは少しだけ女帝に親近感を覚える。

「火神の聖紋だ……完成していればな。およそ1/4が欠けておろう」

 女帝は細い指で、滑らかな曲線を描く細いふくらはぎを示す。

 確かに、彼女の脚の痣を火神のエンブレムとして見ると、欠けているような気もする。

「余が10歳のとき、やけどを負ってこうなった」

 その時から、彼女は神殿に見いだされ、帝王としての道を歩み始めたという。彼女の強さの前に、立ちふさがる者はなかった、彼女は最強の名をほしいままにし、名だたる神術使いを凌駕し、帝冠を戴いた。

「俺も10歳のときです、落雷でこうなりました」

 ファルマと彼女の境遇には、奇妙な一致があった。


「聖紋の一部が体に刻まれただけでも、強い神力を持つと言われておる」

 それで、彼女は皇帝になることができたのだ。望む、望まないにかかわらず。選ばれた者として。


「聖紋が完成すれば、神が宿ると言われておる。まだ少女だった頃、余はそれが歯がゆかった。完成した紋であればどれほどよかったか、とな」

 ファルマはじっと彼女の言葉を聞いていた。

「だが、今は不完全でよかったと思うのだ。もし紋が完成していれば、余の意識は消えてしまうのではないかと恐れた」

 だから、と言って女帝は、ある意味憐れみを込めた視線をファルマに向けた。ファルマは彼女の言葉を受け止め、見つめ返す。

「今、そなたの体には、二つの薬神紋があってどちらも完全だ。偉大な薬神が宿り、比類なき力と智慧を得たのであろう、だが」

 女帝の指が、ファルマの両腕の紋を優しくなぞってゆく。影を失い人のそれではなくなったファルマ少年の体を、いたわるかのように。


「はたして薬神となったそなた、ファルマ・ド・メディシスの心は、以前のままであろうか?」


 女帝は素朴だが残酷な疑問を投げかけると、「湯あたりしたので先に出る」と言って湯船からあがった。ファルマは女帝の去った浴室で、ガラス越しに差し込む、地球のそれと同じ輝きを持つ陽光に身をさらす。


 いつか、体が透けて光となって、自我もろとも分解されてなくなってしまう錯覚に陥った。


 その後、ファルマは何も考えず全ての浴槽を巡った。

 難しいことは考えまい、とブランシュの言葉を思い出す。

 どの湯も心地よく、体がほぐれるようで、働きづめで体のこわばっていた彼にはよいリフレッシュになった。

「ふう……いい湯加減だった。そろそろあがるか」

 ファルマが湯船から上がろうとすると、なにやら脱衣所が騒がしい。そのうち、大浴場にはぞろぞろと女性客数十人が入ってきた。異世界薬局の一級薬師や、エレンやロッテの声も聞こえてきた。

「へ?」

 ファルマの頭に載せていたタオルがずり落ちた。顔が赤らむ。

「きゃーエレオノール様ってやっぱりお胸大きい~!」

 ロッテの興奮した声が、浴場に響き渡る。彼女らは布で前を隠してはいるものの、体のラインは遠目にもファルマにはっきりと見えた。ファルマは観葉植物の陰になって、彼女らからは丁度見えない位置にいる。

「あらら、ロッテちゃんも膨らんできたんじゃないの?」

「きゃー! やめてくださーい! くすぐったーい!」

「あらー、ロッテちゃんたらピンク―!?」

(き、気になる! どこがピンクなんだ!? か、髪か。髪だよな……)

 気になるが、覗きは犯罪、覗きは犯罪だ、と自らに言い聞かせるファルマは緊張と興奮で段々と血圧が上がってきた。

「陛下ったら、太っ腹よねー。オープン前に、私たちだけに特別招待をしてくださるなんて」

 彼らの話を盗み聞きしていると、皇帝が薬局職員の慰労のために招待をしたのだそうだ。

「ファルマ様も招かれているんですかねー? 入口では姿が見えませんでしたけど」

「陛下と一緒に先に入ったそうよ。男湯でゆっくりしているんでしょう」

 調剤薬局ギルドの女薬師もいることから、男湯でも招かれている者はいるだろう。


(っていうか、こうしてる場合じゃない。やべえ!)

 女湯の中に、ファルマが一人取り残された形だ。そして脱衣場は塞がれている。

(陛下、何で俺がまだ出てないのに俺を置き去りにして客入れるんだよ! わざとか!?)

 鉢合わせでもしようものなら、女性客に囲まれてボコボコにされる。いや、されはしないかもしれないが、どうなるかわからない。これは参った、と、ファルマは彫刻の影に身を隠した。

 だが、だからといって脱衣場に出ることもできず行き場をなくし、彼女らの目を盗み皇帝専用の浴室の中に逃げ帰る。

 湯船の中に飛び込み、顔だけを水面に出すと、バラの花が彼の存在をカモフラージュしてくれた。


「ここでやり過ごすか……」

 そして湯船から上がるに上がれなくなったファルマの運命はというと……。

 すっかりのぼせてバラ風呂の中に浮かんでいるのを、後ほど掃除人に発見されたという。


 なお、正式にオープンした帝都浴場では。

 女湯に浸かると、腰痛、肩こりその他の病気が治るらしいという噂がまことしやかに囁かれた。


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