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【完結済】異世界薬局(EP4)/【連載中】世界薬局(EP4.1)  作者: 高山 理図
Chapitre 2 サン・フルーヴ帝都の異世界薬局 Une pharmacie d'un autre monde de la capitale impériale (1145-1146年)
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2章17話 黒死病終息とそれぞれの後日譚

 カミュを葬り去ったあと、異世界薬局前の帝都の大路には大きなクレーターがぽっかりとあいていた。

 何が起こったのかと、街の人々が集まって遠巻きに覗き込むが、フードつきのローブを頭からすっぽりと被った子供の正体は一見しては分からなかったし、声をかける者もいなかった。

「どいたどいた、危険だ!」

「規制線の外に出るんだ!」 

 帝都教区の神官たちがクレーターの周囲に規制線を張り、野次馬を追い出す。

「ありがとうございました、薬神様。われわれの手にはおえなかったでしょう」

 真っ先にやってきたサロモンは、ファルマに深々と頭を下げる。ファルマは負傷したロッテを支えて抱きかかえていた。ロッテは安心したのか、立ったまま眠ってしまった。

「悪霊って、いたんですね」

(普段、神官たちはこんなものを相手に戦っていたのか……)

 ファルマはカミュの"命"を奪っただろうか。いや、カミュは随分前から死んでいたのだろう、少なくとも、生きてはいなかった。と、ファルマは自分を納得させる。

「ご存知なかったのですね」

 悪霊の相手は日常茶飯事でしてね、とサロモンは相槌を打つ。

「最近は、薬神様の聖域のおかげで暇をさせていただいていました」

「知りませんでした。見たこともなかったので」

 ファルマは彼ら神官の仕事に、大いに理解を示すことになった。

「ええ、それはそうでしょう。薬神様のもとに、多少の悪霊が寄ってこれようもありませんから。しかし聖域をもおそれぬ大悪霊でしたな」

「これに憑かれたら帝都は滅んでいたやもしれません」

「ネデール国が心配ですね」

 神官たちは聖水を振りまいてクレーターの中を浄化しながら、ファルマに感謝の言葉を述べた。悪霊を祓った後にも、後始末があるのだろう。

「凄い威力ですね」

「この穴ですか、やりすぎました。すみません」

 ファルマが頭を下げると、神官らはとんでもない、と手を振った。人に憑依した悪霊を追い払うことしかできず、逃げた悪霊はまた別の人間の中に入り込む。

 それを完全に消滅させてしまう神力は凄い威力だと言いたかったようだ、人間業ではないらしい。

「いやはや、この悪霊は二度と復活できないでしょう」

 地面にこびりついた影を見ながら、サロモンは薬神杖でこんなことができるのかと呆れていた。そこにはカミュの遺体すらなかったのだ。

「あの、この子を薬局の二階へ運んでもらっていいですか。あと、四階にも倒れている人がいるのでその人も運んでください」

 ファルマの体格では、だらんと脱力したロッテ、そして四階のセドリックを運ぶのは厳しい。

「はいっ! お安い御用です、薬神様」

 神官たちは整列し、ファルマへの忠誠度最大で口を揃えた。

「やめてくださいその呼び方」

 やりづらさを感じ、人目を気にしてフードを深く被りなおすファルマだった。


 …━━…━━…━━…


「あっ」

 背中をはだけたロッテが、短く声をあげる。彼女ははにかみながら、脱いだエプロンで前面を隠していた。ここはカーテンを引いた薬局の二階の処置室で、神官たちが彼らを運んでくれたのだ。

「局所麻酔をかけたからね」

 ファルマはロッテに鎮痛剤を飲ませ、局所麻酔を施し処置をしていた。ロッテはじっと動かずに眼を閉じている。隣のベッドには、セドリックが座っていた。

「セドリックさんはどう?」

「私はまったく痛みません」

「じゃ、二人ともうつぶせになって。傷口を洗うよ。傷口に少し汚れが入っているから」

 ファルマは休まず、薬局の2階の処置室で二人をベッドにうつぶせに寝かせて同時に手当を行う。

「何が起こったのでしょう。私たち、背中を刺されて息ができなくなって、気を失ったのですが……」

 セドリックは、なぜ自分が倒れたのか理解に苦しんでいた。

「二人とも即死毒の塗られたナイフで刺されていたんだ。それで意識がなくなったんだと思う」

(致死毒二つとか、凶悪だったなあ。傷は深くなくてよかった)

 ファルマは今になって恐ろしくなる。

 必死で解毒したが、毒の種類を特定できなければ数分で死んでいた毒だ。カミュが毒の研究をしていた、というだけのことはある。

「なんと、そうだったのですか」

 セドリックが事情を聞いて、命拾いしたと青ざめる。

「助けてくださったんですね……」

 ロッテはじーんと感謝のまなざしでファルマを見つめる。

「でもごめんなさい、私、四階に入るなって言われてたのに、物音がしたからファルマ様がお戻りになったのかと思ってつい……言いつけを破ってごめんなさい!」

 軽率な行動を反省するロッテは、肩を落として猛省している。

「私も彼女を止めたのですが、間に合いませんでした。神術使いの端くれでありながら、不意を襲われ杖すら持てず……」

 不甲斐ない、とセドリックは悔しそうに告げる。

「二人とも、危険な目に遭わせて悪かった」

「あなたが仰ることではありません。こちらが申し訳ありません、ファルマ様」

「俺の責任もあるから、四階の試薬の管理を徹底するよ。二人はゆっくり回復に専念してくれ」

 消去の能力があってよかった、とファルマはつくづく思う。創造の能力だけでは、二人とも死亡していた頃だ。それに街中の異世界薬局の研究室に、有毒物質があるのは問題だ。次から実験をするとき以外は有毒な試薬を消去して研究室を出よう、とファルマは肝に銘じた。


 マーセイル領から夜通し馬を走らせ帝都に戻ったエレンが、薬局へと駆け込んできた。

 エレンが二階へ駆け上がってくると、ロッテとセドリックがベッドに横たわり、ファルマは彼らの容態を見守っていた。

「ファルマ君、生きていたの! 無事でよかった……ロッテちゃん、セドリックはどうしたのこれ?」

「ナイフで刺されたんだ、命には別状ないと思う。マーセイル港は?」

「ああ、それならもう終わったわよ」

 エレンはサン・フルーヴ大市を目指した船舶を検疫し、海の玄関からの死病の流入は防ぎきっていた。領主代行アダムは、マーセイル港を国内の船舶のみの入港に制限した。なお、予定外に港に乗り入れてきた船に対応するため、いつでも検疫ができるように弟子たちを港に常駐させている。

「ありがとうエレン。エレンだったから、あそこを任せることができたんだ」

 数々の能力を持っていても、ファルマも何でも一人ではできない、彼の事を理解してくれている存在と、そして腕のよく信頼できる薬師がファルマには必要だった。エレンはその二つを兼ね備えていた、だからファルマはエレンに感謝しているのだ。

「ううん。大したことはしていないわ。ていうか店の前のクレーターは何? ファルマ君が?」

 大悪霊を滅ぼした際にできた、巨大な神力だまりが発生している、と店の前に大勢詰め掛けていた神官たちが言っていた。

「殴ったことしか覚えてないな。あんな大穴あけたら、通行人が危険だよな、修理費も払わないと」

 逆上して、カミュに何をしたのかファルマは殆ど覚えていない。

「そういえば、瓦礫で怪我をした人とかいなかったんだろうか。ほかの店も神力で壊してたら弁償しないと」

 自らが命の危険に遇ったというのに、周辺住民のことまで気にするファルマにエレンは、

「あなたって、ほかの人のことは本当によく気が回るのね。自分のことは気にしないのに」

 といって脱帽する。そしてこの少年を改めて尊敬するのだった。


「まだ、終わってないんだ」

 ファルマは、ともすれば緩んでしまいそうになる気を引き締めた。

「私も手伝わせて」

 二人でロッテとセドリックの傷口の念入りな洗浄を終え、ファルマとエレンは傷口に白色ワセリンを塗り、そのうえに清潔なフィルム片を貼る。

「こんなもので本当に治るの? もっとほら、きれいな布とか当てて包帯とかしなくていいの?」

 もう少し治療らしいことをしないの? とエレンは物足りなさそうな顔をしている。


「止血をしたあとの、あまり深くない外傷の処置の基本を言うよ。

 一つ目。傷は消毒しない、乾燥させない。それは傷口の細胞を殺すことになるだけだから。

 二つ目。傷はとにかくきれいな水で洗い、異物も徹底的に除去する。それは傷口についている細菌の数を減らすため。

 三つ目。傷口に布をあてて体液を吸わない。体液には傷口を治そうとする物質や免疫細胞が含まれているからむやみに取り除かない。

 四つ目。かさぶたを造らないように、傷口は湿らせて免疫細胞が活動できるようにしておく」

 ファルマはひとつずつ指を折って、要点を絞りエレンに伝える。

 エレンは、眼鏡がずれたまま唖然としていた。


「何にでもこの治療法を使えばいいってわけじゃない。感染していないか、状況をみながらでないといけない」

「あなたの言っていること、私には非常識に聞こえるわ。それこそ腕の悪い医者みたい。傷口には何もせず、焼きごてで焼くのよ?」

「傷口が浅ければまだわかるけど、それだと傷が深ければ細菌を傷口の中に閉じ込めたまま傷をふさぐことになる。それに火傷も増える、大量出血していないときにはやらなくていいんだ」

「なるほどね……」

 エレンは、おぼろげながら納得する。確かにこの世界では体に傷を負うと、傷口を焼いても焼かなくても傷口は化膿し、敗血症になってしまうのが常だった。

 場合によっては傷が原因で命も落とす。


「でも、かさぶたができないと治らないじゃないの」

 彼女にはまだ、疑問が残る。

 実際、かさぶたがきれいにできれば傷はじきに治ると考えられていた。

「かさぶたは、確かに細菌から傷を守ってくれるし出血も抑えてくれるけど、傷の回復の指標ではない。むしろ、それがあることで治りが遅くなるんだよ」

 それがわかったのは、地球の医学でもここ最近のことだろうか。

「傷口を洗って傷口からしみだして来る体液を除かず、湿らせて保護するようにしていれば治るんだ」

 これを湿潤療法といい、21世紀の治療法だ。

 かつて、地球でも前世紀までは傷口には消毒薬を振りかけて乾かしていたものだが、それは細菌を殺すより傷口の細胞を多く殺すだけだった。

 殆どの場合、消毒薬は傷口には必要なかったのだ。

 傷口に消毒薬は全く必要ないわけではないが、傷口に大量に細菌が入り込んだときや予防的な消毒など、限られた場面で使われる。

 この場合は、当てはまらない。


「二次感染予防に、黒死病の薬も飲んでもらおうかな」

 ファルマは診療バッグから、黒死病の薬として準備していたスパルフロキサシンを取り出す。

「黒死病の薬が、刺し傷の感染予防にも役立つの!?」

「うん、この薬は抗菌スペクトルが広いから外傷の二次感染予防に使っていい」

「その知識は、いったいどこから」

 やっぱり薬神だから? 

 とエレンはもう何度目になるともしれない質問を投げかける。

「多分前世の知識だよ。それに俺、薬神じゃないから」

 だが、そう言いきれる自信は、そろそろファルマにはなかった。それでも人間でないと認めてしまうと、心まで人外のそれに変わってしまいそうでファルマは拒絶したい心境である。

 彼は前世も今生も、彼を必要とする傷ついた人間、病んだ人々に寄り添いたいと考えていた。

「あなたって、本当によくわからない存在ね」

 ほぼ定型化しつつあるエレンの言葉に、

「俺もよくわからない」

 とファルマはいつものように返した。二人がそれぞれの処置を終えたころには、ロッテとセドリックは寝入ってしまっていた。


 その日のうちに、ファルマは実に七千人分のスパルフロキサシンを追加で創薬した。

 力を使いすぎたのか、あるいは疲労がピークに達したのか、ファルマは物質創造の発動後一時間ほど、気絶してうんともすんとも起きなかった。

 エレンらが「もう目覚めないんじゃ……」と心配しているとむっくりと起き上がって、調剤薬局ギルドの薬師、あるいは暇をもてあましていた量り売りの商人に、量を計って分包するように指示した。

「へえ、わしら薬売りじゃないんですが、いいんですかい」

「お願いします、助かります」

 子供店長を手伝うため、薬袋を折る紙職人も、ボランティアで集まってきた。

「今日中に配り終えないといけないんだ」

「できた薬の計数はこっちだ!」

「この薬に、帝都の存亡がかかっているんだ」

「てめえら薬を中抜きするなよ! 盗人はぶち殺すぞ」 

 調剤薬局ギルドの薬師、MEDIQUEや8020の薬師らにより、住民への新薬の無料配布が開始された。異世界薬局とその関連薬局の従業員、薬師たちは黒死病撲滅のための作戦本部を立ち上げ、帝国で中心的な役割を担った。

 帝都は清浄区、感染区、重症感染区に分けられ、重症感染区への立ち入り制限は行われる。

 服薬した人間の大部分はペストを発症しなかったし、発症したとしても軽症に終わった。

 既に発症していたネデール国の商人の感染者も、懸命の治療により、ほとんどは一命をとりとめることとなった。


 当然ながら薬師ギルドの薬師たちにも、薬は無料で配られる。それを彼らに届けるのは、調剤薬局ギルドの仕事だ。

「こんなことは言いたくないが、あいつらには配りたくないですな」

 ピエールが本音を覗かせた。彼は店を破壊され、罵声を浴びせられたのだ。

「ピエールさんの気持ちはわかるけど、全員に配らないとそこが感染源になるから」

 薬師ギルドから散々妨害を受けてきたファルマだったが、感情と理性は切り分けることを徹底していた。

「ほんとその通りなのよね、仕方ないわ」

 エレンもため息交じりに同調する。


 だが、受け取りたくないのは薬師ギルドも同じだった。かつてギルドを追放した、鼻つまみ者として見下していた薬師たちから、あるいは子供店主から薬師らは薬を受け取らなければならなかったのだから。それは惨めなものだった。

「これを飲め。家族全員分の薬が入っている」

 ピエールは、以前彼に嘲笑を浴びせた薬師の店を訪れ、薬袋を押し付けた。投げつけてやりたいという衝動を抑えながら。

「そんなもの、いらん! この店の薬で治してやる!」

 しかし薬師が拒絶しようとも、新薬の効果は既に確実なものだ。

 半死半生だったネデール国の黒死病をわずらった商人にも効いているというのだから。

「黒死病に、この店にあるどの薬が効くと思うんだ?」

 ピエールは薄汚い店舗の中を見渡し、静かに彼に問いかけた。

「くっ……」

「いったいどれだ」

 ピエールは辛抱強く待ったが、答えはなかった。

「わかったら飲め。お前だけの問題じゃないんだ。家族も見殺しにするな」

 薬師ギルドの薬師は、耳まで真っ赤になっていた。羞恥心なのか、怒りなのか、そのどちらともつかないような顔をしていた。

「生きろ」

 ピエールは薬を置くと、返事も待たず店をあとにした。

 薬師は後ろめたそうに薬袋をとりあげた。


 女帝がネデール国に送った斥候が戻ってきた。

 情報によると、黒死病はネデール国ではまだ蔓延していなかった。

 カミュの消滅により敵対勢力はなくなったことから、武力、政治、経済のすべてにおいて世界最大の超大国であるサン・フルーヴ帝国は、ネデール国の国政を立て直すため一時的な占領を行う旨を周辺諸国に告げた。女帝は五千の帝国軍をネデール国へと派兵。王侯貴族らはカミュの毒殺によって死にたえ、役人や軍人らが原因不明の毒物による中毒症状に苛まれていた。カミュが政府関連施設の井戸に、毒を投げ込んでいたのだ。それで、行政機関は崩壊し、物流は寸断され、国の機能は麻痺していた。

 帝国軍は女帝の勅令によってネデール国に進駐し暫定政府を組織させ、無政府状態から政治機能の回復にとりかかった。

 疲弊しきっていたネデール国民は、保護国である帝国軍の進駐を歓迎した。このまま帝国に併合されてもいい、と言い始めた過激派もいたが、それは帝国は望まなかった。多くの植民地で名産品を持つ貿易相手国として、ネデール国は重要だったからだ。

 しばらくして、皇帝に派遣された一人の腕利きの薬師が帝国軍とともにネデール国に入るという噂が立った。

 どんな治療をしてもらえるのか、その薬師はどこだ、と薬物中毒者の期待は高まったものの、その日を境にネデール国から薬物中毒者はいなくなっていた。

 これは妙なことだ、と彼らは首を捻ったが、帝国軍がよい運気を運んできたと大層恩にきたという。


 ネデール国に帝国にと、各地を飛び回り、ファルマはまた超というほど多忙な毎日を送っていた。 

 そんなある日、異世界薬局の前に、黒死病の脅威から免れ生還した薬師ギルドの薬師たちが作業着姿で集まってきた。その徒弟たちも、不景気な顔をしてやってきた。

 門番の騎士が、店内にいたファルマを呼ぶ。こんな忙しいときに何の用だろうか、また嫌がらせをしにきたのか、とファルマは訝りながら店の外に出る。

「どうしたんですか?」

「手伝いを……させてくれ」

 聞こえないほどの小さな声で、彼らはファルマに言った。

「え? 何ですか?」

「手伝わせてくれ!」

「わかりました。では、よろしくお願いします。人手が必要なんです」

「あ、ああ。なんでもする」

 彼らはファルマの指示に従い、街の除染を手伝い始めた。

 黒死病の患者たちに何もしなかった薬師ギルド加盟店は、帝都民の非難と不買運動を受け、経営悪化で軒並み倒産した。ギルド長ベロンや幹部たちは、支給されたファルマの治療薬を服薬するのをとうとう拒み、従来のありとあらゆる薬草を服用したが効かず、隔離された先でペスト敗血症により惨めな最期を迎えることになった。

 しかし彼らは、隔離される前の段階で家族にはファルマの薬を飲ませていた。

 助かった家族らは悲嘆にくれた。


 放線菌から有用な抗生物質を取り出すというキャスパー教授の研究は、ファルマの指導もあり、多くの研究者たちの手によって着々と進んでいる。抗生物質ストレプトマイシンや、その他の抗生物質を生産する菌を発見し、現在それを分離、培養しているところだ。

 一大プロジェクトの総指揮を務める、もと窓際教授であるキャスパー教授は、

「次に黒死病が来たら、サン・フルーヴ帝国薬学校の薬を配れるようにしとかないとねぇ」

 と、自信をのぞかせる。


 さて、台無しになるかと思われたサン・フルーヴ大市。

 世界中の商人が集う年に一度の大イベントであり、帝都の商工業者にとっても書き入れ時である。

 せっかく商人が集まったのに開催しないのは国の信用問題になる、という女帝の意向により、念入りな検疫を行ったあと、小規模ながら、認められた品物から順次開催された。

 テントを広げ、品物を前に張り切って声を張り上げる商人。品定めをする客や仲買人の往来。不正を摘発する声。大量に取引される硬貨の音。弾かれる計算盤。むせ返るような香辛料のにおい。そこかしこで始まる喧嘩。酒場には人が集まる。

 少しずつ、帝都にはいつもの賑わいと活気が戻り始めていた。


「本日より異世界薬局、営業再開します」

 異世界薬局は、実に一月ぶりに営業を再開した。

「休みすぎたわね。それどころじゃなかったんだけど。皆、この薬局のこと忘れてないかしら」

 ぱりっとした白衣に袖を通したエレンは、嬉しそうだった。

「うん、もう臨時休業しなくていいように願うよ」

 ファルマはつくづくそう思う。薬局を営業できるということは、帝都が平和であるということだ。

 総本店の営業再開に追随するかのように、調剤薬局ギルド加盟店も、次々と営業を再開した。調剤薬局ギルド加盟店の市販薬は、外国の薬師、仲買人に対しては少量のみ販売された。

「あ、ジャン提督」

 ボロのシャツ一枚を着て、ひょこひょことジャン老人が顔を出した。彼が一番乗りだ。

「提督はよしてくれんかのう」

「そのせつはお世話になりました」

 今日もジャン老人は船乗りの飴を買い、生成水を飲みにやってくる。

「皆さん、お久しぶりです!」

「ロッテちゃん、会いたかったよー」

「セドリックや、お前さん刺されたと聞いたが無事だったのかい」

 常連も戻ってきていた。

「はは、おかげさまで。老骨ですが、まだまだ死ねませんな!」

 ロッテとセドリックの傷もすっかり癒えて、店頭で忙しく対応をしていた。

 神官長も、それが仕事のように毎日薬局にやってくる。

 穏やかで慌ただしい日々が戻ってきた。


 そして二か月後、サン・フルーヴ帝都でペストによる死者は一人も発生しなくなった。

 これをもって皇帝は、黒死病の終息宣言を出すに至り、サン・フルーヴ帝国は世界で初めて、有史以来最悪の疫病、黒死病の特効薬を創り、最小限の犠牲によって駆逐したという偉業を達成したのである。

 その栄光の陰には、一人の少年の活躍があった。

 あの日、天空より舞い降り帝都の大路に大穴をあけた小さな救世主の正体と、薬神杖を携えた影のない異世界薬局の店主の正体は、まだ誰も知らない。


「ファルマ、また陛下がお前への褒美を検討しておられるんだが、次はどこの領地が欲しい?」

 女帝の差し金で、ノアが薬局にやってきた。もう直接、ファルマに希望を聞きにきたらしい。

「もう領地はいらないよ、父上も俺も管理しきれない」

 もともと、ド・メディシス家は広大な領土を所有している。これ以上は持て余すし管理も杜撰になるだけだ、いらん、とブリュノは貴族にあるまじきことを言っていた。

「じゃ、金か」

 異世界薬局の資金は潤沢だった。何もしなくても売上が膨らみ、ド・メディシス家への献金は各所から集まってくる。

「お金もいいよ」

「つまらんな。じゃ、仕事のことは忘れよう。休みがあったらどこに行く? 俺、次の休暇は鷹狩りに行くんだけど、お前も行きたい?」

「俺は温泉にでも入ってゆっくりしたいな」

 ファルマはしみじみとそう言ってしまった。

「なるほど、公衆浴場がほしいんだな、っと」

「あっ!」

「バーカバーカ! 脇が甘いんだよバーカ!」

 誘導尋問に引っかかってしまった。ノアがまた女帝に告げ口をし、帝都内五か所に立派な公衆浴場が建てられることになった。温泉旅行で外国を飛びまわられては困る、というのだろう。

「まあいっか、帝都民の清潔や癒しのためにもテルマエ(Termaux)は……感染症予防にもいいし」

「テルマエ楽しみです! 皆が裸だとちょっと恥ずかしいけど。あっ、平民も入っていいんでしょうか。平民用の小さいテルマエもありますかね、すみっこのほうでいいので」

 ロッテは、まだ見ぬテルマエにときめき、思いを馳せている。

「陛下に、平民も貴族も両方入れるようにお願いしてみるよ」

「やったー!」

 ファルマにも楽しみが増えた。

 それは、温泉大好き日本人であった彼にとって、領土や金貨より嬉しい褒美だった。


 エスターク村では、由来の知れない少年神が病魔をしりぞけるイメージで制作された黄金の神像の除幕式が行われた。黒死病終息の記念碑である。

 ファルマは後ほどそれを目撃し、大層恥ずかしがったという。


挿絵(By みてみん)

2章終了です。3章へお進みください。

(最後の写真は大市に集まった香辛料のイメージです)


参考資料 

日本皮膚科学会ガイドライン

※外傷時には自己判断せず、自己流の手当をせず、病院の受診をお願いします。湿潤療法は一定の条件のときに有効です。

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