2章16話 彼が治せなかったもの
サン・フルーヴ帝国帝都、その街の一角。
大勢の帝都の騎士団、武装神官らが、黒死病を帝都に持ち込んだネデール国の聖騎士らを取り囲んでいた。
彼らは氷の矢を受け、肺ペストを患い、さらに重傷だ。
大失血が始まり、血だまりが石畳を赤黒く染めてゆく。死を間近に控えていた。
「黒死病を帝都に持ち込めば、ネデール国は帝国の隣国だ。ネデール国も滅ぶんだぞ!」
帝国軍の少将が聖騎士を叱りつける。
「黒死病……なの……か?」
激しい吐血に咽びながら、彼らの一人が目を見開く。
聖騎士たちは驚いたようだった。そして、黒死病がどうやって感染してゆくかということもわかっていないようだった。今や、帝都では衛兵レベルでまで公衆衛生指導が行き届き、感染予防の知識を持っている。だが、聖騎士らにはその知識がなかった。
「私たちはあの男に言われたことを、言われたようにやっただけだ」
「目的は分からない……」
聖騎士の一人が力尽きた。
「馬鹿なことを!」
帝都上空より降下してきたファルマは、ネデール国の聖騎士らが取り囲まれている現場を見下ろす低い店舗の屋上に立った。保護衣のフードを目深にかぶる。
ネデール国の聖騎士らに診眼を使うと、全員赤。そしてたった今、一人が死亡し残りは二人になった。
手遅れだ。
「われわれの任務は終わった」
聖騎士二人は血に咽ながらも、語り始めた。
作戦は全て、ある一人の人物によってたてられたという。
「国民を人質にとられているんだ……」
千人もの人間を一ヶ月で滅ぼすほどの疫病を操る力がある、それを誇示するためだけに植民地は滅ぼされたのだという。
「ネデール国民の大虐殺を避けたければ、動物とその死骸を帝都に放り込んで、風を使って騒動を起こせと」
それが何を意味しているのか、二人とも分からないようだった。帝都を少しばかり汚染するだけなら、それでネデール国民が全員が救われるなら、言われた通りにやってやろうと思ったという。
既に、王や王族らは毒殺され、政府は機能しておらず、冷静な判断のできるものはなかった。
「我らは、言われた通りの荷を運んだ。その間に、運搬人たちがどんどん死んで……」
それで、聖騎士らは作戦の遂行を焦った。神力のある貴族は、平民より免疫力が高い。それでも、黒死病は彼らを蝕んだ。
体中に氷の矢が突き刺さり、いよいよ瀕死となったネデール国の精鋭ともいえる聖騎士らは呼吸を荒げながら、悔しそうに吐露する。
ネデール国にはまだ、黒死病は広まっていない。
だが、いう事を聞かなければネデール国民の運命は終わる。仕方なかったのだという。
「何でその男を殺さない! お前たちほどの腕を持つ者が!? なぜ言いなりになる!」
近衛師団の師団長が、苛立たしそうに問い詰める。
「殺せないんだ……殺せない……あいつは、あの男には悪霊が憑いている」
人間には殺せないんだ、と聖騎士は意味不明なことを言った。
何度も、殺そうとしたんだ、と彼らは言う。
「殺そうとした瞬間、もう殺されているんだ……」
「なんということだ、ネデールの守護神殿は悪霊を祓えなかったのか!」
神官長サロモンが苛立たしそうに問う。そもそも、大神殿にネデール国の惨状は報告されていない。救援も呼ばれていないのだ。
「神殿は……二ヶ月前から封鎖されている。神官たちも皆殺しにされた、鳩も馬も殺された」
神官長サロモンの知らない情報だった。
「それは厄介なものにとりつかれたな……」
「神殿をものともせず、国家に憑くほどの大悪霊を引き剥がすには、並大抵のことではない」
神官たちも警戒をあらわにする。
「その男の名はなんという」
威圧を含んだ声で、問いかけがあった。ブリュノが現れたのだ。現場を直接確認するために、馬を走らせてきた。
「名はわからない」
ブリュノは特徴を挙げてゆく。
「カミュ・ド・サド。青髪、左頬に大きな火傷の跡がある、隻眼の、狡猾かつ邪悪な男だ」
聖騎士は驚いたように目を見開いた。
図星だったのだ。
「そうだ……名は知らないが、そうだ。あの疫病神の言う通りにした。これで、ネデール国は助かった……の……だ」
息のあった最後の聖騎士は遺言のように言い残すと、満足そうな表情を浮かべ……そしてこと切れた。彼らの遺体はただちに、火の神術使いによってその場で念入りに焼却され始めた。
(そういうことだったのか……)
ファルマはその一部始終を見下ろしながら、ようやく事情を把握した。悪霊というのがまだ理解できないが、相当に凶悪な人物がネデール国の枢要部で恐怖政治を敷いているということなのだろうか。ブリュノが知っているようなので、後で詳しい話を聞こう、とファルマは心に留める。
ネデール国に対してもあれこれと対策が必要なのだろうが、
(俺はまず、帝都のペストを食い止めないと。今のままでは薬が足りない)
それが先決だった。優先順位をつけなければならない。
ファルマにしか特効薬スパロフロキサシンは造れないのだ。
(まずは全感染者数の把握、次に不足分の生産)
ファルマは薬神杖に神力を通じると、集まった人々に見つからないよう、音も立てず静かに飛び上がった。
敵襲の心配がなくなったということで、わんわんと帝都中に重なり合っていた警鐘は、すうっと潮がひくように鳴りやんでいった。
しかし、ネデール国の聖騎士らを焼く炎を見つめながら考え込んでいたブリュノが、重大なことに気付いた。ブリュノは視線を据えたまま、口の中で小さく呟く。
「いかん」
あの男は、心が壊れている。人を全くといって信用しない。
「ネデール国の聖騎士が仕事をしたかどうか、自らの目で確かめる筈だ……」
彼にとって、病に冒され死にゆく人間は美しいのだ。
衰弱と絶望と死、そして、病に耐えた少数の人間によって始まる再生。
そこにカミュは美を感じている。
人々に疫病が蔓延して死に絶えてゆくさまを愉しもうとするだろう。
――それも、すぐ間近で。
「屑が!」
ブリュノは杖を握り、怒りを爆発させた。強い神力が迸る。
「警鐘を止めるな!! 警鐘を鳴らし続けろ!」
彼は叫ぶ。
「カミュは帝都の中にいる!」
見つけ次第、討たねばならぬ。
…━━…━━…━━…
第一検疫所に詰めている者たちは、見張りの兵が凱旋門の上で市内の様子を伝えるのを耳にしながら、事の成り行きを見守っていた。けたたましく鳴っていた警鐘は段々と落ち着いた調子になり、間延びしていって、ついに鳴りやんだ。
「警鐘が鳴りやみました! 薬局に戻ってみませんか?」
ロッテがセドリックを誘う。
「そうだな。帝都の衛兵たちが敵を倒したようだ、ひとまず、危機は去ったか」
第一検疫所から、ひっきりなしに往来する帝国の衛兵らとすれ違いながら、ロッテとセドリックは異世界薬局へと急ぐ。帝都の中は神術戦闘によって物が倒れたり、地面が陥没していたりでところどころ荒れ、各店舗や家屋から顔を出した帝都民は混乱に陥っていた。
やっとのことで第六門方向にたどり着くと、帝都の路地の角地にある大きな門構えの異世界薬局は、以前と同じように佇んでいた。
「よかった、燃えてない! よかったぁ」
ロッテは嬉しさ余ってぴょんぴょんと跳ねる。そんな彼女に冷や水をかけるように、再び警鐘が鳴り始めた。
「ええっ!? また警鐘が!」
「おかしいな。新たな敵か? 警鐘が終わるまで薬局の中に入っていよう、薬局は安全だ」
薬局の植え込みや立て看板などは、風でやられている。しかしロッテは、薬局の外観にくまなく目を配っていて不自然な点に気付いた。
「あれ、東側の窓が開いている……」
「風術使いの爆風で開いたのだろう、施錠が甘かったのかもな」
セドリックもそれを見上げた。
「私、ちゃんと鍵かけたんだけど。閉めに行ってきます」
薬局の中に入ると、開け放たれた窓から風が入り込んで、書類を散らしていた。それをセドリックとロッテは一つ一つ塞いで、散乱したものを片付けてゆく。
ロッテは三階に上がっていった。ガタン、と四階から物音がする。
「あ、ファルマ様が帰ってこられたみたいです!」
二階にいるセドリックに、ロッテが呼びかける。
「それは変だ。ドアにも門にも鍵がかかっていたぞ、動物ではないか?」
ロッテはセドリックの話の途中に、四階の研究室へと階段を駆け上がっていった。
「待ちなさい、ロッテ! 私が確認する! 黒死病のリスの残りが入ってるかもしれん!」
嫌な予感のしたセドリックはロッテを追う。彼は膝が少しずつ治ってきたのでエレベーターを使わなくても階段を上がれるようになっていたが、どうしても若いロッテよりは遅くなる。
ファルマに会いたい一心で息せき切って駆け上がるロッテには、セドリックの声は聞こえなかった。四階に到着すると、研究室の扉は開いていた。
「ファルマ様!」
ロッテは嬉しそうに研究室の中に駆け込む。
研究室の中には、危険な薬品がたくさんあるので入ってはいけないと言われていたのも、すっかり忘れていた。
「あれ……ファルマ様?」
ファルマはいなかった。開かれた窓から、ひゅうひゅうと風が吹き込んでくる。研究室にあるのは、数々の薬品類、そしてガラス器具、何に使うともしれない実験道具、そして大量の実験ノートだ。
「気のせいだったのかな。でも、ここも閉めなきゃ、ホコリが研究室の中に入って大事な薬品がいたんじゃう」
ロッテは背伸びをして、開放になっていた窓を施錠して閉めようとした。
だが、それより先に後ろの扉の閉まる音が聞こえる。
「え?」
彼女は無防備に振り向いた。
「シャルロット! 待ちなさい」
セドリックが四階にようやくのことでたどり着くと、ロッテが研究室の床の上に倒れ伏していた。
「ど、どうしたんだ!」
セドリックが研究室の中に入り、ロッテの肩に手をかけると、背後から人の気配がする。
彼が振り向くと、背後から背中に衝撃が走った。
「っ!!?」
熱い一撃が、セドリックの背を直撃する。そのまま、背中に硬いものをねじ込まれる。
侵入者はドアの裏に潜んでいたのだ。セドリックは杖を抜こうとしたが痛みで手が震える、そのうち、その手ははっきりと痙攣を始めた。
「……うぐっ!」
呼吸ができない。
…━━…━━…━━…
その頃、ファルマは帝都上空に滞空していた。ペストに感染した患者の全数把握のためだ。
診眼で市街を見通すと、建物も貫通して患者に宿る青い光は見える。
感染は成立しているが、全員潜伏期間だ。まだ症状は出ていない。
ペスト菌は、早期に投薬を開始すれば、そう怖いものではない。
1日、ないし2日以内、潜伏期間中に全員に薬を配り、飲んでもらうことができ、疫滅聖域をかけつづけ、検疫所が機能し続ければ、帝都の黒死病は一ヶ月以内には終息させることができるだろう。
犠牲者も、……ひょっとすると出るかもしれないが、最小限に抑えられるはずだ。
「発症する前に、終わらせてやる!」
悲観的な状況にはならないはずだ、理論上は。希望的観測も込めてだが。
「ん?」
身を刺されるような悪寒と胸騒ぎがして、ファルマは視線を異世界薬局の方向に向ける。
四階に大小二つの、強烈な点状の青い光、そしてそこから滲み出すように人型の薄い光がともった。
たった今だ。
「何で、四階が!?」
一も二もなくその場に駆けつけようとして、ファルマは絶句する。
四階に、真っ黒な影が佇んでいるのが見えたのだ。
この世の影という影を凝縮した、目を合わせただけで吸い込まれそうな虚無の深淵だった。
「何だ、あれは……! 黒い、影だ……」
(あれが、兄や妹、そして神官たちの言っていた悪霊なのか?)
ファルマは怯んだ。悪霊がいたとして、どうすれば払うことができるのか知識がない。
神官の領分だ。
だが、薬局の四階でじっと動かなくなっている患者にともる青い光は紫へ、段々と赤くなろうとしている。ものの数分で手遅れになる、そんな危険な兆候だ。
「何でこんなに速い! ペストじゃないぞ。何だ!? 毒か!?」
異世界薬局の四階には、確かに実験の合成過程に必要な毒劇物が薬品庫に数多く取り揃えてある。それでも、万一の事態や盗難などを考えて即効性の毒は置いていない。危険なものは鍵付きの、頑丈な薬品庫に入れてある。
黒い影をした悪霊が、研究室にある何かを飲ませたのだろうか。
そんな馬鹿な、そう思いながらも、ファルマは診眼に問う。考えなしに近づくのは愚策だ。
「”中毒!”」
青い光の輝きに反応があった。やはり、毒物を飲まされたようだ。
「”シアン化カリウム”」
即効性から青酸カリを疑ったが、違う。やり直しだ。
「”無機化合物”」
違う。
「”有機化合物”」
反応あり。
「”アルカロイド”」
大まかなくくりから分類して、細かなくくりへと絞ってゆけば必ず見つかるのだが、毒の種類というものは、膨大なのだ。適当に言いまくってあたるものではない。傷口状に青い光が見えることから、矢毒、もしくは傷口を通して入った毒だと見当をつける。
彼はアルカロイドを更に絞り込んでゆく。あてずっぽうではない。彼の記憶にある限りの、即効性のアルカロイド(天然由来含窒素有機化合物)の猛毒を挙げてゆく。
しかも、この世界で入手しやすいものを中心に。
「”アコニチン”」
青い光は薄くなった。アコニチンとは、トリカブトに含まれる有毒成分である。父が解熱剤として患者に限定的に使っていた猛毒だが、ファルマの実験室にはなかったものだ。
そして、この毒に対する解毒方法は存在しない!
「くそっ!」
解毒剤は造れない。胃洗浄も手遅れだろう。対症療法では遅すぎる。
「だったら……!」
右手の消去の能力を使う。
「”アコニチン(C34H47NO11)を消去!”」
遠隔で猛毒を消去。
悪霊を倒してから、接近して毒の治療をしていては間に合わない、患者が死ぬ。
だから遠隔で解毒したのち、悪霊を祓い(?)にいくのだ。
アコニチンの構造は複雑極まりないが、幸い創造の能力と違って、消去の能力は化学式もしくは化合物の通称名を唱えるだけで消える。だが、まだ青い光は消えない。薄くはなったものの。
「まだあるのか!」
複数の毒が組み合わされているようだ。
次は矢毒として用いられているものを中心に挙げてゆく。まさか、と思いながらもその中の一つを挙げる、
「”バトラコトキシン”」
ヤドクガエルの神経毒がヒットした。この毒は、この世界ではどの医学書でも知られていない。
この世界には、ヤドクガエルがいないからだ。
(何でこんなものが。思いつかないし、できないぞこんなの…………)
ファルマは悪寒がしてきた。毒と薬は紙一重である。
正しい薬の知識を悪用すれば、毒殺も自在なのだ。
黒い影は、この世界の人間の常識を超えた悪霊なのかもしれない。
「”バトラコトキシン(C31H42N2O6)を消去!”」
解毒は完了。人型だった青い光は消え、局所だけにぽつんと光が点る。二人は一命をとりとめた、小さな傷はあるものの。
ファルマは覚悟を決め、今度こそ悪霊をめがけて猛進する。
開いている四階の窓から研究室の窓をけ破るようにして突入した。
黒いフードとローブで全身を被った長身の侵入者が、ファルマに背をむけてそこにいた。
『嫌な気配だ。強い光の気配がする』
男は体が軋む音が聞こえてきそうなほどぎこちない動作で振り向くと、口を開いた。ねっとりとした、耳にこびり付くような声だった。腐敗臭を思わせる、強烈な臭気を放っている。
『邪魔をしにきたのか? 愚かだな、人は誰しも死ぬというのに』
男は気味の悪い問いかけをしてきた。男は片手でするりとフードを取る。
男の顔面の左半分は骸骨が見え、皮膚は真っ青で腐っていた。左眼がない青髪の男だった。
その外見に、ファルマは思い当たる。
「お前……まさか、カミュか」
先ほど、父が犯人だと見当をつけていた人物。ネデール国の聖騎士らが、悪霊と断じていたもの。
『いかにも、我輩はそうだ』
彼はほぼ骨格だけになった指で、愉快そうにファルマを指す。
人間ではない、人の形をした死骸だった。
「う……う」
研究室の床に倒れていたのは、セドリックとロッテだ。セドリックは、ロッテをかばうようにして倒れていた。うめき声が聞こえる。解毒は遠隔でできたが、背中に小さな刺し傷がある。
致命傷ではない。この悪霊を倒したら、二人の処置に取り掛かる。
「なんてことを……」
ファルマが視線を彼らに向けた隙に、次の瞬間、カミュは蓋をあけた薬瓶を持っていた。
『この実験室は素晴らしい。未知の毒物がこんなにもある……これは何だ? 興味深い』
薬瓶の中にはたっぷりの液体と、そして結晶が入っていた。ファルマが合成のために用意していた白リンの粉、これはファルマが物質創造を行って薬品庫に鍵をかけてストックしていたものだ。白リンは、空気に触れると自然発火するので、今は薬瓶の中の水に漬けてある。
『帝都での死病拡散の実験を見に来たのだが、もののついでだ。この毒で皮膚がどうなるのか、"実験"してやろうか』
その白リンの入った薬瓶を、ロッテの顔の上にかざしていた。その瓶を傾ければ、ロッテの顔は白リンで燃えて、その炎は消えない。白リンの火傷は深く、治りにくい。重度の化学火傷を負ってしまうだろう。
どのように有毒なのか、カミュはすぐに試したいと考えたようだ。
彼女が生きているうちに。
それを、ファルマは許さなかった。
カミュの手が動く前に、ファルマは白リンに向け手をかざす。
「"白リン(P4)消去"」
結晶は消え去った。もはや薬瓶の中に入っているものは、有毒ではない。
「俺の試薬で人を傷つけるな! そういうのは……"実験"とは言わないんだよ」
猛毒の薬品を使って、ただその効果を人に試す。
それはただのおぞましい加虐であり、科学と薬学への冒涜だ。
「無理だ。お前だけは……」
静かな憤りを抑えつけ、ファルマの声は震えた。
毒が体から抜けたことで意識が戻り、瞼をもたげたロッテは、ファルマの声にびくっと肩をすくめた。
「お前は治せない」
ロッテは見えない力で射すくめられたような錯覚に陥る。場の空気の重みが増す。ロッテは声をかけることもできず、伏したままごくりと唾を飲み込んだ。ファルマの声のようでなかったからだ。別の人物が発したかのような、悲しみと怒りを極限にまで圧縮した、そんな声だった。
ロッテは彼が怒ったのを、見たことがない。
それでも、今ははっきりと感じた。彼は怒っているのだと。
『だったらどうす……うぶっ!?』
ファルマは拳を握りしめると、神速で踏み込む。カミュが猛毒を塗り込めたナイフを振りかざすより速く、考えるより先にカミュの顔面を殴り飛ばした。
全身全霊をこめて、この邪悪な存在を消さなければならないとファルマは感じた。
無言で神力を圧縮された拳を叩き込まれた悪霊は、顔面を失う。
悪霊に対して、右手の消去の能力が自動的に働いていた。
カミュは凄まじい勢いで四階の研究室の反対側の窓を突き破り、多くの瓦礫や破片とともに薬局の外へと吹き飛ばされた。
薬神杖で飛翔し、その加速に身をゆだねる。
空中でもう一度、ファルマは拳に力をこめる。
拳を受けたその瞬間からその体躯は衝撃で破壊され、歪に変形する。
ファルマの右腕が脈打ち、疼く。
胴体を粉砕。
体はほてり、熱を帯びて、その拳で、もう一撃。
彼は殴り潰した。腐った肉片が脆く飛び散り、灰燼となって、白い浄光に包まれ消えていく。
「消えろ!」
ファルマは空高くから衝撃波を纏う薬神杖を振りかぶり、空中で一気に貫通させる。
悪霊に一切の抵抗も反撃の余地も隙も与えず、その存在の本質をとらえ貫き通して、内部から徹底的に破裂させる。
垂直落下で串刺しに、地面へと縫いつけた。
『うぐぁ……ひいっ……』
ファルマの神力に屈した地面は波打ち、終に圧力に耐えられず一瞬おいて巨大なクレーターが穿たれる。
カミュを貫いた薬神杖は鋭く発光し、虹色の超高温の炎でカミュを完全に包み込んだ。
路地の岩盤すら、真っ赤に焼ける。
『……これが死か』
カミュは炎に包まれながら、最後の言葉を遺した。
それは悪霊に憑かれた男にとって、待ちわびていたものだった。
カミュに宿っていた影は薬神杖に貫かれ、暫くのたうっていたが、薄くなって消えた。
黒い塊を失うとともに、男の体は灰となって崩れ、風に散ってゆく。
「馬鹿……やろう」
彼を葬り去ったあと、ファルマは虚しさを感じていた。
カミュの頭脳と才能はこの世界の基準をはるかに超えていた。その知識、知見、発見を使えばどれほどの人々の病を癒せただろう。
後世に名を残す、すぐれた薬師になれたはずだ。
ただ、彼はそうではなかった。
彼はあまりに邪悪だったのだ。その邪悪な心に、更に悪しきものがとりついた。
警鐘が鳴ったので再び店舗の中に避難していた街の人々が、すぐ外で聞こえた大きな物音と地震のような衝撃に驚き、恐る恐る窓をあけてみると、巨大なクレーターの中央に、保護衣をすっぽりと着て、フードで顔の見えない子供が透明な杖を持ち、ぽつねんと立っていた。
「な、何が起こったんだ?」
真相を知るものはなかった。
太陽の光が雲間から差し込み、空は晴れ上がってゆく。優しく暖かな風が、サン・フルーヴ帝都を癒すように天上から吹き降りてきた。
「ファルマ様」
刺された背中の痛みをこらえながら、ロッテが薬局の階段を下りる。一歩ずつ、その足取りを確かめるようにファルマに近づいてきた。ぽた、ぽた、と血痕が彼女のあとを追う。
ファルマはうなだれていた。
そして、ロッテは眼にいっぱい涙をため彼を見上げると、ひしっと抱きしめた。
「おかえりなさいませ」
それ以上の言葉は、今は必要なかった。
【謝辞】
本項は、アルカロイドにつきまして大学教員のSo-hapu先生に指摘をいただきました、ありがとうございました。




