2章11話 サン・フルーヴ大市と黒い噂
「でな、マリーアがどうしてもっていうから俺も付き合ってやったんだけど……」
兄パッレの帰省3日目。パッレが9人目の彼女と別れたという話を聞いたところで、ファルマはもういいだろうと話の流れを切った。ブランシュはこっそりと自分の部屋に戻り寝てしまっている。
「そろそろ、ノバルート医大での講義でどんなものを習ったか教えてよ」
兄の大学での優等生ぶり、女性関係での武勇伝を3時間ほど深夜まで辛抱強く聞いた後、ファルマは本題に切り込んだ。脳筋兄は、美青年だということもあり羨ましくて鼻血が出そうになるほど正真正銘のリア充だった。丸薬などという変な名前なぐらいで丁度いいのではないか、というリア充だった。
この世界では、神術が巧みで脳筋であればあるほど男らしい、ステキ! と女性から称賛されるようである。それでいうと、ファルマは薬学以外のプライベートな部分では積極的な性格ではないので、
(俺は年頃になってもモテないんだろうな)
という灰色の青春時代が何となく予想できた。そのファルマにも、実はブリュノ経由で大貴族令嬢との縁談がいくつも舞い込んできていたのだが。本人は知る由もない。
「おう! 講義か。お前も聞きたかろう。なにせ俺は世界最先端の学問を学んでいるんだからな。わっかんないだろうなー、お前には早いだろうなー。兄上ぇ、ぼくちん全然わかりましぇーん、って半泣きになるだろうなー。だーっはっはは、弟はバカなほどかわいいってやつだ」
「教えてくれよ」
繰り返すようだが、ファルマは煽られてもスルーできる性格だった。激昂しやすい性格なら、兄をぶっ飛ばしていただろうが。そして、煽り耐性のないエレンは、以前にパッレに馬鹿にされぶっ飛ばしてしまったのである。それを機に、互いが顔を合わせると果し合いになる、とのことだ。
「これが、ノバルートで今、一番熱い話題だ」
兄は勿体をつけてテキストを取り出した。「神秘元素学」というタイトルだ。ファルマはそれを受け取り、ぱらぱらとめくる。
「……すごいな!」
「だろう、わかるのかお前にも?」
「わかんないけど!」
ファルマは感動していた。世界最先端の頭脳の集まるノバルート医薬大では、神術の基本である従来の四元素説をいったん解体し、錬金術の中で使われていた化合物の神秘言語をより単純な記号の羅列に置き換え、思索ではなく現象の観察に基づいた学問を確立しようという試みが始まっている。
神話、伝承と神術と科学はそれまでは一体であったのだが、それらを別個に理解を深めたほうがうまく自然界の現象の説明がつくのではと考え始めた学者も現れているようだ。
ノバルートの天才学者たち、医療錬金術師たちは、物質の最小単位を探索しはじめていた。
錬金術から、化学へ。
その萌芽が見えはじめていたのだ。地球の科学史と同じように。
(やってくれたじゃないか、ノバルート医大。さすが世界の頭脳が集まってる!)
ファルマはこの動きを歓迎したかった。
化学反応式が書けるようになれば、物質の合成過程をファルマが書いて遠隔地に送ることができる。それらは写本され、レシピを残すだけで世界各地で現代医薬品の合成ができるのだ。
「今、26の元素が見つかり、それに対応する記号が発明されているんだ」
「へえ!」
(地球上には118個あるけど、26個見つかっただけでもたいしたもんだ)
テキストの一ページには、元素記号の一覧と名前が書いてあった。
(あ、でも熱子と光子が入ってるぞ。それは元素じゃない、この4つは元素じゃない、化合物だ。惜しい! 見つかったのは20個だな)
地球の化学史と同じ間違いを色々やらかしていた。
テキストの間違いを直せたら……ファルマはもどかしく思ったが、あまりに直す箇所が膨大なため、
(これなら自分でいちから教科書を書いたほうが早いな。その場合はこの世界で決まった記号を使って書いたほうが、受け入れてもらえそうだ。重要な部分は書き写しとくか)
というわけで、
「兄上、この本を筆写させてほしいんだけど、いいだろ?」
「はぁ? お前にはまだ早いぞ。基礎的なことが分かってないんだからな、基本をおろそかにして、応用はないのだ」
馬鹿にしたように弟を見くだす兄。だよな、だから基本を正しときたいんだよ、とファルマは内心反論する。
「頼む兄上、俺も頑張って勉強するから」
仕方ないなー、汚すなよ! 手垢やインクつけるなよ! と兄は勿体をつけながらもテキストを貸し出した。おだてればチョロいタイプの兄だった。
地球ではかつて、医学、薬学の新知識の中心はヨーロッパにあった。
しかし、現在の拠点は米国である。
医学、薬学の研究拠点がノバルート医薬大から帝都に移っても、構わないだろう。
父ブリュノが総長をつとめるサン・フルーヴ薬学大に優秀な人材を集め、現代薬学を学んでもらって、専門家を養成する。そうすれば、ファルマ一人に負担がかかることもなくなるだろうし、創薬研究も多くの専門家に任せることができる。仕事も捗る。マンパワーが多いほうが、科学分野は発展していくものだ。
「あとは、画期的な発見といえば顕微鏡(microscope)だな。あの装置が発明されて、これまで目に見えなかった小さな生物が見えるようになった! 想像できるか、お前!」
「へ、へぇー」
「反応が薄いな。お前には価値が分からんか、それとも微小世界を想像できんか。はーっはっは、だろうなー!」
「すごいや。どんな世界が見えるんだろうなー!」
前世では光学顕微鏡から電子顕微鏡まで、あらゆる性能の顕微鏡を操り、その気になれば原子まで観察できた薬学者を相手に、兄は見下して高笑いをしていた。釈迦に説法どころの話ではなかった。
(にしても、バレてなさそうだな)
ファルマがノバルートに単式顕微鏡を輸出したということは、兄には知られていないらしい。ブリュノと、宮廷医師クロードが、ノバルート医大に発明者の素性を探らせないよう圧力をかけたとみて間違いないだろう。
「もう一つ、トピックスがあるぞ。白死病(結核)の特効薬が存在するという噂がある」
ファルマはびくっとした。
「レシピは未公開みたいだけどな。すごいだろう、不治の病、白死病は治る病気になるかもしれんぞ!」
「へー、すごいなー」
探りを入れても、サン・フルーヴ国皇帝が白死病を患っていたという話は、ノバルートの学生レベルでは広まってはいないらしい。上層部のみ知る秘密なのだろう。
患者の個人情報は流出していないようだ。
兄はその後も、ノバルート医薬大の功績をわがことのように自慢していた。
母校に誇りを持つのはいいことだ、とファルマは思った。
…━━…━━…━━…
「今日は日曜だ、守護神殿に日曜礼拝に行くぞ!」
兄パッレはファルマと妹のブランシュ引き連れ、早朝からサン・フルーヴ帝都教区の、全属性の守護神を合祀する守護神殿に向かった。そういえば、父がファルマを守護神殿に礼拝に連れていったことなど一度もなかったが、兄は、見た目に似合わず信心深いようだ。ファルマはこの世界に来てはじめて、神殿というものの内部に足を踏み入れた。ブランシュは久しぶりだといってきょろきょろしていた。
「守護神様の加護がなければ、神術も勉学もままならんからな!」
(なるほど、自信満々の兄が優秀な神術使いなのは、地道な礼拝の結果なのかもしれないな)
そういえば、薬神杖持ちで身体能力の向上したファルマと熱を出しながらも長時間撃ち合い、それなりにいい勝負をしていた兄である。ファルマは兄の努力を垣間見た。
神殿の聖堂では、日曜礼拝の祭儀が行われていた。神殿には、貴族も平民も訪れる。
祭壇にいるのは、おなじみ、薬局の常連の神官長だ。
祭儀では聖書の朗読が行われ、神官長の説法と祝福儀が行われる。祭儀を終えた神官長はファルマに気付き、嬉しそうに小走りで近づいてきた。
「とうとうお越しいただけましたか、ファルマ様。ようこそいらっしゃいました!」
常日頃から、ファルマは神官長から神殿に来てほしいと勧誘されていたものだ。ファルマが守護神殿に入るだけで、神殿が浄化されるだとか聖域になるだとか言っていた。神殿の床に埋め込まれた紋様が、ファルマが床を踏むたびに青白い光を放っている。
(うへぇ……なんか光ってる)
何が起こっているのか分からないファルマは、自身が引き起こす変化を見てもただ不気味で、得体のしれない不安を感じるだけだった。
「ちょ、お前っ!? 何で神官長様がお前なんかに様づけで話しかけてくださったんだ」
兄は、帝都でもっとも権威のある守護神殿の神官長がファルマに恭順な態度で話しかけるので、面くらって耳打ちする。ファルマは、「薬神」という迂闊な言葉が喉から口まで出かけていた神官長を制し、ちょっとこちらへ、と兄妹から少し距離を取った。
「薬神杖の調子はいかがでしたか、気になっていました」
神官長は、薬局がパッレの帰省にあわせて数日休業していたので、聞くに聞けなかったようだ。
「気に入りました。持っているだけで身体能力が高まる感じがして」
「それはよかった。杖は積極的に使ってください」
秘宝と呼ばれる杖をファルマに無料で与えたり、この神官長、気前がよすぎる。何か裏があるのではとファルマは勘ぐる。骨折の手当をした恩は確かにあるが。
「守護神殿の秘宝を俺が使ってもいいんですか? 秘宝喪失で上から怒られません?」
「こちらにも益はあります。あなたの周囲には小さな聖域が発生していますが、薬神杖は神力をより拡散しますので、聖域も拡大します。それが、秘宝の正しい使い方でございます」
「聖域が発生してる!?」
初耳だった。
「異世界薬局には病人が毎日のように来るにもかかわらず、職員は風邪ひとつひいていませんね。小さな怪我もしていない筈です。薬局の周囲に住む人々もそのはずです」
神官長の話だと、ファルマの周囲は悪霊が近づけず、人間は病気になりにくくなる、というのだ。神官長はそれを観察していたようで、ただ薬を買いに来ていただけではないらしい。
「風邪をひいていないのは、たまたまだと思いますけど。それに、悪霊なんているんですか?」
オカルトにしか思えない。だが、神官長は、
「何をおっしゃる、悪霊は実在しますよ」
と、さも当然のことのように答えた。
ファルマは真に受けたくなかった。神術が存在する世界なのだから、完全に否定するのも違うような気がする。だが、ファルマは悪霊を見たことがない。
「私には何も隠さなくてよいのですよ。私は神官でございます」
神官長は、彼なりの気遣いをする。
「はあ」
「そのように正体を隠しておられたら、思うように神力を揮えず窮屈ではありませんか?」
「何のことでしょう」
のらりくらりとはぐらかすファルマを、神官長は気にかけているようだった。
「私も、神学を学んでまいりました神官のはしくれでございます。些細な気がかりでもございますれば、この神官長サロモンめにお申し付けください」
何かご助言できることもあるかもしれません、とサロモン神官長は言った。
「穢れの多い世ではありますが、できるだけ長く、あなた様に現世にいらしていただきたいので」
伝説によると、神々とその化身が現世に現れるのはほんの束の間だという。穢れを嫌って隠れるのだと。
ファルマはこの世界で一生生きてゆくつもりだったが、神官長にそう言われて、世界の異物である彼の存在が、いつか消滅してしまう可能性に思いを馳せた。
(俺、割とすぐ消えてしまうんだろうか……)
何ともいえない気分でファルマは兄と妹のもとに戻る。
「何のお話だったんだ」
「たいした話じゃないよ。兄上、悪霊っていると思うか?」
「そういえば、帝都に戻ってから見てないな。神官様が悪霊を退治して下さっているんだろうな」
兄はいわゆる、見える体質のようだった。
「最近、悪霊いないよ。すっかり見なくなったよ」
ブランシュもそう言う。悪霊は黒い影で、そこかしこにいて、人に当たると不幸なことが起きるのだという。悪霊に当たった途端に死んだ人を見た、とブランシュが言う。
(スピリチュアルな兄妹だ……まあ俺の存在もスピリチュアルか)
ファルマは半信半疑だった。
「それもこれも神様のおかげだ。守護神様にお祈りをするぞ」
「あい」
ブランシュも手をあげる。
神像が祀られている礼拝堂に入る。広く、静かな祈りの場で、ステンドグラスの光が幻想的だった。
兄は薬神の神像の前で目を閉じて熱心に祈りをささげる。兄の守護神は薬神である。ブランシュの守護神は水神なので、少し離れた神像の前に行った。
兄の祈りの言葉に呼応するように、ファルマの隠された両腕の雷状の紋が疼き、薬神杖は輝きを増した。兄の祈りが、ファルマの糧になっているかのようだった。薬神とファルマの正体の間に、多少の相関関係はありそうだ、とファルマも認めざるをえなかった。
(俺はいったい、この世界の何なんだろう?)
ファルマは、自身のアイデンティティが定まらず、正体すら分からないことに強い不安と孤独を覚えた。
人を癒したいと願い続けて死んだから、異世界の薬神に関係する何かになってしまったのか。
(わからんな。想像するしかないことは、考えるまい)
……ファルマは考えるのを後回しにした。
兄が一週間の帰省を終え、ノバルート医薬大へ帰る日になった。
ファルマとブランシュと、母、そして使用人たちが見送る。父は診療で早くに家を出ていた。
「では、母上。また勉学に励んでまいります」
「しっかり勉強するのよ」
母は立派に成長した兄を見送り、目頭を押さえていた。
「ファルマ、ブランシュ、お前たちも達者でな。俺は早く帰らないと」
「何か用があるのか?」
ファルマが問うと。
「一週間も俺に会えないと、ナタリーが寂しくて泣き暮らしているだろうからな! モテすぎるというのも辛いもんだぜ、はーっはっは」
くそう、なんてリア充なんだ、そう思いながらファルマは手を振って馬を見送ろうとすると、
「そうだ、ファルマ。来月には帝都でサン・フルーヴ大市があるんだったな」
ふと、兄は何かを思い出したように真面目な顔つきになった。サン・フルーヴ大市とは、帝都の商業地区で開催される年に一度の大市で、一ヶ月間にわたって開催される。世界中の商人が集まる、夜を徹して行われる一大卸売市場であった。
「気を付けろよ」
何に気をつけろというのか、皆目見当がつかない。薬局の評判が国外にも聞こえ始めているので、医薬品の盗難には気をつけなければならなかったが、兄はファルマが薬局を開いていることを知らない。
「ネデール国の植民地の大きな島で、流行性の奇病が発生したらしい。千人程度の住民が全滅したようだ」
「現地病か何かか?」
「詳しくは分からん。ノバルートの調査団が、試料を持ち帰って大学で検査をしていたんだ。検査をしていた学者も二人死んだ」
(感染性の何かなのか)
ファルマは警戒を強める。
「学者の遺体と試料を焼却したのでもう犠牲は出ていない、島民も全滅したので終息はしたが、気をつけろよファルマ。大市には世界中から商品が集まるからな。その島との交易品を積んだネデール国の船が、行方不明だそうだ」
ネデール国の貿易船の中に紛れ込んで、病原体を積んだ荷物が帝都にやってくるかもしれないということだ。ネデール国の貿易船が就航できるのは、帝都ではマーセイル港だけだ。
(水際で阻止しないといけないな)
ファルマは気がはやる。
「兄上、その、患者から取った試料はもう完全に焼却して残っていないのか?」
「ない、火炎神術で焼却したからな。遺体の骨すら残らんさ。作業をしていた試料室も風の神術で浄化して封鎖した」
ノバルート医大をして手におえない代物だと、判断したということだろう。
サンプルを焼却するのは、確かに安全ではある。ファルマは兄に、死亡した学者の病状と経過を尋ねてみる。その症状を聞けば聞くほど、ファルマは嫌な予感がした。
(まさか……)
「そういえば、採取された試料に多く存在した生物を顕微鏡でスケッチしたものが残っているな」
ファルマの単式顕微鏡が、図らずもノバルートの地で即戦力として活躍していた。
「兄上。そのスケッチを何とかして筆写して、手紙を伝書鳩で送ってくれないか」
「お前が? 何のために」
「父上と一緒に、それについて調査してみる」
「そうか。父上になら何か分かるかもしれんな」
尊爵である父のことを、兄は大いに尊敬しているらしい。彼の名声はノバルートにも聞こえているという。
薬神杖でノバルートに飛んで行くには、遠すぎだ。ファルマはまだ杖で浮くのが精一杯だったので、遠距離飛行用の伝書鳩を飛ばせたほうが速い。
「学長の許可が出たら、筆写させてもらおう」
ファルマは、大事な情報の収集を兄に託した。
…━━…━━…━━…
サン・フルーヴ大市の開催まで、あと2週間。皇帝に大市の中止を今から進言したとしても、積み荷は世界中から集まってくる。
それが杞憂であっても、事前に打てる限りの感染症対策を講じ始めるべきだとファルマは思った。感染が終息したようにみえて、荷の到着とともに帝都でアウトブレイクが始まってはいけない。
ファルマは通常の薬局業務に戻り、重症の患者だけ診て軽症の患者はギルド提携薬局に送りながら、マーセイル港に検疫所を設けるよう指示した。また、基礎化学、現代薬学のテキストの編纂を急いだ。ファルマがこの世界から消滅してしまったとしても、テキストがあれば、この世界の人々を癒し続けることができるだろう。そう思ったからだ。
待ちわびていた兄からの伝書鳩はすぐに届いた。手紙を開いてみる。ファルマは固まった。
(この世界にも、こいつがいたのか……)
確定はできない。病原体の試料は焼却してしまったというし、似たような形の細菌はほかにもいるし、異世界の病原体だ、別の種類かもしれない。診眼にかけるまでは断定的なことは言いたくない。
それでも、ファルマには見覚えがある。
兄に聞いた患者の症状から総合的に推察すれば、そこに描かれていた細長い棒状の細菌のスケッチは――。
ペスト菌(Yersinia pestis)。
それはかつて地球上では黒死病として恐れられ、14世紀の中世ヨーロッパで大流行し、人口の3割を死に至らしめ、史上もっとも人類を苛んだ悪夢の病原体であった。
腺ペストの死亡率は50~70%、そして重症化し肺ペストを発症した場合。
死亡率は100%である。




