2章7話 骨折と薬神の聖域
神殿。
それは大陸内外に支配域を持つ国際的な宗教団体である。
宗教団体といっても、その権力はただの宗教団体の範疇にとどまらない。
神殿は、生後まもなく行われる洗礼儀の際に神術使いの守護神を鑑定し、祝福によって神脈を開き貴族としての資格を与える。また、貴族としての資質に欠けると見做されたものは、強制的に神脈を閉じ、平民身分へ落とすこともできた。神殿へ叛逆を起こした貴族は、永遠に追放された。
各国の国王や皇帝を選定し、権杖、帝杖、王冠、帝冠を授けるのも神殿である。
よって神殿の権力は帝国を上回り、その気になればサン・フルーヴ皇帝との全面戦争もいとわない。
ファルマがサン・フルーヴ国皇帝の擁する薬師団の筆頭薬師であり尊爵の次男だという事実は、一顧だにされることはなかった。
ファルマは人外だと断定され、異端として抹殺されることになった。
馬に騎乗した異端審問官は全部で7名。4属性神術の使い手が揃っていた。
ファルマは水属性の神術使いであるという風を装っているので、限られた手数で応戦する。
土属性術師の地面からの攻撃は分厚い氷の層を地面に張り巡らせて防ぎ、炎属性の炎は”負”の能力で消し、氷の防御壁を盾に風属性術師の暴風をやり過ごし、水竜巻で馬を翻弄させて術者を落馬させ、氷の礫を放ち物理的に殴り、杖を破壊して無力化し……熟練の術者7人を相手にたった一人で、余裕すら見せながら縦横無尽に跳びまわる少年に、異端審問官たちは次第に焦りと恐怖を見せはじめた。
ファルマの神力を含んだ氷の障壁はどんな金属より硬く、火炎の攻撃にも耐え、熱を通さない。
おまけに、神殿の奥義であった破邪系の攻撃も、彼が悪霊でないため通用せず、十字砲火の陣形を基本とした四属性攻撃だけでは単調になる。7人がかりで調伏できなかった異端者は、これまでいなかったのだろう。
ファルマは無詠唱で応戦しているが、物質創造ができることだけは見破られるわけにはいかず、全て水属性だけで対応した。それでも、異端審問官たちは神技を発動させるたびに神力をすり減らしてゆくので、段々と神技の威力は落ちてくる。
「ちょ、これは……」
異端審問官は、消耗していく部隊とは正反対に、ファルマは神術を使えば使うほど、身体能力が高まり、神力だまりがどんどん彼の周囲に渦をつくってゆくのを察知した。それに、神術を使えば神力は減ってくる筈なのに、彼の体からは神力が全くといって出ていかない。
むしろどこからか流入しているのではないかと疑うほどに、膨れ上がってゆく。
「ま、待て……」
先ほどからファルマの体は、神力の昂ぶりに応じて影がないどころか、白く発光しているように見えるのだ。
「ちょっと疲れてきたな」
とはいえ、ファルマも連続攻撃を受けっぱなしで息が上がってきた。このままでは埒が明かない、決着も見えないし。というわけで脅しをかけることにした。
彼は軽く腕を振り上げ、左手で空中に線を描く。
それは最初、空中にちりばめられたほんの小さな氷の結晶の行列だった。それが、目を見張る速度で轟音とともに巨大化し、瞬く間に氷山ほどに膨れ上がり、もはやどこへも逃れられないほどの上空の面積を覆い尽くした。
それを、少年は異端審問官の頭上に悠然と浮かべているのである。
彼がその指先をわずかに振り下ろせば、全員が氷山の下敷きになって圧死するだろうことは、もう疑う余地もなかった。
「あ……うわぁああ……!」
馬は暴れ、異端審問官は地面に振り落とされ、空を覆いつくすほどの氷山の圧迫感に戦意を喪失した。苦し紛れに放った大火力の炎も、無限に成長してゆくかに思われる氷山の前に無力である。
(ああ、これでもう完全に悪役だ)
とファルマはげんなりしながらも、ここで挫けてはいけない、脅すからには徹底的に脅す。彼らが逃げられないよう、氷山から氷柱を落として彼らを囲むように地面に突き立て、完全に包囲する。恐怖は増幅されたことだろう。失禁したり、泡を吹いてしまった審問官もいた。
異端審問官は、神殿の誇る神術戦闘のエキスパートである。その彼ら全員が、死を覚悟するほどの圧倒的な力量の差を見せつけられ、もはやこれまでと覚った。もはや彼らの命運はファルマの指先一つにかかっていた。
そのとき、恐怖で全身を痙攣させた異端審問官の男の一人は、氷山を操るファルマの腕が青白く輝き、彼自身が後光を放っているのを見た。
「本当はこんなことはしたくない」
彼はよく通る声で、彼らに呼びかける。
「俺はこの世界に、人を癒すためにきた」
それが、彼が再び生を受け、数々の能力を得たことの使命だと自覚していた。ファルマは杖を持っていない。診療カバンだけ握り締めて、身を守るための杖すら持ってきていなかったのだ。そこに患者がいると信じて、患者のために、彼はここに一人でやってきた。
「何もしないから、おとなしく帰ってくれないか」
ファルマの両腕は青く発光している。長袖の白衣ごしにもくっきりと見えた、それは薬神の聖紋と呼ばれるものに酷似していた。神殿に所属する者が、それを知らないわけがない。
「無尽蔵の神力、薬神の聖紋、そして影のない身体……そうか」
異端審問官のリーダーは、何かを覚ったらしかった。
「我々が間違っていた。我々の目が曇っていた、なぜ見抜けなかったのだ……」
「なっ……まさか」
次々と、男たちも勘付いて察知する。
「神体に影はできない。御身が光だからだ……こ、このお方こそが、薬神だったのだ」
あれ、とファルマは男たちが盛大な勘違いをしはじめたことに戸惑った。エレンや父もそうだったが、このリヒテンベルグ模様の落雷の傷痕が、どうしてもそう見えるらしい。ファルマにとっては、雷かカビにしか見えないのだが。
(長袖白衣着てるのに何で傷が見えたんだ?)
そんなファルマをよそに、彼らの罪悪感はヒートアップしはじめたらしい。
「これは大罪だ。全員、命を差し出せ。神を冒涜したのだからな」
「はっ、ははーーっ!」
異端審問官は、地に身を投げてファルマの前に猛然とした勢いでひれ伏した。
「薬神様、我々は大変なことをしてしまいました、誠に申し訳ございませんでした。命をもって贖罪をいたしますので、なにとぞお怒りをお鎮めください」
などと嗚咽しながら言うので、
「いや、あの、一旦落ち着いて。何もしないから」
彼らはファルマの話も聞かず、自害のために杖をこめかみに当て始めた。何か失敗を犯せば、即座に自決しろというマニュアルがあるらしい。
「待て、自害しなくていいから! やめろ!」
彼らの暴走を止めたのはファルマである。
「だから神殿に黙っていて、今後は俺に構わないでいてもらえれば、それでいいから」
ファルマはもう脅迫は十分だろうということで氷山を消去する。すると、聳え立つ巨大な氷山は跡形もなく消え去り、頭上には快晴の空が現れ、地面に少しばかりの水溜りを残した。まるで悪夢が醒めたかのように、そこに神術の痕跡はなかった。
「なんと、御赦しいただけるのですか!?」
命が惜しくなったのだろうか、一人の男がファルマに懇願のまなざしを向ける。
「そんなわけにはまいりません、神様を冒涜した贖罪のため私が命をささげます」
地面にひれ伏していたリーダー格の男の決意は固かった。
「こうなっては、もう長くありますまい」
リーダーがローブをたくりあげると、左足の脛の骨が皮膚を貫通しているのが見えた。
落馬したときに、運が悪く骨折したのだろう。
「ここから身体が腐って、遅かれ早かれ、死にましょう。私が責任を取ります」
ファルマは診眼で彼の下肢を診る。
「”開放骨折”」
ファルマは息を呑んだ。診断後に赤い光が灯れば、ファルマの手にはおえない。しかし、灯った光は……白。しかも、開放部はそれほど大きくはなく、傷口は土に汚れたりしてはいない、太い血管も損傷していない、汚染度合は低いときている。この場合は、十分な処置ができるなら脚を切断しなくてもいい。
「”下肢切断”」
光は赤。切断すれば、感染症を起こし敗血症に至り治らないということなのか。
「”整復”」
光は白。治るらしい。
(ああ……これは治るのか)
しかし、ファルマはある葛藤の中にいた。
それは、「医師法 第17条 医師でなければ、医業をなしてはならない」
薬剤師としては、バイタルサインの測定や視診、聴診、触診までは認められている。薬で治せるものは治す、だがそれ以上の一線をこえることは許されていない。日本では禁止されていた犯罪行為なのだ。
(でも、放っておいて死なせていいのか。診眼では治るといっているのに)
しかし、診眼は「ファルマが治せる」といっているのか、「外科医や整形外科医になら治せる」といっているのかまで教えてはくれない。理論上は治る、でも、こうすればいいというのを知っていることと、できることはまったく違う。ファルマは外科手術に関しては完全に素人で、人間相手には当然経験もない。ただ、彼は薬学者である。薬の効果を確かめるには、必ずではないが動物を使う場合もある。動物の手術に関しては経験豊富だった。
「これも神罰でしょう。殺してください、死ぬ前に一目、神様にお会いできてよかった」
苦悶の中にも、異端審問官のリーダーはいっそすがすがしい顔をしていた。
(薬局の処置室はつぶされていて使えない。MEDIQUEまでは遠い。処置が遅れると組織が壊死する、ここでやるか)
ファルマは地面に鉄の一枚板を創造し、負傷者をその上に寝かせ麻酔をかける。
「今から見ることは、全部忘れてくれ」
物質創造を見せることになってしまったが、もはや彼らは恐れはしなかった。疑いもしなかった。
「けが人の迎えの馬車を呼んできて」
「はっ! 仰せのままに!」
診療カバンを引っつかんできて、ファルマは一言異端審問官らに言い残すと、中から清潔なビニールシートを出してそれでテントを張り、簡易的な処置室を作り中に入る。
神術で水を生成、それで手を洗い、予め創って消毒していたプラスチック手袋をはめアルコールで消毒。蒸留水で作成した生理食塩水の瓶を何本も出し、開放している創傷面を徹底的に洗う。滅菌していたナイフで汚れていた部分を削り、診眼に問いながら準備しておいた広範囲の細菌に効く抗生物質を選んで塗り、骨と骨を滅菌しておいたステンレスのボルトで固定しピンを打ち、体液排出用のチューブを置いたまま傷口を閉じる。
(これでいいんだろうか)
最後に、傷口を再度診眼で診る。
白い光は、完全にではないが、薄くなって消えつつあった。治癒に向かいつつあるのだろうか。ファルマには分からない。
テントから出てきたファルマに、待っていた異端審問官たちはひれ伏し、祈りをささげていたところだった。
「薬神様、我々はあなたのお命を狙ったのに、殺されて当然なのに慈悲をいただけるだなんて」
「俺、薬が専門だから助けられるかわからないけど、やれるだけはやったつもりだ。怪我人は麻酔がしばらくは効いてるから、今は寝てる」
命を落とすかどうかはわからない、見えないレベルで感染しているかどうかも。でも、何もしないよりはましだったと彼は思っている。自己満足になるのかもしれないが……技術もないのに手術に手を出すのはこれきりにしたい、これは犯罪だ、とファルマは思った。
しかし、この世界で誰が、助かる確率の高い手技を知っているだろう。
誰が手術中に抗生物質を投与でき、傷口を徹底的に洗浄し、感染に配慮して傷口を閉じることができるのか。
残念ながら、彼しかいなかったのだ。
ファルマはこの世界の医師の最新手術データ、ノバルート医大の出した業績集の記録を見たことがある。開放骨折の手術では迷わず、そして素早く下肢を切断し、傷口はガーゼなどで覆い運を天に任せる。傷口は膿むのは全く構わないようで、敗血症で7割が死ぬ。痛み止めのポーションや麻薬を大量を飲むが、死亡率に大差はない。それが当たり前の世界だ。宮廷医師、侍医長クロードに診せたとしても、手術成績は一か八か、ということになりかねない。
「それはそうと、今日見たことは他言厳禁。でないと」
神殿の連中をどう脅すのが効果的なのかと悩んだ挙句、
「祟るぞ」
と、真顔でドスを利かせた声で言ってみた。
「ひ、ひいいいーー!」
異端審問官たちは震えあがり、口外しようなどという気は根こそぎ殺がれたらしかった。
神を信仰する者には、神(?)の祟りと言うのがてきめんに効くのだ。
ファルマは一言も、薬神を騙った覚えはないのだが。
…━━…━━…━━…
神殿の迎えの馬車が到着したころには、女帝の小姓、ノアが帝国の近衛師団を率い、全速力で駆けつけてきた。ノアと、近衛師団は武装していた。彼らはいの一番に、ファルマが無傷であることを確認する。ノアは異端審問官たちに向かって名乗りをあげた後、
「神殿の方々が我が国の皇帝の主治薬師に、いったい何の御用でしょうか?」
慇懃だが険のある口調で、異端審問官たちを牽制する。彼らは顔を見あわせ、返答に困っているようだった。これは何か疚しいことがあるな、とノアが追及しようとしたとき、
「怪我人がいたから、処置をしたんだ」
診療バッグの中に器具類を片付け終わったファルマが明るい声で応えた。
それ以外は何事も、まったく何もなかったかのように。
「ノアはどうしてここに?」
「あれだ」
近衛兵の一人が、ファルマの馬を牽いてきていた。
「こいつが教えてくれたんだ。さすが尊爵家の馬はよく調教がされている。興奮していたから、何かあったのかと思ってな」
ファルマの馬は主人に何かがあったらすぐに、直前にいた場所に戻り危険を知らせるという調教を受けている。馬だけが薬局に戻ってきたので、それをノアが見つけて兵を率い駆けつけてきたという。
「もしかして、薬局に荷馬車を突っ込ませたの、おたくら? だとしたら、うちの皇帝から神殿にお話があると思うけど」
ノアが異端審問官たちに鋭く尋ねるが、それは天地神明に誓って違うと全力で否定した。そんなやり取りがしばらくあったが、ファルマは陽が傾き始めたのを見てはっと薬局のことを思い出して、
「俺、薬局に戻る。セドリックさんや町の皆が待ってるし、片付けをするから」
怪我人はできるだけ動かさないように。
ド・メディシス家の屋敷に馬車で運んで、などとファルマは言っていた。
「じゃ、そういうことで」
と言うと、彼は診療カバンを肩にかけ、疲れ果てたらしく、自馬に乗ってとぼとぼと帰途についた。
ファルマを土下座で、しかも頭を地面に擦り付けるようにして見送る異端審問官たちに、ノアと近衛師団は驚く。異端審問官が尊爵の息子とはいえ一介の貴族に、土下座をしたうえ頭を垂れるというのは、前代未聞の話だったからだ。
「何があったんだ? なあ、ここで何があった?!」
ノアは首を捻る。近衛師団たちも不思議そうにそれを見ていた。
その後、ノアは根掘り葉掘り異端審問官たちに訊いたが、誰一人として口を割ろうとはしなかった。
誰もがひどく怯えていた。リアルな意味で腰を抜かしてしまっていた者もいた。
その後、サン・フルーヴ帝都教区の守護神殿の報告書には、「サン・フルーヴ教区には、影のない少年も異端者もなし」と書かれ、大神殿に提出された。
影のない少年の話はうやむやになり、ただの噂話として処理された。「神力だまりがある」などと虚偽の報告をしたとして、マーセイル教区の神官たちは一人残らず降格処分とされ(このころには神力だまりは消えていた)、そしてサン・フルーヴ帝国教区の、ファルマに治療を施された異端審問官は教区神官長に就任し、残る6人の異端審問官たちは、各教区に異動になった。以後、異世界薬局の子供店主に影がない、などという匿名のリークは、全て教区神官長によって握りつぶされることとなった。
異世界薬局は、こうして、その名の通り神殿も認める聖域となった。
サン・フルーヴ帝都の丘には、今でも消えずにひっそりと神力だまりがある。
そこは花が美しく咲き乱れ、草が青々と生い茂り、小さな生命があふれ、訪れた人にとってのヒーリングスポットとなった。
そこで何が起こったのか、もはや語るものはない。




