1話 シャルロットとの出会いと、水の神術
ひとつずつ、情報は入ってくる。
石造りの部屋の天井は低い。
石壁には朱のタペストリが掛かっている。
窓は小さく、昼間だというのに薄暗い。
部屋の奥では暖炉の火がぱちぱちと薪をはぜさせ、燃えていた。
彼が身を横たえているベッドのシーツはガサガサとして、藁のような匂いがした。
一体どこの洋館に運び込まれたのか、と彼は戸惑った。
「よいしょ、よいしょ」
ベッドサイドには、彼を介抱し甲斐甲斐しく動き回る少女がいる。
「ここは……?」
居心地の悪さを感じつつ、彼は少女に尋ねる。
「ファルマ様は雷に当たってしまわれたのです! 記憶、思い出せますか?」
顔を近くに寄せ、彼を心配そうに覗き込む。年の頃は10歳ほどで、あどけない笑みを向けていた。
彼女は簡素なドレスに、白いエプロンをかけている。美しく艶やかなピンクゴールド色の長髪を、肩にするりと流している。頭には白いかぶりものをちょこんと乗せた、吸い込まれそうな碧眼の可憐な美少女だ。
コスプレでもしているだろうか、と想像力に乏しい彼はそんな感想を懐いた。
彼は慌てて起き上がろうとするが、緩みきった全身の筋肉がそれを許さない。
「いや、それが、記憶がはっきりとしないんだ……。君は誰?」
それを聞いた少女から笑顔が消え、寂しげな顔を向ける。
「もしかして、私のことも忘れちゃいました、ね? 普通と違う青い雷に打たれたんですもの、そうですよね」
「悪いけどそうらしい。俺は記憶喪失になったのか」
すると彼女は咳払いをし、すました顔をすると、スカートのすそをちょいと持ち上げ、恭しく一礼する。
「ではでは、改めましてご紹介します。召使いのシャルロットです。いつものようにロッテとお呼びください。旦那様に召抱えていただいた母とともに、小さいころからお屋敷にお仕えしてまいりました。何でもお申し付けください、ファルマ様」
この屋敷に住み込みで、母子ともに働いているらしい。子供が召使いだなんて警察に連れて行かなければ、と彼が思案していると。ファルマ様、と再度呼びかけられる。何度も呼ばれるので、彼はハッと気づく。
「ファルマって、俺のこと?」
(何だよその、どっかの製薬会社みたいな名前は)
彼は微妙な気分になる。今彼女につけられたあだ名なのだろうか。
「はい、ファルマ・ド・メディシス様でございます」
ド・メディシス。
中世のフィレンツェの支配者であったメディチ家、そのフランス語読みっぽい姓だな、と彼は感じた。ちなみに、メディチ自体はイタリアの姓だ。
だいたい、日本人顔なのに誰と間違えてるんだよ、とひとしきり突っ込んだ後、
「鏡、見せてもらえる?」
もしかして、人違いではないのかも、と彼は嫌な予感がする。
「今、お持ちしますね」
わざわざ鏡を見ずとも彼の以前の体とは違うのは明白だった。手や腕を見るに、小さすぎる。どう見ても子供のようなのだ。そもそも人種も違う……。
小さな手鏡の中を覗き込むと、金髪碧眼で整った顔立ちをした白人少年が間抜けな顔をしてこちらを見ていた。
「嘘だろ」
言う事をきかない体に鞭打ってベッドから起き上がり、窓の外を見る。
すると、中世ヨーロッパを彷彿とさせる異国の町並みが視界に飛び込んできた。窓の外に広がるのは、古めかしい衣装を着た人々の往来。活気付く市場。鐘楼から聞こえる鐘の音。
ぽかーん、と彼の口が開いた。
放心状態の彼を心配したロッテが、背後からぽんぽんと軽く背中を叩きにきた。
「大丈夫ですか?」
「ごめん、ちょっと大丈夫じゃない」
(これが夢でないとすれば、俺は生まれ変わったのか?)
転生などという非科学的な現象は信じない彼であったが、いざ当事者となれば信じないわけにもいかない。
(何で死んだかな。過労死かなあ……だろうなぁ)
詳しい死因は思い浮かばなかったが、過労死をしたのかも、ということは真っ先に想像が及んだ。それほど彼の勤務時間はブラックだったからだ。フレックスタイムがどうとか、サービス残業がどうとか、そういうものの限度を超えていた。
冷静に勤務時間を計算したら、一日20時間を上回っていただろう。研究室の一角で、寝袋で寝起きしていたのだから。とはいえ職場を責めるのもお門違い。自分で好き好んでブラック勤務をしていたのだ、趣味=仕事という構図の仕事人間のなれの果てである。
死んだ。
そして生まれ変わった。よしとしよう、受け入れなければなるまい、と彼は観念する。そうは思えど、
(無理! よしとできない!)
それでもなお、夢ではないかという一縷の希望も捨てられない。
(頼む、夢であってくれ! 生前に残してきたあのデータを、まだ論文にしてないんだ!)
という具合に、前世への未練がありまくりだったからだ。
リアリティチェック、というものを彼は思い出す。その場で起きる現象が夢の中の出来事かどうか、確認する方法だ。息を止める。夢の中なら苦しくならず、呼吸を続けられるのだ。だが彼は一分後、盛大に咽る羽目になった。
「ぷはーっ! げほっ、ごほっ」
大真面目に息を止める彼の視界に、少女がカットインしてきた。
「何をなさってるんですか? その遊び、楽しそうですね」
ロッテはきょとんとして、ニコニコと屈託のない笑顔を向ける。召使いという悲惨な印象のある境遇の割りに、明るい子のようだ。
「いや、遊びではないんだ。そう見えるだろうけど」
(この世界は、リアル? 落雷に遭って、前世の記憶が戻った?)
思わず頭を抱えていると、か細い少女の手が彼の腕に添えられた。そうされて気づいたが、ファルマの両腕には包帯がぐるぐる巻きにしてあった。
「何だこれ?!」
「あ、ファルマ様! 急に動かしてはいけません、痛くありませんか?」
包帯を解くと、腕には赤黒い軟膏がぬられている。軟膏を包帯で拭うと、肩から上腕にかけて雷の電流で焼けた痛々しいケロイドが走っていた。両腕ともだ。
傷跡を見たロッテは両手で口を覆い、淡い水色の瞳を大きくした。そしてその傷に向けて祈るようなしぐさをした。
「薬神様の聖紋のようです……落雷の傷跡がそう見えます。薬神様が守ってくださったのでしょうね」
「落雷でできた傷なら、雷が皮膚を這った火傷でできたリヒテンベルク図形(雷状の模様)だと思うけど」
「はい?」
「ええと、いや」
ロッテがにこやかに首をかしげるので、彼は”雷が通った痕”と言い換えた。ところが彼女は薬神の祝福を受けた聖印だ、と信じて疑わない。雷を受けて人が生きていられるはずがない、と言う。
(まあ、確かにそうだ)
彼女が敬虔な信仰を持っているので、彼は無粋な言葉は濁した。
そして、”薬神の聖紋”に酷似しているという痣は隠しておいたほうが無難だ、と学んだ。
「あ、そうだ。甘いお菓子を持ってきたんです。召し上がってください! 気分も落ち着きます」
ロッテはウェハースのようなものと、空の銀のコップを彼の前に並べて置いた。
「いただきます。君もどう?」
「いけませんっ! 召使いが主人を差し置いてこのような高価なものをいただくわけには」
そうは言っても、ロッテは今にもよだれが垂れそうだ。感情が素直に顔に出るようだった。
「遠慮しなくていいよ、色んな意味で胸がいっぱいだ」
「ううっ、もう、ファルマ様がどうしても、どーしてもと仰るならっ! いただきますっ!」
この世界ではお菓子は高価で、使用人はなかなか口にできないものであったらしい。それだけにロッテの喜びようといったらなかった。
「もう一枚食べる?」
「あうっ、そんなっ! どーしてもですか? どーしても?」
「どうしても、でいいよ」
あまりにも美味しそうに食べるので、彼は半分以上を彼女に与えた。その様子を眺めているだけで、現実逃避になって癒される。
「頬がとろけてしまいそうです……あ、喉、かわきませんかファルマ様。神術は元通りに使えますよね? 私も生成したお水をいただいていいですか? ファルマ様の造ってくださるお水はとても美味しくて」
ロッテは、粗末な木製のコップを差し出しながらファルマにおねだりをする。小動物のようなしぐさがいちいち可愛らしい。
「何だって? 神術?! 水?」
声が裏返りそうになる。別人に転生した以上、この世界の知識を得てこの世界に馴染む以外に生きるすべはない。彼女に話を合わせなければと彼は思うのだが、知らないものは知らないのだ。
「ファルマ様は水の神術の使い手でした。まさか神術を忘れましたか?」
あんなにお得意でしたのに! と、彼女の顔がみるみる青ざめてゆく。
神術とやらが使えることが、貴族階級の証なのだそうだ。
「もし、このまま使えなければ俺はどうなる?」
「考えたくもありませんが……」
神術を使えなければ貴族として認められず、父親には勘当され、屋敷を追われ平民として放逐されるそうだ。
「私、内緒にしておきます! 何も知りませんっ! お菓子をいただいたご恩もありますし! ああっ、大恩です!」
ロッテは両手を振って目をつぶる。
「そんなに恩にきなくても。どうするかな。少し一人にしてくれない? 思い出してみるよ、神術ってやつを」
思い出すのが目的というよりは、一人にさせてほしかった。
「そうですね。ゆっくり静養くださいませ」
水の生成は心に水の姿を思い浮かべることによって発動し、その手に湧くと言い残し、洗濯物や言いつけの買い物を済ませてくるからと彼女は部屋を立ち去った。
神術が使えないと周囲にバレようものなら、屋敷を追い出され、食いっぱぐれ野たれ死ぬのだろうか。
この世界で、何ができるのだろう。
もし、屋敷を追い出されるようなことでもあれば、路頭に迷う前に職で身を立てなければならない。
というわけで、彼はダメもとで神術の回復に取り組むことにした。
「水……!」
彼はお椀がたにした両手に意識を集中し、水を脳裏にイメージする。
水。
日本の薬学者であった彼の、水分子への造詣は深い。
その元素の形、エネルギー状態図、スピン状態まで手に取るようにわかる。
しかし、その知識が何になるだろう。
(だめか?)
随分と時間が経ったような気がする。
すると、血流によって熱を持ったのだろうか、腕の痣に異変がおきはじめる。
気づけば痣は青白く力強い、ネオンのような強烈な光を放っていた。
(何だ、この発光は)
緊張と驚きで、ファルマの両手に汗が滲み出てくる。
汗にしては大量だ。
「汗……違う、水、水だ!?」
湧き出す水はとまらない。彼の体内からというより、異次元の力を呼び込んでいるような感覚だ。部屋を水浸しにしてはならないと、彼はあわてて窓の外に走り手を外へ突き出した。気が抜けたと同時に、噴水のように水が噴出する。
「やめ、やめ、ストップ! とまれ!」
ロッテに止め方を教えてもらっていなかった! 水のイメージを脳裏から完全に消すと、ようやくのことで生成は終わった。
「ふう……」
大きな大きな溜息をつく。
「ファルマ様ー!」
外からソプラノの声が聞こえてきた。窓の下をのぞき込むとロッテがハーブ畑の中から見上げて手を振っていた。
「そのお水、もしかして! 思い出せたんですね」
「ごめん、濡れた?」
「濡れましたっ! 涼しくてい~い気持ちです!」
雨が降ってきたので、日課のハーブの水やり助かりました! とロッテは笑った。
「よかった……」
こうして彼は、水の神術を回復したのだった。