2章3話 フッ素とキシリトールでオーラルケアを
「ふむ? ……まずはこれを塗るのか」
鏡を前に、彼女は興味深そうにクリームを手に取った。
「はい、薄く満遍なくお顔に塗ってください。次に、これを。粉ははたかなくても結構です。全体をカバーするように」
卵のような肌に、熱心にパウダーを塗ってゆく。
「5歳は肌の質感が若返りますよ!」
「ときに、ファルマよ。今後、MEDIQUEの新製品は、余への献上物としてまっさきに持ってまいれ」
ルースパウダーを最高級化粧筆で顔に塗りながら、サン・フルーヴ皇帝、エリザベートII世はちくりと釘をさした。
「ははーっ!」
(ああ、皇帝で帝国最強の神術使いとはいえまだ24歳の女性だもんな。ファッションの流行にも敏感だよな)
ファルマは納得する。そこで捻り出した言い訳は、
「陛下は素肌がお美しいので、おしろいなど不要かと思いまして」
「ははは、そなたの言い訳は歯が浮いておるぞ」
女帝は宝石のちりばめられた高級扇子で優雅に顔を仰ぎながら、気をよくしたようだ。
『帝国出資の勅許店なのだぞ、発明品は一番に陛下に献上に行ったのだろうな?』
『えっ!?』
今朝、父とそんなやり取りがあり、ファルマは慌てて女帝に上納しにきたというわけだった。考えてもみれば、珍しい流行りものはコスメブランド2号店を出店する前に陛下に献上すべきだった。今日も女帝の傍に控えた小姓の少年、ノアの口がバーカ、と動いていた。女帝は機嫌よくすべすべと頬を撫でながら、鏡から目を離せない。
「うむ……これは素晴らしい! 次の夜会にはこれで出るぞ。婦女どもに差をつけるのだ」
貴婦人たちも軒並み製品を買ってるから、差はつかないんじゃないかな、とファルマは申し訳ない。もともと女帝は美女だし、女帝への献上用に美容成分をいくつか足しておいたので、それで献上が遅れたことは許して欲しいと恐縮するファルマである。さらにご機嫌取りの材料はある。
「お肌にやさしい薬用口紅もご用意してございます、これは新製品です。これは陛下に一番にお試しいただきたく」
「おお、何だこの輝きは」
ファルマの原案をもとにコスメブランドMEDIQUEの薬師たちと新しく共同開発した薬用リップグロスだ。自然な発色とパールの輝き。のっぺりしたのりの悪い紅色とは違う。
「うむ、よいな」
お気に召したようだった。
「陛下、鉛と水銀、その他有害物質の、人体へ使用する製品への規制をありがとうございました」
献上が終わり、ファルマは改めて勅令発布について礼をのべる。ファルマがただちに禁止すべき薬品のリストを作成し、父を通して上申したのだ。女帝の行動力は相変わらずだった。女帝は神力計から、父ブリュノは薬学知識から、それぞれファルマが人智を超えた神がかり的存在なのではないかとうすうす勘付きはじめていて、ファルマの言葉を無下にできなくなったのである。ちなみに、女帝もブリュノも、ファルマに影がないということはまだ気づいていなかった。
「驚いたぞ、あれらが毒だったとは。水銀も鉛も、多くの市販されている薬の中に入っているはずだ」
「おっしゃるとおりです」
「宮廷内で侍女たちが用いていたものはすべて廃棄させよう」
「それがよろしいかと」
ファルマは進言する。宮廷では、侍女だけでなく乳幼児も毒物まみれの化粧をしているのだ。安全性を考えれば、即刻禁止すべきだった。
「一方、そなたの店の化粧品ブランド、MEDIQUEは好調のようだな」
「おかげをもちまして、業績好調でございます、ですが……」
それについては、少々困ったことになっていた。化粧品は香水や石鹸を売る店の取り扱いだったので、一番のライバルである薬師ギルドからの反発はなかった。だが、
「みなまで言うな。化粧品商からは規制緩和の嘆願が毎日のように届いておる。彼らも切実なのだ」
鉛白と水銀を含む製品を禁止したことで、従来品を扱っていた業者が阿鼻叫喚となるのは予想できたことだった。ただ有害成分を抜いただけでは粉っぽくてぱさぱさした、さほど白くもないおしろいになる。とても商品にならなかった。
「化粧品商には補償金を出しておるが、そなたの生産した化粧品で寡占状態になるのは好ましくない。また、関連業界が大量に倒産されるのも困る。競争は好ましいものだ」
女帝は脳筋思考なわりに、政治感覚はまともだった。
「はい。生産技術を一部、陛下にお預けしますので開示をお願いしたく存じます。また、水銀や鉛白を利用したほかの工業製品の製造法を立案いたします。その安全な取扱いにつきましても、注意事項をまとめます」
ファルマは、UVカット技術のみを企業秘密として、おしろい、基礎化粧品、石鹸のレシピを公開すると約束した。そのレシピを、ファルマの名前は表に出さず女帝の名で公開してもらう。
「それから、何とかして化粧品の価格を上げよ。よいものを叩き売られたのでは、ほかの業者が死ぬ」
ダンピングまがい、とまではいかないが、高く売っていた同業者が倒産する価格ではある。強者である貴族が、弱者である平民を踏みにじるでないぞ、と女帝は指導してくる。
「承知いたしました。化粧品にランクを設けて価格設定いたしましょう」
それでも業者が瀕死になることが予想されたので、MEDIQUE(異世界薬局のコスメブランド)の利益の一部を、化粧品業者救済のための基金にした。
生存か、撤退か。
各業者は生き残りをかけて新しいおしろいの開発に着手、先駆者であるMEDIQUEの薬師たちの指導のもと、パウダーファンデーション、リキッドファンデーションを生産しはじめた。MEDIQUEのCCクリームとルースパウダーの商品品質には太刀打ちできなかったが、それでも人によってコスメブランドの好み、美容成分、香りの好みがあるように、多種多様なおしろいが生産されはじめ、MEDIQUEより価格を落として廉価販売しはじめた業者も現れた。美容成分の配合には各業者、ハーブなどを配合して工夫をこらし差別化した。従来のように透明感のないのっぺりとした仕上がりを好む保守的な貴族も多かった。
一方で、基礎化粧品の生産を撤退し、香水などに力をいれる業者もちらほらいた。
こうして、MEDIQUEの独占状態は一応回避された。また、平民が化粧品を使うようになったことから、市場は拡大の一途をたどっている。
さて、行き場のなくなった水銀や鉛白はどうしたかというと。手に触れたらすぐに洗い流すことを前提で、油彩用顔料に使うとよく発色するという指南を女帝に出してもらった。
その他の毒物は、工業用に限られた用途があることを教えた。
このころ、正体が分からないながら、女帝が側近に賢者を召し抱え、賢者が女帝に様々な助言をしているらしい、という噂がたちはじめた。
しかし、彼らはそれが誰なのか突き止められなかった。
まさか、異世界薬局の子ども店主が政治の枢要部に入り込んでいるとは、誰も思わなかったのだ。子ども店主は、高名な宮廷薬師である父が発明したもの、父の知識を商品化して売っているだけだ、と依然として思われていた。一度でもファルマの処方を受けた者は、「もしかして、彼が」とは思ったようだが……。
そんなある日、ファルマはいつものように女帝の診察をしたのち、女帝の皇子ルイも診察していた。診眼を発動すると、口の中に青い光がぽつぽつとともって見える。
あー……、とファルマは微妙な顔になった。そして恐る恐る心の中で呟く。
「”齲蝕”」
青色光は消えた。ファルマが先送りしていた問題。
虫歯、う蝕だ。
この世界では砂糖が貴重品で、砂糖が原因となる虫歯をわずらっている人間は平民では少なかった。しかし、貴族は甘いお菓子を食べる機会が多い。いわば、虫歯は王侯貴族のステータスともいえた。ファルマは毎日歯磨きを怠っていないのでまだ虫歯はないが、歯磨きの重要性を知らない貴族は多かった。
ちなみに、虫歯をわずらっていた家令のシモンは、ついに神経の痛みがきたので歯を抜いたらしい。進行しすぎた虫歯については、ファルマは無力だ。
「殿下は甘いものがお好きなのに、歯磨きがお嫌いでいらっしゃるから」
ノアが、困ったような顔をしていた。不幸中の幸いは、虫歯のある歯が乳歯であるということ。皇子は6歳、抜け替わる時期まで歯がもてばいい。
ビリヤードの遊びに付き合うふりをして、ファルマはルイに話を切り出す。
「殿下、食べ物を食べたときに、歯がしみたり、歯が痛かったりしませんか」
「いや、特にないぞ」
その程度か、軽そうだな、とファルマは見積もる。ビリヤードを終えて、飴を口にしようとする皇子をファルマはとどめた。フルーツ味の飴玉は皇子の大好物だ。
「殿下、お口を大きく開けていただけませんか」
ファルマの言葉に、身構える皇子。
「虫歯がある可能性が」
「やめろおおーーーーっ!」
皇子は話を聞かず、あわてふためきながら逃げ出した。
「殿下を捕獲してくる!」
全力ダッシュで駆けてゆく皇子の後を追うノアの後を、さらに廷臣たちが追いかけてゆく。にぎやかしいことこの上ない。ノアは、「殿下を追え! 殿下の虫歯の治療だ!」と叫び廷臣をけしかけた。コントみたいだな、とファルマは圧倒される。日常茶飯事のようだ。
そして宮廷内で大捕物劇が始まった。歯を抜かれてなるものかと、皇子は必死の抵抗を見せた。
「いたか!」「いらっしゃらないぞ!」「宮廷を抜け出したのでは!」
噴水の陰に隠れたり、彫刻になり済ましてみたり、植え込みに隠れてみたり。くたびれ果てたルイがとうとう足を滑らせて床で転び、彼の前に立ちはだかったのはファルマだった。
「ううっ、もはやこれまでか! むねん!」
首級でも取られるかといった一言を発する皇子。
「殿下、お口の中を見せてください。今日は抜きませんから」
ファルマがそう言って約束すると同時のタイミングで、
「殿下、お覚悟を。なにやら騒々しいと思えば、虫歯ですか。私が上手に抜いてさしあげましょう。なあに、すぐにすみます」
どこから聞きつけたか侍医長クロードが、ペンチを持って近づいてきた。抜歯にかけては、自信があるらしい。
「嫌だあぁあーーーー!」
ルイはファルマの背後に回りこんでガタガタ震えている。
「侍医長様。殿下の治療は、今回は私にお任せください」
ファルマが、両手を前にかざしてクロードをなだめる。
「ほう、新人薬師のファルマ君ではないか。ではお手並みを拝見するかな。子供の力で歯は抜けまい」
クロードはそういいながらも、一旦ペンチをおさめることにしたようだ。
ファルマは涙目になっている皇子の口の中をよく観察して、虫歯は黒くなっているがエナメル質にとどまっていることを確認した。
「まだ初期ですので、抜かなくていいかもしれないです」
「どんどん進行してゆくぞ。根までいってしまうと、高熱の原因にもなる。命とりになる場合もある」
クロードはなぜ抜かないのだ、と疑わしげな顔になった。
「侍医長様、虫歯の正体は何だと思われますか?」
ファルマは指をたてて尋ねた。
「それは……あれだ。何だ?」
「それは、糖類を食べて歯を溶かす生物です」
「またあれなのか!」
侍医長は悔しそうな顔をした。
「違う種類ですけどね。顕微鏡で見ると、虫歯は小さな生物への感染症なのだということが分かると思います」
穴が完全にあいてしまわない早いうちなら、食い止められる気がしてきませんか? と言うファルマに、侍医長は考えを改めた。
「殿下。明日、虫歯の進行を食い止める薬を準備してまいります」
「抜かなくていいのか?」
皇子が、信じられないというようにファルマを見る。
「ええ、今回は」
翌日、ファルマは薬を用意して宮廷へとやってきた。事情を聞きつけた女帝が、「歯の手入れを怠ったのは自分なのだから、抜けばよいのだ!」などと厳しいことを言っている。女帝は甘いものを殆ど食べないので、虫歯はないようだ。皇子の歯磨きは侍女の仕事だが、皇子が女帝のいないところでは脱走したりわがままを言って、侍女の言う事をきかないことを、女帝はよく知っていた。
「お薬を塗りますね」
皇子は天蓋つき高級ベッドに寝そべりおとなしく口を開け、ファルマに処置を任せる。
初期虫歯は、高濃度のフッ化物を塗ると歯のエナメル質でフルオロアパタイトの層を作って再石灰化し、虫歯の進行を抑えることができる。
女帝や侍医団には、虫歯をくいとめて歯を強くする薬です、と説明しておく。
「ほほう」
クロードは至近距離から顔を近づけ、疑わしげにファルマの手元を見てメモを取っている。
「今回は抜きません。ですが殿下、次回は抜かなくてはいけないかもしれませんよ」
虫歯部分を削る治療は、歯科の心得のないファルマには難しい。
「ううっ……今日から歯磨きをする!」
皇子はぶるぶると首を横に振った。
「そうおっしゃると思いまして」
ファルマは我が意を得たりと、がさごそとバッグの中から木箱を取り出す。
「歯のお手入れセットをご用意してまいりました」
この世界では、布や海綿で歯を磨き、爪楊枝で歯の隙間を掃除するのが一般的だ。郷に入ればある程度は郷に従ってきた彼であったが、このたび、よい機会だと思ってオーラルケアセットを作ってきた。
「馬の毛の歯ブラシでございます」
彼がまず取り出したのは歯ブラシ。
ナイロン製の歯ブラシが普及しているが、必ずしもそれがベストというわけではない。日本でも、馬や豚の毛の歯ブラシは売られていた。むしろ、そちらの方が歯茎に優しいというメリットもある。
そして、次々にフッ化物入り歯磨き粉、そしてデンタルフロス、舌クリーナーなどを並べる。皇子に使い方を教えると、彼は熱心に聞いていた。
「ファルマよ、そのセットを余にも献上せんか」
「はっ! ただちに!」
また女帝への献上を失念して怒られたファルマである。
このセットを、庶民の間に広く普及したいと上申したところ……女帝は頷き、ゆっくりと首を左右に振った。
(何だ? キャッチャーサインか? 配球がまずい?!)
などとファルマが思っていると、
「発明者には利益を享受する権利がある。だが、今回もまた、やりすぎるなよ」
寡占状態にするなよ、という女帝の忠告だった。
「はい、心得ております」
今後も新技術を次々公開してゆく予定がある、というファルマが各業界から反発を買わないよう、女帝は「技術局」を創設させた。技術局で新技術、新発明を一元管理させて、開示要請があれば(企業秘密となる部分を除いて)開示し、閲覧者は閲覧料を払うのである。技術登録は、匿名でも実名でも行うことができる。ファルマは、顕微鏡、化粧品、そしてフッ化物製品などを、現地の業者のために匿名で登録した。
そして1ヵ月後、異世界薬局は、「オーラルケアセット」をリリースした。セットのばら売りも用意している。それまで本格的に歯磨きなどしてこなかった人々は、お菓子を好む貴族を中心に飛びついた。虫歯になるたびに歯を抜いて、殆ど歯が残っていない人たちは、残った歯を何とか保たせるためにあの手この手を尽くしていた。
「あのセットは少し高い。もう少しお手ごろなのがほしい」
平民は少しの出費も抑えたいようだ。というわけで、ファルマは廉価版も用意した。江戸時代に使われていた房楊枝(爪楊枝と、その反対側が木のブラシになっている)とフッ化物入り歯磨き、フロスのセットだ。
「これなら、私たちも買える!」
店頭と、そしてMEDIQUEではブラッシング講座と口腔衛生講座が開かれた。講座は大盛況で、連日の満員となった。ファルマが教えるのではなく、エレンに教えて講座を開かせた。ファルマはあくまで、この世界での薬師としての本業である診断、処方、調剤に専念したかったからだ。
店頭で入りきらない人たちのために、エリザベートが宮殿広場を自由に使っていいというので、虫歯予防の講習の催しを行った。暇な市民がお祭り感覚で押しかけた。
こうして、平民たちがオーラルケアセットを買い求めたものだから、多くの業者が追随して後発品を作るようになった。
正しいブラッシングを知る事によって、人々の意識は変わっていった。肺炎などの感染症を予防することもできると聞いて、特に熱心にやりはじめた。
ところで、皇子はというと。女帝の言いつけで、甘いものを我慢させられていた。
「甘いものは暫く我慢しないと。ああ、でも、食べたい……」
そんな皇子の悩みを解決するのに、ファルマに良案が浮かんだ。
虫歯にならないキシリトール入りキャンディである。
これもまた、匿名で技術局に登録した。
「虫歯になる砂糖はほとんど含まれていないのです。虫歯になりにくいですよ」
「甘いのにか!?」
「ちなみに、食べ過ぎるとくだしますが」
皇子は独特の清涼感のあるそのキャンディを、いたく気に入ったという。
余談だが、薬局常連のジャン老人も、船乗りの飴(キシリトール配合)を好んで食べるようになった。
【謝辞】
現役歯科医のROKI先生に、本頁の査読をしていただきました。
先生本当にありがとうございます。




