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【完結済】異世界薬局(EP4)/【連載中】世界薬局(EP4.1)  作者: 高山 理図
Rideaux1 世界薬局 PHARMACIES MUNDI INFINITUS(EP4.1)
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4話 逆追跡 Suivi inverse

 5月14日、夕刻。

 バスティーユ監獄の門の内側でエレンを迎えた監獄医は、白髪まじりの痩せてくたびれた男だった。

 エレンが事前に素性を調べたところ、監獄医シルヴァンは姓がないことから平民出身の外科医とみえる。

 だからといって、アガタの帝国医師ギルド改め共和国医師ギルドにも入っていない。

 何か特殊な事情か縁故で採用になって、監獄内に十五年も勤務しているのだろうとうかがえる。

 エレンは世界薬局の制服を着て身なりを整え、身分証を示し、挨拶をする。

 彼女はもう杖を差していないので、旧貴族と旧平民の身分の見分けはつかない。

 姓を名乗ることでその出自を匂わせる。


「私は世界薬局の薬剤師、エレオノール・ボヌフォワと申します。はじめまして、シルヴァン先生」


 監獄医シルヴァンは、エレンのつま先から顔まで彼女に絡みつくような視線を向けていた。

 エレンは生理的嫌悪を覚えるが態度には出さない。


「ああ、君が社長か。社長自ら薬を届けてもらってすまないね。そっちは?」

「こちらは私の弟子です。お構いなく。鞄持ちに連れてきました」


 シルヴァンは重い荷物を持ったパッレを一瞥する。

 パッレは下働きのようないでたちで、帽子を目深にかぶり、シルヴァンとは顔を合わせないようにしている。パッレは名乗らない。名乗ればファルマの兄だと知れてしまうかもしれない。

 普段のパッレは鞄持ち呼ばわりをされようものならエレンの足を踏んでいるところだが、彼は嫌な顔ひとつしない。彼も多少の屈辱は我慢する分別を持っていた。


「まずはリコール対象製品の回収と代替製品のお届けを。すみません、リコール製品の交換は法的に手順が決まっていまして、直接確認と定められております」


 エレンが事務的な口調で説明する。


「なるほど。リコールなんて初めてだからな。まあ、バカ正直に回収するのもおたくらぐらいのもんだろうが。随分不名誉なことだろう」

「返す言葉もございません」


 シルヴァンの嗜虐心を満足させるためにエレンはたじたじ、といった演技をする。


「で、薬品庫に案内すればいいのかな。構わんよ。うちの薬品庫はこっちだ」

「お手数をおかけし申し訳ありません、ご協力に感謝します」


 シルヴァンは特に警戒している様子もなく、億劫そうにエレンとパッレを監獄内病院へ招き入れる。

 監獄の看守が二名同行して、外部の民間人である二人が怪しい行動をしないか見張っている。

 パッレは重い薬品ケースを運びながらエレンに追従する。

 エレンもパッレも最大限の注意を払いながら監獄内を歩く。

 例えば監獄の壁面やメモ一つに至るまで、ファルマが何か手がかりを残していないか。

 自然に視線を移動しながら、何も見逃すまいとする。

 パッレはエレンの背後についている看守の背中が不自然に濡れているのに気づいた。

 服を着たままシャワーでも浴びたかのような服の染みにパッレは引っかかりを覚え、彼の顔と特徴を記憶した。

 パッレはわざと自身の胸ポケットのペンを落とし、自ら立ち止まって背中の濡れた看守に拾わせた。


「す、すみません。手がふさがっていたので。ポケットに挿していただけると助かります」

「気をつけろよ」


 看守は面倒くさそうにしながら、パッレのポケットにペンを戻した。

 そしてパッレは全く労せずして指紋を採取することができた。

 薬品庫に案内されると、エレンとパッレは手際よく対象の薬剤を交換してゆく。

 リコール対象となったのは麻酔薬や生理食塩水、抗菌剤が数種類だ。

 品質的には何の問題もない製品を新品に交換してゆくのは、エレンにとって耐え難いことだった。

 二人でロットを確認し、人の目を意識してもったいぶって内容を読み上げ、シルヴァンに確認を依頼し書類に記載する。

 シルヴァンは途中から製品よりもエレンの肢体に視線を配っていた。

 パッレはエレンとはライバルながら、彼女に浴びせられる視線を不快だと感じていた。


「ありがとうございました。作業完了です」

「それで、頼んだ薬のほうは」

「こちらです」


 エレンは表向きシルヴァンから出された、その実ファルマの処方箋で指定された薬をシルヴァンに手渡す。


「こちらが処方箋でご依頼のあったお薬ですが、調合が必要です。あなたにお任せしても?」

「ああ、うちのがうまくやる」

「なるほど、監獄病院には薬剤師の方が常駐しているのですね」


 うちの、という言葉をエレンは逃さない。

 エレンは素知らぬ顔で更問いするが、この監獄に薬剤師がいないということは、事前の調査で知っていた。シルヴァンは一瞬、返答に窮した。


「そういったところだ」

「その薬剤師の方は? 注意事項などをお伝えしたいのですが」

「今は他の対応をしている。私が伝えておこう」

「なるほど、承知しました。では調合方法を記した書類をお渡し下さい」


 エレンはツンとした態度で、パッレに向けて手を差し出す。


「ん」


 書類を差し出せというジェスチャーだ。

 そこでパッレが青い顔になって申し訳無さそうな顔でエレンに耳打ちをする。


「なんですって、書類を忘れたの!?」

「も、申し訳ありません」

「準備しておきなさいって言ったわよね。どうして確認を怠るの。この間も同じような失敗をして……本当に使えないったら」


 エレンがパッレを大げさに叱責する。

 もちろん二人の打ち合わせ通りの演技で、パッレは書類も故意に忘れている。

 眼前で諍いを始めることで、シルヴァンのパッレへの同情心と、エレンを懲らしめたいという欲望を蓄積させてゆく。

 撒き餌にした情報が、この後のやり取りの中で効いてくるはずだ。


「もういいわ、私が書類を取りに戻るから。ここで待っていなさい。すみません、お見苦しいところを。私がすぐに書類を取ってまいりますわ。馬車においてありますので」

「構いませんよ。お待ちしています。詰め所に戻っています」


 シルヴァンとパッレは二人きりで監獄内部の詰め所に戻り、取り残された。

 看守はエレンについていった。

 しおらしい顔をして師を待つ弟子を演じているパッレに、シルヴァンは嘲りの口調で話しかける。


「帰ったらきつい説教かな。お前さんの上司は気が強そうだ」

「仰るとおりです」

「だがそれがいい、かわいいもんだ」


 シルヴァンの態度から、エレンのことが好みなのだろうということは一目瞭然だ。

 かかった、とパッレはほくそえむ。彼は僥倖を逃さず、迷わずエレンを囮に使う算段だ。

 パッレはエレンにこき使われることに辟易しているといわんばかり、項垂れてみせる。


「叱責は日常のことですので慣れています。私が悪かったのですし」

「下働きは苦労するな。もっとも、俺も冴えない毎日だが」


 筆頭宮廷薬師を目の前にして下働きなどと言えるのも、世情を知らないシルヴァンぐらいのものであろう。

 しかし彼の世間知らずぶりは好都合だ。


「監獄病院の勤務は何かとご苦労が多いでしょう。ご多忙でしょうし」

「なあに、忙しいものか。職員の診察と、たまに傷病兵が来るぐらいだ」


 どんなに忙しくとも午後からは暇を持て余す。

 酒も飲み飽きたし娑婆にも出たいとのこと。


「お前と代わりたいぐらいだ。あんな美女と働けるならご褒美ってもんだろ」

「私の師はあの通り、気が強いですよ……」

「すぐに分からせてやるさ。もう神術もないんだから、一発殴ってやればいい。あと何十年もここの野郎どもに瀉血や浣腸をする仕事は飽き飽きだ」

「私は瀉血や浣腸は嫌いな処置ではありません。もし、私とあなたの職場を交換できたら丸く収まりそうですね」


 パッレは弱みを見せながら軽く誘惑を始める。


「そうだな。でも、お前は娑婆に出られなくなるが」

「それはいっこうに構いません! 街では元貴族を狙った犯罪が増えてきて物騒で、明日は我が身です。命の危険があるよりはましです」


 パッレが怯えてみせると、シルヴァンは同情したようなそぶりだ。


「まあ、俺は平民だからそういう心配はないんだが」

「監獄内は安全でしょうし、忙しくないということなら願ったりかなったりです」

「与太話のついでに聞いてみるが、仮に職場を交換できるとしたらお前のところの給金はどのくらい出る」

「ざっとこのくらいです」


 パッレはハンドサインで適当な金額を提示する。

 パッレは世界薬局の従業員ではないので給金など知らないが、シルヴァンの翻心を促すぐらいに調整する。シルヴァンは予想以上の反応を見せた。


「そんなにか! とんでもない高待遇じゃないか。お前何でそんなに貰っていて不満なんだ。俺のところはこのくらいだ」


 監獄医は公職でありながら想像以上の薄給だった。

 それもそのはず、ヴァスティーユ監獄は表向き囚人もおらず無人ということになっている。

 人員配置に大した予算がついていないのだ。

 そんな待遇では職業意識もなくなるだろうとパッレも同情する。


「住み込みなら出費がないでしょうから十分ですが、都合よく交代なんてできませんよね」


 パッレはあからさまに落胆してみせる。

 今日は揺さぶりをかけるだけで十分だ。話が急すぎてはいけない。

 エレンが戻ってくる直前に、シルヴァンはパッレに告げる。


「どうすれば交代できるか知っているぜ」

「お話、詳しく伺っても」


 シルヴァンは下卑た顔で囁く。

 そして素で悪役顔が得意な男、パッレも邪悪な顔でにやけ返した。


「…………と監獄長に言って辞めちまえばいいんだ」

「それは名案ですね」


 ――その二人のやりとりを、扉の外で伺っている者がいた。


 ◆


 5月14日、夜。

 ファルマは独房のベッドに横たわり、世界薬局のスタンプのある薬の調合方法を示した説明書を一番の少女に掲げて見せてもらっていた。

 拷問官と取引したとはいっても、彼は相変わらずベッドのフレームに両手を繋がれていた。拷問官がファルマをどうしたいのか、よくわからない。

 とにかく麻痺で動けないとはいっても信用されておらず、一番の少女と結託して自由にはさせたくないのだとは読み取れた。

 ファルマは説明書を読むのに集中していたが、一番の少女はファルマの体に視線を配っている。

 ファルマが気づくと、彼女はファルマの肩をこするように撫でてみたり、息をふきかけて磨いてみたり、軽くペシペシと叩いてみたりしていた。

 呆れているファルマに構わず夢中でやっているので、ファルマは一応声をかける。


「あの?」


 一番の少女は恥ずかしそうに手を引っ込めた。


「ご、ごめんなさい。何かの刺激になってあれが出てくるかと思って」

「ああ、あれはそういった接触刺激で出現するものではありませんよ」


 薬神紋はファルマが落雷を受けてから人間に戻るその日までずっとあったし、ずっと発光していた。

 だから消えてほしいときは化粧をするしかなかったし、出たり消えたりするものではなかったのだ。


「やっぱりあれ、完全になくなったんですね……だから、あなたともあろう方がこんな目に」


 一番の少女は落胆する。

 断定をしてこそいないがその言葉を聞いて、彼女がファルマの正体を知っていたのだなと気づく。


「あったほうがよかったですか」

「……はい」

「ごめんなさい。手放さなければならない事情があったのです」


 ファルマは申し訳なさそうに告げる。

 ファルマの選択は間違っていなかったはずだが、ひどい目に遭わせてしまった彼女には謝らなければならない。


「そ、それもですがお体のお具合が。その怪我……きちんと手当をしないと」

「問題ありません。そのうち治癒します」


 今日は水責めで長時間汚染された水に浸けられていたので、感染が進んでいる。

 一番の少女は気が気でない様子だ。


「強がらないで下さい。昨日拷問で切られたところが膿んでいませんか。このままだと肉が腐り落ちて……何をすればいいか言いつけてください」


 ファルマには拷問官にやられた全身数十か所の刺し傷がある。

 不幸中の幸いで痛みはないが、一日経って発熱が始まっていた。細菌感染が進んでいる証拠だ。

 さらには昨日、ある目的のために蛍光を発した蛍石フローライトを傷に埋め込んだことにより、傷が悪化している。


「心配してくれてありがとう。私なら大丈夫です。治療は自分でしていますので必要ありません」


 彼がそう言えるのはただの強がりではなかった。


「何が大丈夫なんですか。もう、ただの人間なんですよね。死ぬんですよね?」

「そうとも言い切れませんよ」


 相応のダメージと引き換えに、まもなく彼の体は敗血症になるより前に人体のそれを逸脱しはじめる。だがファルマは彼女に説明しない。情報は切り札となるからだ。


「それより、早くここを出ることを考えましょう」


 ファルマは話題をそらす。


「まず、その説明書の解読から」

「解読?」


 説明書の筆跡はエレンのものとわかる。

 ファルマが監獄医に書かせた秘密のコードを支店の薬剤師が読み解いてくれて、本店確認になったのだ。

 エレンの説明書は一見何の変哲もない書類に見えるが、最後の文字が不自然に滲んでいる。

 世界薬局では通常、全ての書類に対して水で滲むインクを使っていない。

 水没対策のためだ。

 そのような運用をしているのを知っていたファルマからすれば、敢えて滲むインクを使っているということは、何かのメッセージが隠れているようにしか見えない。

 ファルマは返事をする前に上階の拷問部屋につながる鉄格子の上から滴る水滴を見上げた。

 水滴は滞ることなく落ち続けている。

 ということは上階で聞き耳をたてている者はいないはずだ。

 一番の少女はファルマが空腹から放心状態になっているように見えたのか、心配そうに伺う。


「お腹空いてるんですよね。粗末な食事でも何か口に入れませんか。もう二日も何も食べておられません」

「すみませんが、空腹でいるべき理由があります。水さえ飲んでいればあと数日は耐えられます」

「本当に、無茶ばかりして。何を考えているの……」

「どうやら今は盗聴されていないようです。今のうちにやりましょう」


 念のため盗聴されてもよいよう、彼女の耳元で囁いて会話を行う。


「あなたにお願いがあります。この紙を水に漬けてください」

「でも、調合の方法が記載してありますのに台無しになりませんか」

「調合方法は私の頭の中にあり、記憶する必要はありません。水性のインクを消して真のメッセージを読みたいのです」

「やってみます」


 ファルマの説明によって一番の少女は意を決したように説明書をバケツの水に漬ける。

 すると、ファルマの目論見通り殆どの文字が滲んで消え、耐水性のあるインクで書かれた文字のみ浮かび上がる。

 一番の少女は震える手でファルマに説明書を見せる。


「なるほど。手が込んでいる」


 ファルマとエレンにかかっては隠れて暗号をやりとりすることなど造作もないのだが、用心深いエレンはモールス暗号に加えてさらに数字暗号を使っている。

 送る相手がファルマでなければ、エレンは二重暗号など使わなかっただろう。

 ファルマの頭脳に対する信頼の裏返しなのだろうが、囚われの身の相手に対してまったく容赦ないな、とファルマは苦笑する。

 エレンのメッセージはこうだ。

 誘拐された即日に捜査犬によってファルマの誘拐先を突き止め、ファルマが監禁されているおおよその建物の位置を掴んでいること。

 ノアが監獄内の捜査令状をとったこと。

 明日にでも捜査に踏み切り、発見できなかった場合はノアが監獄内部に潜入しようとしていること。

 パッレが監獄医をたぶらかしこの誘拐事件の全貌を暴き出そうとしていること。

 最後に、ファルマの無事を祈っていると。


「さ……さすが、あなたのお仲間はやり手ですね。あなたは有名ですが、同僚も凄いとは思いませんでした」

「ええ、彼女はいつも最高の仕事をしてくれます」


 ファルマは緊張感を保ちつつ、少し感傷に浸ってしまった。

 エレンをはじめ、周囲の人間にどれほど心配をかけてしまっただろう。

 彼らにはどうか安全な場所にいてもらいたい。

 できれば独力で解決するつもりだったのに、処方箋を送って巻き込んでしまった。


「この紙はこのまま水に漬けておいてください」

「では、溶かしてしまっていいのですね」


 看守に内容を読まれてしまわないよう、紙を溶かす必要がある。

 ファルマは動けないので、手のひらサイズのメモに一番の少女にエレンへの返事を書き取ってもらう。

 書き間違いがあってはならないので、モールス信号ではなく、エレンの知っている数字暗号を使う。

 そうすると少女は数字の意味がわからない。

 書き終えたら、読み上げてもらって間違いがないことを確認する。


「これできっと伝わるでしょう」

「この返事をどうします?」


 ファルマは盗聴を警戒して無言で独房の天井付近に備え付けられている換気用窓を示した。


「あそこ? 無理です」


 一番の少女は全力で首を振る。

 あんなところまで登れない、というジェスチャーをしているのだろう。

 ファルマはその必要はないとベッドのフレームにゆるく結んである糸を示す。

 これをたぐって手紙を外に落とし、格子に絡んだ糸を抜けばいいのだ。

 糸を切って回収してしまえば証拠も残らない。


「すごい……一体どうやってあの高さに糸を?」

「こうやって」


 ファルマは蛾の走光性を利用して実行したと種明かしをする。

 一番の少女はファルマに蛾を操る能力があると錯覚したらしく、目を丸くしている。


「驚きました。でも、外には大きな堀があります。手紙が掘に落ちてしまうのでは……」


 一番の少女はこの監獄が堀に隔てられ、孤立していることを懇切丁寧に説明してくれるが、ファルマもバスティーユ監獄の構造は把握していた。


「私は以前から通信網を整備するために帝都中の主な施設の風向きや風力を観測してきました。たとえ堀に阻まれていたとしても計算通りの時間に放てば、大通りに落ちるはずです。私が夜間にやっておきますよ」


 一番の少女はほうっと安堵の息をつく。


「私は手も足も動くのに、ここから出ることを諦めていました。あなたはそんな状態になっても諦めなかったんですね。あなたが危険を顧みず立ち回ってくださったから、一時的とはいえど誰も拷問を受けなくてすむようになりましたし……少しだけ、希望を持つことができました」

「お礼なんて言われる筋合いはありません」


 ファルマは少女の言葉に負い目を感じていた。


「もしこのまま私達が死ぬようなことになっても、本当に感謝しています」


 何故なら彼がここで三度死亡したところで、彼の人生は終わらないからだ。

 一番の少女が買いかぶってくれているほどに、ファルマは強い人間でも聖人でもない。

 どちらかというと卑怯な人間だ。

 そう、何より自分自身が自覚している。


 ファルマ・ド・メディシスと薬谷 完治は二体で一対の管理者だ。

 この世界の意思決定を行っていた記憶の集合自我を支配し、地球側からの観測を介してこの世界の次元を繰り下げ、情報を自在に扱うことができる。

 ただ、今は権限を放棄している。

 権限の再取得を宣言した時点で肉体を失い、そこでファルマ・ド・メディシスとしての人生が終わる。

 そうすれば誰も死ななくて済むのに、そうしないから彼らに割を食わせている。

 ただ、これ以上誰かがファルマのために犠牲になるのは許容できないし、あってはならない。

 だからファルマは奥の手を使うことになった。


「ごめんなさい、困らせてしまって」


 少女はファルマが悩んでいる様子を見て気が咎めたか、話題を戻す。


「一つ不安があります。これを大通りの通行人が拾ったとして、世界薬局に届けてくれるでしょうか。もし、衛兵や看守が拾ってしまったら……」

「それは心配ありません。誰であっても届けたくなるようにします」


 書いた手紙を折ってもらい、表書きにある一言をしたためてもらった。

 これを誰にも見せずに某新聞社のある人に持っていけば秘密の報酬がもらえる。

 身元は問われない。少女はなるほどと頷く。


「確かにこう書けば持って行ってもらえますし、薬局との関係も疑われませんね。しかし、新聞社との話はついているのですか?」

「はい。日頃からそうして情報をやりとりしているので」


 ファルマは視線で頷く。ファルマの懇意にしている新聞記者には予め伝えている。

 一番の少女は安心したような顔を向け、ファルマのベッドの下を漁る。


「そうだ、例のものを用意しておきました」

「ありがとう、助かります」

「新聞は古新聞しかなかったのですが、それでもいいですか?」


 資材置場から調達できたくず紙の中に、新しい新聞はなかったとのこと。


「構いません。過去の記述からでも情報は得られますので」

「何を知りたかったのです?」

「新聞の一つ目の用途は、あるものを濃縮するのに使います。もう一つの用途は情報です。3ページを開いて下さい」

「天気予報……?」


 一年も前の天気予報を見てどうするのだろう、と思われたことだろう。

 ファルマは間をおかず答える。


「用があるのは潮汐表です」


 少女の口がぽかんと開いた。

 数日分の潮汐表を見、さらに天候や季節を考慮に入れれば潮位の周期の近似値を割り出すことができる。

 脱獄は必ず満潮の時刻を狙わなければならない。

 さらに言うなら10日以上先で、18日以内の決行でなければならない。

 10日待たなければならないのはファルマの事情。

 18日以内というのは、次の囚人が来るまでのタイミングだ。

 チャンスはほぼ一度きり。これに失敗したら次はない。

 さらに、この日を狙ってある事件を起こす必要がある。

 やるべきことは多い。

 一番の少女はファルマが真剣な様子で考え込んでいるのを見て、感心している。


「……あなたが何を考えているのか、私が聞かないほうがうまくいく気がします。たしか一人ずつ囚人を呼んで調合をするのですよね」


 調合のために独房に招く順番はファルマが指定し、拷問官に伝えている。

 その順番にも意味がある。


「拷問官に渡す薬の調合はどうすればいいですか?」

「実は既に服薬できる状態で持ってきてもらっているのです。秤量だけはこちらでやるということにしています。それだけでも、目的には事足りますから」


 ファルマは早速、一番の少女に口頭で指示しながら脱獄のための作業を割りあてた。

 胃酸から抽出した塩酸を新聞紙に吸収、水分を蒸発させることによって濃縮してもらう。

 1リットルにもなる大量の胃酸はファルマがひたすら吐いて貯めていた。

 彼は0.1mol/L程度と推測される胃酸の濃度を希釈せず保つためにずっと空腹の状態を維持し、ときに食物ではない異物を胃に入れて分泌を促進していたのだ。

 安全に作業を進めてもらうために注意をして、濃縮した塩酸をファルマが隠し持っていたカテーテルの中に入れて入り口を閉じ、蛍石を砕いてガラスの小瓶に入れるところまでやってもらって、一日目の作業を終えた。


 何のための作業をしているのか、一番の少女は知らない。

 これから会う囚人たちの誰にもその計画の全貌を明らかにしないつもりだ。

 計画を全員に伝えてしまったら、逆説的に全員が用無しになる。

 全てを秘めておくことで、彼は全員の命を守ろうとしていた。


(答えを知らなければ。誰が裏にいて、何をしようとしている)


 そのためにも、生きてここを出て、その目論見を止める必要がある。


 ◆


 15日、朝。

 ロッテは大統領府の旧宮廷工房のスペースで、絵画制作に没頭していた。

 一筆一筆に魂を塗り込めるように、キャンバスに筆を置いてゆく。

 脇目も振らず没頭するロッテに、弟子も声をかけられないでいるようだ。

 思考を埋めてくれる何かをしていなければ、どうにかなりそうだ。

 彼女が宮廷画家として務めていた旧宮廷工房はというと、聖帝が廃位した後も文化財保護のためにまだ存続していた。

 大統領府内の美術工芸品は依然として必要とされていたし、迎賓や外交のための美術品が求められたからだ。

 ロッテはファルマの失踪の報をパッレから受け取った後、一睡もできず、とても仕事をする気にはなれなかったが、「周囲に怪しまれないよう、スケジュールを変えるな」というパッレの忠告に従い宮廷工房に出勤していた。

 彼らの計画の足手まといになりたくなかった。

 そのパッレも、実の弟が誘拐されたにも関わらず何食わぬ顔で大統領府に出勤している。


(セシリア様は難を逃れて、ファルマ様はバスティーユ監獄に監禁されている。聖紋に似た痣や傷を持つ人が次々に誘拐されているだなんて。一体何が起こっているの……)


 この件に関しては、何も考えずエレンとパッレに任せるべきだ。

 ロッテにできることは何もない。

 ロッテが下手に動けば、緻密な救出計画を立てているであろう彼らに迷惑をかける。

 気づかないふりをするほかにない。

 集中していたのか、ロッテは午前の間にいつもの三倍ほどの速さで成果物を生み出した。


「お師匠様、今日は集中しておられますね」

「そ、そう。今日は筆が乗っちゃって」


 弟子も驚くほどだ。

 休憩時間、工房のガラス越しにロッテがぼんやりと外を見ながら物思いに耽っていると、書類ケースを片手に中庭の回廊を小走りに渡るパッレを見かけた。


(パッレ様、お急ぎみたい。何か動きがあったのかしら)


 追いかけて状況を伺おうかと思ったが、思いとどまった。

 パッレの後ろを、怪しい男が回廊の柱に隠れながら一定の距離を保って歩いているのを見つけたからだ。男はパッレに追いつける距離であるにも関わらず声をかけず、あとをつけているように見える。


「何……? 誰?」


 男は特に特徴のない黒い帽子を目深にかぶっており、顔が見えなかった。

 外套を脱がれてしまえば身体的な特徴は特に無い。

 このままどこかで待ち伏せされてパッレの身に危険が及ぶかもしれない。

 すぐにパッレに危険を知らせ、並行して男の正体を突き止める必要もある。

 だが、今パッレに直接知らせると尾行している者に気付かれてしまう。

 パッレは宮殿内に入り、男は壁に身を寄せてパッレを窺っていた。

 何か……何か身元を特定できる方法はないか。


(……そういえば)


 ロッテはファルマのやり取りの記憶を思い出す。

 彼女は昔から好奇心旺盛だったので、彼が少しでも珍しいことをしていれば何でもファルマに聞いていた。

 ファルマは面倒くさがらず、学のないロッテにも理解ができないと見切りをつけず、丁寧に説明をしてくれた。

 そうすることでロッテの好奇心はいつも満足した。

 少し鬱陶しがられたとしても、何もかも聞いておいてよかったと思う。

 犯人がその場にいなくなっても、身元を特定する方法があったはずだ。

 彼女は怪しい男が窓ガラスに素手で触れていたのを見逃さなかった。


(証拠をおさえなきゃ。ガラスを割り抜けば……)


「少し離席するわね」

「お師匠様!?」


 ロッテはパッレを追わず、チゼルというノミのような画材を持って中庭に向かって走り出した。

 その場にたどり着くと、背後を気にしながらガラス窓を調べる。


(あった)


 男が触れていた部分には複数の指紋が残されている。

 別の宮廷人の指紋がそこにあったとしても、宮廷にいない不審者を見つけることはできる。


(よかった、証拠になりそう)


 ロッテはチゼルで指紋のある部分を割り抜こうとしたが、メロディの作った割れないガラスで作られており衝撃にもびくともせず、傷つけることすらできなかった。


(さすがは、メロディ様。硬すぎる。私の腕力で壊すなんて無理……!)


 メロディの神術は失われても、彼女の残した技術はロストテクノロジーとしてまだ残っている。

 ロッテはあらためて尊爵を冠していた彼女の技術力を思い知る。

 ロッテは指紋のある範囲に目印をつけるために、一見装飾に見えるようなマーキングを施した。



 ロッテはパッレが移動するタイミングで医薬大に赴き、パッレ、エレンと合流し危機を伝えた。

 三人は密談の場として入った会議室の扉とカーテンを締め切って、盗聴を警戒する。


「俺に尾行か……早いな」


 パッレは舌打ちをするが、驚いてはいない。


「尾行されることを想定されていたのですか」

「ああ。だがもう少し時間が稼げると思っていた。よく見ていてくれた、シャルロット」

「い、いえ。顔や行き先も見ていればよかったのですが」

「深追いは禁物だ。ここから先は、自分の身を守ることを第一に考えろ」

「昨日、監獄に薬を届けるときにパッレくんは偽名を使ったのだけど、早速今日身辺調査が入ったのね」


 これほど早々にバレてしまうとは、とエレンは額を押さえる。

 監獄に潜入するために監獄医と接近したのが仇になった。

 パッレは早速、大統領府にいる信頼のおける弟子に、ロッテがマーキングした指紋を取ってこさせる指示を出した。


「監獄医が監獄長に何か言ったのだとしたら……ただの身辺調査ではないかもしれんぞ」

「大統領府に手を回せるとは、誰にしろ敵は思ったより権力を持っているわね」


 エレンの言葉に、パッレも腕組みをする。

 返す返すも、帝国医薬大内部にも潜入を許してしまったのは痛恨だった。


「どちらにしろ俺がパッレ・ド・メディシスだと知られたのだから、俺は消されるな。何しろファルマを誘拐した相手だ。エレオノール、俺とともに監獄を訪問したお前も危ない」

「そうね。やられる前に、犯人を捕まえないとね。ロッテちゃんは顔を見られていないのよね」

「はい。私はパッレ様に接近しませんでしたので」

「そう、ならよかった」

「エレオノール様もパッレ様も、お強いですね」


 この状況でもロッテを心配してくれるだけの余裕があることに、ロッテは驚く。

 エレンもパッレも恐れるどころか、飄々として落ち着いていた。

 ロッテの言葉に、エレンはふっと微笑む。


「だって私達、昔は悪霊と戦っていたのよ。相手は人間だもの。何も怖くなんてないわ」

「だよな。見くびられたもんだ」


 パッレもエレンに張り合って強がりのようなことを言う。


 ほどなく、パッレの弟子が戻ってきた。

 パッレとエレンは弟子の取得した「粘着テープに写し取った指紋」と、筆頭宮廷薬師であったパッレが保管している大統領府職員の全医療同意書の署名に付着した指紋を照合させるべく、医薬大の科学捜査に回した。

 用心をしてパッレの名を出さず、弟子の名で依頼をさせた。


 残された指紋からパッレの後をつけていた人物の素性がわかったのは、翌日早朝のことだった。

 ファルマを慕っていた技師らが夜を徹して作業をしてくれたという。


「こんなに早く判明するなんて。これもファルマくんの人望ね」

「ああ。しかしこれは予想外だったな」

「どうするの、これ」


 エレンとパッレは失望を隠しきれない。

 なぜなら、指紋の持ち主は、現職大統領ジュールの側近だったからだ。


 何故、神術の恩恵を受けることのなかった平民が聖紋を求めているのか。

 神術を復活させようとしているのか。その逆なのか。

 謎は深まるばかりだ。


 もし、この事件の背景に大統領がいるとすれば。

 もはやこの国の誰の手にもおえそうにない。


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