3話 8+1人の囚人 Neuf prisonniers
5月とはいえ、バスティーユ監獄の独房で過ごす夜は冷える。
上掛けは与えられているが薄く、防寒性能は低い。
それでも夜間の間に、ファルマはできる限りの備えをした。
壁面の漆喰を削り、削れた粉を皿に入れてオイルランプで炙り、焼石灰にする。
炙ったものを唾液とまぜて捏ねると、漆喰は粘土状に戻る。
自身の着衣から糸を引き出し、短い糸を結んで長くなるよう繋げておく。
消灯後に灯っていた独房のオイルランプの明かりに誘引されて外からやってきた大型の蛾をとらえて、蛾の体に先程作った糸をつけた。ファルマはこのあたりに夜間に走光性のある蛾が生息して、夜間に煩わしく飛び回っていることを知っていた。
オイルランプを消灯することで一度外に蛾を飛び立たせ、格子の外に出たタイミングで再びオイルランプを点灯させると蛾は糸を一度格子に絡めつけて走光性により室内に戻ってくる。
こうすることで、ベッドの上から動けないファルマと格子をつなぐ連絡路を確保することができた。
糸を二重にしてメッセージを結びつけ、それを手繰って操作すればいつでもメッセージだけを監獄の外に落とすことができるが、メッセージを書く紙や布がない。
夜間の作業は一旦中止。
(ここであれを使うことになるか……)
ファルマは葛藤を飲み干して、大腿の傷に埋め込んでいた八角形の結晶……蛍石を取り出す。
蛍石をオイルランプの炎で炙り、蛍光を放ち始めた蛍石を自身の傷に戻す。
蛍石が体内で特定波長の蛍光を発することによって、ある不可逆反応を生み出す。
(成功していてくれ。時間があまりない)
そして明け方六時の鐘が鳴ったとき、反響定位を用いてファルマは自身が監禁されている座標を把握した。
自身がバスティーユ監獄の内部のおおよそ何階にいるのか。
周囲の地形も、見張りのいる塔も詰め所も手にとるように思い出せる。
10歳以前のファルマ・ド・メディシス、10歳以降は東京の薬谷 完治として育った彼は、この世界でも非常に珍しい完全記憶能力を持っていた。
今、彼の体は二つの人格の記憶を持ち、薬師見習いとしてブリュノとともにこの監獄に同行したときの記憶もある。
バスティーユ監獄には8つの塔があり、内部は八角形になっている。
ファルマのいる場所は、彼の知るバスティーユ監獄ではない。
ここは隠し部屋か何かだ。大まかな場所はわかった。
日が房内に差し込みはじめたころ、ファルマの世話係の“一番の少女”が独房内に入ってきた。事前通告通り、朝食はないようだ。
「おはようございます。昨夜は吐きましたか?」
ファルマが吐くと言っていた皿の中が空だったので、疑問に思ったようだ。
「吐き気はおさまりました」
少女の後ろから拷問官がついて独房に入ってくる。
ファルマの様子に変わりがないことを確かめると、「支度をしろ」と言い残し部屋を出ていった。少女はファルマの身支度の介助をする間に、小声で話しかける。
本来、囚人同士の会話を看守や拷問官に聞かれてはまずいのだろうが、看守は少し離れた場所にいたし、拷問官はこの少女を侮っていて特に警戒していなかった。
「今朝、囚人が一人いなくなり、あなたは9番になりました」
「殺されたんですか?」
「自殺か拷問死、病死だと思います。何番がいなくなったのかは分かりません。でも房があきました。私が接触できるのはあなただけなんです」
ファルマが何も吐かなかったから、身代わりに誰かが殺されたのだろうか。
自身がもと薬神だと認めていればよかったのだろうか。
その死を止められたのではないかと、ファルマは動揺しつつ自責した。
そして、房が空いたということは早めに追加が来るかもしれない。
「拷問官は一人ですか?」
「一人だと思います」
「ありがとう。あなたはどこにいますか?」
「地下房です。ここの真下」
「わかりました。私の左手を見て。さりげなく」
ファルマの左手には、胃液で赤血球を溶血させた薄い血文字でメッセージが書いてあった。少女は内容を読むと、わかったというように頷く。
もし今日少女に見せる機会がなければ、ファルマはいつでもメッセージを消すつもりだった。
唾液をつけておいた右手で撫でると、メッセージは消えるのだ。
「できそうですか」
「やってみます」
「ありがとう。ベッドの下はもう久しく掃除されていませんね。準備したものをベッドの下に置いて下さい。それができたら、あなた方を助けられる」
ベッドの下を撫でるとかなりホコリが溜まっていたので、ファルマはそう判断したのだ。
少女ははっきりと頷いて房の外に出ていった。
すれ違いで、拷問官が戻ってきた。
拷問官は昨日と同じように覆面をしたままファルマを見下ろす。
「昨日はよく眠れたか?」
「おかげさまで」
ファルマは挑発を受け流し応じる。
男は相変わらず頭巾をかぶっているが、声から察するに昨日と同じ男だ。拷問官は一人という情報に信憑性が出てくる。
「お前は痛みを感じないそうだが、窒息しても平気なのか? 返事はいい。体に聞いてみる」
拷問官は持ってきた砂時計をひっくり返すと、返事を待つ間もなくファルマの首を締める。
ファルマは抵抗を諦めて力を抜く。
首に食い込む男の手がやたら熱く感じる。
砂時計が落ちきったとき、男は手を離す。
そのときファルマは男の掌に、特徴的な発疹をみとめたが、気づかないふりをする。
「苦しそうだな。効いてるじゃないか」
男はまだ呼吸の荒いファルマの頭に袋を被せ、外で待機している看守二人を呼んだ。
顔を隠したのはファルマの顔を看守に見せないためだろうか。
ファルマはその行為を不自然に思った。
「今日は水を飲ませてやろう。うんざりするほどな」
ファルマは看守二人に手足の手錠を付け替えられ担架のような板に乗せられている間に、計画通りに看守に対して二つの行動をひそかにとった。
次にファルマは担架で室外へ運び出される。
上階へ移動しているようだ。男たちの歩数を数える。
ファルマを担いでいた看守たちが足をとめた。
ファルマは担架から担ぎ上げられると、金属の檻のような狭い場所へ押し込められ、看守が去ってようやく拷問官に目隠しをとられた。
そこは拷問部屋だった。
(なるほど……真上か)
部屋の格子窓から見える雲の形が、先程までいた独房の格子から見えていたそれと全く同じであることと、ここに来るまでにかかった秒数、歩数と照らし合わせて、ファルマのいた独房の真上だと推測する。
部屋の中央には石作りの水槽があり、水栓から水が注ぎ込まれている。
天井からは鉄格子の檻が吊られており、ファルマはその中にいた。
水責めが始まるのだと否応なしに理解できた。
独房に落ちてきていた水滴は、拷問部屋の水配管からのリークだったようだ。
相変わらず、拷問官は一人。
拷問官は檻をゆっくりと揺らしながら尋ねる。
「知りたいことは二つだ。聖紋のありかと、神力を得る方法。一応聞いてみるが、吐く気になったか?」
「知らない場合はどうすればいい」
「すぐに思い出す。俺が手伝ってやろう」
もう何人に聞かせたともしれない、慣れた口調だった。
「人は普段、自分がどれほど息をせずにいられるか意識する機会がない」
拷問官は滑車のレバーに手をかけながら説明する。
「普通は60秒、我慢できれば120秒。200秒を越えると気絶するか死ぬ。お前はどのくらい耐えられるかな」
「……」
ファルマは恐怖を押し殺したふりをして沈黙する。
その反応に確信を得たらしい拷問官は、饒舌に話を続ける。
「お前は新入りだから、30秒から始めてやる。時間になったら一度ずつ引き上げて、それからは10秒ずつ追加する。もし計算ができるなら何回で限界がくるか、よく考えるがいい。言う気がないなら、もう喋らなくていい。さあ息を大きく吸え、10秒後に予行演習だ」
レバーを引く音が聞こえたかと思うと、ファルマが息を吸う間もなく檻ごと完全に沈められた。10秒後と言いながら、3秒と待たなかった。
慣れていなければしこたま水を飲んでしまっただろう。
質問にはすぐにでも答えることができるが、最初からは脅迫に応じない。
30秒が経ったのか、ゆっくりと引き上げられる。
「まだ余裕がありそうだな。言う気になったか」
「本当に何も知らない。それより、麻痺があってうまく息ができない」
「結構。そのほうがこちらは捗る」
ファルマには狙いがあった。
それはこの拷問官の時間を終日、自分一人に割かせることだ。
拷問官が一人しかいなければ、ファルマが時間を使えば他の囚人は尋問を受けなくて済む。
実のところ、水属性神術使いであるファルマは水責めに慣れていた。
ブリュノがファルマに施した水属性神術使いとしての最初の教育は、息の続く限り水に沈められる拷問だった。
そうして獲得したのは苦痛や窒息の体験だけではない。
どうやって息を長持ちさせ、やり過ごすかという塩梅も教わった。
そうしたブリュノの教育虐待の甲斐もあって水責めは苦にもならない。
適当に悲鳴を上げたり苦しむふりをしながら、拷問を午後まで引き伸ばす。
他の囚人の拷問は明日にせざるをえない時間帯になったら、少しずつそれらしいことを囀る。
洗いざらい全部話してはならない、今度はファルマ自身が用済みになってしまうからだ。
あくまで少しずつがいい。
数日あれば脱獄のための最低限の準備は整うが、切り札を使うために十日ほしい。
囚人全員を助けるには、誰がどこにいるかの情報が必要だ。
しかし他の囚人の情報は「一番の少女」には知らされていないし、彼女は他の囚人の顔を見てもいないときている。
ファルマは40秒と50秒の水責めをクリアした。
自分の限界は知っていた。その十倍だって平気だ。
息継ぎのために檻を引き上げられたついでに、拷問官に尋ねる。
「水責めはよく使うのか?」
「ああ、得意とするところだ。何か話す気になったか?」
「聖紋や神力を探しているのは誰だ? 神術使いを探して何をさせたい」
「……拷問官の仕事は指示どおりの情報を得ることだ。余計なことは詮索しない」
「その指示は誰が出している。この監獄には囚人は存在しないことになっている。つまりこの収監は違法だ」
素直に受け取れば、ファルマたちの誘拐を指示しているのは拷問官の上長、つまり監獄長だ。ファルマは時間稼ぎのついでに、少しでも黒幕に迫ろうと試みる。
「違法でも合法でもどうでもいい。監獄には監獄のルールがある。おしゃべりをしてだいぶ時間を稼いだな。次は80秒にする」
全く脅しになっていないが、ファルマは表情に出さない。
「もし私が知っていたらどうなる?」
「喋れば解放する。お前は俺の顔を見ていないし、外に出たお前が何か喚いてもこの監獄から証拠は何も出てこない。お前は晴れて外の空気を吸える。今日にでもな」
拷問官は勿体をつけて窓の外を眺め、ファルマの視線を誘導する。
すぐにでも出してやるといわんばかりだ。
「外はこの通りの陽気さ。お前も早くこんな場所からおさらばしたいだろう。さあ、答は出たか?」
「知らないものは知らない」
ファルマが吐かなかったので80秒から10秒ずつ刻みで、180秒の拷問を加えられた。のらりくらりとしながら順調に時間を使う。
そろそろ午後になったなとファルマは日照を見ながら推測する。
なかなか進展がみられないことに苛立ったか、拷問官は声を荒らげ始めた。
「やせ我慢も限界だろう、これ以上はいつ死んでもおかしくない」
「私の心配もいいが、お前こそ今日は切り上げて病院にでも行ったらどうだ? 発熱しているのだろう」
脅迫を続ける拷問官に、ファルマは違う角度から切り返す。
発熱しているという根拠は、男がファルマの首を締めていたとき、異様に手が熱かったからだ。
「他人の体調を気にする余裕があるとは恐れ入る」
「私を知らないか……もう少し顔は売れていると思っていた」
ファルマを知っていてくれれば話は早かったのだが。
しかしファルマが水属性神術使いであったことを知っていれば、水責めから火あぶりに切り替えられそうだ。
それはさすがに対応できない。痛みは感じないだろうが、火傷は負う。
「俺はこの十年以上、塀の外に出たことがない。お前が皇帝や大統領の息子だろうが、知らんものは知らんのだ」
旧帝都市民がファルマの顔を知らずにサン・フルーヴで暮らすのは難しかったが、この男が十年間監獄で働いているなら、ファルマの顔を知らなくて無理もない。
彼に面識がないほうが都合がよい部分もあるのだろう。
ファルマはそんな事情を知ったうえで、ひとつ忠告を授けておく。
「拷問官はよく怪我をするのだろう。囚人を傷つけるときは、血液感染に気をつけた方がいい。ときに深刻な病気をもらうことになる」
「後学にしよう」
「監獄医がいるのなら一刻も早く受診しろ。命にかかわるが治る病気だ。もし発熱に加えて腹痛や腹部、足の裏にも、痛みを感じない発疹があったら、自分の心配をするんだな」
ファルマは拷問官の手掌にバラ疹をみとめていた。
後天性の梅毒の可能性がある。
梅毒とはペニシリンが見つかるまでは、不治の病として恐れられていた。
「……」
ファルマには覆面の下の拷問官の動揺がはっきりと見てとれた。思い当たる症状があるのだろう。
ファルマの境遇はよそに置いて、男を気の毒だとは思うが、どうもしてやれない。
「何の薬が必要か教えろ」
「だから、監獄医の診察を受ければいい」
「監獄医は外科だ。長い付き合いだが瀉血や浣腸しかされたことがない。薬の名前を言え!」
ファルマはそれを聞いて落胆する。
各医療資格は刷新され、一定の技能のない者は資格を持てないはずだが、まだもぐりの医療者も多く、移行期間とあってその取締もグレーな部分が多い。
かつて無資格医や薬師の混在していた日本の明治初期の混沌たる状況を彷彿とさせる。特に高齢の医療者は、資格なしのまま生涯逃げ切ろうとしている者も少なくない。
「言っても意味がない。薬の名前を言って代理人が買える類のものでもない」
「たかが薬だろう。売らないとはどういう了見だ」
「世の中は変わったんだ。そういえば十年外に出ていないと言ったな。出られないのか?」
ファルマは先ほどの手がかりから拷問官の痛いところを突いた。
案の定、言葉に詰まる。
「私が言った通りに監獄医が処方箋を書けば、監獄に薬を届けてもらえるかもな」
「書けるのか」
「手は動かないが、口頭で伝えることはできる」
「では取引だ」
「私を含むここに囚われている全員の、無条件での解放が条件だ。それ以外は応じない」
ファルマは強気で断固とした要求を突きつける。
拷問官と囚人。
立場は圧倒的にファルマに不利ながら、すっかり取引はファルマのペースになっている。
「ふざけるな! そんな権限は俺にはない」
拷問官は危機に際し自身の職務を忘れ、保身に走っているように見えた。
「囚人の処刑には順番がある。新しい囚人が来るたびに、お前の順番を俺が最後にし続けてやる。お前はずっと息をしていられるというわけだ」
「それは呑めない」
「悠長にしていていいのか? お前も俺の血を浴びたからには、病気になったはずだ」
「今感染したとしても死に到るまで何年もかかる」
「俺はあとどれくらいもつ」
「……わからない」
拷問官に要求の全ては呑ませられない。
拷問官にも自己決定権はないし、そもそも拷問官という仕事も家業でやっているだけだ。
ファルマは逡巡したが、自らの信念にたちかえることにした。
調剤を取引の材料にしてはならない。
世界薬局は万民のための薬局だったはずだ。
薬は誰にでも渡す。それなら、別の取引をするべきだ。
「処方箋は教える。だがそれは完全ではなく、調合が必要だ。見ての通り私は動けない。だから今収監されている囚人全員の手を借りる。囚人はほかに何人いる」
「二人だ」
拷問官はファルマが知り得ないと思って人数を過少申告している。
ファルマは糾弾しない。少女からファルマへの内通がばれるからだ。
そこでこう述べるにとどめた。
「私は一人当たりに決まった作業量しか割り振らない。本当に囚人は二人か?」
人数が少なければそれだけ調剤が遅れることになる、と示唆している。
この一言で、囚人全員をファルマに面会させざるをえなくなったはずだ。
「八人だ」
拷問官から一番の少女の事前情報と同じ人数の回答を引き出した。
あとは被害者が追加されないことを祈る。
「その八人には今日から指一本触れるな。仕事をしないだけでいい、簡単だろう。もし日報があるなら、明日以降にこれを吐かせたと書いておけ」
「何だ」
「聖紋持ちも神力使いも現れない。なぜなら私が阻止しているからだ」
ファルマは拷問官にとって真偽不明な情報を与えた。
「私が世界から神力を奪い、二度と使えないようにした。私に何をしたとしても、神力が戻ることはない。だから、これ以上犠牲者を増やすな」
「お前……そんな方便を言ってまで無関係な人間を巻き込みたくないんだな。ここで俺が見てきたのは、自分が助かるために他人を陥れる奴らばかりだ。お前がこんな目に遭っているのだって、誰かに情報を売られたからなんだぞ」
拷問官はファルマの態度に思うところがあったのか、囚人全員の拷問を一時中止すると約束した。
◆
サン・フルーヴ市内18区、世界薬局レオン支店の店主をつとめるレベッカが、帝国医薬大のエレンを訪ねてやってきた。
世界薬局に勤務しているはずのエレンが不在だったので、わざわざ訪ねてきたのだ。
レベッカは店主となってから、以前より大人びた顔つきになっていた。
まだ、エレンたちは関連薬局にはファルマが誘拐された話をしていない。
「エレオノール様、バスティーユ監獄内病院からこれを受け取りました。どういうことでしょうか」
彼女が持ってきたものを見て、エレンとパッレは息を呑んだ。
それは外部からの処方箋だった。
患者は匿名。
エレンは身元不明者の診療や調剤を行ったことがあるが、基本的に身元確認は必ず行う。匿名での処方箋の発行は認められない。
処方箋の下部には監獄医のサインと、その横にある数字が記載されていた。
0001-01。
0001はファルマのグループ内でのID。
枝番の01は、本店に確認を要する処方箋という意味だ。
監獄医がこの暗号を知って、使用できるはずがない。
ファルマは書き物ができないので、誰かに書かせているはずだ。
下手に暗号を仕込んだと分かれば、ただでは済まない。
ファルマは監獄医に指示をして処方を書かせ、ギリギリ気づかれにくい暗号を仕込んだのだろう。
「ファルマ様のIDですよね、これ。患者も匿名ですし。そういえばファルマ様はどこに……?」
レベッカが不審そうにエレンに尋ねる。
かくなるうえは隠しても仕方がないので、エレンはレベッカに事情を打ち明ける。
レベッカはショックで動悸がしたらしく、苦しそうに心臓をおさえていた。
彼女は異世界薬局から暖簾分けして独立する以前から、ファルマの熱心な信奉者だった。
「ファルマくんはまだ生きているわ。ファルマくんが何をしようとしているか、処方箋から少し読み取れるわね」
エレンは処方箋から梅毒患者がいること、そしてファルマがそれ以外の目的で、治療目的を外れた複数の試薬を調達しようとしていることを読み取った。
これらの試薬で何をしようとしているのか、専門家のテオドールに聞けばもっと詳しい答えが出てくるだろう。
ただ、エレンがファルマを尊敬するのは、この状況下にあっても人を傷つける薬を欲していないことだ。
エレンなら、極限の状況にあれば正当防衛として敵を毒殺したり、麻酔薬で眠らせてしまおうという発想が一瞬は頭をよぎる。
しかし彼は誰も傷つけず、それどころか人を癒しながらに窮地を脱しようとしている。
守護神ではなくなった今でも、エレンは彼を英雄だと思う。
「どうしてそんなことになったのですか。一体何が目的で」
「私が聞きたいわ……分かるのはそこに梅毒の患者がいて、彼は治療をしようとしているということだけ」
「だな。にしてもファルマはわずか一日で監獄病院に手を回せたのか。あいつ今どんな状態なんだ? さっぱり分からん」
パッレがファルマの手際の良さに引いている。
この対応の速さだと誘拐犯を説得し平和に解放されそうな気もするが、そうでなかった場合、命に関わる。
「レベッカちゃん。薬の受け渡しはどうなっているの? 監獄が使いをよこすの?」
「いえ、こちらの配達で門衛に渡すよう指示されています。本日中に」
「監獄病院には入れない、門前払いってことね……私が届けるわ。ありがとう」
「よろしくお願いします」
人を一人誘拐しておいて、大手を振っては入れてもらえないか、とエレンは臍を噛む思いだ。パッレも悔しそうに拳をにぎりしめる。
「お使いだけして帰ってくるのか?」
「そうなるわね」
「中の状況が分からんから早めに監獄病院に潜入したい。監獄前で脚の一本でも折ればいいか?」
「あなたが骨を折るの?」
パッレは折るべき場所を見繕うかのように自身の左足を眺めている。
どうやら冗談ではなく本気のようだ。
「なあに。俺はあいつの脚や腕を何箇所か折ったことがある」
「そうね。忘れてないわよ、彼」
エレンはここぞとばかりにファルマの無念を代弁する。
「悪気はなかったんだが、悪いとは思っている。いつかチャラにしてもらわないとな」
「でもそれはそれでしょ。パッレくんが足を折ったとしても問答無用で医薬大に運ばれるわ。監獄病院は紹介状を持った軍属か傷病兵しかかかれないのよ」
「その紹介状は誰が書く?」
「軍医よ」
「だめだな、俺は陸海軍の軍医全員と面識がある。紹介状はもらえない」
筆頭宮廷薬師パッレ・ド・メディシスと、世界薬局DGのエレオノール・ボヌフォワだ。
顔が知られすぎている。
エレンとパッレはひとまず調剤をするためにレベッカと別れて本店に直行した。
エレンがパッレを連れているので、珍しいこともあるものだと本店の薬剤師たちの間に緊張感が走る。
エレンは処方箋にもとづいて調剤を行い、午後勤務のアメリと、終日勤務のラルフがシフトに入っていたので監査をしてもらう。アメリは朝が苦手で午前中は出勤できないので、エレンが配慮してうまくシフトを組んでいる。
最初こそラルフの反感を買っていたが、アメリがそのぶん夜間対応や残業をすることにしているので、二人は今ではうまくやっている。
「今日はレベッカ様がエレオノール様を探しておられましたが、会えましたか。お急ぎのようでした」
アメリが不安そうにしているので、エレンは安心させるように微笑む。
「会えたわ。その件で来たの」
「何かありましたか」
「大丈夫よ、アメリちゃん。仕事に集中してちょうだい、もうすぐ閉店だから」
「は、はい!」
調剤を終えたエレンは、セドリックに告げて売上帳簿を揃えてもらう。
セドリックは毎度のことながら完璧に帳簿をつけていた。
抜きうちの依頼でもさっと記録が出てくるのは、ありがたいとエレンは思う。
「何年前まで遡りますか。初取引の記録まで出せますが」
セドリックは何年でもどんとこいといった様子だ。
ルネも帳簿を調べるのを手伝ってくれる。
「とりあえず二年でいいわ。ありがとう」
集まった資料をひもとき、険しい顔をしているエレンの手元をパッレが覗き込む。
「何だそれは」
「うちが監獄病院に売った製品一覧よ」
「卸したばかりだ。ピカピカの新品で消費期限はたっぷりある。そして次の取引は二ヶ月後……その頃にはファルマは土の下だ」
パッレの容赦ない分析を聞き流しながらエレンはメガネを外し、頭をかかえこんだ。
「うっかり落として破損でもしてくれたらいいんだがな」
パッレの何気ない言葉に、エレンは手を打つ。
「……あるわ。すぐに全ての製品を入れ替えさせる方法が」
「戦争でも始めて負傷者を出そうってんじゃないだろうな」
「誰も傷つかないわ……世界薬局の信用以外はね」
「どういう意味だ?」
エレンの目が据わっているので、パッレは恐々尋ねる。
「リコールを出すのよ」
異世界薬局の創業以来、ファルマはどの製品も最高の品質で世に送り出す事を心がけてきた。
一度も不祥事を出さなかった。
ファルマがいかに安全な医薬品を供給することに心をくだいていたかを知っているエレンは、この決断に躊躇いがある。
「在庫の多いものから順に5つの製品を即時回収する。監獄医がどれを使い切っていたとしても、どれか一つはあるはず。ファルマくんの命と引き換えに、不名誉なネタで新聞の一面を飾ることになるわ」
世界薬局、製品の異物混入により創業初の緊急製品回収へ。
見出しはそんなところでいい。
のちほど謝罪会見でも開こうではないか。
製品名は出すがロットは伏せて、現地で世界薬局職員が直接確認、廃棄のため交換という手順にすれば監獄病院に入れるはずだ。
「大規模なリコール出したなんて知られたらファルマくんが泣くけど……」
「生きていたら泣かせろ」
パッレが言い返したところで、薬局の呼び鈴が鳴った。
来客だ。
営業時間は終わっている。
不審に思ったエレンとパッレが顔を見合わせ、用心しながらドアを開けてみる。
「誰もいない……怪しいわ」
エレンがそういったところで、真正面から声が聞こえた。
「ノア・ル・ノートルだ」
そう聞こえた途端、無人だと思っていたドアの前に青年がいたことに気づく。
エレンは驚いて悲鳴を上げる。エレンの視界に急に出現したにも等しかった。
「俺が声をかけるまで見えなかったか?」
「え、ええ」
「それは好都合だ」
ノアは薄く微笑んだ。
彼は新大陸で「影が薄い」体質だと自白していた。
彼から話しかけなければ誰にも見えないと言っていたが、まさか神術がなくなってもその体質が維持されているとは思わなかった。
個室で話がしたいというので、戸締まりを厳重にして招き入れる。誰かに聞かれてはならない。個室に入ると、すぐに本題に切り込む。
「ファルマは無事か?」
「……無事ではないわ」
エレンはノアには隠しても無駄と観念し、打ち明けた。
「やはりそうか。そうではないかと思った。こちらも色々あってな」
廃位したエリザベスは現在、出生名である、セシリア・ド・グランディユ (Cécilia de Grandieu)を名乗り、国民議会の議員として大統領府で執務している。
その大統領府への出勤時に馬車が狙撃されたというのだ。
幸いメロディ謹製の割れないガラスを用いた防弾ガラスが機能して怪我はなかったものの、メロディ製のガラスがなければ何があったか分からない。
報道規制が敷かれており、新聞には出ていないそうだ。
「狙いは何なの?」
「誘拐だろう。神殿が管理していた“選帝調査簿”と呼ばれる聖紋持ち疑いのリストが流出した。ここ数ヶ月で、リストに名前を連ねる者たちの中から、かなりの行方不明が出ている。奴らは聖紋を持つ人間を狙っているようだ。セシリア様も狙撃で馬車を止めて誘拐をしようとしたのだろう」
セシリアの足には火神の聖紋の一部があり、それは本物だった。
だからこそ彼女は破格の神力を得て、世界最強の皇帝にまで上り詰めたのだ。
しかし、リストには聖紋の真贋を調査中の者の名前も大量に含まれていた。
大抵の場合それは聖紋ではなく痣や火傷だったりするのだが、過去には聖紋の発現と守護神の顕現の時期がずれることもあり、慎重に調査が行われていた。
「それはいつ?」
「ファルマが誘拐された前日のことだ。勿論そこにはファルマの名前もあった。だからセシリア様に命じられて俺がここに来ている」
エレンとパッレはその話を聞いていればファルマの警備を手厚くしていたのに、と悔やむ。
「神殿関係者なのかしら」
「神殿関係者ならファルマの正体を知っている、他の聖紋持ちを探す必要がない」
「そうね」
「もと聖帝ほどの要人を狙った白昼堂々の犯行に、大統領府も懸念している。治安当局の沽券にかけて、次の国民議会開催までに犯人を逮捕し、背後関係を洗い出したい考えだ」
「セシリア様の御身は今はご無事なの?」
「とある場所にて保護を受けている」
旧聖帝も、神術による防御ができなくなった今ではただ過去に栄華を誇ったという経歴を持つだけの淑女だ。
本人は不本意でも、守られる以外に術はない。
「エレオノール、お前がファルマからもらった薬神紋は消えたのか?」
「消えたわ。ファルマくんが人間に戻った日にね。きれいさっぱりないの」
エレンは薬神紋のあったあたりの手首をノアに見せる。
彼女は薬神紋が消えたことに少し名残惜しそうでもあった。
ノアはそれを確認してノートに何か書き付けた。
「それは何よりだ。実はセシリア様の聖紋の断片もあの日を境に消えていた。お前の名前はリストにはなかったはずだが、しばらく身辺に気をつけろ。警護は足りているか?」
「ご忠告をありがとう」
「ファルマを救出したいのだが、大統領府に協力は仰げるか?」
黙って話を聞いていたパッレがノアに掛け合う。
「そういうことなら今日令状をとり、狙撃事件でバスティーユ監獄内にも嫌疑をかけ、明日にもそれを口実に内部の捜査をさせる。だが、もし監獄内部の人間による組織的犯行だとしたらそう簡単に尻尾は出さんだろう。だから、その捜査に乗じて俺が潜入し、しばらく内部にとどまる」
狙撃犯はまだ捕まっておらず、狙撃された可能性のある高い建物を片っ端から捜査しているそうだ。狙撃場所からは少し遠いが、馬車が監獄付近を通ったため捜査網を広げることはできるという。
エレンはノアの特異体質が万全ではないことを懸念したが、ノアは「あいつには借りがあるから」と決意は固い。
皆が皆、ファルマに借りがある。
「わかったわ。二手に分かれて中に入りましょう」
エレンはその日のうちに製品のリコールを公的に発表し、バスティーユ監獄の門番に依頼されていた薬を届けると同時のタイミングで、リコールの実施と製品入替えの要請の文言をつらねたハンドアウトを手渡すことに成功した。
あとは監獄医のレスポンスを待つ。
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