終話 Deux épilogues
本日は二話同時更新です。前ページがあります。
すぐ耳元で、何かのアラームがけたたましく鳴る。
薬谷 完治は電子音を懐かしく感じながら、ソファの上で目覚めた。
急に体を動かしたので、勢い余って端末が腹から滑り落ちる。
「ん……まぶし」
意識は清明で、最初に目に入ってきたのは現代的な天井だった。
その、天井の模様までよく見える。
光を遮るように掲げた左腕はほどよく筋肉が添えられ、腕時計がおさまっている。
軽い空腹を覚えながら、状況の分析を始める。
「そういう……ことか。予告通りだな。皆は無事かな」
アシスタントAIに時刻とニュースを読み上げさせる。
『西暦2048年5月28日 午後8時45分です』
(ということは)
地球時間のループを抜け、時間が進んでいる。
超えられなかった時間の切断面、その先にいるようだ。
無数の試行の末に、現時空に生存を許される結果に行き当たった。
はっとして手首を見ると、左手首に無造作に書きつけられたメモがある。
文字は反転しておらず、そのまま読める。
「あれ?」
薬谷は大きく息を吐くと、時計を右手につけなおす。
「左利きから右利きになって、左利きに戻るか。前の身体の持ち主は右利きと」
何回、世界が反転したのだろう。
以前の感覚とは異なっていて、ひたすらに違和感がある。
感覚を確かめながら立ちあがり、顔を洗ってペーパータオルで拭う。
鏡で自分の顔を確認すると、なんだか見慣れない。
肌つやよく、精悍な顔つきで、眼鏡もコンタクトもつけていなかった。
「視力……悪くないんだな」
ファルマ少年の身体に入っていて、肉眼での生活に慣れている彼は得をした気分だ。
窓際のシェードを上げ、窓の外を眺める。
空を飛び交う飛空車の群れ。
関東平野の空気の層が織りなす光のグラデーション。
漂ってくる生活音と喧噪、野鳥の鳴き声。
どれくらい時間が経っただろうか、ただ情報の洪水を五感で浴びて、放心して立ち尽くしていた。
地球文明をこれほど、咀嚼するように受容したことはない。
喉の渇きを覚える。
いつもの棚からインスタントコーヒーを探したが、そこにあったのは、以前の生活では見たこともない高級そうなコーヒー豆だった。
(おお、さすが貴族。豆をけちってないな)
フランネルもあったので、ありがたくネルドリップでいただく。
お湯をそそげば、ふわりと芳醇な香りがあたりに立ちこめる。
たっぷりと堪能して、白衣の胸ポケットから、何の変哲もない黒いペンを取り出す。
彼はふとペンを前に向けて構えてみる。
「水の槍……」
何も起こらない。
自らの体内に神力が残されていないことを確認しながら、それをデスクに置いた。
小学生時分以来の、必殺技を叫んだ直後の気まずさを味わう。
「なんてね!」
そこに誰もいなかったことを確認しながら、彼はふっきれたかのように潔く呟く。
モニタ横の写真立てには、ちゆの結婚写真がおさめられている。
彼女の隣には新しい伴侶と、両親もいる。
交通事故で亡くなっていた善治と良子は、この世界では健在のようだ。
「ファルマ・ド・メディシス」の言っていたとおり、「あの世界の続きの世界線」に接続していると知り、ひとまず安心する。
「さて、外はどうなっているのかな」
教授室のドアを開け放てば、廊下は外界へとつながっていた。
構内は学生や職員が、ぱたぱたと足早に通り過ぎてゆく。
気分を切り替えて、この場所に関連する記憶を思い出す。
実験棟の間取り、教員の顔、事務員の顔。
彼の受け持っていた学生たちの顔と研究テーマ。
過去半年分の、メールのやりとりを確認。
端末を取り出し関係各所への連絡を始める。
猛烈な勢いで作業に没頭していると、視界の隅で端末が振動しているのに気づいた。
端末を手に取ってみると、自撮りの動画とともに、妹のちゆからメッセージが届いていた。
『おにいちゃん。今日の夜、ごはんいかない? 今日はお父さんとお母さんも一緒!』
「いいね、家族団らんか。話すことも知りたいことも無限にある」
今日のところは両親に感謝を伝え、妹の結婚を祝福し、ゆっくりと食事をしよう。
念願叶うまで長い月日を要した。
そんな実感もあるが、昨日までの日常だったようにも錯覚する。
『ああ、そういえば合言葉を覚えている?』
ちゆは思い出したように付け加える。
『脱出ゲーム、やっと終わった?』
何かの符丁なのだろうか。
首をひねりながら、「さあ」と曖昧な返事を送る。
メッセージを送ってきているのは本当にちゆなのだろうか?
新たな深淵が現れたのだろうか。
……ともあれ、数十年越しの再会は、今日中に叶えられそうだが……。
開け放たれた扉を通って教授室である301号室へ若い女性が顔を出す。
「薬谷先生、おはようございます」
彼女から声をかけられて、薬谷は一瞬面くらった。
その彼女は、慣れた様子で入口のデスクにバッグを置く。
「おはようございます」
(この人とどこで会ったかな)
はじめましてなのか、違うのか。
彼女とは、面識がないような、あるような。
顔を思い出せず判然としない。
一つの記憶を、異なる世界にまたがる二つの人格が共有している。
自我がどちらの世界に帰属しているのかを知覚するのは難しい。
もう一つの世界、あるいは複数の自分自身と共鳴し、たえず自覚している。
薬谷が戸惑いながら彼女を凝視しているからか、彼女は自身の身なりを見ていた。
彼女のネックストラップにぶら下げられたネームプレートをさりげなく確認する。
天野、なのだそうだ。
先ほどメールを読んでいたはずだが、まさか名前が違うとは思わなかった。
「薬谷先生? あの、何かありましたか?」
「い、いえ」
「ぼーっとしておられましたけど、まるで昨日とは違う人みたいで。どうかなさいましたか?」
「何でもないです! 私は元気です! 今日はこれから休暇をいただきます」
「えっ、今日ですか! でも今日はたしか怒涛のように予定が……あれ。ない?」
その天野は驚いて予定表を確認する。
「パンパンに詰まっていた予定が消えていますが、同期エラーでしょうか」
「いえ、すべてキャンセルしました。今週いっぱい休暇をいただくことにします」
「そんな、急に。ご出張やご家庭の事情などですか?」
訃報ですか、と天野の喉まで出かかっているのがわかる。
要するに、根回しなしに思いついて休暇をとるというのがそれだけ珍しいことなのだろう。
「いえ。特に何もないのですが、さぼっちゃおうかと思いまして」
本当に、子供みたいな口調でそう言ってしまった。
かつては「さぼってしまおう」、という発想も語彙もなかった。
でも、この世界は自分がたった一週間休んでも、必ずうまく回ってゆく。
贖罪のように続けていた仕事から、一瞬だけ解放されてもいい。
休暇の間に、頭の中をまるきりリセットしなければならない。
新しいスタッフ、新しい交友関係……「彼」が維持していた環境を引き継がなければ。
「先生が、さぼり。先生、何か辛いことでもありましたか?」
「全然ないです」
「そうですか?」
天野は目をぱちくりとしていた。
「天野さんも、今日は予定がなければ半休とかで帰っちゃってください」
「かしこまりました! 段取りは任せてください!」
彼女は半休が嬉しかったのか、いい笑顔を向ける。
「それから先生、ご依頼のあった七年度の経費の報告、送っておきました」
「七年度?」
「はい。英弘七年度です」
天野は弾んだ声で、にこっと愛想よく笑う。
薬谷は思わず口元をおさえる。
(今なんて言った? 英弘、それは人名ではなく元号か?)
令和でも万保でもないこの元号を、彼は当然ながら知らない。
明治、昭和、平成から、はてさてどの世界へ分岐したのだろうか?
そこはSOMAのない世界なのだろうか。
「わかりました、ありがとうございます。ちなみにSOMA関連の予算はどうなっていますか?」
「そうまってなんですか? 相馬市の新しいプロジェクトですか?」
全く何も知らないという顔をしている。
「っと……すみません、今のは忘れてください」
「はい……? えっと、薬谷先生、しっかりリフレッシュしてきてくださいね!」
天野は薬谷の言葉を不審がっているのか、愛想笑いで応じる。
薬谷はぬるんだコーヒーを無理やり飲み干して、ぽつりとこぼす。
(また知らない世界だ)
ここにはSOMAが存在せず、ファルマ・ド・メディシスの言っていたように、穏やかに滅びゆく世界ではないかもしれないし、何かを起点にそうなるのかもしれない。
既に固定されているこの世界の未来と命運を、薬谷はまだ知らない。
それでもこれまでの経験をもとに、同じ轍を踏まないことはできる。
だから、彼の行動はまた同じ。
「……天野さん、すみません、やっぱり五分だけ質問してもいいですか?」
「……? はい! 何なりと!」
また、知ることから始めよう。
サン・フルーヴ帝国語で「引継ぎ」と書かれた見知らぬ筆跡のメモに気づいて視線を落としながら、
彼は自らを鼓舞するように一つ頷いた。
自我と存在を分割しているので、一度眠るだけであの世界へ戻れる。
今日はこちらの世界を生き、明日は向こうへ戻る。
これからはどちらも手放すことなく、二つの人生を同時に生きるのだ。
存在とは自由なものだ。
◆
1158年4月12日。
サン・フルーヴ共和国のとある辺境の村が、謎の感染症におかされた。
診療にあたっていた村で唯一の医院を営む老医師が最初に死亡したとき、531名の村民を抱える無医村となった。
初動で感染制御に失敗し、人から人へ、死体から人へと瞬く間に村全体の流行に陥った。
日を追うごとに隣人が一人また一人と消えてゆく。
遠く離れた隣村へ救援を呼ぶすべもなく、家々の食糧は尽き、人々は病苦と飢餓に苛まれてゆく。
震えていた幼子が、策尽きて家の前に座り込んでいた。
彼女は落ちくぼんだ眼窩、やせこけて枯れ木のような腕で膝をかかえこんでいる。
助けを求めて軒先で倒れたきり、動かなくなった母親の躯が、ゆっくりと朽ちてゆくのを見ていた。
カラスがじっと、少女を窺うように辛抱強く木立の上に佇んで、その村を飲み込んでゆく惨状をつぶらな双眸におさめていた。
水を飲むべきか、ここに横たわるべきか。
少女が思案していると、いつの間にか、正面から近づいてくる足音に気づいた。
座り込んでいた彼女の顔に影が落ち、影の主を見とめ顔を上げる。
「こんにちは」
挨拶をして帽子をとったのは、金髪の青年だった。
彼女の見上げたその青年は、あまりに強い生気を持っていた。
生のあふれる世界から、この村へ引き下ろされた緞帳を切って死の渦巻く側へとやってきた一筋の光のよう、そんなふうに感じた。
「エタン先生の診療所はどこにありますか」
「エタン先生は最初に死んだよ」
村人の命を守っていた、たった一人の医師が死んだ。
その直後に、堤防が決壊するように、あふれんばかりの死が村の外から押し寄せてきた。
「急いできたのだけど、遅かったようですね。大人の人はいますか」
少女は乾いた唇で、ブツブツと呪詛のような言葉を紡ぐ。
「……みんな逝っちゃったよ。あっという間に。村には動ける人はいない……まだ生きている人もいるかもしれないけど、誰も外に出てこないよ。食べものも腐ってなくなっちゃって……」
少女は茫洋とした視線で青年を見つめる。
「あなたも私を迎えにきたの?」
青年は彼女の視線に、「いいえ」と首を振る。
「誰かを迎えにきたのではなく、エタン先生に求められた薬を持ってきたんです」
彼はコートの下から、ネームプレートを取り出して提示する。
貴族みたいに長くて立派な名前だ、と彼女は思った。
「私は先遣としてサン・フルーヴ共和国の首都から来た薬剤師です」
「やくざいし……? やくしではなくて」
少女は聞き覚えのない「薬剤師」という職業に戸惑っている。
神術に依存した薬学体系を手放した薬師は、科学に根差した薬学を柱とする、薬剤師という新しい呼称に改称されたのだ、と彼は説明する。
「はい。そして私たちは、守護神が役割を終え奇跡が消えたこの世界の隅々に、人道援助の観点から必要な医療と薬を届けることを使命としています」
やがて彼が宣言した通り、彼が持ち込んだ薬と医療によって、死を待つのみだった大人たちが、子供たちが、すんでのところで命をつなぎとめた。
ほどなく村に医療の光が届き、隅々にまで医療支援が行われ始めた。
本体として合流した医療団を受け入れ、村人たちは彼らを歓迎する。
村から疫病が駆逐されるまでの間、その薬剤師の青年は村人たちを励ましながら、対等な関係を築きつつ献身的に働き続けた。
その青年が人々に手渡した薬袋には、これまでに少女の見知った薬局の紋章というものが見当たらず、代わりに世界言語で、
「世界薬局(PHARMACIES MUNDI)」
という文字と、人々が手をつなぎあうシンプルかつ力強いイラストレーションがのびのびと描かれていた。
― 異世界薬局 完 ―
異世界薬局(EP4)、完結しました。
7年間、完結まで見届けていただきありがとうございました。
本作を執筆するにあたり、最後まで読んでくださった読者の方と、
ご協力を賜りました皆様に厚く御礼申し上げます。
2022/6/23追記:
「薬谷完治とファルマはそれぞれ元の世界に戻ったのか」という質問、ご意見がいくつかありましたが、違います!
終話でも一応書いていますが、どうなったのか不明な場合は
後日譚として世界薬局(EP4.1)で明確に記載していますので、ご確認ください。
後日譚を引き続きよろしくお願いいたします。
完結済みマークは保留にしておきます。
◆同一シリーズのご案内
本作品「異世界薬局」は、SF作品群、「Worlds under observation by XERO」のエピソード4にあたります。




