9章11話 患者 ファルマ・ド・メディシス
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1152年8月22日。
旧神聖国では闇日食の日を迎えた。
誰もが危惧していたように、世界は終わらなかった。
ファルマの張り巡らせていた三重の防壁のおかげで、人的・物的な被害は完全に防がれた。
翌日、遺構の崩落の危険もかえりみず、サン・フルーヴ帝国と神聖国の有志調査団が立ち上がり、鎹の歯車の遺構の調査がかつてない規模で始まった。
事前にサロモンら土属性神術を使う神官たちが拵えていた侵入経路から、三重の防壁の内部へ入ってみると、鎹の歯車の中心部は文字通り消滅して、あとには大きな穴が残されていた。
誰も知らないうちに、世界の更新は静かに終わってしまったのだろう。
……捜索に参加した医療団の一人、エレオノール・ボヌフォワはそう思えてならない。
何故なら自身の体から神力が蒸発し、
診眼は使えなくなり、神術陣は絶え消滅した。
神杖はただのノスタルジックな骨董になり、
晶石は輝きを失い、宝石以下の石ころになった。
神術使いたちは神脈をねじ切られ、水や物質創造の操作ができなくなった。
そしてそれは、エレンだけに限らず全ての神術使いに起こった。
世界のあらゆる場所から神力と、神力から派生した神術は消えた。
誰に尋ねても、神殿の神官ですらも、ただ一人の例外もなく、神力を残している者はなかった。
こうして、神力に依存していた社会は、守護神の庇護の外へ放り出された。
メレネーやマイラカ族たちも呪力を失い、霊の声を聴くことはできなくなった。
祖霊たちはどうなったのか分からない、見えなくなった。
これからは心の中にいるのだと、メレネーはいう。
ファルマの安否はまだ分からない。
祖霊たちがそうなったように、ファルマの姿も存在も誰もが認識できなくなって、ファルマがこちらの世界に介入できなくなってしまったら、それはもういないこととほぼ同義なのかもしれなかった。
(この世界が存在しているということは、ファルマ君の計画が成就したということ?)
彼が全部背負わなければならなったのだろうか。
結局、彼の犠牲と引き換えに人々全員が助かった。
結果はそうなのだが、エレンはあまりにやるせなく、受け入れられない。
そうならないように防ごうとしていたのに。
彼を守ることができなかった。
罪滅ぼしのように、彼の痕跡を探している。
(私たちは、彼の何を探しているんだろう)
エレンは捜索しながら、やるせない気持ちを押し殺す。
生身で生きていてくれたら申し分ないが、見つかるのはせいぜいファルマの断片か、おそらくは何も見つからない、というのが現実だろう。
その事実を、自分を含めてここにいる全員が、果たして受け入れられるのだろうか。
「どこまで探しますか。もう少し下へ進みますか」
「お願いします。もう少し下なんです、彼が最後にいた場所。私一人でも行きます」
エレンは最後にファルマがいた場所、深度を神官らに伝える。
エレンたちは巨大な竪穴に、命綱をつけて降下している。
命綱は地上部で巻き取り式になっているが、途中、瓦礫の層があるのでそれを取り除かなければならない。
「ふう……」
自身の筋力と体力だけを頼りに、瓦礫を除く肉体作業は気鬱する。
昨日までの自分とは別人のようだ。
昨日までは神力を持っていたから、エレンは常人であることを自覚せずにいられた。
神力という優位性を失った体は重く、動きは鈍く、非力で、肉の塊のように感じる。
何もかもが、無価値になってしまったように錯覚される。
彼女にとってある種の、遅すぎた挫折でもあった。
「この爆発では……生身で助かっているとは思い難いです」
「あまり深くなると、崩落の危険性も」
神官が躊躇いながら告げる。
彼らもまた「凡人」となってしまった人間たちだ。
守護神を失った彼らは、一体何に仕えているのだろうか。
神力を失ったことにより、精神的な支えや、自尊心や勇気すらも失いかけているのかもしれない。
(皆、ギリギリなのね。私もそう……それでも)
そんな思いがエレンの胸に去来する。
アイデンティティの喪失は、希望をとりあげる。
「彼の顔を見るまでは、私は諦めたくありません」
それが無言の対面になるかもしれないということは、エレンにもわかっている。
「彼」が見つかるのではなく、その「一部」や「形見」という物質に還ったものかもしれない。
「もし、彼が生身の状態で生きているなら、すでに一日半が経ちました。人間が飲水なしで耐えられるのは、およそ3日間とされています……さらに、地下は体温を奪います。低体温症になってしまえば、一時間ともたないかもしれません。時間の経過は重大な意味を持ちます」
どのような状況になっているか想像もつかない、早く見つけるにこしたことはない。
少なくとも、最大限甘く見積もっても、ファルマの姿が地上に見えないということは、助けなしでは自力では上がって来ることができない状況にあるのは間違いない。
「で、ですが……地の底まで行くおつもりですか」
「ボヌフォワ師。もちろん、私どもは手掛かりが得られるまで探し続けるつもりですよ。ファルマ様がここにいらしたと、あなたが知っておられるのでしょう」
若い神官の弱気な言葉を遮るように、サロモンが答えた。
「はい!」
エレンは深く頷く。
「この仕事が終わったら私どもは還俗しようと決めておりまして。最後の務めとして、無手で帰るつもりはありませんので」
「……神官を辞めるということですか」
「神力を失うということは、召命が終わったということです」
サロモンはそう告げると、黙々と捜索を続けている。
陥没穴の、さらに地底深くまで進まなければファルマのいた場所にはたどり着けない。
彼らは躊躇をせず、地中深くへ身を投じてゆく。
エレンは一つの時代が終わったのだと感慨深く思った。
◆
大神殿からの緊急召集を受けて後からやってきた神官らが、鎹の歯車の遺構の周囲にテントを設営した。
捜索人員全員が同じように捜索に繰り出しても命綱のロープが足りないので、数時間ずつ人員を入れ替える。マイラカ族のメレネーたちは、先に繰り出していったエレンたちの交代要員として休憩をしていた。
十分な水と食料も提供され、メレネーたちはほっとしたように一息ついていた。
そんな中で、メレネーだけは苛々としている。
「メレネー、どうした。食わんのか? 食える時に食っておけ」
「腹が減っていない。それよりもだ」
メレネーはテント内の無人の空間を凝視している。
「パラル! おい、パラル! いるのだろう?」
メレネーがパラルをなじるように呼ぶが、返事はない。
当てが外れたメレネーは舌打ちをする。
「霊たちは本当に消えたのか? 私にはそうは思えん」
「消えたはずだ、諦めろ」
メレネーが現実逃避をしているので、アイパが否定する。
「ちょっと試したいことがある、手伝え」
「何をするつもりだ」
メレネーはテーブルの上に載っていた皿をどけて作業スペースを確保すると、帝国神官が用意した雑記帳を手にして、何かを書きつけている。
「クララがやっていた、降霊術というものだ」
「それは神術なのか?」
メレネーがじろりとレベパをにらむ。
「完全な神術でもないらしい、呪術に近い。だからやってみる」
「呪術はなくなったと言っているだろう」
レベパがメレネーを諭すように述べる。
メレネーはつっぱねた。
「われらマイラカ族は呪術の申し子だ。古今東西、呪術ありと聞けばただ試行あるのみ」
「……勝手にしろ」
「言われなくても」
メレネーはうろ覚えで降霊術の準備を始める。
サン・フルーヴ帝国の文字を操り、クララのやって見せた通りに文字盤を描く。
メレネーは準備を整えると、深呼吸して文字盤のスタート位置に指を置く。
「パラル、いるか?」
メレネーの渾身の呼びかけに応じるように、すっ、とメレネーの指先が動いた。
「おおっ!?」
「うそでしょ」
「メレネー、お前やけになって自分で指を動かしているのではないだろうな」
「霊は見えないだけで存在するとなると、ファルマのしたことが無駄になるのでは」
兄妹たちも、騒然となりつつその動向に注目している。
「いや、だからそれを確認しているのだ兄者たち」
ファルマのしたことの何が成功していて、何が失敗しているのか、手掛かりを得たいというメレネーに賛同する。
「私の自己暗示的なものかもしれんがな。こういった試行を実験というらしい。パラル、ファルマは生きているのか?」
メレネーの指先が「肯定」の選択肢へと滑る。
メレネーは時間をかけて聞き取った。
見えなくなっても、パラルはそこにいるのかもしれない。
得た答えから、ファルマの居場所はエレンたちの予測からは決してたどり着けない場所に絞られた。
「いかん、エレオノールたちが探しているのは見当違いの場所だ。時間が無駄になる!」
「なんだと!?」
メレネーは血相を変えて単身テントの外に繰り出していった。
◆
「エレオノール! 朗報だ!」
メレネーがロープを操って壁面を飛び降りるように軽やかに下りてきた。
それは熟練のサーカス演者のようで、エレンは感心してしまう。
「ファルマの位置が分かった、横穴の奥にいる。まだ生きているようだぞ。横穴への目印は小さな飛行機だ」
「飛行機……? どうしてそれを知っているの?」
エレンはメレネーの言葉を半信半疑で眼鏡をかけなおす。
エレンはぴんときた。
ファルマが時折、動作確認のために庭で飛ばしていた、ドローンというもの。
精緻な構造物。
彼が異世界から持ち込んだものだ。
「降霊術だ。クララの真似をしてみたらできた。正解かどうかはこれから確かめにゆく」
「降霊術は知っているけど、霊がいなくなったのに降霊術が効くの? 昨日までの、神術や呪術があった世界とはもう違うのよ?」
エレンは落胆とともに、迷信という言葉が喉から殆ど出かかっている。
メレネーはそんなエレンのことを何もかも理解したかのように、不敵な笑みを浮かべる。
「まあ、殆ど迷信か私の何か小難しい心理作用がそうさせるのかもしれんが、ファルマがバカみたいに無策で自爆をするとは思えんのだ。念のため確かめる」
「飛行機って……四枚羽のおもちゃみたいなドローンのことよね?」
何かに使うと言っていたので、ここにあっても不思議ではないが……。
「名前は知らんが」
メレネーは適当に応じながらもどこと目星がついているらしく、場所を絞って発掘作業を始めた。
そして暫くすると、
「あったぞ! ファルマの持っていたのはこれのことか? お前は見たことがあるのだろう?」
メレネーの指さす先に、半壊したドローンのようなものが地層にめり込んでいる。
「え、うそ! でもこれ! ファルマ君のだわ! 信じられない!」
エレンはメレネーにつられて叫んだ。
「見ろ! パラルの言ったとおりだ。あるぞ、横穴が! ここを崩してみろ」
メレネーは降霊術の正しさを確信したのか、得意げに素手で掘り進めている。
「メレネー、ちょっと、スコップ持ってこなかったの? ランプ持って入らないと何も見えないわよ」
「明かりは後ろから持ってきてくれ」
「もう……焦らないで」
メレネーを先頭に匍匐前進で進んでゆくと、横穴は人が腰をかがめて通れるほどの広さに達した。
やがて立って歩ける高さの空洞部へと出た。
「ファルマ君はどうしてこんなところに?」
「爆発をやり過ごすために、横穴で衝撃に備えたのでは」
「そう……かも、だといいな」
エレンはメレネーの楽観的な想像に救われる思いだ。
攫われたのでは、という懸念はメレネーが否定してくれる。
エレンはにおいに気を付ける。有毒ガスなどが発生していたら危険だ。
そしてメレネーの予言した通り、横穴を暫くゆくと、そこには瓦礫に半身が埋まったファルマの姿があった。
「ファルマ君! うそでしょ!?」
エレンはその姿を見て心臓が張り裂けそうな思いだ。
「これではもう……」
助からないのではないか、と追い付いた神官の一人がうなだれた。
彼らは 搬送用の担架を持ってきていたのだ。
「待ってね」
安全を確認しながら、エレンが注意深く接近する。
震える声で彼の名を呼ぶも、エレンの呼びかけに答えない。
肩を叩いてみるも、反応はない。
意識なし、とエレンは判断する。
眼に見える範囲に大きな出血はない。
(呼吸音の確認)
まずは耳を口元に近づける。
胸の動きを注視しながら、呼吸の有無をみる。
(呼吸がある……!)
震える手でバッグから聴診器を取り出し、胸のあたりの瓦礫をどけて左右の呼吸音と心拍を聞く。呼吸はできている。
心不全にもなっていない。
「呼吸も脈拍もある……死んでいません、生きています!」
全身状態によっては、もってあと数時間の命かもしれない。
諦めてしまうことは簡単だ。
しかしファルマの身体は諦めていない。
呼吸回数は正常より多い。
胸から下が埋まっているので、頸動脈と橈骨動脈が触知できる。
測ってみると、血圧 116/58 、脈拍86だった。
明かりを持って来てもらい、顔色を確認する。
チアノーゼも無く、酸素化も保たれているようだ。
体温計ではかると、体温は35度台。
ファルマのかつての平熱は36度台だったので、やや低い。
エレンは次に痛み刺激の有無を確認する。
反応がみられないことから、意識レベルのスケールにおいて300であると見積もる。
(神経系はどうなっているの……?)
エレンはさらに瞳孔、両側の対光反射をみる。
「あれ?」
ライトに対して部分的に追視が行われているのか、視線が合った。
そんな気がする。
はっきりと瞬きをした彼の瞳が、エレンをみとめているようにも思う。
「いた!」
エレンは彼の瞳の奥に、ついにファルマの意識を発見した。
「聞こえていたら、二度瞬きをして。できないなら、上下左右に視線を動かして」
エレンの予想通り、ファルマが開閉眼でエレンに反応した証拠を得た。
小さな小さな動きではあるが、ファルマはエレンと意思疎通を始めている。
どんなシグナルも見逃すまい。
「よかった。瞬きはできるのね。視線はどう? ファルマ君、え? 上下しか動かないの?」
エレンは反射の確認をすすめる。
土礫の中から掘り出した上肢の腱反射が亢進していることに気付く。
「ということは脳幹か脊髄に損傷があるのかしら? どうしよう……搬送の時に頸部を動かさないようにしないと。担架にうまく固定できるかしら」
考えるべきことは山ほどあるが、既に死亡していても何ら不思議ではない。
とにかく彼が生きていてくれてよかったと、束の間、喜びをかみしめる。
「では直ちに瓦礫を除いてお助けしましょう」
メレネーやサロモンら神官が瓦礫を除く間、エレンは次の対応を考える。
「これで助かるな」
メレネーがエレンに同意を求めるようにほっとしたようにため息を吐くが、エレンは浮かない顔をしている。
「どうした?」
神経系の損傷だけでなく、挫滅症候群を予測しておかなければならないからだ。
「まだ安心できない。さらにこれ以上の組織の損傷を防ぐために救出は急がなければならないけど、挫滅症候群を発症して救出してすぐ心停止する可能性もあるわ」
「なんだその罠みたいなものは。医学のことは難しいな」
医療知識ゼロのメレネーはもどかしそうにぼやく。
エレンは挫滅症候群のリスクを見積もっている。
エレンたちが救助にくるまでに、ファルマはここに十時間以上挟まれていた可能性がある。
下半身を掘り出してみないと分らないが、圧迫により筋肉が挫滅している可能性が高く、挫滅症候群の恐れが高い。
挫滅症候群では、瓦礫や土砂で挫滅し壊死した筋肉から生じたカリウムやミオグロビン、乳酸などが、圧迫からの開放で挫滅部位に血液が還流することによって一気に全身に巡り、重篤な場合はショックや急性腎障害、高カリウム血症による心停止などから、死亡につながる。
エレンも、そしてファルマですらも、まだ挫滅症候群の症例に遭遇したことがない。
(脱水により既に、腎障害も生じている可能性が高いわ。あれこれ考えるより、点滴が先!)
エレンは脱水の補正と挫滅症候群を想定して、腎臓を保護するために生理食塩水の大量輸液を行う。
一本目は加温せずそのまま投与する。
加温しているにこしたことはないが、とにかく補液を急ぎたい。
復温のために輸液を加温するのは、二本目からでいい。
瓦礫の除去がまだで尿量の確認ができない間は、大量輸液の継続は心不全の恐れがある。
そこで、輸液の流速を落とす。
救出後に筋挫滅などにて腫脹が酷くコンパートメント症候群を呈する場合には、除圧するため筋膜切開をしなければならないのかもしれないが、出血をコントロールできる自信がないので、外科系の応援がほしい。エレンは外科のブリジットの顔を思い浮かべる。
「それから、すぐに血液浄化が出来るように用意しなきゃ……」
脱水や挫滅症候群による腎障害を予防するために、すでに補液を開始しているが、救出後に下肢の循環が再開したら、挫滅組織からミオグロビンなどが大量に溢れ出し腎障害が生じる可能性が高い。
ミオグロビンの分子量は大きく、透析で積極的に除去することは難しいが、高カリウム血症やアシドーシスの補正は可能だ。
すぐに透析が出来るように準備をしておきたい。
旧神聖国のほど近くに、聖帝の細胞培養を行っている医療、研究施設があり、透析が可能な状況にある。
エレンはその施設をファルマとともに訪れたことがあり、場所も、施設の状況も把握している。
人命救助に必要な医療機器、医療材料も、製造の難しい異世界薬局直系の透析用フィルターも、ファルマに気づかれないよう、事前に手配してある。
「ここから西部医療研究所までは馬車で一時間ほどかかりますか?」
「急いでも、その二倍はかかるかと」
災害に巻き込まれないように、敢えて少し離れた場所にあるのだ。
何時間以内に透析をという基準はないが、できるだけ早く取り掛かりたい。
早ければ早いほどいい。
「では、現地スタッフにファルマ君を搬送する旨伝えてください。挫滅症候群に伴う腎障害に備えて、すぐに透析ができるようにしておきたいんです」
「はい、直ちに。急がせます」
「ここに留まっていては崩落が怖い、地上に戻るぞ。担架を使うか?」
やることがなく、手持無沙汰のメレネーがエレンを促す。
皆がエレンに注目をして、良かれと思って質問攻めにされる。
彼らの期待が重いが、「何かしたい」という彼らの思いもエレンにはわかる。
「そうね……」
エレンの頭の中がぐちゃぐちゃになっていたとき、ふとファルマの存在を思い出した。
彼は確かに全身麻痺の患者だが、意思疎通ができて、まだある程度の認知機能を残しているかもしれない。
ずっと目の前にいたのに、意識の埒外においていた。
「ファルマ君、聞こえている?」
エレンはすがるように彼に尋ねる。
ファルマが明瞭に肯定したのを確認し、いつもの彼に話すように言葉をかける。
もはや独り言ではない。彼は聞いてくれている。
「まだ断定はできないけれど、あなたは閉じ込め症候群を発症している可能性があるわ。この瓦礫の中から救出して、西部医療研究所に運んで治療をしたいの。でも、挫滅症候群を心配して、透析ができるように準備してる」
ファルマと話しているうちに、少しずつ落ち着いてくる。
エレンはファルマに傍にいてほしかったのだと気付いて、自らがいかに不安だったか思い知る。
「ね。それで、いいんだよね?」
じっとうかがう。
エレンの質問に対して、彼の瞬きは肯定を示した。
師に褒められた子供のように、エレンはほっとする。
大丈夫だ。
まだやれる。
エレンは自らを奮い起こす。
「あなたが教えてくれていたから、次になすべきことがわかるわ」
ファルマはエレンの言葉を聞いてもう一つ肯定すると、力尽きたか、ゆるゆると瞼を閉じてしまった。
「寝た……」
無敵の守護神という存在から、エレンたちの手に命運を委ねた全身麻痺の人間に戻った生身の彼にふれ、感動と感謝がこみ上げてきて、泣き出しそうになる。
人体とは外的環境に対して、これほどまでにか弱く儚い。
彼の陥った状況は、身をもって課された難題なのかもしれない。
エレンはそう受け止めた。
◆
ファルマを救出した後、西部医療研究所に到着し、エレンはファルマの教科書を広げる。
エレンは教科書の内容をほぼ一言一句記憶しているが、記憶違いがないか見直して確認する。
外傷によると思われるが、やはり中脳、橋、延髄などの脳幹部のうち、橋の腹側のみをピンポイントに障害されたために、閉じ込め症候群を呈しているようだ。
この部位の障害はどこをとっても殆どが即死となるために、生きていてくれたことは、まさしく奇跡だったと思う。
まずは、挫滅症候群を乗り越え、全身状態を安定させたい。
急性期を脱したら、誤嚥性肺炎の予防、栄養管理、廃用症候群の進行抑制など、出来るだけ状態を良く保ち、回復を期待したい。
そのロードマップは詳細にファルマ自身が教科書に記載してくれている。
ファルマとは瞬きによって意思疎通がとれるから、分からないことがあれば彼に指導を仰いでもいい。
それでもファルマは手が動かせず図解などは難しいので、基本的にはエレンたちが治療計画を立てなければならない。
聖帝の細胞を培養していた研究拠点がまだ使えるので、彼の神経細胞を再生できる。
ファルマの齎した遺伝子工学がエメリッヒの難病を救ったように、
今度はエメリッヒの研究が、ファルマを救うかもしれない。
あの日を境に、何もかもがなくなったわけではない。
神術はなくなっても、それ以前に神術により合成されていた物質は消えていない。
パッレやファルマの神術により合成されていた、ありとあらゆる医療材料がある。
道のりは険しいが、やるしかない。
その試行錯誤がまた、医療の新たな地平を作る。
この世界の医療はここまできた、ファルマは最終講義でそう告げた。
その先の道は、この世界の誰かが歩いた後にできる。
(私たちが力を尽くして、それでもファルマ君が回復する日はくるんだろうか)
また、過去の録音ではない彼の肉声を聴きたい。
彼の笑顔を見たい。
笑ってほしい。
そんなささやかな願いのために、エレンは頑張ることにした。
◆
ファルマは旧神聖国の西部医療研究所へ運ばれ、急性期の治療を受けた。
数回の透析で全身状態を保つ間に腎障害も改善し、旧神聖国サン・フルーヴ帝国医薬大学の入院棟へと移送された。
詳しい検査の結果、エレンが予想していた通り、「閉じ込め症候群」の状態であることが判明した。
閉じ込め症候群に関しては、現在確立した治療法はない。
できることといえば、全身状態を維持しながら回復に期待するというのが、ファルマの教科書に書かれていた内容だ。
起き上がって歩けるようにはならないが、にっこりとほほ笑んだり、会話など、簡単な意思表示ができるようになるかもしれない。
閉じ込め症候群の生命予後は、意外にも5年生存率は80%を超える。
死因は肺合併症が多く、早期のリハビリの開始が重要となる。
「今日はいい天気よ。明日はパレードがあるからか、往来がせわしいわねえ」
その日も、エレンは病室のカーテンを開けながらファルマに語りかける。
自力で体位を変えられないファルマが外の風景を見ることができないので、エレンは独り言のように話して聞かせるが、彼はしっかりと聞いている。
今日は出勤前のロッテも一緒だ。
ファルマが事前に構築していた医療体制が功を奏して、彼は帝国医薬大付属病院入院棟に、患者の一人として入院している。
ほかの患者と同じく、24時間体制での看護が行われていた。
見舞いや面会を希望する者が多いので、彼は個室で管理されている。
当初は末梢静脈を使って栄養していたが、血管炎を起こしたため、今は誤嚥性肺炎に注意しつつ経鼻胃栄養に切り替えている。
褥瘡の予防のため2~3時間おきの体位交換も必要だ。
寝たきりの状態が続いているので、廃用性の筋委縮のため筋肉量も急速に落ちている。
合併症予防やQOL向上のため、さらに関節の拘縮が起こらないようにエレンやパッレ、ファルマの教え子、一期生となった理学療法士らによって関節の可動域を保つためのリハビリが行われている。
EMSを使った筋肉量の維持も試みられている。
リハビリの実地と継続は必須だ。
「今日はチューブの交換をしましょうね」
エレンが経鼻チューブを用意し、鼻腔内に麻酔薬入りの潤滑剤を少し入れ、経鼻チューブにも塗布し、鼻腔から経鼻胃管を挿入する。
胃管にシリンジで空気を入れて、聴診器で胃の上から音を聞き、胃液をシリンジで引いて誤嚥をしないか確かめる。
胃管から入れる栄養液は、ファルマが教科書で書いていた経管栄養剤ではなく、野菜スープや、ペーストしたパテをスープでのばしたものだ。
手技を間違えないか、不快な思いをさせないか、エレンは何度やっても緊張する。
ファルマはその舌で味わうことはできないが、せめてと普通の食材での調理を指定している。
毎日の作業なのでエレンはもう手慣れたものだが、ロッテは共感しているのか、鼻をおさえて顔をしかめている。
「何回見ても鼻がつーんとします。痛くないですか? ファルマ様」
「そう? ちゃんと潤滑ゼリーで局所麻酔してるわよ」
エレンはロッテの素朴な感想に笑う。
麻酔は気休めにしかならないかもしれないが、それはロッテには言わない。
「ファルマ様、リハビリが終わったらあとで私の新作を見ていただけます?」
「あら、ファルマ君、リハビリを頑張らなきゃね」
ロッテは頻繁に風景画の新作を制作し、帝都や郊外の写真を撮ってファルマに見せに来る。
動けない彼に対する彼女のささやかな気配りや励ましは、ファルマの精神的な支えにもなっているかもしれない。
エレンはふとまじめな顔になって、ファルマに告げる。
「ファルマ君、今日の午後はエメリッヒ君たちが、同意説明文書を持って神経幹細胞を使った再生医療の詳しい説明に来るわ」
「もう準備ができたのですか? いよいよですね!」
エレンの言葉を無邪気に受け入れて、ロッテの声が無邪気に弾む。
ファルマはエメリッヒらが研究をすすめている、ファルマ自身の骨髄から作った自家細胞を利用した、橋腹側の障害を修復する再生医療に参加の意向を示していた。
その治療に進む前に、同意取得の手続きが必要だ。
ファルマとの意思疎通は、直接的には文字盤とまばたきを通して可能だ。
彼は無線通信の開発にかかわった経緯からモールス信号も完璧に使えるので、モールス通信を覚えたエレン、パッレ、ブリュノ、エメリッヒ、ブランシュらとはそれで高速かつ直接の非言語コミュニケーションを行っている。
ロッテはモールス通信はあまり得意ではないので、文字盤を使っている。
ファルマは誰かが問いかけた時以外、何か意思を発することは少ない。
要求もきわめて少ない。
ただ、医療スタッフの献身的な看護と介助に心から感謝をしているとは、折に触れて伝えていた。
そして、医療スタッフの負担を減らしたいとも。
「エメリッヒ君たちは、あなたの指導のもと、長年準備していたからね」
「まさかそのファルマ様が最初の被験者になるとはですね」
エレンとロッテは感慨深そうに頷く。
エレンはこの臨床試験のデメリットも危険性も理解しているので、楽観的ではいられない。
動物実験では成功しているが、それが人間の患者でも有効なのかどうかは、彼が身をもって知ることになる。
臨床試験に参加するリスクとベネフィットを比較したうえで、たとえ失敗しようとも、人類の医療の発展と、そしてファルマ自身のQOLの向上のため、身体機能を取り戻すために、意欲的に参加をしようとしている。
「同意説明のときには、ご家族もいらっしゃるからね。代筆をしてもらうわ」
臨床試験の同意説明と同意取得の手順は、彼が確立したものだった。
パッレもブリュノもブランシュも、それぞれの持ち場で精力的に働いている。
最先端医療に携わる多忙な日々を送っているが彼ら全員が、一日の始まりと終わりにはファルマの顔を見に来て会話することを忘れない。
ファルマも、彼らの思いに応えて離床したいのだろう。
エレンは時折、このような状況下にあってもファルマの精神が安定しすぎていて敬服する。
「それにしても……」
エレンは恐ろしくてファルマに直接尋ねていないが、疑問に思っていることがある。
(ここにいるのは誰……?)
橋腹側が広範囲に傷害された状態で、挫滅症候群をも乗り越えて生存しているのは奇跡だ。
闇日食のあの日、ブリュノはかつてのファルマと邂逅し、「この世界の情報を管理下に置いたから、何も心配しなくていい」と告げられたとのこと。
何もかもが、理解を超えている。
その言葉が真実ならば、敢えて受傷して閉じ込め症候群のような状態にはなっていないだろうとエレンは思う。
ではやはり、ブリュノの見た幻覚や夢なのか。
墓守はどうなったのか。
今、この世界を管理している存在がいるのかどうか。
謎ばかりが残る。
ここに存在するファルマは、守護神でも無敵の管理者でもなく、正しく人類であった。
神力は枯渇し、両腕にあった薬神紋もない。
注射針は彼に刺さるし、血液も流れている。
細菌感染を防ぐ聖域に守られることもなく、ほかの患者と同じように細菌感染もする。
おかげでエレンは久しぶりに風邪をひいた。
彼と出会ってから感染症を患うことがなかったので、すっかりと油断をしていた。
落雷に撃たれる以前のファルマが戻ってきたようでいて、そうともいえない。
ファルマとの短いやり取りからは、彼の思考を窺い知ることができない。
彼の心の中に異世界の青年がいるのかどうかも、明かしてはくれない。
そしてファルマも、真実を語ることを禁じられているかのように、誰にも何も話さない。
ただ、目の前に横たわり、エレンが触れることのできるファルマは、あまりにも泰然自若としている。
それは断固たる自らの回復を、もっといえばこれから自分を待ち受ける未来を、確定事項として知っているかのような――。
本日は二話同時更新です。次頁があります。
【謝辞】
本項の医療描写は医師・医学博士のなぁが先生にご監修、ご指導いただきました。
ありがとうございました。




