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【完結済】異世界薬局(EP4)/【連載中】世界薬局(EP4.1)  作者: 高山 理図
Chapitre final 愚者の実験 Expérience d'ignorance(1152年)
143/151

9章10話 ファンタジーの棄却と、センス・オブ・ワンダーへの回帰

 ファルマはついに、旧神聖国中枢部の鎹の歯車の上空に至る。

 サン・フルーヴ帝国を出て見えない体で縁のある人々に別れを告げ、

 サン・フルーヴの家族や使用人、宮廷人たち、大学関係者、聖帝、関連薬局、関連店舗にも郵送でメッセージを残した。

 ド・メディシス家の中を歩いていて、寝起きのブランシュと視線が合ったような気がする。

 マーセイルでは工場の稼働状況に異変がないこと、キアラと彼女の母親が健在であること、チアマゾールの生産体制に滞りがないことなどを確認し、スタッフらに感謝の言葉をつづった。

 強制有給を取らされていたテオドールにも適切なアドバイスを書き残した。


 新大陸への逗留では、東岸連邦の人々のために合成の難しい各種の原薬を作りおいた。

 彼の持つ聖域で菌を殺してしまうため、キャスパー教授の研究室には近づけなかったが、手紙は書いた。

 ファルマの存在はメレネーの使役する霊に気付かれてしまったようだが、何とか巻いて逃げてきた。

 そのほかにも思いつく限り、彼は気がかりな人々のもとに立ち寄った。

 もう思い残すことがないよう、誰も不利益を被ることがないよう

 放浪と回り道の果てに、それでも予定通りに自分の意思でこの場所へ到達した。

 

 製品化の一歩手前にあるものも含めれば、ファルマでなければ作れない薬はもうない。

 知識の継承は終わっていた。

 実務上、体制上、ファルマの失踪への影響は最小に抑えたはずだ。


(この世への未練はもうない、俺の存在価値もなくなった。それでいいんだ……最後の仕事に集中しよう)


 空中には誰もいないはずなのに、ふとした拍子に、誰かに見られているように錯覚する。


(ここから先は、本当に一人だ)


 念のため、旧神聖国の規制線の内側に誰もいないことを、最後に診眼で確認する。

 存在の抜け殻のような状態になっても、見えない体にはなお神力が充ちて、最後まで診眼が使えることに辟易としてしまう。

 診眼を通して俯瞰すれば、人々の存在が青い光となって地上の星のように遥か地平線にともる。


(まだ誰かいるな。邪魔が入ると困る)


 神聖国の外の集落に、人が不自然に集まりつつある。

 それは現地住民かもしれないし、神聖国の関係者の可能性もある。

 誰であろうが、接近されると不都合だ。

 彼らが興味本位に鎹の歯車へ接近してくると、これから起こる予測不可能な出来事から彼らの身の安全を保障できない。

 近づかないでくれと伝える術もなく、近づかせないようにする。

 ファルマは仕方なく実力行使に出る。


(銅を創造)

(鉄を創造)


 ファルマは無人の範囲を正確に見積もると、節約して蓄えておいた神力を惜しみなく用いて、神聖国一帯に高くそびえる銅の防壁をドーム状にし、三重に張り巡らせた。

 防壁の素材に銅と鉄の層を用いたのは、人の侵入を防ぐと同時に、電磁シールドで霊の侵入を防ぐためだ。

 メレネーたちの助けもあり、悪霊はこの大陸から一体残らず掃討したとはいえ、地殻変動によってまた悪霊のようなものが現れないとも限らない。

 ひとたび鎹の歯車の内部で何か起これば、即席の防壁がどれほど持ちこたえるかは未知数だ。


 この内部で何が起こっても、外の人々に巻き添えを出さないように。

 彼はそう祈りながら念入りに準備を整える。

 巣をつくろい整える親鳥のような心地だ。

 地上に露出していたドーム状の構造物の深奥へ侵入するべく、範囲を絞ってその蓋を外す。


(鉄を消去)

(マグネシウムを消去)


 ドームの天井部を覆っていた殆どの構造物は物質消去で消えてなくなった。

 ここまでは、地球の薬谷 完治より得ていた事前の情報の通りだ。


 ファルマは瞑目し大きく息を吐くと、未知の領域への降下を開始する。

 地下深くへと繋がる洞窟の中心を一つ一つの座標として結びながら、瓦礫をすり抜けるようにして薬神杖で下へ下へと進んでゆく。


 奈落に沈んで、闇に溶けてゆくかのようだった。



 その頃、複数の巨大飛翔物体が旧神聖国を目指して飛来していた。

 絵鳥に乗り、旧神聖国内に降り立とうとしていたのはメレネーの兄妹らだ。


「何が起こった。あの球状の構造物は一体」


 彼らの呪力量ではサン・フルーヴ帝国までは到達することができなかったので、旧神聖国で待機する予定だ。

 そんなとき、鎹の歯車の周囲を覆い隠すように金属のドームが現れたのだ。


「神術だろうか、光の放散が見えたが」

「……たしかに神術の一種ではあるのだろうが、ただの神術ではない、範囲が大きすぎる」

「あの者の仕業だろう」

「接近するにつれ絵鳥の飛行が不安定になっている。あの球体に近づくな」


 混乱のため空中で喧々諤々としている。

 絵鳥を近づけようにも、電磁シールドが張り巡らされて近づけそうにない。


「これ以上は進めない。空から近づけないならば、地上に降りて近づくしかないな」

「いけそうだ」

「足場が悪い、気をつけろ」


 メレネーの兄妹たちが地上に降り立つと、術を解かれて絵鳥は空中に消える。

 大陸の地を踏んだ長兄アイパに続いて、次兄レベパが不安な心情を吐露する。


「何とかたどり着いたが、俺たちも呪力が切れそうだ」

「呪力の残量が分からない。我々にもサン・フルーヴの者たちが使う神力計のようなものがあればな」


 マイラカ族の呪力の制御は感覚的なものでしかなく、定量化できないことの嘆きも出る。


「もうこれからは、呪力にまつわる道具は必要あるまい。何もかもが過去になる」


 レベパが吹っ切れたように清々しく宣言する。


「そうだな。さて、これからどうする」

「周囲に人気はないが……帝国の者がいなければ我々で捜索するほかにないな」

「本当にここにいていいのか? 呪力が消えた後はなんとする。この土地の周囲には人気ひとけがない。呪力が尽きた後、何日徒歩で移動する? 最悪ここで孤立して餓死だ」


 アイパが現実的な問題を提起する。


「怖いことを言わないでよ……」

「メレネーがしくじるわけがない」


 妹たちはこわばった顔を長兄に向ける。

 兄妹たちは最悪の結末を予期して沈黙するが、メレネーの存在に一縷の希望を見出す。


「メレネーは戻ってくるさ」

「間に合うのか? エレオノールを連れに行ったメレネーは戻って来ることができるのか?」


 メレネーはまだ存分に呪力を蓄えていると言っていたが、ただの強がりかもしれない。

 絵鳥がサン・フルーヴまで届かないかもしれない。

 さらに往復をしている間にファルマの仕業で呪力が消え果るという結末もありうる。

 失敗した場合、メレネーとの通信手段は完全に途絶する……その彼女を、ここで餓死するまで待ち続けるのだろうか。

 などと兄妹たちは口々に不安を口にする。

 妹のミナとベナは、懸念を振り払うように頭を左右に振った。


「メレネーの呪力は簡単に尽きたりしない。あの子を信じて、我々はできる限りのことをしよう」


 弱気になっていても埒が明かないということで、長兄アイパが咳払いをし、手持ちの霊を一体呼び出す。


「パラル」


 祖霊パラルと呼ばれる霊は、メレネーが兄妹たちの情報収集のために置いていった。

 メレネーは帝国語をすでに覚えているので、サン・フルーヴ帝都に乗り込んでも帝国人と意思疎通が図れる。

 アイパは緊張した面持ちで鋭くパラルに問う。


「この大きな球体の中にファルマ、お前たちの言う霊の王がいるか」

『おそらく、そのようだ。私にはよく見えないが、対面したときの質感が似ている。現在は地下に進んでいる』


 祖霊パラルは少し浮いて、地下を透視して淡々と告げる。

 兄妹たちは顔を見合わせて頷く。

 マイラカ族がファルマの気配を感じることはできなくても、霊に聞けばわかる。


「やはり霊のことは霊にきけとはいったものだな。ファルマを追えそうか」

『これ以上近づけない。奴が霊を退ける結界を作っている。無理に侵入しようとすれば私は消えてしまう』


 祖霊パラルが中に偵察に入るのを拒むので、アイパは下がらせた。


「では我々が」

「ああ。だがどうやってこの中に入れば……継ぎ目のようなものがあるか」


 アイパがファルマのこしらえた鉄壁を力任せに杖で殴るが、びくともしない。

 レベパが苛立ちのあまり地に杖を突きたてる。

 霊も助言を与えられず、閉口してしまった。


『メレネーの持っていたルタレカならば、消せたかもしれないのだがな。手放したものだから……そうやって壁を殴っているほかにない。愚かな』


 パラルがちくりとメレネーの選択を謗る。


「ルタレカはメレネーがファルマに託した。……あれは我々にも、メレネーにも扱えないものだった。あれでよかったのだ。過去の選択は常に正しい」

「わかっている」


 アイパがたしなめ、ベナが頷く。

 彼らが無為に時を費やしていると、背後から騒々しい物音が聞こえてきた。

 土煙を巻き上げて、轟音とともに何かが押し寄せてくる。数頭からなる馬の蹄の音だ。


「待て。何かくる」

「人か、獣か?」

「馬に乗った人間のようだ」

「まさか帝国人が追い討ちを?」

「やれやれ、帝国人のお出ましだ。ここで餓死することはなさそうだ」

「話がこじれて殺されてもか? サン・フルーヴの者とは限らないだろう」

 

 聖帝エリザベスの取り計らいもあり、東岸連邦と大陸諸国は敵対していないが、辺境では周知されていない可能性もある。

 兄妹たちは戦闘となることも予期し、不安そうな表情で身構えた。


「東岸連邦の者だな!」


 馬上から声をかけてきたのは、十名以上の武装した神官らのうちの一人の男だった。

 眼光は鋭いが、杖を構えていないことから交戦の意思はないとうかがえる。

 霊を呼び寄せることを許容しているように感じたので、アイパは大きく声を張って堂々と答える。

 アイパの発言を祖霊パラルが同時通訳する。


『そうだ。東岸連邦マイラカ族の首長一族だ。この霊は無害だ』

「よく心得ている。大神殿麾下の神官、サロモンという者だ。争うつもりはない。ここで何があった」

『おそらくはお前たちも知る、霊の王の仕業だろう。ファルマと名乗っていた』


 サロモンと名乗った帝国人は霊の通訳に耳を傾けている。

 神聖国と東岸連邦は交流があり、神術と呪術の技術研究などが行われていた。

 その折には霊を介しての通訳が行われ、神官らも東岸連邦の人々の文化の一形態として、霊の使役を容認していた。

 言語や文化を異にする人々とやり取りができるのは、常日頃の地域間の交流の賜物だ。


「そうか。ではファルマ様が中に」

「中への侵入を試みるか」


 神官らの声に動揺の色がにじむ。

 侵入を躊躇う神官らを冷ややかに眺めながら、パラルは分析を続けている。


『かの霊の気配はあるが、この奇妙な球体の出現によって視界が遮られ、まだ姿を確認していない。それらしきものが一定の速度で下へ遠ざかり続けている、その深度は、この地上の構造物の二倍以上に達している』


 パラルは神官らにもわかりやすい比喩を心掛けているようだ。


「情報提供、感謝する。土属性の負の神術使いならばこの壁を削れるかもしれない。この世の金属は全て土属性神術が支配している」

『待て、目的は同じだが、お前たちは壁を削ってどうしたい。壁と言っても一層ではない、三層もあるのだぞ』


 マイラカ族と神官、両者の間に緊張が走る。


『ファルマを止めるのか』


 彼らの膠着した空気を破って、遥か頭上から「おーい」と呼ぶ声が聞こえる。

 振り仰げば、滑空してくる大きな鳥がいる。

 アイパが地上から歓声を上げる。


「見ろ! メレネーだ!」

「もう戻ってきた。さすがは我らが長だ」


 メレネーが操る絵鳥の上には、二人分のシルエットがある。

 約束通り、エレオノール・ボヌフォワを連れている。


「エレオノール、診よ!」


 メレネーが鋭い声でエレオノールに促す。


「いる……! ファルマ君がいるわ、地底深くに。まだ見えてる、見失わないわ……!」


 地上へ降り立ちながら、彼女は診眼を発動していた。


「やはりいたか。いいぞ、パラルの透視と一致した」


 メレネーと彼女の兄妹らも嘶く。

 エレンの一言を聞いたサロモンが手短に計画を告げる。


「ファルマ様のなさることを妨げない。ただ、ことが起こった後、ファルマ様を救出できるよう我々の神術が途絶える前に避難路を確保する」

『この壁を取り払えば周囲への被害は免れないがどうする、国の一つや二つは滅びてもいいか?』


 アイパがパラルを通して尋ねる。 


「すでにこの周囲に国はない。三層の壁、三つの入口のうち互いに真裏に避難路を確保すれば、衝撃吸収の機能を阻害するまい」

『良案だ』


 マイラカ族たちと神官らは合意し、高々と拳を掲げた。


「今日を惜しんでなんとする、神力は一片たりとも残すな」

「はっ!」

「急げ、もう時間がない!」


 サロモンという神官が宣すれば、それにこたえて土の負属性を持つ神官らが答える。

 彼らは陣形を組み、聳え立つ金属壁に突き立てた。


「”地殻の分解(Décomposition de la croûte)”」


 後先考えない、凄惨な出力の神力が幾重にも重なり合う。

 周囲を光の海へと塗りつぶしてゆく。



 ブリュノ・ド・メディシスは階段を降り、守護神殿のさらに地下へと進む。

 地下神殿から、守護神殿の管理するサン・フルーヴの広大な地下墓所へと接続する通路を、彼の靴音が一定の間隔でこだまする。

 積み上げられた骸骨の中を行けば、いつかその中の一つに加わるのだろうと強く意識される。

 螺旋階段を下り、今回の計画の要となる巨大な塔型装置のふもとへと近づく。

 この装置は、有識者会議にかかわる者たちの間で、

 秘匿名「墓地の隙間(Écart du cimetière)」と呼ばれていた。


 この装置の設計から開発までには多くの人々が携わっているが、最後の過程ではブリュノがたった一人で操作を行う。

 たしかに複数名で確認や操作を行えばより正確性が担保できる。

 その反面、複数名の神力が紛れ込み、神術の純度が下がる。

 それを防ぎ、神力の純度を保つ。


 装置の最下部に辿り着いたブリュノは、氷結した地底湖のような氷床に降り立つ。

 氷床には、「迅速融解」「完全融解」「氷の揮発」「再結晶」「神力の凝縮」を組み込んだ多数の神術陣が、逐次起動するよう組み上げられている。

 ブリュノは神術陣の中心に聳え立つ装置「墓地の隙間」の、円柱を垂直に積層したような構造を見上げる。

 各層の周囲には、特殊な晶石が氷の神術によって円を描くように固定されている。

 神力を凝縮し神術陣を介して装置に通じれば、神術氷が融解し、下層から順に人の脳を模した神術陣へと落下して固定される。

 すべての晶石が装置から落下し適切な位置へと配座されたとき、封印されていた墓守の集合自我へと繋がる晶石ネットワークが起動する。

 集合自我が顕現する直前に、その要の役割を果たす晶石を特殊な神術で破壊する。


 ブリュノは万感の思いで、ある種清々しい思いでネットワークのコンソールに立つ。

 この数年、使うことのなかった自身の神杖を愛おしげな所作でひき抜く。

 自らの手に世界の人々の存亡がかかっている、そう思えば肌は自然と粟立つ。

 成功を確信しながら、ブリュノは自身に残された最後の神力を、神術陣へと惜しみなく注ぎ込んだ。


 神術装置「墓地の隙間」は予期した通り神力を増幅し、晶石の輝きがほとばしる。

 ブリュノは回路に満たされてゆく光跡の行方を、鋭い視線で追ってゆく。


「さて」


 ブリュノが有識者会議に敢えて報告していなかったことが、たった一つだけある。

 それは、この作戦が終わったとき、ブリュノは生還しないこと。

 この神術装置が役目を果たしたら、上層から降り注ぐ大量の水に溺れてしまう。

 神術水はブリュノもろとも再結晶化するために、直後に訪れる神術のなくなった世界では、誰もブリュノを援けることができない。

 彼はここを死に場所と決めた。


「……これでよい。そういう約束だろう? タイス、私はお前にそう誓った」


 ブリュノは生まれることのできなかった長女の名を想う。

 16年前のあの日、ブリュノは禁術の呪いの代償として、身代わりとせざるをえなかった。

 娘の命よりも自身が生還する道を選んだ。

 それは薬学の道を究め、誰よりも他者を病から救い命を繋ぐのは自身に他ならないと確信していたから。

 そのような選択をしたからには、後からより優れたものが来たら、杠のようにその場を退かなくてはならない。

 

「ようやく……あの悪夢から楽になれそうだ」


 一人の神術使いとしての最期を、恍惚として受け入れる。


(辺縁回路を一次から連合領域まで統合)

(中枢回路へ接続、統合回路へ接続)

(増幅経路を起動。冗長系を確認、全統神術陣へ連結)


 もはや無我の心境で、それでも術の行方を見逃さない。

 融解をはじめた氷は神術水となり、その奔流は上段からブリュノに襲い掛かる。

 衝撃に脳髄を揺さぶられながら、ブリュノは刮目する。

 もう、最後まで見届けなくても神術の連鎖反応は止まらないが、その瞬間は目撃したい。

 その時を待っていると、ふいに目の前を閃光が迸った。

 

「な……」


 ブリュノの神力を凝縮し完璧に制御されていた筈の神術陣が、何者かによって絶たれた。

 行き場をなくした神力は予測不可能な挙動を起こし、神術回路は壊滅的な損傷を受けている。


「……!?」


 ブリュノらが七年もかけて緻密に積み重ねられた計画が、

 神術装置「墓地の隙間」もろとも瓦解してゆく。

 わずかなずれも許さない、組み上げられた晶石のネットワーク。そのはずだった。

 それが、ブリュノのまったく予期しない異質なものへと書き換えられてゆく。


 彼は動揺のため脱力し、神杖を取り落とす。

 鈍い音を立てて床に転がった自身の神杖に目を向けた直後、目を見張る。

 側面に輝く青い晶石の色が、ブリュノが使っていたものと僅かに異なっていることに気付いた。

 ここ数年、ブリュノは神力を持ちながらも神術を使うことができなかったので、杖に神力を通じたときの晶石の発する色を見誤った。


(まさか! 何者かに晶石をすり替えられた)


 ブリュノの神杖の外見はシンプルなもので、一見貴重なものに見えないが内部に神術陣を巡らせ、完全に透明な晶石を直列に連ねて神力を増幅する繊細な構造を持つ。

 神杖を身に帯びていないときは、寝室の金庫に厳重に保管していた。

 外部からの侵入はありえない。

 そう断定できるのは、金庫の鍵が破られた場合には、侵入者を二度と外には出さない構造になっているからだ。

 家族、使用人、弟子の誰一人にも開錠方法は教えていない。


(誰に、いつやられた)


 犯人を突き止めたところで意味がない、万事手遅れだ。

 杖の異常に気付かなかった自身の愚を恨む。

 ブリュノが神術使いとして万全の状態であれば軌道修正は不可能ではないが、

 ブリュノはもう、霊薬の呪いによりたった一度として神術を使えない。

 ブリュノは最後の一回分をこの時のために温存していたが、今使い切った。


 一度発動した神術を修正できないまま、破壊されてゆく。

 これでは鎹の歯車を止められず、墓守を制御できない。


 そう悟ったとき……ブリュノは全ての時間が止まったかのように錯覚した。

 目を瞑ったままのブリュノの脳内に、何者かからのメッセージが鏡文字で書きつけられてゆく。

 ブリュノは記憶の糸を手繰り、あることを思い出した。

 その筆跡は彼の息子、10歳以前のファルマ・ド・メディシスのものに他ならなかった。

 ブリュノの理解が及んだとき、メッセージは父に届いた。


『お久しぶりです、父上』

 

 少し遅れて、記憶の彼方にあるファルマの声が頭の中に反響して聞こえた。

 ブリュノはもはや自身の正気を疑う。

 この声は、自身が作り出した幻聴なのか、実際に鼓膜を通して聞こえている音波なのか。

 どちらのようでもあって、真贋がわからない。


『動かないでくださいね』

「なっ、いかん! 何をするつもりだ!」


 ブリュノは声を振り払おうとするが、金縛りにかかったかのように体の自由がきかなくなっている。

 脳内の「彼」の存在によるのだろうか。

 いや、そもそも果たしてそれは『彼』なのだろうか。

 認識の土台が揺らぎはじめた。


『この世界の破綻を回避するため、この時空をホログラフへと変換し、私たちの存在を一つ次元を引き上げて下位次元の現象として投影しようとしています』


 ブリュノは思考が遅延して、もはや声が出ない。

 

「それは神術なのか……!?」

『神術のように見えるかもしれませんが、違います。私は科学の話をしています』


 彼がとある異世界(地球)の人々と、その世界の科学を用いて導き出した最適解における空間解釈(※1)だというが、ブリュノには理解が及ばなかった。


『任意の次元の量子の情報は、ひとつ下の次元の表面に全てを記載することができます。情報は本のページを改変するように書き換えることができ、何も破綻させず時空のふるまいを規定することができるのです。この世界が位置する領域を量子もつれで括って、スピンフォームから創発した枠組みの中で記述をすれば』


 見えない力に操られたブリュノの杖が、流れるような軌跡を描く。


『例えば天類 万理の解も』 


 ブリュノの目の前に、拳大ほどの黄金の液滴が浮かぶ。

 あらゆる呪いを無効化するという、ファルマでさえ創れなかった神薬が顕現したのだ。

 

『天類 神薬・千年聖界も』


 その隣に、青白い水滴が細やかに結晶化する。

 ブリュノは知っている、それは悪霊をこの世から千年駆逐すると言われている神薬だ。


『宙類 庇護の露も』


 甘露を受けた者を一定期間回復させ続ける神薬、その芳香にブリュノは酔いしれる。


『地類 再誕の神薬も』


 数日間、瀕死者の命をつなぎ止める神薬。

 持ち主の手を離れたブリュノの杖を通して、異世界に由来するファルマの到達できなかった最上級の、天類の神薬の数々がいとも簡単に顕界する。

 幻のような目くるめく現象が、現実のものとして現れては消える。


『創り出すことは造作もありません』


 それこそ、書籍の文言を簡単に書き換えているように。


『いわゆるタイプIII文明(※2)以上の科学技術の前には、いかなる空想物語ファンタジーも、科学の文脈の中に破綻なく回収できます』

「お前は……何を言っているのだ。実際には何をしている」


 ブリュノは常識と信じていた前提が崩れ去る音を聞いた。

 これが夢や幻であればどんなにましだったか、そう思いさえした。


『もっとも単純な説明では、私は本を書き換えています』


 ブリュノを支配する声は躊躇いながらも言葉を繋ぐ。

 高みへ至った者が、何を見ているのか。

 理解のできない言葉が紡がれている。

 打ちひしがれながら、ブリュノは耐えがたい痛みを覚えていた。


『空間の本質は情報であり、私は一人の異世界の青年とともに、情報の更新を果たそうとしています』


 幻想だろうか、幻覚だろうか。

 神力は途絶え、その記憶だけが神話の中に残る。

 呪力は消え、民間伝承として語り継がれる。

 霊は滅び、墓守は役目を終える。

 世界は更新されるのだろうか。


『ですからセンス・オブ・ワンダー(※3)なき虚構の世界は、これで終わりです』


 ブリュノの脳裏には新たな地平が開ける予兆を得た。

 形のない情報が、謎の概念が、これほどまでに絶対的に「場」を支配するとは。



 幼き日の我が子に「知は力だ」と教えたら、

 その究極の応用を見せつけられている。

 教えられたのは、自分のほうだったのかもしれない。



 それは世界が終わる数時間前。

 地球側の薬谷 完治から受け取ったドローンが、ほのかな光を放ちながらファルマを先導する。

 鎹の歯車と地球側のつながりが切れたころから彼とはもう久しく連絡はとれないが、一方通行であっても彼の存在を心強く感じている。

 次第に闇が深くなり、視界はきわめて不良だ。

 自らの放つ青白い光も、闇に吸い込まれてゆく。

 鎹の歯車が近づくにつれ、薬神紋が光を増し、脈うち疼きはじめる。

 いったい何と共鳴しているのだろうか。


(静かだ……)


 あらゆる音に耳を澄まし、空気の流れにすら全身の感覚が研ぎ澄まされる。

 洞内の壁面に滴る水音、自らの呼吸音、ドローンの駆動音。

 いつ何が現れてもおかしくない。

 神力はまだ尽きない。

 もし尽きれば奈落へと真っ逆さまだ。

 二度と這い上がることはできないだろう。

 助けは来ない。

 何故ならこの、巨大な竪穴に来ることのできる人間はいないから。

 地底へと到達できるだけの神力量を片道分は残してあるが、帰還用ではない。

 壁面伝いに降下し、地中深くなるにつれ、土壁にうっすらと地層が形成されているのが見えた。


(地層……異世界にはなかったものだ。ここは局所的に地球に繋がっている……?)


 縦穴の地層に埋もれるようにして、人工物の一部が見える。

 先行するドローンのライトが反射して、その居場所を示すように不自然に光っていた。

 ファルマは思わず驚いて声を上げる。


「えっ?」


 注意しながら人工物に触れてみる。

 手で土を払い落としてみるとボロボロに朽ちたプラスチックのペットボトルだった。

 ファルマはこれまで異界の研究室から異世界に数々の地球の人工物を持ち込んだが、異世界で地球の人工物が出土しているのを見たのは初めてだ。


「なぜ、これが?」


 ミネラルウォーターのパッケージだ、質感が懐かしくもある。

 印字は殆ど消えているが、かろうじて日本語が読み取れる表記がされている。

 キャップを見ると、消費期限と窺える刻印が2027年3月と打刻されていた。


 地層は粘土質……。

 火山灰を含む、ということは火山活動がある証拠だ。

 何の変哲もない秘宝化していない、地球のゴミだ。

 ポリエチレンテレフタラートは分解されにくく、分解酵素を用いない場合、ペットボトルが分解されるのにかかる時間は四百年以上。

 そのペットボトルが朽ちている様子から、数十年から百年以上は経っている。

 殆ど変形していないので、高熱や圧力には晒されていない。

 ファルマはペットボトル一つを見て、そこから様々な情報を読み取る。


(ここに日本語のペットボトルがあるということは……ここはかつて、日本と繋がっていたんだろうか)


 薬谷の職員証が神殿の秘宝として出土したのは、そこが東京と繋がっていたからなのだろうかと推測する。

 

(もしくは、俺は過去にここに来たことがある)


 一体何が正しい情報なのか、今のファルマには確かめるすべはない。

 さらに地下へ進むと、年代をさかのぼって異なる人工物が出土する。


(そしてこちらの地層は……地球のものですらない)


 ファルマは地球文明だけでなく、未知の文明にも遭遇する。

 この鎹の歯車は数々の宇宙と接続しながら、今日まで駆動を続けてきたのだろう。


(それも、今日で終わらせる)


 鎹の歯車の入り組んだ構造の、内側へと入りこんでゆく。

 緩急をつけて駆動し続ける歯車がファルマの進路を阻み、うっかりしていると切り刻まれそうになる。

 かつてピウスがそうだったように、人が入り込めばあっという間に肉片と化すだろう。

 物理的なダメージを受けないファルマだからこそ侵入できる。


(鎹の歯車の素材を解析)


 薬谷 完治の供与した、表面から非破壊的な検査方法で各種合金判別のできるハンドヘルド型の成分分析計を使って、表面素材の簡易検査を行う。

 既知の金属、合金とも一致せず。


 隙間から隙間へ、歯車から歯車へと飛びうつって最下層を目指す。

 歯車のある階層を抜けると、ドローンが急に揚力を失って落下してゆく。

 ドローンの光はあっという間に小さくなって奈落に消え、見えなくなった。

 ファルマは早速道しるべを失った。


(なぜ落ちた? クワッドローターは全て回転したままだった……)


 そういえば、……かなりの速度で降りているのに、ファルマの髪がたなびかない。

 肌には空気の流れを感じない。


(そうか、ここは真空なのか)


 気付いてみれば、呼吸をすることも忘れていた。

 もうとっくに、呼吸をしなくてもよい体になっていたのかもしれない。

 宇宙空間へも往還できる薬神杖の飛翔性能が流体力学を利用したものではなくて助かった。

 宇宙空間とも錯覚される闇の中を数キロほど下ると、ようやく底が見えてきた。

 青白い光を湛えた、幾何学模様の描かれた床に足が触れる。

 竪穴の底へと到達した。


 人類の科学を凌駕した人工物の出現に、ファルマは最大限の警戒をする。

 先に落ちたドローンが粉々になっていた。

 薬谷 完治が予測していた、鎹の歯車の底だ。


(ここか)


 地球側の協力者たちの奮闘により、鎹の歯車は地球との接続が切れた。

 異世界側に残されたそれはひとたび闇日食が始まれば、守護神の残渣を貪食し尽くし、また新たな鎹の寄生先を探し広大な宇宙をさ迷おうとするだろうが、それも今回で最後だろう。

 最後のチャンス闇日食のタイミングで、この異世界時空を正常化させる。

 ファルマは時刻合わせをしておいたスマホの時計を見る。

 闇日食までの時間はあとわずかばかりに迫った。

 予定していた時刻になる。


「……ん?」


 わずかな振動を検出した。

 鎹の歯車は大きな振動を立てはじめ、軋みながら回転数を上げはじめる。


(きた……)


 上階から順に下層へと、鎹の歯車の構造が変化し、空間が閉ざされてゆく。

 ファルマは完全に闇に飲み込まれてしまった。

 光源はというと自らの放つほのかな神力の光のみ。

 無音の中で、鎹の歯車機構の最下層の底蓋が開いた。


(まだ、鎹の歯車は駆動している……動いている間に最深部に入り込まなければ)


 底蓋から放たれた閃光の中に飛び込むと、浮遊感とともに視界がホワイトアウトする。


 ファルマは気付くと、見渡す限り無限に広がる硬質な人工物の平面上に倒れていた。

 存在しない神経の接続を確かめながら体をもたげると、重力がある。

 視界に入ったのは規則正しく並んでいる無数の石碑のようなもの。

 墓地のような場所だった。

 広大無辺の墓地から天を見上げると、満天の星が広がっている。


(予定通り、世界の果てに辿り着いたんだろうか)


 これが幻覚なのか、現実なのかファルマにはもう確かめるすべがない。

 それでもまだ、薬谷 完治の筋書きの通りに事は運んでいる。

 ファルマは彼の描いた計略を逐次思い出す。


【最下層に到達したら、墓地のような場所に辿り着くはずです。そこはいわゆる管理区画、歴代の守護神たちには別の名で、墓地と呼ばれていました】


 異世界の管理者が、歴代の守護神たちに墓守と呼ばれてきた理由。

 その理由が、ファルマはこの空間に入るまで分からなかった。

 しかし今なら一目瞭然だ。

 たしかにここは、墓地のように見える。

 ファルマは立ち上がり、墓石の一つに近づいてあらためる。

 墓石のように見える台座型の構造物の側面に、透明な棒状の晶石が刺さっている。

 その晶石が放つ燐光のような輝きはあまりに儚く、美しかった。

 しかし、見とれてはいられない。


【私の墓を見つけてください】


 その墓地には守護神らに加え、全ての異世界人の「墓」があるという。

 墓の内部に格納されている晶石には記憶データがリアルタイムに蓄えられていて、記録の終わった晶石は光を失う。

 墓地といえば局所的に聞こえるが、莫大な広さで、一つの惑星に匹敵するほどの敷地がある。

 過去数百年にもわたる死者の名を刻み続けてきた墓地の中からたったひとつの墓石を、何の情報もなく探すのは容易ではない。

 だから、アドレスを聞いていた。


【私の墓は361区画22列15番にあります】


 ファルマは空中に舞い上がり、361区画にある「ファルマ・ド・メディシス」の墓石を探す。

 探し出すまでに小一時間ほどかかったが、薬谷が事前に区画わけの印を教えてくれていたために、薬神杖を使って上空から探すことができた。


「あった」


 ファルマの名が刻んである墓石を見つけた。

 自分の名と対峙すると、死に場所を定められたようで、戦慄に心が崩れそうになる。

 ファルマは斜め掛けにしていたバッグから、緩衝材に包まれた棒状の結晶を取り出す。


【その墓石の中に格納されている特殊な晶石がありますから、その一つをすり替えてください。これは管理者の権限を奪う修正プログラムのようなもので、地球側からの干渉が可能になります。もともと格納されている晶石は右に二回、左に二回、右に一回と回せば外せます】

 

 ファルマが晶石に手をかけ、回そうとしたその時だった。


【ただ、それを試みた時点で、墓守も何らかの防御プログラムを発動させるかもしれません】


 薬谷の言葉が頭をよぎったとき、墓地の内部が不安定化をはじめた。

 空間が波うちはじめ、ファルマを襲うように衝撃波が吹き荒れる。

 墓石の位置が入れ替わりはじめ、表面の刻印がはがれ始めた。


(っ……やっぱりか! 墓石の位置を攪乱させるつもりだ!)


 ファルマは異世界薬局から持ち出していた糖尿病患者の血液をファルマ・ド・メディシスの墓石にバイアルごと投げつけてガラスを割り、付着させた。

 こうしていればどこへ紛れようとも、診眼がこのサンプルを見つける。

 この空間にある限り診眼を使って位置を特定することができる。

 それを阻むように、小さな人影がファルマの目の前に現れた。


『にぃに』


 ファルマの目の間に手を広げて立ちはだかった少女は、幼き日の、それも健康だったころのちゆの姿をしていた。

 ちゆの面影はその当時と何一つ変わることなく、ファルマの記憶を反映しているのだろうと予測がつく。

 この空間では、記憶をもとに虚像を創り出せるのだろう。


【記憶という情報が蓄えられたその場所では、”不適切”な記憶を見るかもしれません】


(……死者の記憶はどっちなんだろうな)


 あるいは自らも、ある世界では紛いものでしかない。


『ここ。暗くて寒いよ。はやくおうちかえろ。お母さんもお父さんも待ってるよ』

「ああ……」


 ファルマは俯いて答える。

 その答えに安心したかのように、ちゆの幻は嬉しそうに飛び跳ねる。


『今日の晩ごはんはハンバーグだといいな! にぃには何がいい?』

「そうだな……。でもお前はちゆじゃない」


 ファルマは在りし日のちゆの姿にトラウマをえぐられながらも、辛い現実に向かい合う。


『なんでそんなこというの』


 少し涙目で、怒ったときには口をとがらせる。

 体を揺らすそのしぐさも表情も、イントネーションさえ、あの頃のちゆとそっくりだ。

 ともすれば、場違いな追憶におぼれ、良心の呵責から逃れるためにその存在を肯定して認めてしまいそうになる。

 しかしファルマの心は揺るがなかった。


「もう、脳腫瘍で亡くなった薬谷ちゆはいないんだ。新たな世界線で脳腫瘍を克服して成人し、新しい伴侶と幸せに暮らしている。その歴史が最適解となった。もう救われたんだ。不幸な少女はいなくなった。俺はその事実を受け入れる」


 悔しさとやるせなさを噛みしめながら、彼女の幻に呼びかける。


『にぃにはちーちゃんのこと嫌いになったの? ちいちゃんのこと、どうでもいいの?』


 ちゆの幻はまさに悲痛な声を出し、ファルマにすがる。

 彼女の魂の絶叫はファルマの心にも届いている。

 落ち着いて、彼女の声を聴く。


「嫌いになんてなるものか。だから、これ以上苦しまなくていい」


 ファルマは決然として、ちゆの記憶を神力で薙ぎ払った。


「ファルマ様。今日、もしお時間があれば一緒に買い物に行きません?」


 消滅したちゆの残渣を塗りつぶして入れ替わるように、ロッテの幻が現れる。

 その幻もまた本物と見まがうほど、リアルな質感を伴っている。

 彼女の幻を消せないでいると、ファルマの躊躇に付けこむかのように、ロッテの隣にエレンの姿が現れる。


「ファルマ君、こんなところで何をやっているの。ね、薬の仕入れのことで相談があるんだけど……今年はグリップのⅡ型が流行りそうだから、ワクチンを多めに発注しようと思って」


 エレンの口調はかつて耳にしたそれと同じ調子で、思わず返事をしてしまいそうになる。

 何もかも元に戻ることができたなら、思い切り息抜きをしたかった。


「兄上、薬草園を野生化したノディフローラ(ヒメイワダレソウ)に襲われているんだけど、どうやって除草したらいい? 手でとるにも限界があるの。あと、黒星病予防の農薬の作り方だけど……」


 薬草園で作業中らしきブランシュがファルマに助けを求める。


「ファルマ、生物学的製剤を設計しているんだが、いつ予定があいている?」


 パッレが資料を片手に楽しそうに話しかけてくる。


「ファルマ様、週末にジュ・ド・ポームでもいかがですか? 私の所属するクラブが新規の会員を募集していまして……ぜひにと」


 背後から現れたセドリックが朗らかに誘う。


「ごめんね」


 次々に背後から現れる幻像に、ファルマは神力を当てて彼らを消滅させ、振り払う。

 全ての幻を消し去った後、さきほど探し当てた自分の墓石に標識として用いた血液の所在を探す。

 ほどなく、目的の墓を見つけた。


 ファルマは最短距離でそこへ到達する。

 この場所は急速に神力を消耗してゆくのだろうか。

 自身の神力が底をつきそうだ。


 残された最後の神力を駆動し、神術を繰り出す。


 チカッ、と。

 何かが閃いた。


 ファルマの両腕の薬神紋は、組みひもがほぐれるように剥離し崩壊する。


(もっとだ……!)


 飛来する光の束に襲われ、存在が摺り下ろされて寡くなってゆく。

 苦痛もおそれもない。

 ただ、存在のすべてで不思議な感動を味わっている。

 それから先は、ファルマの意識の連続性は絶たれて、永遠の静寂が訪れたように感じた。



挿絵(By みてみん)


 ……。

 …………。




 大脳新皮質から少しずつ、意識に光が差し込んでくる。

 自己の認知がはじまる。

 どれほど時間が経っただろう。

 暗闇の中で、「彼」は意識を取り戻した。

 意識は混濁しているが、痛みは感じない。

 自発呼吸をしているか、確認できない。


 脈拍は正常。

 聴覚。

 物音がわずかに聞こえている。

 「彼」が肉体に宿っているのだと気付いたのは、角膜上皮に刺さった異物によってだ。


(今度は、どこにいる……俺は、どこに?)

 

 恐る恐る瞼を開く。

 周囲に光はなく、網膜に像を結ばない。

 眼球運動の方向が垂直方向のみに限られていることにも気づいた。


(口も開かず、舌も動かせない。ということは、動眼神経、滑車神経までは正常……外転神経と顔面神経、舌下神経はだめかもしれない)


 さらに状況を確かめる。

 発語ができない。

 唾も飲み込めない。

 呼吸はしているが、意識的には出来ない

 どうも脳幹の中枢に重大な損傷を負い、全身に麻痺があるらしいとは認識した。

 幸いなことに呼吸中枢は無事なようだ。

 全身状態がどうなっているのか。

 それ以前にここがどこで、この意識が誰のものなのか、「彼」には何もわからない。


 少なくとも二つの人間の記憶が自身の中に残っている。

 理解できるのは、この状況では助けすら呼べず、生還は極めて難しいということ。


(これはおそらく……閉じ込め症候群だ)

 

 閉じ込め症候群とは、認知能力を残したほぼ完全な全身麻痺の状態だ。

 眼球運動とまばたきのみ、自発的に動かすことができる。


 助かりたいのだろうか。

 このまま消えたいのだろうか。


 ただ、少しの猶予があるのなら、ただ滅ぶのではなく変貌した世界を知りたいと思った。

 何もかもうまくいったはずだ。

 自分以外は。


 この状況で、生還のためにできる努力は限りなくゼロに近い。

 そもそも、自らの手で張り巡らせた防壁が救助を阻む。

 もし仮に……幾重にも幸運が重なって発見されたとして、自身に意識があることに気づく医療者がいるだろうか。


 ……難しいかもしれない。


 はっきりとした意識の中で、彼は世界の再生を願っている。

 鎹の歯車の崩壊によって異世界との連結は切断された。

 この世界は物理法則に基づく神術なき世界へと更新を果たした。

 それもまた一つの解であるこの時空に賭して、世界をよみがえらせるかもしれない。


 人々は何度でも助け合って、異なる歴史を重ね、進化の解を導き出す。

 知らない宇宙の片隅で、生命の営みを継承してゆくのだろう。

 そこに自分がいてもいなくても。


(せめて、意識が続く限りは起きていよう。それが生還のための唯一の努力だ)


 決して寝てはならぬ。

 彼はそう、自らに課した。


【謝辞】

本項の閉じ込め症候群の部分は、医師・医学博士のなぁが先生にご指導いただきました。


【作中注】

※1…超ひも理論、ループ量子重力理論、ホログラフィック理論における複合的な空間解釈。

※2…タイプIII文明は、カルダシェフ・スケールにおける4 × 10^37Wを消費する規模の文明。

   プランクエネルギーを操ることができる。

※3…新しい概念に直面したり、時間や空間における意識の拡大によって引き起こされる畏怖の感覚。サイエンスフィクションの要素のひとつ。自然現象に触れたときにも生じる。

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