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【完結済】異世界薬局(EP4)/【連載中】世界薬局(EP4.1)  作者: 高山 理図
Chapitre final 愚者の実験 Expérience d'ignorance(1152年)
142/151

9章9話 喪失と波紋

 神聖国の守護神、ファルマ・ド・メディシスが予告なく失踪した。

 シャルロット・ソレルは、宮廷を臨むアパルトマンからド・メディシス家の屋敷に一時戻ってきた。

 そこは心の実家とも呼べる場所だ。

 一見しては以前と様子は変わらないが、邸内の混乱はド・メディシス邸に灯る明かりがいつもより格段に少ないというところにも見て取れる。


「おかえりなさい、シャルロット。よく帰ってきてくれたわ」

「おかえり、ロッテ」 


 従前通りベアトリス付きのレディメイド、上級使用人を務める母カトリーヌや、使用人仲間らの出迎えに、ロッテは涙をこらえながら身を預けた。

 シモン、セドリックの、疲れ切った顔も見える。

 家族も同然に過ごした、使用人時代の仲間たちが懐かしい。

 母の顔を見ると、様々な思いが押し寄せて胸が詰まり、膝がくだけて体に力が入らない。 

 カトリーヌはあらら、と言って彼女の体をふわりと支える。


「……ちゃんと食べてる? 食べられていないわね、お前らしくもない、お腹がすいていなくても食べるようにしなさい。皆が心配するわ」

「うん……ごめん、ごめんね。ちゃんと食べるようにする」


 ロッテは無理やりにひきつった笑顔を張り付けて、そう返すので精一杯だ。

 今日はいつものようにカトリーヌや使用人仲間への手土産も持ってきていない。

 そんなことに気づく余裕もないほど、精神的にボロボロだった。

 自分はひどい顔をしているに違いない、とロッテは自覚する。

 ロッテの個室は引き払ってほかの使用人に譲っているので、当面の帰省にはカトリーヌの部屋を使う。


「明日は薬局の勤務が入っていたかしら」

「ううん。しばらくはないわ。エレオノール様が、ド・メディシス家をよろしくって」

「そう……エレオノール様にもお気を遣わせたわね。あの方は強いお方だわ」


 ロッテは異世界薬局の現況を話す。

 あの日を境にしても、異世界薬局グループは全店舗営業を続けている。

 何より、ファルマが薬局の存続を望むだろうということで、エレンが気丈にも店を開けている。ファルマの失踪を織り込めず、大暴落している株価のことはもう知らない。

 スタッフの不足と、ファルマの安否を問う問い合わせに対応する要員を補うために関連店舗から応援を呼んでいるが、ファルマの失踪の影響は計り知れない。

 大げさな話でもなく、少しずつ広まりつつある悲報に、帝都市民全体が絶望に打ちひしがれている。

 ロッテは常連客から彼の不在を問い詰められるたびに、感情を押し殺して応対するエレンの横顔を思い出す。

 痛々しかった。

 それでも、あの場にいた誰もが心の生傷からとめどなく血を流しながらでも、彼の望んだように薬局としての日常を続け、日々の患者を癒してゆくほかにない。

 担当薬師たちは私語を慎み、以前にもまして患者に向かい合い仕事に打ち込んでいた。難病患者の引継ぎも随分前から行われていて、エレンは「知らない間に軌道に乗せられていたよう」と口にするぐらいだ。

 忙しさに身を任せて奮闘する彼らをサポートしながら、薬局専従でもなく医学的な専門知識を持たないロッテの出る幕はなくなっている。

 それどころか足手まといかもしれないと感じた。

 沈んだ表情は、癒しと救いを求めて人々の訪れる薬局にはそぐわない。


 ロッテの懊悩がピークに達していたとき、ファルマの書斎とその持ち物の保全にロッテの記憶が必要だとのことで、カトリーヌにド・メディシス家に呼ばれた。

 この世界の慣習として、ファルマに限らず一定以上の地位にある貴族の安否が知れなくなったとき、その財産や権利、証書関連が散逸しないよう、ひとつ残らず記録する必要があった。

 ファルマのいた時間を切り取って現実逃避し続けることは許されない。

 いなくなった人物は、いなくなったものとして扱われる。

 ド・メディシス家にも否応なく喪失は押し寄せて、それと向かい合うよう強いられていた。

 俯きがちだったロッテを気遣って、エレンがそちらに行くよう促してくれたのだろうと思っている。


「お母さん、ブランシュ様のご様子は」


 ロッテは身を竦めながら尋ねる。

 ロッテですら日暮何も手に着かないのに、実妹のショックはいかばかりだろう。


「直接お会いするといいわ。ブランシュ様はファルマ様のお部屋にいらっしゃるから。お食事の準備をしたのだけれど、今朝から何も召し上がっていないわ……」


 ロッテと同じように、ブランシュも食欲が著しく減退しているようだ。

 憂慮すべき状態なのだろうか、カトリーヌは言葉を濁す。

 時刻は夜八時を回っていた。

 ロッテは荷物を置くと急いで身支度を整えて、ファルマの部屋に引きこもっているブランシュを尋ねた。

 彼女はすでに独立してド・メディシス家の使用人ではないので、普段着でファルマの部屋の扉をノックする。

 

「ブランシュ様。シャルロットです。ただいま戻りました。軽食はいかがですか?」


 ロッテがファルマの室内に入ると、明かりもつけずにベッドに倒れ伏していた。

 ファルマのベッドに埋もれるようにして、ぴくりともせず平たくなっている。

 ロッテは嫌な予感がして彼女の安否を確認する。


「ブランシュ様! ご無事ですか?」

「ロッテ。私は大丈夫、ごめんね。大丈夫じゃないのは兄上のほう」


 顔を枕に伏したまま、ブランシュは力なく答えた。ファルマのにおいが残っているだろうか。いや、彼は無臭だった。あたかもこの世界に最初から存在しないかのように、何の、生の痕跡といえるものがなかった。彼のにおいがあるとすれば、彼がオフの日につけていた香水だ。


「ブランシュ様……」

「どうしてかな……兄上、いなくなっちゃったの」


 ブランシュの声は艶を失いしわがれて、喉は乾ききっているようだ。

 衰弱しているのだろうか、ベッドの上から起き上がる気力もないようだ。

 ロッテは彼女の、実兄の喪失の深刻さを慮る。

 何とかベッドの上に支え起こして、ロッテはブランシュの好きなフレーバーのお茶を供する。

 水の神術使いが神力を帯びている間、常に自身の周囲の水分や湿度をコントロールしている。正属性の水の神術使いの脱水状態は特に危険だというのはド・メディシス家の使用人たちの常識だ。泣きすぎてはいけない。最悪意識障害につながる。

 なんでもいいから、水分を取らせなくてはならない、とロッテは危機感を覚えている。


「これ、兄上が買ってきてくれたやつだね」


 ブランシュはまたファルマを恋しがり、彼女の頬をとめどなく涙が伝う。

 ロッテは彼女が目の下に大きなクマを作っているのをこの時初めて見た。


「遺書があるんだって。兄上はこの家にいる家族全員に手紙を残していたんだって。ロッテ宛てにもあるんだよ。もう読んだ?」


 ブランシュは顔を覆った指の間から、恐る恐るロッテの顔をうかがう。

 彼女の瞳には恐怖の色が色濃く表れている、ロッテはそう読み取った。


「そうだったのですね……まだ、拝読しておりません」

「でも、どうしてかな。兄上の最後の言葉なんて、読みたくないの。読んでしまったら、本当に兄上が死んじゃったような気がして、事実が確定するような気がして嫌なの。母上も父上も家の皆ももう読んでしまって、私とロッテがまだ読んでない」


 カトリーヌからは遺書が存在すると聞かされていたが、ロッテはそれを読むのを後回しにしていた。

 理由はブランシュと同じ心境だ。


「もう、何も考えなくていいかな。大好きな兄上なしに、私はこれからどうやって生きていけばいいんだろう。教えて、ロッテ……」


 涙をこらえきれなくなったブランシュの肩に手を添えて、ロッテももらい泣きをして二人で抱き合って悲しみを分かち合う。


「今、思えばしっくりくるんだ。兄上がどんなに頼んでも私を弟子にしなかったわけも、エレオノール師匠に店を譲ったわけも、これから何がしたいか訊いても答えなかったわけも、私の誕生日に何年先まで使える写真のアルバムに少しだけ写真を入れてくれたわけも、勿忘草の押し花を一緒に作ったわけも、全部わかってしまったんだ」


 あんなにヒントがあったのに、私はなんて薄情なんだろう、とブランシュは嘆く。


「兄上は優しい人だったから、色々抱え込んでいたのに誰にも何も言えなかったんだ。それなのに私は……何も気づかなくて。兄上に何をしてあげられたんだろう」

「ブランシュ様、ご自分を責めないでくださいまし」


 何もできなかったのは自分も同じだ、とロッテも胸をえぐられる。

 同じ思いをしているブランシュにかける言葉が見つからない。

 ファルマなら泣きじゃくるブランシュに何というだろう。と考えを巡らせる。


「あっ、ブランシュ様、明かりを消しているので、窓から星がたくさん見えますよ」


 ロッテは無理やり元気な声を出して、裏庭に面した窓を勢いよく開け放つ。空気のよどんでいた室内に、新たな風が吹き込んでくる。

 生ぬるく乾燥した夜風が部屋に舞い込んできて、まっさらのカーテンが室内でふわりと揺れる。

 窓の外には雲一つなく、晴れ上がった夜空に星が輝いてみえた。

 ロッテは星空に気づいて「あっ」と思った。


「私は、俯きたくなったときは空を見上げることにしています。どんなに暗くても、暗ければ暗いほど明るい星が見えます。ファルマ様の存在は闇を照らす星のようでした。ファルマ様が悪霊を退けてくださったので、私たちはまた悪霊におびえず夜を好きになることができました」


 ロッテはまだ、「その神力は大陸中に及んでいる」と言っていたファルマが生きているように思えてならない。何故ならこんなにもきれいな星空が広がっているから。

 ファルマの神力は雲を払い、高気圧をもたらすと、彼自身が言っていた。


「ファルマ様もきっと、どこかでこの星空を見ているに違いありません」

「そうかな……だといいな」


 ブランシュも泣き止んで、ロッテに寄り添って窓辺にたたずむ。

 ロッテが薬神を見つけたあの夜に、宇宙の奥行を教えてくれた彼への祈りを込めながら、無事を信じている。


「ブランシュ様、チョコレート食べません? 溶けかけですけど」

「食べる……頑張って元気だす」


 ファルマと空の上で神術陣の絨毯に腰掛けて星空と地上の星を見ていたとき、信じられないような絶景の中でファルマがくれたとけかけのチョコレートの、ほろ苦く甘い味を覚えている。

 もう、あの星空は地上から見上げるほかにないけれど……と、二人でチョコレートを食べながら思い出がロッテの胸に詰まる。


「あれ……?」


 ロッテは一瞬見間違いかと思った。

 開け放った窓のガラスに、室内からの光源が反射している。

 光といっても、ランプの光ではない。

 もっと人工的な、長方形をした窓枠のような光が、ファルマのサイドテーブルの上に載っている。


「……なんだろう、これ」


 職業柄、人一倍光源の位置や質感には敏感なロッテははやる気持ちを抑えて振り向くが、サイドテーブルの上には何もない。


「えっ⁉」


 窓ガラスには光源が映っているのに、実物は存在しない。

 ロッテは幻を見ているかと錯覚し、思わず頬をつねってみる。


「ロッテ、どうしたの?」

 

 ロッテは窓ガラスではらちが明かないとファルマの鏡を持って、サイドテーブルの上を映す。

 鏡の中には、やはりはっきりと輪郭と質量を持つ光の板が存在していた。

 光板の中には、見知らぬ建物群が映りこんでいる。

 この光の質感を、ロッテは知らない。無理やり似ているものをこじつけようとすれば、小さなスクリーンの上に映画が投影されているかのように見える。

 そういえば、映画館のスクリーンに投影する以外に映像を映す方法として液晶というものがある、そっちのほうが綺麗に見えるとファルマが言っていた。

 何気なく聞いていて概念だけは知っている、ファルマの言っていたその液晶画面なのだろうか。

 ロッテが思い切り戸惑っていると、光板の一部がさらに四角く切り取られて、その中に手書きのサン・フルーヴ帝国語が書きつけられてゆくのが見えた。


「えっ、えっ⁉ 鏡を見てくださいブランシュ様」

「えーっ⁉ 鏡の中に」


 ブランシュもロッテに促されて鏡の中を覗き込んで驚く。

 長方形の光板の中に現れたもの、それは……手紙だった。

 誰に宛てた手紙なのかは、すぐに分かった。


【ブランシュ、ロッテ。久しぶり。落雷の日以来だな】


 ブランシュはチョコレートを取り落として息をのみ、ロッテは思わず呟いた。

 液晶と思しき画面には、ファルマの正規表現でのサインが書かれていた。


「この筆跡……って」


 ロッテはその、久しく見ていなかった特徴的な筆跡を覚えていた。

 あの落雷を境に失われてしまった懐かしい筆跡がそこにあった。

 かつてのファルマ・ド・メディシスはどちらかというと角ばった文字を書いていたが、落雷後のファルマの字は癖が強く、まるっこくなっていた。以前とは筆跡が異なっていたため、サインも公的に変更したはずだ。

 すっかり新しい筆跡に慣れてしまっていたが、ロッテが元のファルマの筆跡を忘れたわけではない。

 ロッテはファルマが幼少期に使っていたノートを取り出してきて、筆跡を見比べる。

 ロッテはこちら側と意思疎通を図ろうとする何者かの正体に思い当たる。


「ファルマ様……?」

「待って、ロッテ。信じちゃだめ、偽物かも。そうでしょ!」


 ブランシュがロッテをたしなめる。

 そう言われて、ロッテも一理あると思いなおす。

 危なかった、もし悪霊か何かの仕業であれば、まんまと術中にはまってしまっていた。

 ブランシュは涙を引っ込めて腰の神杖を構えながら、いつでも神術を使えるようにしておく。 

 ブランシュの杖の先端が輝き始める。


「もしあなたが悪霊ではなくて前の兄上なら、今の兄上が忘れてしまった私のドゥードゥー(添い寝人形)の名前もわかるはず。答えて」


 ブランシュは、元のファルマでなければ解けないクイズをしかけた。

 ロッテも知っている。

 ブランシュのドゥードゥーは小さなウサギのぬいぐるみで、ココと名付けていた。

 紛失してしまって、今はもう屋敷にはない。

 ブランシュは鏡の中ではなく、サイドテーブルの上の空間を狙うことにしたらしい。


挿絵(By みてみん)


【三歳の時になくしたやつのことか? うさぎのココだ】

「ほんとだ。ちいさいあにうえだ……」

「ファルマ様です……」


 何の引っかかりもなく回答されては、ロッテもブランシュも認めざるをえない。

 異世界人のファルマいわく、元のファルマはまだ生きているものの、ロッテたちには近づけない場所にいるとのこと。

 それが何故なのか、詳しく教えてくれなかった。

 異世界人のファルマがいなくなったから、元のファルマが現れたのだろうか。


「一体、何が起きているの? 元気? どこにいるの?」


 ブランシュは杖を放り出し、ロッテとともに鏡の中を覗き込む。


【心配はいらない。俺だけではなく、「彼」も今は無事だ。二人に手伝ってほしいことがある】


 まるでこちらの答えが聞こえているかのように、鏡の中の世界を通じて筆談と対話のやりとりが始まった。まるで時間が巻き戻されたように、ロッテはかつてのファルマの記憶を取り戻す。

 それを嬉しく思うと同時に、もの悲しくも思えてしまうのだ。

 元のファルマの存在が濃くなればなるほど、ロッテが思いを寄せ、振られ、それでもなお慕っていた、あの異世界人のファルマとの別れがそこに迫っているように思えてならなかった。


【やってくれるか?】


 彼の話を聞き終えたブランシュは、大きく息を吸い込む。

 直後、「絶対無理だって―っ!」という悲鳴が中庭にこだました。


 ◆


 ド・メディシス家の庭に奇妙な悲鳴が聞こえたその翌日の朝。

 ファルマが失踪して初めて、サン・フルーヴ宮殿にて有識者会議に緊急招集がかかった。

 有識者会議はこの日までに神殿関係者、学術関係者、帝国関係者あわせて五十名ほどの規模となっていた。

 会議室に集まった彼らは言葉も少なく、ショックを隠し切れない様子だ。


「ファルマの動向はつかめたか」

「いえ。依然として行方はしれません。闇日食までまだ日があるのですが、先を越されました。不覚でした」


 声を絞って報告を上げるブリュノはもはや放心状態に近い。


「神殿の秘儀をもってしても、神力探知が無効になっています。常に聖域と神力だまりを作っておられたファルマ様が帝都を去ったとて、大陸におわす限りはその所在は理論上検出できるのですが、大陸には反応がありません。そればかりか、東岸連邦守護神殿分院にも反応がないとの電報です」


 サン・フルーヴ帝国には神力の痕跡もなくなっている。

 完全なる消滅だったとジュリアナも報告書を手に補足する。

 神官らも同席し、口々にエリザベスに報告する。

 その場にサロモンの姿はない。


「ふむ……これまでとは事情が違うようだな」


 エリザベスはつとめて冷静を保つように、声を低く抑えている。


「彼はこちらの計画を知っていたのか?」

「いえ、彼は知りえなかった情報であると愚考します」

「では本人の意図せぬまま消えたのか」


 ファルマに有識者会議の動向を密かに内通していたノアの表情には一片の曇りもない。

 神妙な面持ちで立哨にあたっている。


「ファルマが神力を失ったという線はないか?」

「その可能性もありましょうが、そうなると帝都から移動したかどうかすら把握できません。最速で移動しようにも透明化し神術を失った状態では薬神杖の飛翔も通常の交通手段も使えず、旧神聖国へ向かう馬車等を乗り継いでいくほかにありませんが。賢明な守護神様ですから、そんな原始的な移動手段ではないと思われます、過去の実績からすると、気球や航空機も視野に入ります」


 応じるリアラ・アベニウスの声が細ってゆく。

 ファルマを絡め捕ろうとしても、巻かれてしまう。

 霞を掴むように、彼は手に負えない。

 だから、ファルマを最後まで監視下に置いておけなかったのは大問題だ。


「失踪の当日、彼は異世界薬局店舗に出勤する予定でしたが……カウンターに急用とのメモが残されていました。あのような書き方をするからには、何か予想外の出来事があったのかもしれません」


 エレンがそう伝えて、悔しそうに歯を食いしばる。エリザベスのため息は深い。


「消滅を経験し、予定より早く旧神聖国へ向かったのだろうが……解せぬな」


 順張りで考えれば、ファルマは旧神聖国に向かったのだろう。

 だが、旧神聖国にはそれらしき神力だまりがないという報告だ。

 この情報をどう解釈すればよいか、闇雲に捜索すれば永遠に彼には追い付けない。

 エリザベスは瞳を閉じてファルマの足跡を辿ろうと思案する。


「旧神聖国は今、人が立ち入れぬようになっておるか」

「はい。常人ならば。ただファルマ様が神力を失っていないとすれば、空中から接近可能です。すでに旧神聖国に隣接する地域には、サロモン様らをはじめ精鋭の神官団が待機中です。鎹の歯車による周辺住民への被害を想定して救護所も立ち上げてございます。現時点でファルマ様の行方が知れずとも、必ず鎹の歯車の遺構を訪れるかと。我々も現地に向かいますか、聖下」


 ジュリアナがエリザベスの決断を促す。


「うむ、無論だ。とはいえ旧神聖国に至るまで数日。どれだけ急いでもファルマには追い付けぬだろう」

「闇日食までまだ時間があります。我々は陸路の最短距離で急行すべきです」

「出立は本日、遅くとも明日朝にでも」


 ブリュノも賛同し立ち上がる。


「クララ・クルーエを随行させ、順路を定めよ」


 例によって旅神を守護神に持ち、予知能力を持つクララに白羽の矢が立っていた。


「は。往路の選定をさせましょう」

「それがよい、急ぐぞ」


 出立の打ち合わせで、議場が騒然としていたときだった。

 廊下から騒々しく複数名が駆け寄ってくる足音が近づいてきた。

 聖帝も気づいて耳を傾ける。

 一瞬の静寂ののち、扉番を吹き飛ばして鋼鉄製のドアをけ破り、議場に颯爽と現れたのは一人の少女だった。


「ここにエレオノールがいるだろう! ファルマを空から追うぞ!」


 東岸連邦・マイラカ族の長、メレネーの登場だ。

 彼女を取り押さえようとする宮廷の侍従らを引きずりながら乱入してきた。


「メレネーか! 東岸連邦にいたのでは」


 エリザベスが驚いて叫ぶ。


「そうだ。一昨日まではな。一日かけて大陸を渡ってきた。呪力消費が著しいので私しかここまでは来れなかったがな」

「あの呪術、絵鳥を使ったのか」

「そうだ」


 彼女は長らく封印してきたマイラカ族の呪術の粋、絵鳥に乗って空からきたのだ。

 旧神聖国は、新大陸とサン・フルーヴ帝国の間にある。

 最長距離を飛べるメレネーは旧神聖国に立ち寄らず、途中で飛べなくなった兄妹たちを旧神聖国に置いてファルマの捜索にあたらせ、まっすぐサン・フルーヴ帝国に来た。

 大陸間を呪術で渡りきったあと、さらに神聖国まで往復など、メレネーでなければできない芸当だ。

 さすがは一時的とはいえファルマを圧倒するほどの呪力を持ち、マイラカ族の長を務めているだけある。と議場のメンバーも舌を巻く。

 メレネーは彼らには目もくれずずかずかと進んで、予告通りエレンを連行しようとする。


「エレオノール。時間がない、すぐ行くぞ」

「ええ。連れて行って。メレネー」


 エレンもメレネーの瞳をとらえて、真剣な面持ちで頷く。

 それをエリザベスが引き留める。


「待て、何をしようとしている! ファルマを止めようとしているのか」

「ファルマのなすことを邪魔はしない。ただ、隙あらば救出しようとしている。お前たちも概ね同じ考えだろう」

「そのようだな。では余もつれていけ」

「は? 断る。お前はいらん」


 エリザベスも同行を申し入れたが、無碍に断られた。

 聖帝をして足手まといと吐き捨てるメレネーに、議場の面々は青くなる。


「私には大陸間を超えて旧神聖国まで、三人を乗せて飛べるだけの呪力の余力がない。今はエレオノールの特異な能力だけが必要なのだ」

「そうか。では我々はあとから追う。そなたら、ファルマを頼んだぞ」

「うるさい、私に指図をするな」


 メレネーは気が立っているようだ。

 エリザベスもそう言われては閉口してしまう。


「待ってメレネー、行くわ。すぐ荷物を取ってくるから」


 エレンはファルマが持っていた救急カバンの中身を再度確認し、そのまま持ってくる。


(薬も効かない、怪我もしない彼には必要ないものかもしれないけれど、持っていなくて後悔したくないから)


 エレンはメレネーの操る絵鳥に乗り、宮殿の庭園から大勢の人々に見送られて飛び立った。

 後に残されたエリザベスが、大きく息を吐き、傍に控えるブリュノに問う。


「やれやれ。薬神との知恵比べは、薬神の勝ちか?」 

「いえ。例の計画には聊かも影響はございません」


 ブリュノは落ち着いた口調で応える。


「なるほど。それは頼もしいことだ」


 ブリュノの毅然とした物言いに、エリザベスが挑発するように瞳を眇める。


「それではただちに計画を実行せよ」

「は、直ちに」


 エリザベスの命を受けたブリュノはその足で、供もつけず宮廷内の守護神殿へ赴く。

 一階部分の聖堂を通り抜け、地下へ至る通用口へと進む。

 通用口の扉の前で呼び止められる。


「これは尊爵。これより先は立ち入り禁止でございます。本日のご用向きは」


 悪霊や不審者の侵入を防ぐため、神殿内の重要区画に至る要所要所や秘宝を祀っている宝物殿には、戦闘用神杖を持った門番の神官がいる。

 ブリュノは門番に目配せをし、エリザベスから賜った勅書の表紙を見せる。


「どうぞ」


 門番は扉を開いた。

 悪霊はおろか守護神であるファルマをも通さない、最高レベルの対霊神術陣の回廊を通過し、目指すは神殿の地下施設だ。


 ブリュノは地下室へ至る扉の前で立ち止まる。

 照明すらない暗がりの中、神術によって施された封印を解き、床に敷き詰められた神術陣を踏んで密室へと足を踏み入れる。


「私の役目はようやく終わりそうだ」


 最後の仕事として、七年間の計画を完遂させるときがきた。

 墓守を操り、ファルマの計画を援けると同時に、彼の消滅を阻止する。

 墓守の思考を形成する枢要となるインターフェイスは、これほどまでに近くに存在していた。



 息もできないほど速度を上げるメレネーの腰に手をまわし、冷え切ったその背中にぴったり寄り添う。

 メレネーの焦燥がエレンにも痛いほど伝わってくる。


「急ぐぞ。ファルマの存在が完全に消滅し、この世に神術と呪術なき世界が訪れてしまう前に。何もかも、この絵鳥すらも消えてしまう。そうなれば我々も地上に真っ逆さまだ。呪力が弱まる前に兆候はあるだろうが、緊急着陸に失敗した場合、素直に命はない」


 メレネーは余裕のない顔で絵鳥を操りながら、エレンにも覚悟を求めた。

 呪力の出し惜しみはしない、とも言い添えた。


「承知の上よ。空気抵抗を減らせるから、できる限り高高度を全速力で飛んで」


 エレンも即答する。

 空気抵抗を軽減させるために、体を低くして絵鳥に添わせる。

 メレネーが飛翔に全速力を出していれば、それだけ地上に激突するエネルギーも大きくなる。


「すまないな、巻き込んで」

「謝らないで。私を迎えに来てくれてありがとう」

「ああ、お前は連れていくべきだと思った」

 

 メレネーはエレンの言葉にこたえて、少し口角を上げた。


「でもどうしてあなたはファルマ君が消滅したってわかったの? こちらの状況は戒厳令でまだ大陸には伝わっていないでしょう」

「ファルマが大陸に来たからだ。私には見えなかったが霊が教えてくれた」


 霊たちがファルマの訪れを告げるも、メレネーには見えなかったという。


「あなたにもファルマ君の存在は見えなかったの?」

「ああ、霊たちがそこにいるという場所には少し異様な感覚はあったが、彼はこれまでとは異なる状態になっていた。霊を仲介しても、意思疎通は図れなかった」

「……もしかして、私を連れに来たのは」

「お前にはファルマと同じ能力があるはずだ。以前から、私の霊がそういっていた」

「ああ……そうだった!」


 エレンは腑に落ちたといった反応をする。


「ちなみに、まだ使えるのか?」

「使えるわ」

「そうか、ならば来た甲斐があったというものだ」


 メレネーの言葉を聞いて、エレンはどうして気付かなかったのだろうと悔やむ。

 初動がもっと早ければ。

 存在は見えなくても、声は聞こえなくても、ファルマが消えた瞬間に、せめてその日のうちに、診眼を使って彼を探していれば。

 帝都を去ろうとする彼を引き留めることができたかもしれないのに。

 状況を受け入れられず、帝都をぼんやりと眺めていた躊躇いの時間だってあったのかもしれない。


(私たちがカウンターの上のメモと鍵を見つけてファルマ君のことを案じていたとき、彼は私たちのすぐ目の前にいたのかしら)


 ファルマが薬局を去ったあと数日経ってメレネーたちのもとを訪れたのは、帝都の人間にはない特別な呪力を持っていたメレネーをたよって、彼女に最後の別れを告げるためだったのだろうか。

 メレネーに存在を気付いてほしかったのだろうか。

 様々な思いがエレンの胸に交錯する。

 そのメレネーが、ファルマを見つけられずにエレンを迎えに来た。


(私はあれだけの時間彼とともにいながら、彼の主治薬師にも理解者にもなれなかった。往くとわかっていたのに、止められなかった)


 それはどこかで、彼は不死身で不滅の存在だと思って彼の終わりを信じなかったからかもしれない。と彼女は気付く。

 最初から、そうではなかったのに。

 悔しくて、とめどなく涙があふれる。

 メレネーの集中を妨げぬよう、エレンは声を殺して涙を流す。


(それでもまだ、終わっていない。私にしかできないことがある。私の身にある薬神紋はまだ生きている。神術も呪術もまだ生きている。それは彼がまだ健在だという証。診眼なら、ファルマ君の居場所を特定できる……)


 世界でただ一人、エレンがファルマから受け継いだ力がある。

 ファルマの存在は見えなくても、診眼は彼の位置を暴き出す。


(彼が私にくれた力。それを今度は、彼を救うために使うわ……!)


 ファルマが見えなくなった前日、最終講義の日の記憶をたどる。

 エレンが最後に診眼を通して診た壇上の彼は、普段のごと、血のように赤い光に染まっていた。


(今度こそ、あなたを治してみせる)

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