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【完結済】異世界薬局(EP4)/【連載中】世界薬局(EP4.1)  作者: 高山 理図
Chapitre final 愚者の実験 Expérience d'ignorance(1152年)
141/151

9章8話 さよなら

 1152年8月14日。

 サン・フルーヴ大市が例年通りに開催され、その影響で通りに面するサン・フルーヴ医薬大は祝日だった。

 大市でにぎわう市民たちを微笑ましく眺めつつ、誰もいないだろうと思いながらファルマが研究室にやってくると、研究室の鍵があいている。

 研究室に踏み込むと、ファビオラが研究室のカウチに寝そべってストッキングを脱いで裸足を投げ出していた。あまりにも無防備な体勢だったために、ファルマは声をかけていいものか躊躇する。

 彼女は寝そべった状態で、映写機の映像を見ていた。


「あら」


 ファビオラに先に気づかれてしまったので、ファルマは会釈をする。


「ファビオラ先生、おつかれさまです」


 ファルマはなんと微妙な場面に居合わせたと思いながら頭をかく。

 ファビオラは頭をもたげたものの起き上がる労力を惜しんで、ソファに沈んだ。ふわりと酒気を感じた。


「ごきげんよう、教授もお疲れさまです。お菓子、一緒につまみます?」


 彼女はサイドテーブルの上にたくさん広げられたスイーツやスナック類を指さす。

 ファルマは彼女に対面するように腰かけた。


「ちょうど小腹がすいていたので、いただきます。何をしておられたんですか?」

「教材研究ですわ。教授から引き継ぐ講義の映像記録を改めて見ていたんですの」


 ファビオラの熱い視線は、フィルムの中の教壇のファルマにそそがれていた。

 ああ、そうだったのかとファルマは少し気恥ずかしい。ファルマが担当したすべての講義は余さず映像と筆記で記録されていて、質疑応答集も完備している。

 ファビオラはそれを参考に講義の引継ぎができるようにしている。


「お疲れ様です。今日は祝日ですので、お疲れのないようにしてくださいね」


 それにしても、職員の労働量は各自の裁量に任せているとはいえ、ファビオラはいつ見ても働いているようなので、診眼では特に健康問題は検出されていないが彼女の健康が少し心配になってくる。


「家でも仕事をするしか趣味がないので、だらだらしているぐらいなら出勤したほうがましというものですわ。なにより、自宅は孤独を実感しますの。教授は何かご趣味などはありまして?」

「最近は特に何もしていないですね。ファビオラ先生は何かありますか」

「わたくし、趣味はドライフラワーづくりですの。数がまとまったら、市で売ったりしていますのよ」


 ファビオラの居室に飾ってあるドライフラワーの見事なブーケは、確かに高品質な仕上がりだった。あれは手作りだったのだなと感心してしまう。


「ファビオラ先生の神術ならきっと鮮やかな発色のドライフラワーができるでしょうね」

 

 ドライフラワーは早く乾燥させるほど花弁の色が鮮やかに残る。

 ファビオラの水の負属性の神術で一気に脱水してしまえば、質の高いドライフラワーになるだろうなとファルマは納得した。


「今、サン・フルーヴ大市が開催されていますでしょ。ですから新鮮な花材が気になっておりまして」

「大市にはいかないんですか?」

「教え子に会ったらと思うと恥ずかしいですわ」

「では大市を一緒に見に行きますか。私は教え子と会っても特に気にしませんので、私の付き添いと言うと恥ずかしくないですか」

「まあ! お付き合いいただいてありがとうございます。教授は何か御用はありますの?」

「知り合いや友人が出店しているので、見に行きたいと思っていました」


 今回はロッテが雑貨店を出しているというので、立ち寄ると伝えていた。

 研究室に立ち寄ったのはそのついでといってもいい。


「そういえば祝日の教授は研究室に何を?」

「資料を取りに来たんです」

「ふふ。休日にお仕事ですか。わたくしとあなた、働き癖はそう変わらないのではなくて?」

「おっしゃるとおりで」


 なんか、似た者同士だなとファルマは苦笑する。

 異世界でのこととはいえ、何となく精神的にも血縁があるのではと思ってしまう。


「たまには外に出て気分転換もいいですわね」

「そうですよ。日光を浴びると精神にもいい影響を及ぼします」


 映写機を止め、スナックを片付けはじめたファビオラを手伝いながらファルマは相槌を打つ。


「自信をなくしていたところだったのです。こうして予習すればするほど、わたくしの生の講義より、あなたの映像音声をそのまま流していたほうが有意義な気がしまして」

「そんなことはないと思いますが」

「うまく言えませんが、あなたとは何かが違いますの。熱量でしょうか。カリスマ性でしょうか。わたくしにはきっと代役がつとまらないでしょう」

「私が映像の中でお伝えした言葉、情報はすぐに古くなります。ですから、現時点での知識が通用しなくなった際には、適切な手続きに基づいて更新し続けてください」


 ファルマはこの世界の未来の継続と、学問の発展の可能性を信じていた。


「あなたはその、更新してゆく現場にはいないんですか? そのお若さですから、病気なども考えにくく。以前より気になっていたのですが、どこか遠くへ行かれるのですか?」

「そうですね……」


 ファルマは言いよどむ。


「あーわかりましたわかりました」


 ファビオラが手を打って急に分かったふうな顔をしはじめた。


「駆け落ちなさるのでしょう!」

「ち、違いますよ……誰ともお付き合いしていませんから」


 ファルマはファビオラからの頓珍漢な嫌疑をどう躱せばよいのか分からない。


「あら、でもネタは上がっていますのよ。宮廷画家の若い娘と逢引きしているという噂が……」


 彼女が言い含んでいるのはロッテのことだろう。そして、今から大市で立ち寄ろうとしている店にロッテがいるというのもタイミングが悪く、彼女の憶測を裏付ける形となる。


「そういった話はありません。彼女は私の家のもと使用人で、幼馴染です。時折近況を話したりはしますが、付き合ってはいませんしお互いに縁談もありません」


 根も葉もない話ではないが、ファルマとロッテとは付き合っていない。

 真っ向から否定するのも微妙な気がするが、はっきりと否定しておかなければロッテのためにもならない。軽薄な感情ではなく、もっと根本的な信頼関係で繋がっている。

 彼女が支えてくれたから、ファルマはこの世界でファルマ・ド・メディシスに擬態して生き延びることができた。

 ロッテがファルマにどのような思いを抱いていようとも、少なくともファルマはそう信じていた。


「そうなの……彼女とは軽くお伺いしてはいけない間柄だったかしら」

「どういう意味ですか」

「色恋の関係ではないようにお見受けしましたわ」

「しいていうなら、家族のようなものです」

「そうでしたか。では彼女ではないとして、教授はご結婚はどうなさるつもり?」


 返す刀でさらに切り込んできたので、ファルマは言葉に詰まる。

 正直、恋愛や結婚を考えられる段階にないし、ファルマ自身ももうじきいなくなる。

 プライベートな話は控えてほしいと思うファルマだが、それはこの世界では通用しない。貴族階級の挨拶程度には聞いてくる。

 場合によっては見合い話の約束も取り交わされる。


「少し、困難な旅に出る予定があるので、誰とも関係を持ちたくないのです」

「無責任なことはできないというわけ? 戻ってこないかもしれない旅ですの?」

「そうです」


 ファビオラは半分ふてくされて、半分は困ったように頬杖をついた。ファルマを思いとどまらせるネタを考えているのだろう。


「そういうわけで、明日を私の最終講義にしようと思います」

「ええっ!」


 ファビオラはがばっとソファから起き上がって慌て始めたので、彼女の上着に引っかかって落ちたスナック類が床に散乱する。


「ああっ、すみません」


 ファルマはさっと掃除道具箱から箒をとって掃除をはじめる。

 ファビオラはまだモグモグしながらチリトリを構えた。


「最終講義って、最後の講義ですのよ。そんな告知が急すぎますわ! 晴れ舞台なのですから、大々的に告知もしてできるだけ多くの学生教職員を集めなければ! ああ、花束の支度もしなくちゃですし、祝電の受付も」

「特別な対応は不要で、告知もしないつもりです。普段と同じ心境で聴いてもらいたいので。夏休みを挟んで、引き継いでください」

「断っても、いなくなるおつもりなんでしょう」

「ええ」


 ファルマは涼やかに答えた。そのためにファビオラを後任にしているのだから。


「では仕方ありませんわね……後のことは、ご安心めされませ」


 ファルマはファビオラに納得してもらうと、気分を変えて彼女とともにロッテの店を訪れた。

 ロッテの店には長い列ができており、ファルマもファビオラも暫く待つことになった。


「まあ! ファルマ様とファビオラ様。ようこそお越しくださいました」

 

 接客をしていたロッテが先に気付いて会釈をする。


「こんにちは、ロッテ。繁盛しているね」


 ファルマがそう言いながら品揃えを見ると、今回は宮廷画家としてではなく、ハンドメイド作家のような立ち位置で出品しているようで、庶民的なデザインの雑貨が多い。

 小皿やカトラリー、ガラスのコップ。オリジナル刺しゅう入りハンカチ。コースター。ロッテの多才ぶりに、ファルマはいつも感心してしまう。

 宮廷画家の安定した収入に加えて、画壇での成功、仮に帝政が解体したとしても、こういった副業で生計をたててゆくことは十分にできそうだ。ロッテの自立を目の当たりにして、ファルマの心残りが一つ消えた。


「はい! 普段使いにできる雑貨をデザインしたくて」

「まあ。どれもこれも素敵ですわね。おすすめを聞かせてくださる?」


 ファビオラはロッテのデザインしたガラスブローチを買ってその場でつけてもらっていた。

 ファビオラの目当ての花材もたくさん仕入れて、ファルマは彼女の荷物を持って自宅に送った。


 ◆


 翌日。

 これで本当に最後の講義になるかもしれない。

 心境の整理はできていると思っていたのに、予想に反して感傷的な気分に戸惑いながら、ファルマは大講義室に入り、丁寧に黒板掛けをしておいた。

 大講義室には何も知らない学生たちが集まってくる。

 その中にはマイラカ族の学生の姿もあった。

 現在、マイラカ族は三名が帝国医薬大に入学して、総合薬学科の正規課程で学んでいる。

 彼の講義を引き継ぐファビオラも、ファビオラから何かを聞いたらしいラボメンバーも講義室の一番前に陣取っていた。

 講義資料は映像とマニュアルを作成しておいたから、あとのことは彼女に託す。

 第一期生の卒業を見送って、学生を送り出す道筋をつけられたから、講師は自分でなくてもいい。

 むしろ、自分でなければいけないという状況を脱することができてほっとしている。

 そのとき、講義室に入ってきたのは、エレンだ。


「ファルマくん」

「エレン! どうしたの?」


 ここのところエレンは大学内にはいなかったので、違和感がある。

 エレンは深紅のドレスを着て少しフォーマルな装いだ。

 ファルマが意外そうな顔をしていたからか、エレンは気まずそうに微笑んだ。


「んー、今日はなんとなくね。ただの一般聴講者よ」

「そっか。久しぶりに聞いてってよ」


 ファビオラがエレンに最終講義だと伝えたのかな、と詮索したが、エレンに直接は尋ねなかった。 

 講義の冒頭で夏休み前の定期試験のテストを返して、回答の解説をする。

 ここまでは私語もあり、学生たちもいつもの調子で聴講していた。

 ファルマが教科書を閉じ、次の言葉を黒板に書きつけるまでは。


『究極の医療について』


 講堂の空気が数度冷えたかのようだった。

 ファルマは医療倫理の講義も受け持っていたが、これまでに医療者の倫理を説くことはあっても、こういった強い言葉、極論を学生に問いかけることはなかった。

 何が始まるのだろうと訝しんだか、異様な雰囲気を感じ取ったのか。

 学生たちは私語を慎んで口を閉ざす。

 今日は学期末なので、少し思考実験をしようと思う。そう伝えたあと、ファルマは導入を始めた。


「私たちは今、患者さん個々の自己決定権を尊重し、限られた生の時間の中で、患者さんご自身の人生の質が保てるよう、希望に寄り添った医療を提供する。そんな医療従事者になれるよう日々努めていると思います。医療技術の力強い進歩によって、私たちは感染症を駆逐し、未知を克服して予測あるいは予防し、慢性疾患や希少疾患、悪性腫瘍に対する治療薬を手に入れ、健康寿命は伸長してゆくでしょう」


 人類を病から解放したとしても、死からは逃れられない。

 しっかりと向かい合ってほしい。

 究極を求め続けることは、人類に何をもたらすかを。

 医療は、病気を治すという段階を踏み越えて、さらに人体を改造し高みを目指すのだろうか。


「それでは十年後、二十年後、百年後……そして究極の医療とはどのようなものでしょうか」


 十分に考える時間を与えて、ファルマは手を挙げている学生たちを次々と当てて、黒板に書いてもらった。


・どんな外傷でも救命できる

・感染症にかからない

・何歳になっても健康に子供を出産できる

・薬を飲まなくても貼り薬で治療ができる

・老化しない体を手に入れる

・生殖系列遺伝子治療を可能にし、先天性遺伝子疾患を生じさせない

・平民も神力を使えるようになる

・万能薬を作る


 この世界ではてんで実現不可能な、しかしある程度は実現可能な発想が口々に聞こえてくる。疾患治療の範囲を超えて、遺伝子ドーピングのような発想も出てくる。

 ちなみに、生殖細胞系列遺伝子治療は、地球においては遺伝子プールの多様性を損なうとして倫理に反している。


・脳を他人に移植する

・脳の情報処理速度を向上させる

・体格、容姿、頭脳など、遺伝子操作によって思い通りの子供が生まれる

・人工子宮で出産から解放される

 

 ファルマは彼らの意見を否定せず、彼らの着想に至った経緯を想像しながら、希望や野望をありのまま受け入れ、俯瞰する。


「意見をありがとう。では私達がテクノロジーの恩恵を得て手に入れ目指す医療の行きつく先は、誰も病気にならず、誰もが老いや死から逃れられ、理想的な子供を手に入れる、そんな未来なのでしょうか。その場合、私たちはどのような問題に直面するでしょうか」


 ファルマは現実世界で起こった変革とその功罪を頭に浮かべながらさらなる問いを投げかける。

 学生たちにはグループを作って、とことん話し合ってもらった。


 不老長寿に対する問題も様々に提起される。


「誰もが健康で長生きできるなら、人口増加で食糧危機になってしまわないでしょうか」

「住む場所がなくなりますよね」

「もし誰も老いず、死ななければ、社会体制は永遠に変わらないですね」

「権力者が代替わりをしないということになる?」

「失業者があふれて、治安も悪くなりそう」

「私はそんなに長生きしたくないです。孫の顔を見たら死んでもいいかな」

「ずっと働きたくないので、そこそこで死にたいです」

「多分そんなに生きてもやりたいことがない」

「自然に食べられなくなったらそこが寿命かなと思います」


 最初は疾患治療のために用いられるはずの遺伝子工学技術にも運用や倫理上の懸念が出る。その疑問に、彼ら自ら直面してもらう。


「遺伝子操作の技術が悪用された場合は? 遺伝子操作で敵国が強い兵士を創り出してしまったら」

「美醜に対するこだわりが強くなるかも」

「親が子供の遺伝子に出生前に手を加えて、子供の意見が親と違ったら」

「遺伝子操作を受けた人とそうでない人の間に社会格差が生まれるでしょうか。ああ、でもそれは神術関連遺伝子を持つ現在の貴族社会にもいえることか」

「では、生まれつき能力が優れた人なら特権階級を作っていいの?」

「生まれつきなら仕方がないのでは?」

「生殖医療は許容されるのに?」


 様々な意見が飛び交う。

 学生たちにも千差万別の思想や懸念がある。

 倫理的にどこまで許容できるかの線引きも個々に異なる。

 ファルマはさらに意見を広げ、アンケートをとる。

 不老、不死、極端な長寿を望んでいる者は少なかった。

 日々の生活に不自由なく、適度に健康でいればいい。

 病気になったとき、効果が確実で確立された治療法に経済的負担がなくアクセスできればそれでいいという者は大多数だった。

 身体強化を望む者、優生学的思想を持つ者も一部に限られた。

 ただ、この講堂を出ればさらに多くの意見に直面するだろう。

 学生たちは、答えの出ない問題を揉み合って、だんだんと疲弊してきた。


「他人の権利を侵害しない範囲で何をもって人生の満足とするか、百人百通りの答えがあるのです。人類の共存繫栄のためには、医療技術の運用に対して必ず倫理面での慎重な検討と取り決めが必要です」


 ファルマは総括する。

 学生たちにファルマの思いが届いているか、今は分からない。


「私たちの医療はここまできました。あなたがたは、誰もが自分らしく、よりよく生きることができる社会を目指しながら、テクノロジーの恩恵と脅威に思いを馳せ、これから目指すべき到達地点と、その先を見据えていてください」


 ファルマは静かに滾る思いを少ない言葉に込めながら、そんな言葉で講義を終えた。

 普段の講義とは趣が異なっていたからか、学生たちは怪訝な顔をしている。

 今は分からなくても、そこへ到達しそうになったら、いつか思い返してくれたらいい。

 

「以上で本日の講義を終わります。ありがとうございました」


 ファルマが告げるとファビオラが顔を真っ赤にして立ち上がり、一人で始めた大きな拍手は、少しずつ大講堂に広がってゆく。

 傍聴していたエメリッヒやジョセフィーヌ、ラボメンバーたちは唖然としている様子だ。

 これで終わりだ、と気づいたからだろう。

 少し涙ぐんだエレンが、まっすぐにファルマを見つめていた。

 ファルマはやりきれなくなって会釈をし、壇上から降りた。


 ◆


「明日、ちょっと人手が足りなくて。お願い。午前中だけシフト入ってもらえない?」


 最終講義のあと、エレンがファルマに異世界薬局への出勤を依頼してきた。

 ファルマは終活に備えて少しずつシフトを減らしていたところだ。

 不自然なタイミングだが、エレンらはファルマの身を案じて、鎹の歯車へ近づかせず、できるだけ帝都にとどまらせようとしているのだろう。

 ファルマはエレンの配慮に感謝しながらも、彼女の気持ちには報いることができそうにない。

 

 翌日、薬神杖で裏庭に降り立ち、朝いちに出勤して異世界薬局の裏口の鍵を開け、店舗へ入る。書類の整理や、薬剤のチェックをしていると、裏口からロッテが入ってきた。


「ロッテ、おはよう」


 ファルマはいつものようにロッテに挨拶をする。

 しかし彼女からの返事はなく、目の前を通り過ぎて行った。

 彼女は機嫌よく鼻歌を歌いながら更衣室で制服に着替えると、カーテンのタッセルを結んでいる。箒を持ち出してきて、掃き掃除をはじめた。さすがにおかしいと思い、ファルマは緊張しながらもう一度声をかける。


「ロッテ」


 が、ロッテはすぐそこにいるファルマに、視線を合わせようともしない。

 ふと、街路を吹き上げた風が調剤室の窓枠を揺らす。

 彼女は箒を持つ手を止めてはたと顔を上げ、きょろきょろとあたりを見渡す。


「? ファルマ様のお声が……聞こえたような」


 ロッテはファルマを探すようなしぐさをしているが、ファルマとは視線が合わない。

 ロッテがほかの部屋に行ってしまうと、エレンが出勤してきた。ファルマはエレンに声をかけようとしたが……エレンはファルマの前を素通りしていった。


「おはよう、ロッテちゃん! ファルマ君はもうきた?」

「おはようございますエレオノール様。私が来たとき裏口の鍵があいていたのですが、まだ誰もきていないようです」

「あら、昨日の私、戸締りを忘れたのかしら。気をつけなきゃ。おかしいわね」


 エレンは納得がいかないといったように、首をかしげている。エレンが戸締りを忘れるということは稀だった。


(ロッテ? エレン?)


 目の前に二人がいるのに、彼女らにはファルマが見えていない。

 大きな声を出しても、声も聞こえていない。

 ファルマはすがるように目の前で手を振っていたが、やがてその手をおろした。


(そうか。そろそろ迎えがきているのか)


 暫く、半分は立ち尽くしながら、まるで幽霊のように、彼女らのすることを見ていた。

 少しは気づいてくれることを期待していた。

 しかし、その時間は彼女らがファルマの存在に気づかないという事実が確定してゆくばかりだった。誰もファルマを気にしていない。


 セドリックとルネがのんびりと出勤し、いつものように走ってきたらしいトムが息を切らせて顔を出す。

 シフト表を見るに、アメリは午後からの勤務。ラルフ・シェルテルは非番のようだ。


「ファルマ君、どうしたのかしら」

「ファルマ様、今日はいらっしゃるのですか?」

「きちんと引き受けてくれたから、約束をすっぽかすようなことはないと思うのだけれど」


 エレンとロッテがファルマの身を案じているというのが伝わってきた。


「いつもなら、そろそろ来ているはずなのに」

「どうなさったのでしょうか、先に出発されたと思うのですが」


 セドリックやほかの従業員らも心配そうだ。

 ファルマは彼らの表情を目に焼き付けながら、心の奥底からこみ上げてくるものを必死に押さえつけながら、静かに目を瞑った。


(……俺はもういないんだな)


 声も姿もなくなっても、存在だけは覚えてくれている。

 彼らの記憶の中に、ファルマはいる。


 最後に、診眼で薬局内の全員を診る。

 これまでと同じく、重篤な疾患の懸念はない。

 みな、健やかに日々を生きている。

 彼らにとっての日常はゆるぎないものだ。


 カウンターのメモ用紙に、急用ができたのでシフトに入れなくなった旨を記載し、ファルマが持っていた異世界薬局のマスターキーをメモの上に置いた。

 創業7年目の薬局カウンターには少し風合いが出てきた。

 細かい傷もついていて、その由来も少しは覚えている。


(さよなら、異世界薬局のみんな。みんなに会えてよかった)


 すぐに効果は消えてしまうだろうが、思いを込めて疫滅聖域を贈った。

 存在が消えてしまっても、ファルマの神力はまだ生きている。


「今……」


 店舗全域の空気が浄化されたのに気づいたエレンがはっと顔を上げる。

 ファルマはもう振り返らない。

 何も見えていないエレンを、そして異世界薬局にいる人々を直視できないから。

 ファルマは誰にも発見されずに、異世界薬局の正門を透過して出てゆく。

 自分で自分の姿は見えているのに、他人からは見えていない。


 可視光はファルマを透過している。

 屈折率はゼロになって。


(今日だったんだな、砂時計の砂が落ち切ったのは)


 ファルマはそう実感した。


 あたかも人々にとっての死がそうであるかのように、存在の断端は突然やってきた。

 いつかはこうなるとわかっていたのに、そうだと分かって全ての準備を整えてきたのに。

 何も恐れることはない。

 すべては計画通りだ。

 それなのに、そうかと受け入れるには抵抗があった。


 とてつもなく情けない顔をしているような気がするが、……かまうものか。

 こんなに大勢の通行人の中にありながら、誰も見ていない。

 この世界を名残惜しいと思っているのは、自分だけなのだろうか。

 目に映る光景の、この世界の何もかもがいとおしい。


 門扉をすり抜けて、異世界薬局の敷地から一歩外へ出る。

 街路の陽光も、真夏の熱気も、人々の喧噪も肌になじまない。

 ファルマは存在をこの世界から切り取られたように感じながら、大通りを歩く。


 街路を照り返す蜃気楼に存在がゆらぐ。

 何もかもほぐれて、溶けてゆくかのようだった。

 地を踏みしめて歩いていたのに、ついには足音も聞こえなくなった。

 そうして、ファルマはいなくなった。


 ◆


 帝都秘報(Le secret de la Cité impériale)

 1152年8月16日 号外。


 宮廷薬師にして異世界薬局グループ創業者ファルマ・ド・メディシス師(17)が、8月16日未明より失踪中とのこと。

 近親者に遺書、勤務先へ辞表が届いたことから、帝国、神聖国大神殿合同で、事件と事故の両面から極秘捜索が行われている模様。

 師は先月、異世界薬局グループ最高経営責任者を退いていた。

 失踪の経緯や動機などは明らかになっていない。

 同報には帝国および神聖国勅令による緘口令が敷かれている。


 小紙では、師の功績を振り返る。

 ファルマ・ド・メディシス師は世界最大のシェアを誇る公私合同の製薬企業を立ち上げ、黒死病、結核、天然痘などのこれまで不治とされていた数々の病の治療薬を普及させ、世界保健医療に革新をもたらし、ある試算では、創業以来のべ数千万人もの人々の命を救ったと評されている。


1145年 帝国宮廷薬師就任

      異世界薬局総本店創業

1146年 調剤薬局ギルド創立

      黒死病の防疫と世界的流行の終息に甚大な役割を果たす

1147年 筆頭宮廷薬師就任

      帝国医薬大学総合医薬学部教授就任

      マーセイル工場稼働

1150年 東岸連邦樹立を仲介

1151年 尊爵位授与を辞退

1152年 筆頭宮廷薬師退任

      異世界薬局グループDG退任


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