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【完結済】異世界薬局(EP4)/【連載中】世界薬局(EP4.1)  作者: 高山 理図
Chapitre final 愚者の実験 Expérience d'ignorance(1152年)
139/151

9章6話 一級薬師アメリの憂鬱

 1152年8月1日。

 その日の帝都は早朝から気温が上がり、猛暑日となる見通しだった。

 異世界薬局本店には長蛇の列ができている。

 彼らのお目当ては薬……でもあるが、店内冷房だ。

 異世界薬局が採用しているのは神術を一切使わない、地下水のくみ上げを利用した水冷エアコンだ。

 原理を教えて、忙しい中フランシーヌ姉妹に作ってもらった。

 同様のものは宮殿にも聖帝の部屋や会議室に設置され、この猛暑日の続く帝都では好評だという。 

 氷の神術陣での冷房とは異なり、湿度を低くできるのもメリットだ。


「今日は特に並んでいるね」


 ファルマが薬局の三階の窓から下を眺める。エレンもファルマの隣から覗き見している。


「暑いからかしらね……」

「ではミーティングを早めに済ませて営業しようか」


 DGはエレンに交代となったが、異世界薬局本店の店主はまだファルマなので、会議などはファルマが取り仕切る。


「ええと、アメリさんはまだ来てない……議事録は作っておくからいいよね」

「ミーティングがあるというと必ず寝坊しますよね。どういうことなんですかね。大切な業務にまつわる会議なのに、理解しかねます」


 朝いちで鍵を開け、ファルマたちが来る頃には掃除まで済ませている同期入社のラルフ・シェルテルがつぶやく。嫌味を言っているのではなく、事実を述べている。彼は少し、思ったことをオブラートに包まずそのまま言ってしまう癖があった。


「起きないといけないと思うと逆にプレッシャーになるのかもしれないわ。そういうことってあるでしょ」


 エレンは苦笑しつつアメリをフォローする。


「ありませんね。普通はないでしょう」

 

 ラルフは信じられないといった様子で首を振る。

 ファルマはアメリの普段の行動を見ていて注意欠陥・多動性障害なのかもしれないと考えている。それでも異世界薬局で働く限り、遅刻は問題とならないように周囲が配慮できる。

 本人が困っておらず、社会生活を送るのに問題ないなら、治療も必要はないし障害とはいえない。

 ファルマはそう考えているが、彼女の二倍働いているラルフが不満を持つ気持ちもわかる。

 エレンはあまりよくない状況だと考えたのか、ラルフに向き直る。


「その普通という言い方はよくないわ。ラルフくん、朝は誰に起こしてもらうの?」

「使用人ですが」


 住み込みの使用人に、何から何まで朝の支度をしてもらうのは貴族にとっては当然のことだ。それが日常なので、特に何かしてもらっているとすら感じない。


「私は夜型だから、朝が弱くてね。使用人に文字通りたたき起こしてもらって、食事から身支度まであらゆる事をしてもらえるから出勤することができるの。もし一人暮らしなら、自分では起きられないし、だらだらしてしまうかもしれないわ。環境によってその人の能力も変わってくると思うの。アメリちゃんは一人で寝起きして、洗濯も食事も全部自分で支度しているでしょう。私たち貴族より何倍も疲れているはず。だからちょっと朝は難しいのかもしれないわ」


 アメリは平民で、家族とは離れて暮らしており、誰も起こしてくれる人がいない。

 目覚まし時計を持っているが、鳴っても気づかないのだという。

 本人の努力ではどうしようもないことだ、とファルマもそう思う。

 そして、科学技術によってそれらは克服できることだとも思う。


「そうなのかもしれませんね」


 ラルフはエレンの言葉を飲み込むことにしたようだが、納得はいっていないようだった。

 たとえ平民の出だとしても、自分だったら遅刻はしないといわんばかりだ。

 エレンやアメリと揉めないために、渋々ながら大人な対応をとったともいえる。


「みなさん! 朝といえば血糖値、あげたくなりませんか?」


 ロッテが空気を読んで朝からフルーツジュースを出してくれる。


「なるね。ありがとう、ロッテ」


 ファルマもありがたくいただく。

 全員で小休憩をしていると、アメリが血相を変えて駆け込んできた。


「おはようございます!」

「おはよう。今ミーティングが始まったばかりよ」


 エレンがアメリに着席を促し、議題を進める。ラルフは追及しないことに決めたのか、すました顔をしている。

 誰も非難しない、淡々と進むミーティングに、アメリは申し訳なさそうに末席で小さくなっていた。


「アメリさん」


 ファルマはミーティングの後でアメリに声をかける。ファルマの顔を見るや、アメリは青ざめた顔をしてファルマに謝る。


「ごめんなさい、今日も遅れてしまって。もうクビですよね」

「いやそうじゃないよ。ゆっくり来ていいという契約なのだから気にしないでください。これからミーティングは午後にしましょう、配慮不足でしたね。もっと早く気付くべきでした」

「店主様にそんなふうに言わせてしまうと申し訳なくて……悪いのは私なのに」


 ファルマはますます縮こまってしまったアメリに打つ手なしだ。


「できることは人によって違うから、できることをしてください」

「皆さんには何でもないことなのに。私は甘えているに違いありません」


 涙目になっているアメリに、ファルマはどう声をかけていいものか困る。

 彼女は自分自身が甘えているのだと思い込み、自責の念にかられてしまう。


「あの、ファルマ師、折り入ってご相談があるのですが。今月末で……」


 アメリが何か重大な告白をしかけた、そんな時だった。


「アメリちゃん、一緒にストックの調剤や発注をしてしまいましょ。今日中にやってしまいたいの」

「えっ、はい! ただいま!」

「あら、ファルマくんと込み入った話だった?」

「いえっ、また後ほどで構いません」


 絶妙なタイミングで、エレンが気を利かせてアメリを誘った。

 ファルマは困ったように二人の後ろ姿を見送る。

 エレンが彼女を庇ってくれるのがまだ救われるが、エレンが割り込んでこなければアメリは今月末付けで退職を申し出るところだったな、というのはファルマには察して取れた。



「エレオノール様、私……」

「これ終わってからにしてくれる? 間違えちゃうから」


 二人は在庫の確認を行い、原薬やストックの発注を行う。

 エレンはリストと照らし合わせながら一つ一つ確認してゆく。しかしアメリは表示を見ずにリストに消費期限を書きつけてゆく。


「ちょっとちょっと、アメリちゃん。なんで見ないの?」

「一度見たら覚えていますので」

「まさか、期限全部覚えているの?」


 よほど驚いたのか、エレンの眼鏡がずりおちそうになっている。


「はい。ロットも覚えています」

「大した記憶力だけど、ちゃんと一つ一つ現物と照らし合わせて確認してね。記憶力の過信は禁物よ。それにほかの薬師が入れ替えているかもしれないわ」

「す、すみません」


 何もかも空回りしている。うまくいかない。どうもやることなすこと、人とずれているような気がする。アメリは居心地の悪さを感じていた。

 在庫の整理を終え、店頭に出る。

 ひっきりなしに押し寄せる患者を、一人一人対応してゆく。

 アメリはマルチタスクが苦手だ。すぐに気が散ってしまうし、仕事が増えるとパニックになってしまう。


 商人の娘のような身なりの、若い女性客の番になった。

 彼女は顔が赤くほてっているようだ。


(外が暑いからかしら。それとも熱があるのかしら?)


 アメリは少し注意して、彼女の様子をうかがう。帽子を目深にかぶった彼女は、アメリの視線から逃れるようにうつむいた。


「このお薬をください」


 彼女はアメリに耳打ちするように告げる。

 アメリは差し出された封筒の封を切り、中に書かれた内容を見てはっとする。


「この薬は……」

「どうか声に出さないでください」

「承知しました。こちらでお話をお聞きします」


 アメリは彼女を個室ブースに通し、鍵をかけた。

 異世界薬局に二室もうけられている個室ブースは、鍵をかけてしまえば密室となる。

 以前は簡単な仕切りだけだったのだが、デリケートな相談などに適さないため、改装して個室になった。


「ご用件承知しました。詳しく聴取させてください。カルテを作成しますので、お名前等を頂戴しても?」


 異世界薬局を訪れる患者の中には識字率の問題で、字をかけない人もいる。そのため、薬師が聞き取って書きつけるシステムになっている。

 彼女が名前を名乗ると、アメリのペンがぱたりと止まった。

 アメリは改めて帽子を脱ごうとしない彼女の顔を一瞥し、落ち着いて語り掛ける。


「あの……もし間違いだったら大変申し訳ありません。あなたはプロセン国のローザリンデ王妃様ですよね」


 アメリは彼女を一度しか見たことがない。

 五年前、プロセン王のサン・フルーヴ帝国皇帝への表敬訪問の際、王妃の姿が馬車の窓から一瞬見えた。

 しかし、完全記憶を持つアメリは彼女の顔を忘れなかった。

 正体を見破られた彼女は青い顔をして、扇子で顔を隠す。


「まあ……どうして。サン・フルーヴには一度しか来たことがないのよ」

「目のよさと記憶力には自信がありまして。五年前、街道よりパレードで、馬車のレースカーテン越しにですが拝見いたしました。その時のお召し物は緋色のドレスと白のお帽子です。御髪のお色が違うようですが、お顔立ちはそのままです」

「あなた……恐れ入るわ。わたくしは確かに、プロセン王妃ローザリンデと申します」


 アメリがあまりに鮮明に言い当てるので、ローザリンデは観念したようだ。

 ぽつぽつと、絞り出すように話し始めた。


「詳しくは訊かないで、望まぬ妊娠をしたの。堕胎薬をいただけませんか。異世界薬局総本店でなら、きっと堕胎薬もあるとすがる思いで来ました」

「詮索はいたしませんが、母体の健康にかかわることはお伺いしますね」


 アメリは妊娠の週数、月経歴、分娩回数、出産、流産の状況、現在の体調、アレルギーの有無などを聴取する。


(プロセン王国支店にではなく、変装をして一人でサン・フルーヴの総本店に来たということは……顔が割れていないのを期待してのことかしら)


 妊娠週数は7週目。妊娠初期だ。すでにプロセン王との間に三人の子をもうけていた。

 無事に出産すれば四人目ということになる。


「お薬はいつもらえます? 今日飲んだらいつおろせるのかしら」

「あの……おそれながら、堕胎薬は、簡単には出せないのです。神殿法的にも堕胎は重罪です」


 堕胎薬は異世界薬局の一級薬師といえど、簡単にアクセスできないようになっている。

 総本店を含む異世界薬局系列のどの店頭でも売っていない。ストックも存在しない。

 調剤するためには、ファルマに報告する必要がある。


「知っております。それでも、何もなかったことにしなければなりません」

「……何か特別なご事情が?」


 アメリは狼狽するローザリンデに、恐る恐る尋ねる。

 本来なら正妻である王妃様のご懐妊はおめでたいこと。

 なのに、変装してまで堕胎したいといっているのだから一大事だ。

 神殿の教義では、堕胎は「子殺し」と結び付けられ、許されざる重罪だ。王妃の不貞は王宮追放もありうる。

 薬師には守秘義務があれど、犯罪に与するわけにはいかない。


「おろせなければ……私は殺されてしまいます」

「差し出たことを申しますが、お相手は王様なのですよね?」

「いえ……、私に一方的に思いを寄せていた宰相に……脅されて無理やり……」


 宰相は特徴的な髪と目の色をしており、神術属性も守護神も王とはまったく異なるので、子供が生まれれば王の子でないことがばれる。

 宰相に脅されたという証拠は残っていない。

 不貞の発覚を恐れ、宰相の手回しで、王妃は口に入るありとあらゆるものに堕胎薬を盛られているようだ。おそらくは中毒による症状で、痙攣をしたことも数度。

 王付きの宮廷薬師が毒見を強化したおかげで、もう堕胎薬は盛られていないようだが……依然として状況は最悪で、堕胎できなければ、出産前に王妃が暗殺されるかもしれないという状況だ。

 堕胎が成功すれば、宰相の思惑通りではあるが、何もなかったことになる。


「なんてひどい……」


 アメリは口惜しさを噛み殺しながら、王妃に同情する。


「お願いします……あなたも同じ女ならば私の気持ちがわかるでしょう。おろしてください」

「ご心中お察し申し上げます。しかし堕胎薬を取り扱える薬師が、ここには二人しかいません。そして、それは私ではないのです」

「その二人は貴族の薬師? あなたのほかは全員、貴族の薬師よね?」

「そうです」

「では、あなたにしか頼めないわ。何とかならないかしら」


 異世界薬局の薬師の中でアメリだけが腰に杖を挿していないので、平民薬師だとわかったのだろう。

 貴族の情報ネットワークを通じて、ことが明るみに出ることを恐れているのだろうか、とアメリは思考を巡らせる。


(確かにファルマ様は宮廷薬師……他国、プロセン王国の王妃の堕胎にかかわり、罪に手を染めることはできない。エレオノール様も高貴なお方……。異世界薬局には、平民の薬師が私しかいない。でも……私には堕胎薬は取り扱えない、どうすればいいの?)


 ファルマは堕胎薬草の密かな蔓延を憂い、「安全な経口妊娠中絶薬はある」としながらも、聖帝エリザベスの勅許店である異世界薬局にはまだ堕胎を希望する婦人が訪れず、一度も使ったことがない。

 堕胎を希望することはすなわち、罪に手を染めることだ。

 神殿の影響下にある国々で合法的に堕胎薬を使えるのは、母体保護の目的か、「稽留流産」の場合のみ。


(ファルマ師の現代薬を使えなければ……伝統薬?)


 伝統薬の中にも、中絶を誘発する処方はある。

 サン・フルーヴ帝国医薬大に入学する前は三級薬師であったアメリは勿論、それらの方法を知っている。

 辺境で小さな薬店を営んでいた平民薬師であるアメリの母から、かつて帝国に存在した哀れな売春婦たちを救うため、あるいは食糧難の際に子供の数をコントロールする方法として、平民女性薬師の間で代々伝わってきた処方を教えてもらった。

 有名で、かつ古来より密かに用いられてきたのは、ペニーロイヤルミント、タンジー。

 その他はイヌハッカ、セージ、ラベンダー……。

 硫酸鉄、塩化鉄、水銀、アヘン、果ては蟻をすり潰したもの、ラクダの唾液。

 妊娠後期に効くといわれる過激な方法では、ジャンプを繰り返す方法。

 だが、どれも有効性に乏しく、中には中毒を引き起こすものもあり、母体にも危険でファルマの教科書ではすべて禁止されている。

 中毒死のおそれもあることから、ローザリンデのような王妃の地位にある者に使えるものではない。


 ファルマの教科書に第一選択とあるのは、「ミフェプリストン」と「ミソプロストール」。

 妊娠の維持に必要なプロゲステロンの作用を阻害するミフェプリストンを先行して投与し、24~48時間後に子宮収縮を引き起こすミソプロストールを投与する。

 この二つの薬剤を併用使用することで、妊娠初期ならば90%以上の確率で妊娠中の中絶を引き起こす。妊娠期間が長くなれば、追加の対応が必要となり、中絶が不完全になる確率も高くなる。


(今、妊娠7週目なら……二剤の投与で中絶できるはず)


 だが、二つの薬剤はアメリには合成できない。

 さらに禁忌もある。子宮外妊娠の場合、使用すると卵管破裂のおそれがある。腎臓に障害がある場合。薬剤アレルギーのある場合など。

 子宮外妊娠をしているかどうか、アメリには判別がつかない。

 今日は出せない、方法を考えさせてくれと告げると、王妃は「明日も来るから」と逃げるように店を去っていった。


(今頃、プロセン王国では王妃が失踪して大変なことになっているのでは)


 まだ新聞などでは報じられていないが、潜伏生活は長くは続かないだろう。

 あまり待たせることもできそうにない。

 アメリは彼女を見送った後、茫洋として調剤室にあるファルマの教科書を繰る。


「先ほどの方、発熱しているように見えましたが、いかがでしたか?」


 必死の形相で教科書に目を落としていたアメリに、ファルマがそっと声をかける。


「ファルマ師……あ、あの。大丈夫です、一人で対応できます。また明日来られるそうなので」


 びくりとしてアメリは竦む。

 その慌てように何か気づいたのか、アメリが何か言う前に、ファルマは忠告する。


「基本的なことですが、処方と調剤薬監査には二人の薬師が必要です。アメリさん一人での調剤はできませんので、情報は共有してください。婦人科の疾患で、患者さんが男性薬師の診察や監査を拒絶されているなら、エレオノール師に監査を依頼してください。そのために私は女性薬師を必ず二人同じシフトになるよう配置しています」


(だめ。エレオノール様をまきこめない。でも、この秘密は抱えきれない……)


 アメリはどうしてよいものか分からなくなった。


(王妃様にはお気の毒だけど……)


 断ってしまうのがいい。

 他国の王妃の堕胎に係わっても何ひとついいことはない。

 王妃の立場や命を救うことはできるかもしれないが、アメリに対する見返りは少なく、せっかく苦労して取得した一級薬師の資格を失うことになるかもしれない。

 しかし、断ったらどうなるのだろう……? 彼女の懸念する通り、宰相に殺されてしまうのだろうか。

 あるいは彼女自身で危険な方法で堕胎を試みるのだろうか。

 もしくは、腕の怪しい薬師にかかり、詐欺まがいの薬を飲むのだろうか。

 アメリは懊悩する。


「なるほど」


 ファルマはアメリが無造作に置いている教科書のページを見て頷いた。


「そうでしたか。経口中絶薬が必要なのですね」

「あの……」


 ファルマは竦みあがったアメリの懸念を飲み込む。


「一度お会いして色々と確認しなければなりませんが、私なら出せますよ、ミフェプリストンとミソプロストール」

「……っ」


 アメリは観念してファルマに経緯を説明した。


「事情はわかりました。現行法では、中絶は重罪ですよね。それは神殿の教義に基づいています。三日後に神殿の定例会があるので、私が神殿とエリザベス聖下に奏上して中絶を合法化します。そのあとなら、全世界で合法的に中絶できます。今後同様のことがあっても、プロセン王国支店の薬師にも根回しができます」


 ファルマは彼女のカルテを見ながらすらすらと今後の計画を述べる。

 アメリはファルマの言葉に光明を見出しつつも、疑問がわいてくる。


「神殿法を変えるなんて無茶です! もう何百年も変わっていないんです。今年や来年のことにはなりません、その間に赤ちゃんは育って……間に合わなくなります」


 中絶の禁止は神殿の教義の中で何百年と変わらなかった伝統的な戒律だ。

 改正を提案しただけで、異端審問を受ける可能性もある。


「変えられます。理不尽な法を変えられなければ、私がこの立場におさまっている意味もありませんからね」

「立場? 宮廷薬師のお立場ということですか?」


 アメリがきょとんとする。ファルマはそれには答えず、曖昧にほほ笑んだ。


「まあ、少し待っていてください。妊娠週数は何週ですか」

「7週です」

「では三日で発令を要請してきます」


 ファルマの予告通り、それから三日後、大神殿法の改正があった。

 多くの改正事項とともに、避妊や妊娠中絶の合法化の条項も含まれていた。

 改正は百か所以上と多岐にわたるため、妊娠中絶の項はそれほど目立たなかった。

「さ、変わりましたよ」と涼しい顔でアメリに知らせるファルマに、アメリは恐れをいだく。


「なぜ……、ファルマ師に神殿の法を変えられる権力が?」

「まあ、あまり気にしないでください。これでプロセン王国での処方ができますよ」

「どうやって王妃様に近づきます?」

「来週、サン・フルーヴとプロセン王国の両宮廷医師、薬師団での合同医薬研究会が予定されています。筆頭宮廷薬師として私の兄が参加する予定でしたが、代役を立ててもいいので、私が代わりに行って王妃様に中絶の処置をしてきましょう。宮廷にはアメリさんは入れないので、私が対応を引き継ぎます」

「さ……さすがです。ありがとうございます」


 ファルマはまだあどけなさすら残る17歳の少年だが、アメリにとっては頼れる師匠であり、上司であった。ファルマに相談して、なんとかならなかったことはなかった。


「あなたは王妃様を守ろうとしたのでしょうが、医療従事者には守秘義務がありますから、私がどこかへ内通したりすることはありません。あまり疑わずに相談してくださいね。少なくとも、一人で対応しようとするのは患者さんの利益になりません」


 ファルマは優しい口調ではあるが、それでもしっかりと念押しをしてくる。


「は、はい……でも意外でした。ファルマ師は、中絶を容認されるのですね」

「ええ。アメリさんは母親の自己決定権と胎児の命、どちらを尊重すべきだと思いますか」

「今回は……王妃様に自己決定権があると思います」


 アメリは迷いながらも決断を出した。


「選択の優先、生命の優先、どちらをとるかは難しい問題です。きっと永遠に答えはでないでしょう。しかし今回に関しては、妊娠を継続することで王妃様の命が狙われていること、強姦による妊娠ということもあり、中絶が妥当かと思われます」


 ファルマはパッレの代理としてプロセン王国へ赴き、アメリに話して聞かせた通りのことをして戻ってきた。

 王妃に薬を渡し、ミソプロストール投与4時間以内に流産が起こった。

 王にも、侍医団にも気づかれなかったという。王妃はほっとしていたとのことだった。


 後日、アメリに王妃から親書が届いた。

 堕胎を行った時期に、宰相はある日突然神脈が閉じ、神力を失って問答無用で平民へ落とされたそうだ。宰相は神脈をあけてくれと神官に泣きついたが、神殿の秘術を用いてもどうにもならなかったとのこと。

 王妃は王との関係は以前と変わらず良好で、出血もおさまり、体調も回復してきたようだ。

 王妃は堕胎を行ったことで神罰を受けることも覚悟していたそうだが、神罰を受けたのはどうやら宰相のようだ、と締めくくられていた。

 お世話になったからと、王妃から小切手が同封されており、かなりの金額が記載されていた。口止め料も入っているのだろう。


「ファルマ師にご相談したら、すべてがうまく回りました。守護神様はみておられるのですね」


 アメリはそう言って受け取った親書を握りしめ、薬局の庭から空を仰いだ。


「どうでしょうね」


 ファルマはアメリの言葉を流して大きく伸びをした。


「ところで以前、アメリさんは何か私に相談があると言っていましたが。あれは何だったんです?」

「何でもないです! もう少しだけ……頑張ってみることにしました」

「また何かあったらいつでも」

「はい」


 アメリの退職の話はひとまず白紙となった。


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