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【完結済】異世界薬局(EP4)/【連載中】世界薬局(EP4.1)  作者: 高山 理図
Chapitre final 愚者の実験 Expérience d'ignorance(1152年)
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9章5話 エレンのオクタシニー工場視察

 1152年7月11日。 

 ファルマとエレンはサン・フルーヴでの、マーセイル工場に続くもう一つの生産拠点、異世界薬局直系、オクタシニー工場の視察へと出向いていた。

 オクタシニーは南フルーヴに位置する、ファルマ個人に与えられた大封土だ。

 避暑地や避寒地もある、山間部の穏やかな気候を利用したワインの名産地でもあり、温泉などにも恵まれる。

 観光地も多く、水道橋や鍾乳洞、断崖絶壁の上に広がる古い村は人気だ。

 オクタシニーの土壌成分は石灰質、砂岩など岩質だ。

 岩肌の見える雄大な山脈を望むオクタシニー工場では、多くの専従の従業員を抱えて操業している。


 オクタシニー工場では酒類原料アルコールの工業生産、食酢、エーテル、エステル、エチレングリコール、ポリエチレン、スチレン、溶剤などの生産が行われている。

 なかでも重要なのは、共沸蒸留技術を利用した無水アルコールの生産だ。

 すでにバイオマスを利用した無水エタノールの製造についてはマーセイルでの実績があったのだが、ワイン工場で選果に漏れた廃棄予定のブドウや、搾りかすなどを再利用したバイオマスの仕入れには事欠かなかった。また、封土内には老舗のワイナリーも多く、廃業して間もないワイン工場を利用して新工場へとリフォームすることができ、失業した従業員を雇用することができた。

 その意味でも、工場の運営にはうってつけの土地柄だ。


「ワイナリーに寄ってもいいかしら」


 ワインの蒐集に目がなく、チーズも好きな同行のエレンがそわそわしている。

 ファルマもつられてしまいたかったが、正気に戻った。


「先に工場の視察だよ、ワイナリーはあとにしよう。最高経営責任者(DG)が酒臭い状態で視察に行ってはいけないからね」

「そ、そうだったわね……では後にしましょ」


 エレンは残念そうだが、致し方ない。エレンはソフィもつれてきていた。

 捨て子だったソフィは5歳となり、赤子だったころと同じ性格のまま、活発な令嬢となった。我儘放題だったブランシュとは違って、素直で聞き分けのよいいい子なのだが……。

 無属性という珍しい属性でもあり雷の神術を使うが、興奮すると電撃を放ってしまう癖は相変わらずで、帝都のテルマエに一緒に行って興奮したところ、電気風呂にしてしまったとのこと。

 本人は捨て子だという事実は知らされず、エレンの年の離れた妹だと思っている。

 おおむね仲良し姉妹だが、喧嘩をしたときは別だ。

 エレンは「ちょっと強く言ったり喧嘩すると、忍び寄ってきて後ろから電撃やられるのよ……しかも外出の直前に……髪の毛が爆発して大変なの」と悩んでいた。そんな妹は嫌だ、と思うファルマであるが、ファルマも相変わらずなつかれていた。

 エレンには放電の仕方を教えておいた。

 

「ソフィちゃんはぶどうジュースかしらね」

「しろなの。しろぶどうがいいの、マスカットじゃないのよ」


 ソフィにはこだわりがあるようだ。

 ファルマにはマスカットと白ぶどうの味の区別はつかない。


「白なんだ。赤ぶどうはアントシアニンが少し苦く感じるのかな。じゃあ後で白ぶどうジュース飲みに行こうね」

「じゃあ、いいこにしとく」


 電撃は痛いが、基本的には素直なので助かる。



「ようこそお越しくださいました。従業員一同、お待ちしておりました!」


 工場に到着し、エレンとファルマはオクタシニー工場従業員の歓迎を受ける。


「エレオノール様、DGご就任おめでとうございます」


 祝いの言葉を述べる工場長はキアラだ。

 キアラはマーセイル工場をテオドール・バイヤールに譲り、オクタシニーに工場立ち上げのためにオクタシニーへ赴任した。

 オクタシニー工場では神力ではなく、一から十まで電力を利用した設備の稼働を行っている。

 マーセイルでは神術陣を利用した発電システムを利用しているが、オクタシニーではテートー川の水を利用した水力発電で、安定した電力を工場内に引き込んでいる。


「ありがとう! 頼りないかもしれないけど、結果を出して頑張るわ」


 ワイナリーに先に立ち寄ろうとしていたとは口が裂けても言えない。


「ええ、当方も全力でお支えします。オクタシニー工場の運営も軌道にのってきましたよ。医薬品原料も、製品も大幅増産しています。こちら、今季の生産実績報告書です」

「ありがとう、すごいじゃない。来季からと言っていた新しいラインも立ち上げたのね!」

「はい、最近の帝国の好況で建築原料が高騰しているため、工期は前倒しにしております」


 キアラは淡々と報告する。

 進捗通りどころか前倒しにしてくるあたり、彼女のマネジメント能力の高さを裏付けている。


「さすがね。新しいラインの電力は足りている?」

「現生産体制ですと夏場に少し不足しますが、そのぶん冬場の生産を管理して間に合わせることができます」

「バッテリーや非常用電源もうまく利用してね」

「かしこまりました」


 ファルマはソフィの相手をしながら、エレンとキアラのやり取りに口を出さず聞いている。

 DGを引き継いだので、意見を求められれば助言するが、できるだけ当事者本人たちでやってもらう。そうすることで、ファルマも今後の憂いが一つずつ解消できる。

 暫くはエレンも戸惑うことが多いだろうが、これまでのファルマのやり方を覚えていて、それに新しいアイデアを足してくれればいいと思う。


 キアラの案内で、工場内を見て回る。

 プラント内部には豪快な音を立てて稼働する連続式蒸留装置がそびえたち、存在感を放っている。

 巨大なタンクに貯めこまれた原料は、フィードポンプで連続蒸留塔へ下から上へと運ばれ、パイプを通って余熱をかけ、沸点の低いものから順に温度の差によって分離してゆく。異常検出器があるので、作業員はつきっきりではなくてよく、時折見回りにくるぐらいだ。蒸気を液体へと戻す過程で潜熱を奪うための大量の冷却水は大事な役割を果たしており、水の神術使いのかかわらない冷却システムが肝要だ。

 温度管理の制御装置などは、新しく創設されたサン・フルーヴ工科大学と共同開発したものだ。あのキャラの濃かった錬金術師テオドールも、工場長となってからというもの、最近ではあまり爆発事故を起こさず、次々と画期的薬剤合成、生産方法を開発している。普通に安全な技師になってくれたので、ファルマも安心する。優秀な部下を複数抱えたことで睡眠不足もすっかり解消され、肌つやが良くなっている。

 オクタシニー工場とマーセイル工場間でも、通信で緊密に連絡がとられている。

 サン・フルーヴ工科大学の技術革新により、このころまでには通信手段はファクシミリへと発展していた。ファルマが特に何か入れ知恵をしたわけでもない。

 基礎知識を学ぶ人口が増えれば、技術発展も自然と起こるものなのだろうとファルマは考える。何もかも教える必要はない、地球の文明に沿うことが正解とも限らないのだから。新たな発明が生まれ、ファルマも知らなかった知識や法則が異世界に普及してゆく。


 工場見学視察のあと、オクタシニー工場でもまた従業員らと記念撮影を行った。

 専従職員は180名、彼らもマーセイル工場職員のように誇りを持って好待遇で働いている。工場内の応接室でお茶をいただきながら、エレンはキアラと世間話をする。

 話題はDG交代の時の話になる。


「でも交代のときは帝国中の株が暴落して、それが世界市場にも波及して暗黒の木曜日とか言われて、異世界薬局のせいだって証券取引所に呼び出しをくらったのよ。ファルマ君は何か? って開き直ってるし。私が平謝りよ」

「開き直ってないよ、ただ交代しただけです。経営体制に変更ありませんって説明したんだよ」

「それで済むわけないでしょー! もう」


 ファルマはソフィと手遊びをしながら話を聞き流している。

 キアラは薄く微笑む。


「ふふ、経営陣も大変なのですね」


 エレンがふと気づいてキアラに声をかける。


「キアラさんは何か心配事はないかしら、従業員の管理もうまくいってる? 補佐役はつけておいたけど」

「私は満足して働いておりますわ。しっかりお休みもいただいておりますし、秘書もつけていただいてありがとうございます」 

「キアラさん、違ったらごめんね。ちょっと疲れてない?」

「……ええ」


 キアラは暫くためらったのち白状した。


「体調不良?」

「いえ、病気とかではないんです」


 ファルマはそのやり取りに驚いて顔を上げる。

 そう言われてみれば、キアラは以前より痩せていた。

 病的というまでには痩せていないので気づかなかったが。

 年二回の健康診断でも異常はなかったはずだ。

 エレンはティーカップを置き、背筋をすっと伸ばして真剣な顔でキアラに向き合う。


「込み入った話は聞かないけど、人生いろいろなことがあるし、ずっと同じように働けるわけではないから、しんどかったら働いたり休んだりしていいからね。また戻るつもりがあれば、ポストはきちんとあけておくし、無理だけは禁物よ。私はね、無理は嫌いだし、一緒に働く皆にはそうさせたくないの」

「ありがとうございます。私事なのですが……」


 彼女はもと医療神官なので、その流れで生涯独身を貫くつもりで、伴侶はいない。

 それでも天涯孤独ではなく母親はいて、一般的な神官の出自とは異なっている。


「母が、段々と弱っていてもう長くないかもしれないのです。何も食べない日もあると聞いてオクタシニーに呼び寄せて同居しようとしているのですが、知らない土地には来たくないと言っていて。オクタシニーまでの旅もつらいのかもしれません」


 キアラのわずかな表情の曇りと痩せから悩み事を読み取るのは、ファルマでは行き届かなかった部分だった。

 キアラはいつも通りに見えたし、何か困っているようには見えなかった。


(エレンはすごいな。いい経営者になりそうだ)


 ファルマはエレンの気配りに感心する。


「まあ、それはお気の毒に。お母さまはどちらにお住まいで?」

「マーセイルに住んでいます」

「あら、だったらマーセイル工場に戻る?」

「いいんですか!?」


 キアラは驚き、声は明るくなる。


「でも、こちらの工場は……立ち上げまでと仰せつかっていたのですが」

「工場長のテオドールさんと配置転換になるかもしれないし、テオドールさんが来ないと言えば新たに代任をたててもいいわ。やりくりするのが私の仕事、代任のことは気にしないで」

「すみません、私の都合であなたやテオドールさんに迷惑をかけるかもしれなくて」


 キアラは申し訳ないという表情をしている。


「いえ、転勤を命じたのは雇用者の都合なの。前からファルマ君が言ってるけど、人生が先、仕事はあとよ。お母さま、おいくつ? 何か病気をわずらっておられるのかしら?」

「59になります、体がだるく、息切れがして食が細くなって段々と痩せているようなのでもう歳のせいなのかなと思いますが。医者にもかかりましたが、歳でしょうと」


 地元の医師の経験に基づいた診断を疑うのは勇気がいるが、エレンには客観的な診断方法を持っている。

 それはファルマの残した教科書の知識と、医薬学血液検査、生化学検査、生理機能検査などの臨床検査だ。


「ほかの症状はない?」

「汗をよくかくと……関係ないかもしれませんが」

「関係あるように思えるわ。一回、お母さまを診せてもらってもいい?」


 エレンはキアラの手を取った。


「まだ、全然歳じゃないわよ」

「えっ」

「平均寿命が50代であったかつての世界とは違う。寿命で考えないで」


 80歳をこえたアガタだってまだ現役で、この年齢になったらもう、という扱いをすべきではない。


「歳をとったからといって、命の価値が減るわけではないわ。統計は統計、個人の命と向かいあう必要があるでしょ」

「……」


 キアラは不意打ちを食らったような顔をしていた。

 エレンは優しく諭すように語り掛ける。


「常識を破って、世界を変えていくの。私たちはそういう会社でしょ」


 エレンがファルマに視線をくれるので、ファルマも力強く頷き返す。


「エレンの言う通り、キアラさんのお母様のことは気になるよ」


 世界は変わってゆく。

 完全なる地球のコピーから脱して新たな世界を形作る、その道のりを応援したいとファルマは思った。


「そうなんですね……つい、以前の常識で、もう助からないものと見切りをつけてしまっていました」

「必ず治るとは言えないけど、もしかしたら何かできることがあるかもしれない」


 ファルマが補足する。

 やってみないことにはわからない。がっかりさせるかもしれない。

 キアラは「でも……」と躊躇していたが、決心がついたようだ。


「ありがとうございます、手配させていただきますね」

「急ぎましょう」

「わかりました、数日以内には」

「まずは仕事を休んで、マーセイルに戻りましょう。転属や後任関係はそれからにしましょう、今はお母さまのことだけ考えて。そのほかは何も考えなくていいから」


 血の通った経営はこういうものかもしれない。

 社会貢献の前に、仕事に携わる人が幸せでなければならないな。

 とファルマはエレンの姿を頼もしく見ていた。


「私はね、どんな素晴らしい知識も薬も、いざ身の回りの人が病に倒れた時、助けられなければ意味がないと思うのよ。身近な人を助けられるような薬師になりたいの。薬の生産に携わる人が、辛い思いをしていてはいけないわ」

 

 ウェルビーイング(Bien-être)という概念を社是に取り入れようといったのはエレンだ。

 「ファルマ君の背中を見ていたら、社員が勘違いして過労一直線になってしまうわ」と過労への戒めのためにもうけたいといった。

 エレンはそんなことを考えていたんだな、とファルマは反省するやら、感心するやらしたものだ。


 ◆


 工場の視察を終えて、その日のうちにキアラを帰宅させてエレンがその場で介護休暇の手続きをし、ファルマたちはエレンの楽しみにしていたワイナリーに到着した。

 ソフィはすでに寝ていたが、エレンが「しろぶどう」と言って起こすと「どこどこ!?」と飛び起きて目を爛々と輝かせていた。

 シャトーの主に歓待され、ファルマはにこやかに挨拶をする。


「新領主のファルマ・ド・メディシスと申します、本日はお時間をいただきありがとうございます」

「おお、あなたが領主様ですか。まだお若い! 数々のご評判はかねがね。ご丁寧にお手紙もありがとうございました。どうぞわがシャトーをご覧ください、最高級のワインを取り揃えておりますよ」

「恐縮です」


 ワイン業界におけるシャトーとは城という意味だが、城ではなく、城のように大きなワイン醸造所の生産者を意味する。

 広大なワインロードを散策しながら、生産者からぶどうの品種についての解説を受ける。


「ご存じの通り、高級な赤ワインは黒ブドウから生まれます。当シャトーのブドウは温暖な気候のおかげで果粒が大きく、皮が薄いものをえりすぐって継代し、高級品種を育てています。このため、熟成期間が短くても苦みの少なく芳醇なワインが楽しめるのです」

「へえー……」

「このたび、我がシャトーが、★1の五大シャトーに選ばれたのですよ」


 ワインに対しての格付けは最近、輸出品が増えてきたため生まれたようだ。

 ★1~5とのランクにわけられ、★1がすぐれている。★1を得たシャトーは世界でも五箇所しかないのだそうだ。


「それはおめでとうございます」


 ファルマもエレンも興味深く聞いている。

 ソフィだけは視察の際に馬車で昼寝して我慢していたぶん、「しろぶどうは?」「しろぶどうは?」とうるさかった。


「白ぶどうはですね、癖のなく、お子様にも優しい味わいの品種を取り揃えておりますよ。あとでぶどうジュースをふるまいましょう」

「わあい」


 醸造所でアンティークワインのテイスティングののち、チーズを中心とした郷土料理に、ワインをいただく。


「はー、最高! 仕事のあとの一杯は体にしみるわ」


 エレンはお目当てのものにありつけて恍惚としている。


「きゃー、これこれ」


 ソフィも小さい手で大きなグラスを持って白ブドウジュースをいただく。

 ファルマはソフィがグラスを割らないかとハラハラしながら見守りながら、サン・フルーヴの夏の風物詩でもあるロゼワインをいただいた。

 このワインはブドウをつぶして、発酵途中で果皮を取り出すセニエ法という方法で作られているようだ。

 赤ワインと白ワインをブレンドする方法もあるが、サン・フルーヴ帝国では禁止されている。ぶどうの果皮から得られる色をもってロゼワインとするべきであるという考えが根強く、伝統を守らない生産者には罰金が科されることもあるようだ。

 製薬業界において効率化は美徳なのだが、効率化がそぐわない、手間暇かけて作られるのが美徳とされる領域もあるな、とファルマは思い知らされた一場面だった。



 数日後、ファルマとエレンはマーセイルのキアラの実家に向かった。

 キアラはすでに介護休暇に入っており、母親の身の回りの世話をしていた。

 母親は寝たきりになっており、もう殆ど食事をとれない状態だ。

 エレンはキアラとキアラの兄に案内され、母の寝室に入る。

 キアラの実家は地元の名士の家系で、かなり裕福な家だった。

 豪奢な刺繍の入った天蓋をかきわけてエレンが母親、ブノワトへ挨拶をする。


「はじめまして、ブノワトさん。エレオノールと申します、一級薬師です。キアラさんに取り次いでいただき、拝診します。お加減はいかがでしょうか」

「ああ……そう」


 エレンが声をかけるも、ブノワトは反応に乏しいようだ。

 ブノワトは骨格が浮き出てみえるほど痩せていた。

 キアラが命の心配をするのも無理はない。


「エレン、じゃあ俺は外にいるからね」

「うん、あとはまかせて」


 貴族独特の事情であるが、肌をはだける可能性のある女性の診察の際には、ファルマは部屋から出て外から中の会話を聞いておく。

 エレンはキアラにブノワトの現在の食事量と食事の内容、排尿、排便回数、睡眠の状況などを聞き、カルテに書きつけながら病状を把握する。

 エレンも診眼を使えるが、使わない。

 病歴の聴取に続き、血圧、心拍数、体温、採血を行う。

 動くと動悸がするので、日中はほぼ横になっているとのこと。

 以前は気にならなかった小さな物音にも過敏になり、夜間はうなされてあまり眠れていないようだ。

 食事は取れているのに、何故か徐々に痩せてきている。

 エレンが脈をとるとやや速く、発汗とほてりがある。


「お母さまの目は昔からこのような感じですか?」


 眼球突出があるようにみえたので、エレンはキアラに尋ねる。


「そういえば、痩せたからか少しぎょろっとしているような」

「そうなのね」


 エレンはふとブノワトの喉のあたりに目をとめた。詰襟のボタンが外れていたからだ。


「あら? 喉のあたりが苦しいですか?」


 エレンは気になった。


「失礼します」


 エレンはブノワトの喉元のあたりを探る。

 甲状腺はびまん性に腫大あり、その表面にふれると平滑で、結節はふれない。

 そして……、ほっとしたように一つ頷いた。


「甲状腺腫大と、総合的な症状から甲状腺機能亢進症を疑います。確定のためには、血液検査を待つ必要がありますが、半日ほどお待ちください」


 ファルマが後から入室してきて確認し、見解は一致している。

 

 エレンはマーセイル工場に戻り、テオドールに手伝ってもらって血液検査を行う。

 甲状腺機能検査のため、FT3とFT4濃度の測定を行う。抗TSH受容体抗体(TRAb)と甲状腺刺激抗体(TSAb)も調べる。

 ついでにテオドールにキアラの代打としてオクタシニー異動の打診をしたが「異動はむしろ僥倖」と言っていたので話はすぐにまとまった。

 TSH値は低下、FT3とFT4は上昇。TRAbは陽性。予測通りだ。

 全ての結果が出そろい、バセドウ病による甲状腺機能亢進症と診断し、すぐに治療薬を一式準備して屋敷に戻る。


「甲状腺機能亢進症のようです。治療の見込みは十分にありますよ」

「まあ……まさか老衰ではなかったなんて」


 キアラはエレンの手際のよさに感心し、母親の命を諦めてしまっていたことを恥じる。


「治療のため、チアマゾールの投与を開始します。チアマゾールは甲状腺ホルモンの生合成をブロックしますので、甲状腺ホルモンが過剰になった状態を抑えることができます」

「チアマゾールはマーセイル工場でも製造していたものですね」


 キアラが薬剤名に聞き覚えがあるようで、反応する。


「そうよ、ロジェさんのお店にバセドウ病の患者さんがきたから、それを契機に生産を開始していたのよ。テオドールさんに言って借りてきたわ」


 キアラは自らが製造に携わっていた薬を身内に使えると知って、感激したようだ。


「さあ、お母さまの病気が治るまで、暫く付き添ってあげていて。発熱や喉に痛みを感じたらすぐに言ってね。副作用が強く出ている可能性があるわ。薬の効果が出れば、症状もなくなってくると思うわ」

「ありがとうございます!」


 エレンの落ち着いた説明に、キアラは安堵の涙を流していた。



「おつかれさま」


 屋敷を出た後、ファルマはエレンをねぎらう。


「今回は俺の出番はなかったね、さすがだよ」

「ロジェさんのところで前例があったからこそよ」

「医学も薬学も、前例というデータと統計の積み重ねだ。臨床医学的データに基づいた診断は、診眼を使った診断よりよほど価値がある」


 それでいいんだ、とファルマとエレンは馬を並べて歩く。


「診眼を使える人だけが診断できる、という状況は間違っているからね」


 ファルマは自分に言い聞かせるように述べる。


「……」


 エレンからの返事はなかった。

 彼女も感じているのかもしれない。

 少しずつ、ファルマがいなくても、だいたいがうまく回ってゆく状況が整っていることに。


【謝辞】

本項は医師・医学博士のなぁが先生にご監修、ご指導いただきました。

ありがとうございました。

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