9章2話 [{(ウィグナーと友人)の箱}の箱]
「急速に成長しつつあるな。いつか本体が露出するんだろうか」
ファルマは薬神杖を使って旧神聖国へとやってきた。
鎹の歯車に近づくのは危険だが、最低限の調査は必要だ。
有識者会議が墓守の居場所を知っているということは、ファルマにとってかなりのインパクトだった。
ただ、彼らが神聖国へ赴いて調査はできないことから、直接居場所を見たのではなく、聖典や文献などから紐解いたと推測される。
誰の付き添いもいらない。
ここに来るときにはいつも「今日で終わりかもしれない」と覚悟をしてやってくる。
ファルマはいつだって、恐怖より好奇心が勝っている。
そこに未知のものがあれば、近くで確かめてみたい。
思い残すことは、もうあまりない。
彼の地球での妹、薬谷 ちゆは、先月地球で結婚式を挙げた。
薬谷 完治に挙式の様子を動画で共有してもらったが、ウェディングドレス姿の彼女は、幼いころ手をつなぎあった妹と同一人物とは思えないほど、目も覚めるほどの美しい大人の女性に成長していた。
相手の男性は彼女の人生のパートナーにふさわしい好青年に見えた。
幸せそうな彼女と、それを見守る両親には幾多の幸せが降り注ぐだろう。
彼らの未来は暫定的に、最善の方向へと書き換えられた。
鎹の歯車が地球側から外れた今、彼らの未来は確定し、その命は守られる。
彼らにとってどこにも存在しない悲劇と、存在しない結末に思いを馳せることはなく、時空のはざまにとらわれた霊のような自分の存在を、彼らが思い出すこともなければ、会いたいと思う由もない。
薬谷 完治の自我と地球との因縁はゆるやかに絶たれ、分かたれようとしている。
神聖国国境および一帯にはぐるりと規制線が敷かれ、立ち入り禁止区域となっている。
中央を起点に、巨大な陥没穴が出現しはじめているからだ。
神聖国および周囲の居住者は四年前の闇日食に備えて退去していて、神官や平民を含め、残っている人間はもういない。
時たま、神殿の秘宝の盗み目的に入って出られなくなった不届者の遺体を見つけることはある。
かつてこの世界の中枢を担っていた聖地は無人となり、寂寥とした光景が広がっている。
地下部分の神殿は地下階が大規模に崩落して、瓦礫の下から地上へと成長する得体のしれない構造物が表出しているのが確認できる。
この構造物の内部には鎹の歯車があると推測され、周囲では活発な地殻変化が起こっている。
ファルマは空中から、地球側から持ち込んだドローンで録画をしながら、構造物に近づく。
映像は後日、薬谷 完治とデータを共有し解析を行う。
異界の研究室に入れるのは薬谷 完治だけだが、彼の協力者には多くの専門家と専門機関がついているので、画像解析を依頼している。
「30日前より約12パーセント体積増加か……ペースが加速している」
巨大構造物の表層のサンプルを持ち帰り、解析を地球側へ依頼して、すでに表層の素材解析完了している。
マグネシウムと鉄が主な組成だ。
つまり、いざとなったら構造物を物質消去で消してしまえる。
鎹の歯車本体の素材が分かれば同じように消せるかもしれないのだが、本体にまではまだ到達したことがない。
少しでも材料を持ち帰ることができればよいのだが……。
画像解析では、地球には存在しない未知の金属の可能性もあるとのこと。
ドローンで亀裂の隙間から地下へ潜入する。
地下5メートル、10メートル……視界が闇に閉ざされ、カメラが自動的に中遠赤外まで見える暗視に切り替わる。
地下300メートルを下降したところに、鎹の歯車は存在した。
(ここまでこれた。初めての撮影だ)
暗視スコープに捉えられた歯車は、ゆっくりと駆動している。
ドローンは歯車に最接近し、その表面を撮影した。
「前見た時より回転が遅い。地球との接続が切れたことで、回転速度が落ちている……これが止まったらどうなる?」
歯車の構造の内部を見てみたいが、この先に進めばドローンを失うことになる。
「ここまでか……」
墓守が現れる座標には、重力異常や空間歪曲が存在するようだ。
悪霊が大量発生する地点も確率が高まる。
その条件を満たす場所が、この異世界には三ケ所しかない。
一つは、聖泉。
一つは、神聖国。
そしてもう一つは、新大陸にあるラカンガ洞窟。
すべての地点を、ファルマは入念に調査済みだ。
ハリス・トーマスの死亡したラカンガ洞窟では、「光の渦」という異界への入口付近でドローンが三機ロストしてしまった。
その先がどこにつながっているのか、ファルマは確認できていない。
光の渦の周辺には人とも動物ともつかない、死体や死骸が折り重なっていた。
ラカンガ洞窟が怪しいが、聖帝らは近づけないため、墓守の居場所ではないと推測できる。
(一体、墓守の居場所はどこだと当て込んでいるんだ)
彼らに直接尋ねてしまえばいいのだが、教える気があるならとっくに教えてくれるだろう。
ドローンのバッテリーが少なくなってきたところで調査を終え、回収する。
地の底からは、生ぬるい風が吹きあげて不気味な音を立てていた。
◆
ファルマは新大陸へと足を延ばす。
新大陸の情勢は安定していた。
マイラカ族の長メレネーは、サン・フルーヴ帝国との貿易の利を説き、帝国から持ちこんで浄化した呪器の貸与を取引材料に、新大陸東海岸の部族統一を無血で果たしつつあった。
メレネーが東海岸統一を急いだのには理由があった。
他国からの侵略に対する防衛力として機能していた呪術が今年を境に消えてしまうかもしれない。
そんな状況にあっては、一気に蹂躙される可能性も否定できない。
一刻も早く部族間抗争を終わらせ、一つの国として国力を高める必要があった。
メレネーの危機感は、長年不和の状態にあった敵対部族の長たちにも伝わった。
メレネーがまとめた部族群を「東岸連邦」と名付け、一つの国家とした。
新大陸の中央は、急峻な山脈に隔てられている。
このため、西海岸側の部族たちとの和議は進んでいないが、西海岸側から新大陸に到達する航路はまだ発見されていないので、ひとまず時間稼ぎはできている。
ファルマが事前に何度か調べた限りでは、西海岸側の部族はアジア系に顔立ちの似た農耕民族のようだった。
彼らは呪術も神術も用いてはいなかった。
西海岸側の情報は、ファルマは敢えてメレネーには伝えていない。
遠く距離の離れた西海岸側とも通じるとなると、鉄道の建設などが必要で、東側の統治や発展が脆弱になってしまう。
東岸連邦は共和制で、部族集団の長によっての統治形式をとった。
東岸連邦とサン・フルーヴ帝国の間には、両国政府の公認のもと、活発に貿易船が行きかっている。
現在までのところ、国際社会に対する聖帝の監視がきいていることもあって、東岸連邦は内政干渉されることもなく、安定的に旧大陸と交易と文化交流を続けている。
この流れの一環で東岸連邦の港には、貿易関係者が駐在する「プチ・フルーヴ」というサン・フルーヴ人街ができている。
診療所、薬局、雑貨屋、仕立て店、パン屋、学校、代書店、職業養成所などの変化に富んだ店舗が並んでいる。
プチ・フルーヴには異世界薬局の資本を受け、サン・フルーヴ帝国医薬大で学んだ現地人薬師がオーナーを務める「東岸薬局 第一号店」が出店している。
ファルマが時々研修に訪れたり、定期診療を行ったりする。
ファルマは新大陸を訪れたついでに、東岸薬局に顔を出した。
「こんにちは、お久しぶりですハノンさん」
「ファルマ師! お早いお越しで!」
青い制服を着た店主の青年薬師が、患者に対応しながらカウンターの奥から手を振った。
ファルマはハノンという名の店主が相手をしている患者が途切れるまで、店舗内に陳列してある医薬品を見て回る。期限がきれていないか、適切にパッケージングされているか、直射日光に当たっていないか。成分表示はきちんとできているか。説明書きがあるか。抜き打ちチェックのようになってしまったが、必要な確認だ。
途中、現地住民の客がファルマを店員だと思って声をかけてきたので、薬の説明をする。
休憩時間となったので、ハノンが近づいてきた。
「すみません、お忙しい時に。定期訪問の予定より三日も早かったですね」
「いいんですよ、予定なんてあってないようなもので」
「薬局の運営はどうですか?」
ハノンは、サン・フルーヴ医薬大を飛び級で卒業したマイラカ族出身のファルマの教え子でもある。
呪術師ではないが記憶力が抜群で、早期卒業を可能とした。
卒業後薬師の資格を取得したハノンは、別の部族の二人の女性従業員を雇って店を持った。
彼は東岸連邦とサン・フルーヴ帝国の二つの一級薬師のバッジを胸につけて、帝国語を流暢に話す。ファルマも、スカーレット・ハリスの手記にある単語をもとにマイラカ族言語の辞書を作成して部族言語はいくつか覚えたが、片言になってしまう。
それを思うと、ハノンの語学力は相当なものであった。
「この通り、おかげさまで大繁盛です。朝から晩まで、客足が途切れることがありません。連邦議員からの要請にこたえるべく、二号店の出店を計画していまして。設計図を見ていただけますか」
「もちろんです」
ファルマは待ちかねていたように話を繰り出すハノンに相槌を打ちながら、出店計画を見守る。
「店舗を拡大するのは歓迎ですが、薬師の質の維持を忘れないようにしてください。現代医薬品を取り扱えるのは、サン・フルーヴ帝国医薬大を規定の要件を満たして卒業した薬師に限ります。連邦人の薬師が不足しているのならば、サン・フルーヴ帝国薬師を雇ってください。それ以外は、一般医薬品を販売する薬店と定めてくださいね」
新大陸での薬局運営は距離的な事情もありファルマの目が届きにくいので、信頼できる薬師に医薬品を適切に取り扱ってもらいたい。新大陸に限ったことではないが、僻地で開業する関連薬局に対しては、ファルマはそう願っている。
「もちろんです、ファルマ師のご助言のとおりに。そういえば、マジョレーヌ師が少し手伝いに入ってくださるかもしれないとのことです」
「それは心強いですね」
薬師マジョレーヌは、たびたび新大陸に来て薬草を持って帰っているらしい。
「わからないこと、手に負えない症例があれば電信を使って私に連絡をください」
大陸間通信は、この四年で十分に整備されている。
「はい、先日も異世界薬局本店に数件、問い合わせをしました」
「それはよかった。私ではない薬師が対応したのですね。遠慮はいりませんので」
「それから、キャスパー教授にもご助言をいただいています」
「キャスパー教授もお元気ですか」
ファルマは懐かしい名前を聞いて目を細める。
キャスパー教授は、未知の薬用微生物を求めて新大陸に渡り、微生物医学研究所の所長に就任し、研究拠点を新大陸に移している。
彼女の単離した数々の抗菌剤は大規模生産、製品化され、世界中の薬局薬店に普及している。
彼女は平民となったが、職にあぶれることはなさそうだった。
「ええ、今日もうちの店にお見えになりましたよ。また新しい放線菌を見つけたんですって。今日は湿地帯の調査に行かれるようです」
「それはなによりです。キャスパー教授によろしくお伝えください」
暫く会っていないな、と思いながらファルマや彼女のはつらつとした物言いや面影を懐かしむ。
「どうして、ファルマ師はキャスパー教授とお会いにならないので?」
「キャスパー教授と会うことはできるのですが、私自身が微生物研究室に行くことができません」
「はぁ……?」
良かれと思って面会をすすめたらしいハノンは不思議そうに首をかしげる。
ファルマは空気中を漂う細菌やウイルスなどの病原体を退ける滅菌的聖域をパッシブに展開しているため、キャスパー教授の研究室に近づこうものなら、彼女の培養している有用細菌を根こそぎせん滅させてしまう。……ということは、ほとんど誰にも知られていない。また、同じ事情でパン屋にもあまり近づけない。
「ええと、その。お忙しいかと思いまして」
そういうごまかし方でいつも切り抜けている。
「はあ、そういう」
ハノンは納得したようだった。
ともあれ、信頼できる医薬品を取り扱うことで、帝国人と現地の人々との信頼関係もある程度構築できてきたようにファルマは思う。
「ファルマ師、折り入って相談なのですが」
「なんでしょう」
「大陸から、生きたままの薬用植物を持って帰れないでしょうか。サン・フルーヴ医薬大の薬草園にあったあの素晴らしい薬用植物をこちらに持って帰って植えることができたらと願ってやみません。植物防疫や長い航海で傷むことを考えると、種や球根をこちらに持ち帰るのが一番ですが。わかってはいるのですが……種から育てるとなると収穫するまでに膨大な時間がかかりますし、せっかく持って帰っても発芽しないことも多くて」
「いわれてみればそうですね。野菜や果樹なんかも、運びたいですよね」
新大陸での医療を支えるために化学合成薬が輸出され、薬師らも不便をうったえなかったため、そういった需要があったとは知らなかった。ファルマの想像力が足りていなかった。
「しかし、生の植物を鉢植えにしたまま運ぶと、海水や海風で枯れてしまいますし、甲板で日光を当てないとこれまた日照不足で枯れてしまいます」
ハノンは何度か試みたらしく、軒並み失敗に終わったといって肩を落としている。
「……それでしたら、いい方法がありますよ」
ファルマは思い出して、設計図を書き始めた。
「ガラス箱……ですか?」
ファルマが設計図を描いたものは、1829年にイギリス人のウォード医師が発明した、ウォードの箱というものだ。現在ではテラリウムとも言われるこの輸送用の小型温室で、ウォード医師はロンドンからシドニーにシダを送ったが、8か月もの間一度も水を与えずに植物を無事に運搬できたという。
密封したガラス箱の中に発芽後の苗と十分な用土を入れ、霧吹きの水をかける。害虫の混入には気を付ける。
ファルマは三分ほどで書きあげた簡単な設計図と注意書きをハノンに見せた。
「えっ、これで運べるんですか? 水やりは? 肥料は?」
ハノンは半信半疑といったような表情を隠さない。
「最初に入れればそれ以上は必要ありません。日中は直射日光ではなく、適度な日差しのもとに置いてください。日中には葉の蒸散や用土から水分が蒸発してガラス箱の中は湿度で満たされます。夜になるとガラスが冷えて、ガラス箱の中の水蒸気は結露し、側面を伝ってまた土に吸収されます。なので、水やりは不要です。枯れた植物体をバクテリアが分解して肥料を作ります。このガラスの容器の中で生態系がつくられます」
全く中に手に触れずその状態を数十年も維持している愛好家も、地球にはいたはずだ。
「へえー! さっそく試してみたいです。いいことをうかがいました」
「お役に立てたならよかったです。それから、出入国時には植物防疫は徹底してください」
ファルマは作製に付き合って、一つ試作品を作り上げた。
「本当にこんなに簡単なもので運べるのですか?」
「そのはずです。いきなり運ばずに、陸上で試してからにしてくださいね」
害虫や植物有害な外来生物を運ぶことにならないよう、ファルマは注意を怠らなかった。
◆
ファルマは東岸薬局を出て区画整理のされはじめた集落の様子を視察して回り、メレネーのいる中央政府機関に顔を出した。
屈強な呪術師たちにメレネーとの面会を取り次いでもらうと、メレネーは応接室にパンツスーツ姿で現れた。
「おお、よくきたなファルマ。今日は私的な面会か」
現在、メレネーは推定17歳から18歳で、あの頃の少女の面影はもうあまりない。
口調は勇ましいが、東岸連邦議長としての佇まいは落ち着いている。
「私的な面会のつもり。何か困っていることはないかと思って」
「何もないぞ。順調そのものだ。それよりお前は困っていないのか」
「例の件以外はね」
メレネーはファルマの抱えている問題を思い出して、深いため息をつく。
「それはなるようになるしかないな。お前にもできることはないのだろう?」
「おそらく。最後までもがくけれども。今、墓守の居場所を突き止めようとしている」
「ファルマ、ならそれでいい。あまり思い悩むな。お前がしようとしていることに対して、お前の責任を問える者は誰もいないぞ」
メレネーはファルマを諭すように語り掛ける。
「我々は安全な水を手に入れ、病に苦しむこともなく、便利で豊かな暮らしの恩恵に浴している。それは何者でもない、お前のおかげだ。そしてお前たちの住む大陸からは悪霊が消え、夜は安眠できるようになった。どちらの世界もよりよくなった。間違っていない、これでいい」
「……それならよかった」
メレネーの言葉が重く胸に響く。
メレネーたちと接触して、彼女たちは救われたのだろうか。
彼女たちの身を守っていた呪術を手放すことを、本当に受け入れてくれるのだろうか。
考えても考えても、最善には程遠いような気がする。
「ずっと、自分でなければ、誰かがもっとうまくやれたのではと自問自答しているのだな」
メレネーはファルマの内心を見透かしたかのようなまっすぐな瞳でファルマをとらえる。
「そうかもしれない」
「少なくとも、お前は私より適材で、私よりすべてにおいて秀でている。だからこそ、ルタレカをお前に託した」
「ありがとう。やれるだけやる」
ファルマは彼女を落胆させないように、穏やかに、しかし自信を滲ませた声で返す。
「人助けはあんなに必死にできるのに、お前にとっての自分助けは難しいのだな」
メレネーは少し涙ぐんで、そっとファルマの両肩に手を置いた。
自分を顧みない生き方は簡単で、自分は死んでいると言い聞かせたらいい。
そう悲観的になることもない、空気のようなものだから。
でも、まだ死んではいない。
地球の薬谷 完治は生きているし、ファルマ・ド・メディシスも生きている。
そして、二人の状態は無数の可能性の中に重なり合っている。
なぜなら、量子力学の世界では客観的な実在は存在せず、あらゆる可能性の重ね合わせの状態にすぎないから、共存不可能な結果ですら同時に成立しうる。
今度は、無数の可能性の中に置き去りにされようとしている、自分自身の人生を取り戻す番だ。
「お前抜きの幸せな結末など、考えるなよ」
メレネーは力強い口調でファルマにたたみかけた。
ハッピーエンディングがあるとして、そこに死んだはずの自分がいてもいい。




