閑話 日常ごっこ
1152年5月18日。
午後八時を回った頃、17歳のファルマ・ド・メディシスと16歳のシャルロット・ソレルは宮殿のほぼ真向かいにあるアパルトマンの3階のベランダで落ち合った。
ファルマはバルコニーの鍵のかかっていない窓を三度ノックして、ロッテが嬉しそうに迎え入れる。
「わあ、ファルマ様。いらっしゃいませこんばんは、お待ちしておりましたよ」
「こんばんは。少し遅くなってごめん」
「全然遅れてないです! ちょうどお夕飯を作ったところで。もしまだでしたら召し上がってください」
「ありがとう、じゃあごちそうになろうかな。これ、お土産」
ファルマは買ってきたお菓子を渡す。
ここはファルマにとって殆どセカンドハウスと化しつつある、ロッテの家だ。
ロッテは彼女が16歳の誕生日を迎え成人となったのを契機に宮廷画家として独立した。
画家としての仕事量も増えてきて、夜遅くまで制作に取り組むために帰りが遅くなったり、ド・メディシス家での使用人としての奉公ができなくなっていることを気にして、彼女は母親と相談し、ブリュノに暇を乞った。
ブランシュはロッテと離れたくないと泣いたが、ブリュノは快く彼女を送り出し、幼少時からの功労に報いて退職金も弾んだ。ロッテはブリュノの不器用な思いやりを嬉しく思ったようだ。
ファルマはブランシュと同様、ロッテの独立を喜びながらも少しは寂しく感じたが、いつまでもド・メディシス家の使用人の立場でいないほうが彼女の将来のためにもよいだろうと慮る。
彼女は使用人の身分を外れたので、一般平民となった。
ロッテの異世界薬局での勤務は決まった曜日で、あとは宮廷画家としてアトリエを往復する毎日だ。防犯のこともあり、毎日の通勤にも便利だということで、宮殿にほど近いアパルトマンを借りている。宮殿の衛兵の警備範囲の目と鼻の先にロッテの家があるので、宮殿の警備ついでにロッテも警備をしてもらっている感覚だ。
おかげで、通勤時には一度も危ない目に遭ったことがないという。
最高の物件を確保した彼女だが、物件探しには少し苦労した。
帝都には新築物件はほぼなく、歴史的価値を重んじる帝国民の国民性からか、築数百年の歴史ある建物が立ち並び、世界中から帝都を目指して集まる人々の需要によって慢性的な賃貸物件不足に陥っていた。
それに、女性の一人暮らしなので、一応の防犯もかねてフロアごと借りたい。
色々と苛烈な住宅事情の中、該当物件ゼロで窮していたところ、偶々親しい宮廷画家が一等地のアパルトマンからフロアごと引っ越したので、大家に話を通してロッテに快く譲ってくれることになった。
フロアまるごとリノベーションした結果、漆喰の白い壁に、ロッテの髪色にそろえたサーモンピンクの壁紙の対比が目に鮮やかだ。壁には、ロッテの作品であるウォールアートや、デザインを手がけたステンドグラスが並ぶ。そろそろ小さな美術館ができそうだな、とファルマはいつも思う。
使用人としての生活では叶わなかった念願の一人暮らしで、彼女なりに手に入れた自由を謳歌しているようにも見えた。
ロッテは独立したが、ロッテの母カトリーヌは引き続き上級使用人としてド・メディシス家に残ったので、ロッテも月2回ぐらいの頻度で母を訪ねてド・メディシス家に里帰りなどをして、そう会う機会も減らなかった。
住処が離れたので少し疎遠になるかと思いきや「おやつを作りました! 食べきれないのでご一緒しませんか」などという口実でこまごまと家に招かれて、ファルマはなんだかんだロッテの新居によく通っている。
ファルマが宮殿に出勤した後は、ロッテの家へと足を延ばすのは習慣となりつつあった。
ファルマとロッテは同居家族から同年代の親友へと環境が変わり、同居していたときよりも少し距離を置くことで良好な関係を保っていた。
ファルマがロッテの家に通うときは、いつも飛翔を使ってバルコニーから入る。
というのは、ファルマは帝都ではさらに有名人になったので、外を出歩いていると何かと人に囲まれるからだ。
たいていは単なるファンや健康相談を持ち掛けてくる人々だが、ファルマが莫大な富を持っていることは周知の事実なので、彼を誘拐して身代金を要求したり、単純に金の無心をしようとする者もたまにいる。
これらのならず者を退けるためにぞろぞろと護衛を引き連れて歩くのも億劫で、最近、移動はもっぱら神力を消費せず、跳躍に近い飛翔に頼っていた。
うまく闇に紛れれば、そうそう人に目撃されることはない。
数年前は少し人気のない路地を歩くと神官に襲撃されるのが悩みの種であったものだが、いちいち神脈を封鎖して追放しているうちに、噂が広まったか、自然と狙われなくなった。
夜分に年頃の女の子の家に、(外見は)年頃の男が通っていいのだろうかとは思いながら、何もやましいことがないのだしと考え直してロッテの家にお邪魔する。
ロッテのことは「神籍に入ったから」といって四年前にはっきりと振っているので、お互いに困るような関係にはならない。
しかし、心はすれ違ってはいても、何となくお互いがお互いの存在を心地よく思っている。
今日の彼女は薄い空色のドレスに、新しく買ったらしいフリルのついたエプロンをつけている。
彼女は以前の天真爛漫なあどけなさを残したまま、少し大人びた表情も時折見せる。
使用人服ではない彼女の毎日の私服を見るのは、ファルマは新鮮みを感じた。
彼女の今後の幸せを願いながら、ロッテの手料理の盛り付けや配膳を手伝う。
「今日はカラフル野菜のテリーヌとビシソワーズ、トマトのファルシーなんですよー」
「二時間前に帰ってもうそんなにできたの!?」
今にも歌いだしそうな弾んだ声でロッテが答える。
「えへへ、手際がいいと言っていただかないと! ファルマ様をお誘いしたので、がんばっちゃいました」
「手際もいいし要領もいいし、さすがだよ」
二人分って五人分のことなんだっけ、とファルマが思っているうちに、鮮やかでセンスのよい、目にも楽しい料理がこれでもかと食卓に並ぶ。
「ロッテは本当に料理がうまいよね。ごめんね、いつも食べるだけで」
「えへへ、キッチンが素敵なので、ついつい料理にも凝ってしまって! あ、でもいつもお皿洗ってくださるの、気にしなくていいんですよ。恐れ多くも帝都の人々の信仰を集める薬神様を家に呼び出してそんなことをさせているなんてバレたら、明日にでも家に火をつけられてしまいます。なんなら火炎瓶とか飛んできますよ」
「いやそんなおおげさな……いやあったな、そういうこと」
ロッテはこうして子犬のようになついては、ファルマの立場を思い出して時折恐縮してしまうようだ。
それでもファルマと親しくしたい、時間を共有したいという気持ちは変わらないらしく、「好き」と「でもだめ」、の気持ちがバランスをとれず鬩ぎあっているようでもあった。
ロッテがしゅんとなっているので、ファルマは、
「じゃあ今度、お返しに薬局でカリーをふるまうから。ロッテだけじゃない、みんなにだよ」
「わ、それでしたら楽しみです!」
ロッテも成人し、年頃なので縁談なども舞い込んでくる。
平民でありながら宮廷画家という申し分ないステータス、使用人出身で行儀が行き届いており、教養もあり見目麗しいとあれば、実業家や豪商を中心に結婚したいという若者は後をたたない。
ロッテはのらりくらりと「いい人がいたら!」と言って求婚をかわしている。
だから、彼らとの出会いの邪魔にならないようにあまりロッテと距離を詰めないほうがいいのかもしれないな、とファルマは考えていた。
それでも、気が付けば彼女に会いたいと思ってしまう。
ファルマは自分でも、どういう心境なのかよくわからない。
食事を終えると、ロッテとファルマはラジオを聴きながら二人で並んで夜景を眺める。
大通りに面した大きな窓からは、壮麗な夜の宮殿の中庭が見え、衛兵たちが頻繁に巡回している。
二人の職場だ。
「この時間にファルマ様とまったりしているの、夢みたいで」
「最近は休日には働かないようにしているから、時間的な余裕も増えたよ」
このところのファルマは多忙をやめてスケジュールをあけ、自分の人生を振り返る時間としてあてている。
そうでなければ、何より自分自身が後悔するような気がしたからだ。
「帝都にも大陸どこにいってもすっかり悪霊が出なくなって、夜の眺めもいいなと思うようになりました。いつまでもこんな日々が続けばいいのにと思います」
「そうだね。もう悪霊は出ないといいんだけど」
この安寧がずっと続いてくれるだろうか。
果たして自分が去ったあともそれは続くだろうか。
彼女たちの未来のために、それだけが心配だ。
人々は死に続けるし、この世界の人々の無念や悪意だけがこの地に募る。
墓守が記録し続けるこの世界の情報は、ただ時間の経過とともに増えてゆく。
いつまで降り積もったら、思いは消えるのだろう。
少し声のトーンが低くなったからか、ロッテが元気づけるように明るい声を出す。
いつもそうだ、彼女は太陽のようで、闇を抱えたファルマの心に光をくれる。
どちらが守護神なんだろうな、と思ったことも一度や二度ではない。
神官のように何もかもは知らなくて、かといって何も知らないわけではない。
ロッテと共に過ごす時間は、ファルマの救いとなっていた。
そうなのかもしれない。
「ファルマ様が大陸を守っておられるからですね」
違う、そうじゃない。
自分は何も守れていない、誰一人。自分すらも。ファルマは心の中で否定する。
それでも、弱みは見せられない。
「最近は悪霊が出ないからそんなに介入していないよ。主には神官やマイラカ族のおかげだよ。悪霊が出ないだけで穏やかな気持ちになれるのかもね」
「夜になったら慌てて寝なきゃと思っていたんですが、最近はそんな恐怖もなくなりました。夜が好きになりました。創作意欲がわいてくるので」
ロッテは静かな夜間にデザイン案をまとめることが多いという。
ロッテの作品群は今、青系の落ち着いた配色を多用する「青の時代」を迎えていた。
芸術家としての成長を喜びながら、ファルマは体調を気遣う。
「夜更かしはしないようにね」
「もちろんです、夜10時には寝ていますよ!」
なんならド・メディシス家にいたときより健康的だった。
そうだったな、彼女は自身を毀損しない。と、ファルマは苦笑する。
ファルマはそういえばと思い出して、恥ずかしさを隠しながらロッテを誘ってみる。
「あのね、映画のチケットがあるんだけど、二枚だけとれたんだ。明後日の夕方、何か予定ある?」
「ないです!」
「それはよかった。よかったら映画でもどうかな」
「何で映画のチケットがあるんですか? 映画館のチケットなんて人気で倍率高いんですよ?」
ロッテは何故チケットをとれたのかといって驚いている。
今年の春から販売されはじめた映画館のチケットは枚数制限があり抽選制で、さらに一日の上映回数は二回と少ないため、どんなに手に入れたいと思ってもかなわない者が多かった。
それを二枚も手に入れているというのは、ロッテにとっては驚愕なのだろう。
「帝都初の映画館の筆頭出資者だからね。映画館に定期的に顔を出さないといけないんだよ」
「つ、強い……ファルマ様って薬局の経営者で大学教授で宮廷薬師でおまけに守護神様で、それだけでも設定多すぎるのにさらに映画館のオーナーなんですか?」
「はは……まあそう」
ファルマは買い求めるまでもなく毎月のようにチケットを送られてくるが、それは映画館の様子を見に来いという、映画館長からのプレッシャーだ。
映画監督らからはファルマ自身を題材に映画を撮りたいとオファーを受けていたが、ことごとく断っていた。
(黒死病パンデミックものを撮りたいんだろうな……)
盛り上がるだろうし、なんとなく本人にオファーしたい気持ちはわかるが。
ただの薬師に演技力を期待しないでほしいし、映画スターになっている場合でもない。
映像で講義録を残してもらえればそれで満足だ。
「パティシエの立身出世ものなんだけど」
「何ですかそれめっちゃ面白そうです。借金だらけで首が回らなくなり、食うや食わずの若者が道で行き倒れていたところ、ふとそばを通りかかった優しい女王様に拾われ、小間使いから菓子作りの腕を認められて世間を席巻していくとなお面白いんですが、もしかしてそういうお話です?」
やたら詳しいあたり、ロッテは原作を読んでいるに違いなかった。
「まさにそう」
ロッテは映画館に連れて行ってもられると知って満面の笑みを浮かべていたが、はっと何かに気付いて肩をすくめる。
「やっぱり“幸せの小箱”だったんですね。でもいいんですか? そんな貴重なチケットなのにブランシュ様やエレオノール様をお先に誘わなくて」
「一回の上映でもらえるチケットが二枚ずつだから、彼女らとは別の映画に行くよ。この内容、あの二人に興味あると思う?」
「あー、ちょっとお好みが違う感じですね。わかります、微妙なラインでご趣味と違います。それならば私めが喜んでお供します!」
エレンは恋愛ものが好きだし、ブランシュは喜劇が好きだ。
それは普段、彼女らが読む小説本などを見ているとわかる。
一応、二人には気を回すロッテだった。
地球での世界初の映画作品は、「リュミエール工場の出口」という、一分にも満たない記録映像、無声映画だったようだ。
しかしファルマはせっかく足を運ぶのなら秒で終わる作品よりそれなりに長いものを見たいと思って、技術局にいきなりサウンドシネマの技術を登録していた。
このため、帝都は新技術の発表にわきたち、映画スタジオが新しくでき、映画作品の制作が始まった。その熱気を、ファルマは好ましく思いながらも少し遠巻きに見ていた。
巨大エンタメ産業が生まれる瞬間を目撃しつつあった。
翌々日の夜、ファルマは約束通り帝都初の映画館にロッテと訪れていた。
新築の映画館は城を模した絢爛豪華な内装で、席数が少ないということもあって、庶民の娯楽というにはまだ敷居が高い。
彼は特等席のチケットを持っていたので、2階に設けられた専用ブースに案内される。
ロッテが原作を読み込んでいた例の映画はいわゆるトーキーと呼ばれる発声映画で、およそ30分間の上映を楽しんだ。
ロッテが感動で涙を拭きながら、感想を述べる。
そんな泣くとこあったかな、とファルマは思うが、多感なロッテには満足のいく内容だったのだろう。
やはり感受性豊かなロッテと一緒にきて正解だったとファルマは思う。
それでまた、インスピレーションを得て創作に取り組んでくれたらいい。
「演劇と違ってスクリーンの画面が大きいから俳優の動きや表情がよく見えますし、音声や音楽もついていると盛り上がりますね。ストーリーも見ごたえ十分でした。シナリオは原作沿いで作っていましたよ。なんだか新しい娯楽って感じがします! それにしても写真機からまさか数年で発声映画(cinéma sonore)にまで発展するとは思いませんでした。ぼやぼやしていると技術の進歩から取り残されてしまいます」
「そ、そうだね……」
(ちょっと時代を先取りしすぎたかな……)
ロッテがやたら感心しているので、ファルマは罪悪感も手伝って視線をそらす。
「消火器と書いた設備がたくさんあるのは?」
「火災が起こりやすいから」
「怖いこといわないでくださいよう」
先月の試写会でも、フィルムが摩擦熱で炎上してしまったという。
幸い、ぼやで食い止められたようだが、火気厳禁だ。
技術的な課題はまだ多く残っているが、少しずつ改良を加えて娯楽の一つになればいい。
「夜の映画館、素敵です。また連れてきてくださいね」
「そうだね、またロッテの好きそうなチケットが手に入ったら」
その約束は果たせるのだろうか。
その確率は7割ほどだ。
世界情勢は表面上、安定していた。
四年前の闇日食では有事に備えて神聖国に常駐していた神官らを周辺国に避難させ、周辺一帯の呪器をメレネーたちのいた大陸に移動させて無効化し、マイラカ族の精鋭たちがやってきて神聖国周辺に悪霊が存在しない状態にした。
平民技師は神聖国に聖帝エリザベスの培養細胞を用意し、その時に備えた。
闇日食を迎えたのは1148年8月26日、鎹の歯車の聖呪印はエメリッヒやファルマたちの目論見通りに培養細胞シートから新たな培養細胞シートへと転写され、形式的には宿主を乗り換えたかたちとなった。
聖帝エリザべスは大神官の地位にありながら、聖呪印から永久に解放されることになった。
彼女自身の不安や、一人残される息子のルイのことを考えると、ファルマも彼女の解放には安堵したものだ。
エリザベス自身は大神官固有の神術を失ったが、それでも大神官の地位は守られた。
聖呪印の代替わりの方法が定められていなかったからだ。
誰も犠牲にならず、闇日食を乗り越えたか……に見えた。
が、さすがにそれだけでは済まなかった。
闇日食から一週間後、ファルマらが神官らとともに神聖国まで鎹の歯車の様子を確認に行くと、層状構造を持つドーム状の構造物が地表に露出していた。
ドップラーエコーなどの装置がない以上内部構造を推定することは難しいが、あれから四年、定点観測の結果、少しずつその構造物が肥大化しているということが明らかになった。
あたかも、生贄を求めて地表へさ迷い出たかのように。
次の闇日食までは三か月と少し。
地球側にいるファルマ・ド・メディシスの本体、薬谷 完治とは、異界の研究室を通して何回か連絡を取っている。
二人で練った計画も大詰めを迎えていたが、回を重ねるごとに、ファルマが聖泉をくぐっても研究室の前に接続されないことが相次いだ。
薬谷の解析では、鎹の歯車がファルマの住む異世界側に偏在していることで、時空が不安定化しているためだという。
薬谷はあと一歩で、鎹の歯車の地球側への寄生を解くことができそうとのこと。
寄生が解けたら、あとは計画通りに進めるだけだ。
それまでは、指折り数えながら仮初の日常を積み重ねてゆく。
(明けない夜はないけれど、夜が明けるとまた少し近づく)
ファルマはロッテを送った帰り、
夜空を仰ぎ、冷たく輝く満月を覆い隠すように手を伸ばす。
それがどちらの結果であれ、早く楽になりたい。
そう思った。




