8章14話 対談
西暦2048年5月24日 午前3時30分。
東京都文京区国立T大学 薬学系研究科教授、薬谷 完治が研究棟の廊下を歩いているとき、自身の帰属する空間が現空間から切離されたことを知覚した。
(きたか……)
薬谷教授は廊下側から培養室を兼ねている304号室の扉を開け、迷わず異界へと踏み出す。
そこは閉じられた空間に存在する、世界の分岐点上にある1時間を無限にループする世界だ。
地球側から異世界側への干渉はできず、異界化した研究室にファルマ・ド・メディシスが入った瞬間から、こちらの空間は閉じられ自由に行動をすることができない。
時空を開く主導権は完全に向こうが握っており、つまりファルマが欲したタイミングで薬谷教授は異界の研究室へ放り込まれる。
異界の研究室へは一方向からしか入れず、ファルマ・ド・メディシスも301号室側からしかこちらへ侵入してこない。
記憶に残っている限り、これは薬谷教授にとって5度目の異界入りとなる。
(今回は、俺が先に向こう側へ走破して到達する)
既に何度か試行を行っているが、いつもファルマに先を越されてしまい、301号室に到達する前に陣取りゲームに競り負ける。
というのも、ファルマ・ド・メディシスが301号室を開錠した瞬間からカウントダウンが始まるので、そもそもこちら側が不利なのだ。
回を重ねるごとにファルマ側の侵入範囲は狭まっているので、薬谷教授は301号室側へと歩みを進めることができる。
今回はスタートダッシュで出遅れまい。
(前回は303室で悪霊が出てきたが……今回は何もないことを願う)
白衣のポケットからペン型の小型神杖を抜き、303分析室の電気をつけながら杖を構える。
悪霊の出現は伺えない。
警戒を緩めず歩調を速めて分析室を駆け抜け、302室のドアを開く。
遂に301室へ到達したとき、301号室の出入口、本来そこには廊下があったはずの空間から、眩い太陽光が差し込んできた。
眩しさに目を細める。
数秒間の明順応が終わると、境界の外にいたのは13歳の、いまだ見たことのない自分自身の姿だ。
ファルマ・ド・メディシスは異世界側から301室の扉と蝶番を破壊して呆然と立ち尽くしていた。
あまりの大胆な手口に笑ってしまいそうになる。
とはいえ、時空を超えた対面だ。
(さて、本物の薬谷 完治に会えた。話が通じる相手だといいのだが……)
薬谷はそんな緊張は噯にも出さず、彼との対話を試みた。
◆
切り立った台地の上、聖泉の裏側に存在する地球と異世界を繋ぐ通路、301准教授室。
准教授室ではなく教授室へと変更されているのだが、302室から姿を見せた薬谷 完治教授はファルマと邂逅するや、Bluetoothで複数のデータをファルマのスマホへ送付し、ファルマと対話を始めた。
彼はのっけから、異世界と地球、二つの世界を救う準備が整っていると伝えてきた。
ファルマは急な展開に戸惑う。
薬谷が救うと宣言した範囲に自分が含まれていることも、要点を得ない。
「お話を伺う前に、一つお伝えしておきたいのです」
「何か」
「私は自身の生死に拘泥していません。既に死んだ人間ですので、私の事は勘案しないでください」
ファルマが力なくそう伝えると、薬谷は驚いたように首を振った。
「薬谷さんの死は確定していません。あなたはこの部屋で薬谷 完治の死と遭遇したのかもしれませんが、あれは暫定的な状態です。過労をしていませんし、当然の帰結として健康に暮らしています」
確かに、薬谷 完治の妹、薬谷ちゆが救われたことで薬谷 完治が過労をする動機は消え、過労死するという結果は覆っているに違いない。
薬谷教授は見るからに健康そうだし、かつての不健康極まりなかったあの薬谷 完治とは体のつくりからして違う。
そもそも過労をしていないうえに基礎疾患もなく、自然発生的な突然死が起こりにくい状況だ。
「何せこちら側にいた私は普段は定時に帰宅しています」
(定時ってなんだっけ)
前世では24時間研究室に住み込むほどの悲惨な生活を続けていたファルマには定時という概念もよく分からないが、定時とは一般職員と同じ17時30分のことをいうのだろう。
限られた時間で研究活動をこなし、世界的な業績を出しているからには、研究者としての能力の高さもあるのだろう。
それで自身の健康管理まで完璧だとは恐れ入る、とファルマは自虐ぎみに話を聞く。
(それにしては、何でこの時間に研究室にいたんだ?)
異界の研究室では、午前4時30分すぎのはずだ。
ファルマの疑問に気づいたのか、薬谷は補足する。
「ええと、あなたがこの研究室を訪れる日は3日前から予測できますので、その日だけ寝ずの番をしているのですよ」
「そうだったのですか」
ファルマは適当なタイミングで研究室を訪れていたが、薬谷 完治はいつファルマが来るか分かって対策も立てていた。
何もかも彼の得ている情報量が多く、先手を打っているように見える。
「前回接続時に、霊を迎撃したのはあなたですか」
「ああ、悪霊が一体侵入してきましたので応戦しましたが取り逃がしました。あの霊について、何かご存じで」
薬谷がメレネーの霊を悪霊と認識して攻撃したようだ、ということはファルマにも推測できる。
「あの霊は悪霊ではなく、私が友人に頼んで偵察に放ったものでした。もし、それを悪霊とみて警戒させてしまったら申し訳ありません」
「そうでしたか、悪霊にしては不思議な挙動をすると感じましたが。あなたのご友人は悪霊ではない霊を操ることができるのですね」
「彼女は呪術師なので」
「へえ。呪術師とは、私が帝都にいたころにはなかった概念ですね。では次から、類似のものを見ても攻撃しないことにしましょう。ご友人にもよろしく」
薬谷には悪気もなかったであろうから、メレネーの霊を傷つけられたことを非難すべきではない。
「地球にいても即応的に浄化神術が使えるとはさすがです。神術訓練は続けておられるのですね」
「特に訓練はしていません。鎹の歯車が存在する影響で、東京には時折悪霊が出るのです。そのたびに浄化神術で浄化を試みているので、慣れているだけです」
東京に悪霊が出るとは、どんな魔界になってしまったのだろうとファルマは懸念する。
家族や友人ら、地域の人々は無事なのだろうか、と心がざわつく。
「東京に、悪霊が出るんですか……私がそちらに行けたら、広域浄化できるのですが」
「安心してください。私や協力者が随時対応していますので、犠牲者は出ていませんよ」
「ファルマさんは疫滅聖域などを使えるのですか?」
「私には特別な加護がなく、そういった特殊能力は使えませんが。ごくごく一般的な浄化神術で対応しています」
「協力者とは、そちらにも神術使いがいるのですか」
「いえ、神術使いは私のみで、協力者というのは地球人です」
「ではたった一人で神術を駆使して悪霊と戦っておられたのですか。それは大変でしたね……」
薬谷も東京で悪霊相手に孤軍奮闘をしていたとみえ、苦労が偲ばれる。
ファルマはこちらの世界で大勢の神術使いらの助力を得ていたし、神殿が世界各地に展開し悪霊を駆逐してくれていたため、悪霊にかまけきりにならずに済んだのだが。
薬谷がどの程度の頻度で悪霊退治をしていたのか、想像を絶するものがある。
ファルマが沈痛な面持ちでいるのに気づいたか、薬谷は意外そうに眼を丸くした。
「ああでも、最近は悪霊の数がめっきり減ってきましたよ。あなたがそちら側で何かしていますか」
「こちらで出現する悪霊を減らしていますので、そちらにも影響しているのでしょう」
ファルマがメレネーと協力して、大陸全体の悪霊の数を減らしてきたのは、地球側にも反映されているということなのだろう。
「ところでファルマさんは神杖もないのに神術が使えるのですか」
「薬谷さんだって神杖がなくても神術が使えるのではないですか? それに浄化神術を行使するために使う神杖ならここにありますよ」
薬谷はポケットからペンを抜いて見せた。
何の変哲もない黒いペンに見えるが、キャップをとると青い晶石が埋め込んである。
「ああ、それが神杖だったのですか」
「日本においては神杖の携行は目立ちますので、小型化を行いました。杖の大きさは神術の威力に比例しませんので。この晶石には、あなたの世界からみると反神力と呼ばれるものが蓄えられています。あなたが神力を使うと、この晶石に反神力として蓄えられます」
「私が神力を使うとそちらに反神力がたまるのですか」
「そういうことになります。話が長くなりますので、詳しくは先ほど送った資料を見てください」
何がどうなってそんな奇妙なことが起きているのかは分からないが、偶発的に起きているとは考えられないから、墓守が何かしたのだろう。ファルマはひとまずそんな理解に落ち着いた。
「あなたが必要であろうデータは、さきほどすべてBluetoothで送信しています。落ち着いた場所で資料を読んで状況を理解し、咀嚼してみてください」
送信したデータを何者かに書き換えられるかもしれないが、書き換えが起これば判別がつくように改竄検知プログラムも入れているとのこと。
「分かりました、確認します。ありがとうございます」
「今後もし、接触できる機会があれば連絡をとってゆきましょう」
ファルマは薬谷の言葉を心強く思う。
「それは助かります。あなたは地球側で反神力を使っているのですか」
「ええ、悪霊と対峙する際に用いますが、反神力は神力に転換して使っています」
薬谷 完治は地球側で、ファルマがこちらで使用した量と等量の反神力を大規模に消費する神術を使うことで二つの世界の神力消費のバランスをとっているとのことだった。
「少しずつ私とあなたで神力を相殺して、この世界に存在する神力を打ち消してゆくことが望ましいです」
双方の世界で神力を相殺しあい、神力量がいつかゼロになったら、二つの世界から神力はなくなるのだろうか。
ファルマは薬谷と対話し、二つの世界で起こった出来事の情報交換する。
ファルマもまた、スマホに記録しておいたメモや写真、データをBluetoothで薬谷に飛ばした。
「この世界において墓守と呼ばれている存在は、この世界の管理者、あるいは上位次元の存在なのでしょうか」
「上位存在であることは間違いありませんが、その正体を暴き出すことは難しいのです。それに、墓守の正体を探ることには意味がありません。私たちにできることは、鎹の歯車の破壊と墓守の制御、二つの世界の安全保障にとどまります。口頭では言いませんから、その方法は後ほど確認してください」
「わかりました」
「そのほかに質問はありますか」
上位存在に対してそれを可能とする方法が存在するのだろうか。
そんな疑問を抱きながら、ファルマは残り時間でどうしても伝えておくべきことを思い出す。
「質問というよりはファルマさん。あなたの作ったSOMAという治療ユニットに対して、重大な懸念を抱いています。遺伝子変異を悉く正常化させるSOMAを世界的に普及してゆくことは、遺伝的多様性を放棄し、人類進化を止めてしまうことにほかなりません。そればかりか、遺伝情報の修正はレジリエンスを乏しくさせ、特定の環境下においては人類絶滅の危機すらありえます」
「ええ、あなたの仰る通りです」
薬谷 完治は「言わずと知れたこと」とばかり、ファルマの指摘を意にも介していないようだった。
「想定の範囲内だったのですね。何のために敢えてそんなことを」
「あなたはすっかり異世界側の思考になってしまっていますが、地球における進化の目的は環境への適合です。それでは地球人が鎹の歯車の出現という環境の激変に対し、いかに適応しようとしたと考えますか?」
鎹の歯車の出現を認識していたとして、異世界からの侵略に備え、先制攻撃や、異世界人に対する情報収集を行っていただろうか。
そんな見通しを伝えると、薬谷は軽く失望したような顔をした。
「人類が異世界の出現に対して求めたのは、生存圏の拡張です。異世界の住民と戦争をするとかしないとか、そういう問題は後回しです。地球外生命体が存在し、地球に狙いを定めて空間干渉まで行ってきた。しかも異世界の住民たちは神術という未知の能力を手にしている」
地球人の視点で見るとそうなる。
「地球上が異世界との決戦の場になるかもしれないが、それ以前に鎹の歯車という空間の綻びから、地球が崩壊するかもしれない。できるだけ安全な場所に避難したい、そうは考えませんか?」
「たしかに……」
「地球世界の、事態を知りえたごく一部の人々は、もはや地球は安全ではないと考えました。出アフリカならぬ、出地球が始まったのです」
ネットから拾える世界情勢に表面上の変化はなかったが、それは大多数の人々の混乱を防ぐために情報を制限しているためだという。
「悠長なことを言っている場合ではなくなりました。現生人類は大きく、四つの方向に進もうとしています。
一、人体を機械化しあらゆる環境に適応しようとする人々。
一、遺伝子工学によって人体を強化する人々。
一、記憶をデータとして仮想空間内に移植し、深宇宙へと脱出して永遠を生きようとする人々。
一、何もせず、地球で滅びを受け入れる人々です」
西暦2048年。
鎹の歯車の出現は既に十年以上前から観測されていた。
研究機関、政府機関、財界の人々の間に密かに知れ渡ることによって、地球の破滅から逃れるための避難先が求められた。
かくして地球からの脱出は大きな需要を持つに至る。
ビッグテックを上回る巨大資本を背景とした、巨大民間宇宙会社による火星への移住計画は急ピッチで展開していた。
しかし人類が地球外惑星、とりわけ火星へ移住するには宇宙環境はあまりに過酷で、持続可能で安定的な生活環境を手に入れるまでには多くの課題をクリアしなければならない。
例えば火星の大気はほぼ真空に近く、弱い磁気圏を持つ。
それらは宇宙から降り注ぐ高エネルギーの放射線や、太陽フレアの発する太陽風を防ぐのには不十分だ。
人体が放射線に晒されると遺伝子の損傷を引き起こし、その損傷によって細胞死や急速な老化へと至らしめる。
ホモ・サピエンスとしての人体は地球の外に出るにはあまりに脆弱で、惑星外に居住するには適さない。
遅々として進まない計画にしびれを切らし、人体に適する環境を求めて惑星を改造するより、人体を機械化させたほうが早いと気づいた人々は、老齢に達し死を待つのみの超富裕層、知識階層、専門職、何らかの身体障害や深刻な疾患を持つ人々から順に全身サイボーグ化を実現させ始めた。
機械化の流れは大々的に広報されることはなかったが、少しずつ、そのうねりは大きなものとなりつつあった。
人類の機械化は、病、老、死を過去のものにしようとしている。
こうして地球上には、機械化して火星に行けるだけの経済力がなく、変化を受け入れない社会的弱者を中心とする人類のグループが残されてゆく。
機械化による身体強化や、脳の改造による情報処理能力の向上を行わない場合、進学、就労、生涯賃金、婚姻においても大きな不利益を被る見通しがたてられた。
このままでは、有機体としての人類は緩やかに絶滅の道をたどる。
「だからこそ私は、最悪のカードを切ってでも、SOMAによって有機体としての人類をこの世界に残したかったのです。それは、薬学者として最後の仕事でもあるように思えました」
薬谷は積年の懊悩を吐露するかのように告白した。
(そうか……見えないところで、機械化人類と有機生命体としての人類の生存競争に入ろうとしていたのか。そして、ホモ・サピエンスが老化や疾患などの弱点を抱える限り、人類進化の方向性として有機体を選ぶアドバンテージが全くなくなる)
「前言を撤回します。あなたの選択は、間違っていなかったような気がします」
ファルマは薬谷をいたわるように声をかける。
地球に残る人々も身体強化を受け入れないまま短い生を終えるか、SOMAの投与を受けるかの選択を迫られるのだが。
彼はSOMAによって、人類に中長期の生存権を与えたのだ。
その決断を下すまでに、どれだけの葛藤があっただろう。
安易に彼の行動を非難をしてしまったファルマは、正当な理由があったと気づき気がとがめた。
「ありがとう。ちなみに、SOMAにはいつでも遺伝子修復ユニットを切り離せるようにセーフガードが組み込まれていますよ」
「そうだったのですね……」
つまり、SOMAが遺伝子に組み込まれてしまっていても、必要があれば元に戻れる。
そこまで周到な準備を施して、SOMAは設計されていた。
「そろそろ時間です。また会えるかどうかはわかりませんが」
薬谷 完治は腕時計を見て時間切れと面会の終わりを悟る。
もう時間切れだ。まだ話したい、情報交換がしたい。
何より、彼が見てきたものや道のり、彼のこれまでの歩みを知りたい。
そんな思いは無残にも打ち砕かれる。
「最後にお尋ねしたいことがあります」
薬谷 完治はファルマに重大な判断を委ねようとしている。
「あなたは鎹の歯車が消えた後、どちらの世界で生きることを選びますか?」
一つの世界に二人が存在することはできないので、どちらがどちらを選ぶかという話をしているのだろう。
ファルマは困惑する。
もし、二つの世界の何れかを選べるとして、彼はサン・フルーヴに帰りたいのではないのか。
「私の答えは、あなたの選択に影響しますか」
「ええ。私の答えは決まっていますが、あなたの希望を先に伺います」
ファルマは少し悩んで、答えを伝えた。
希望が一致しなかった場合はどうなるのだろう、そう考えていたが……二人の意向は同じ方向を向いていた。
「では、お互いに希望通りの選択ができそうですね」
どこかほっとしたような薬谷 完治の声が突然途切れると、ファルマは異界の研究室からはじき出されて聖泉に浮かんでいた。
時間切れになったのだ。
異界の研究室に入らなかったため、神力量には変化はない。
(果たして、本当にそれでよかったのだろうか)
そんな自問自答を重ねながら、ファルマはいつまでも鈍色の霧を眺めていた。
◆
その日。
鮮やかな金髪に、青空色の瞳を持つ一人の青年が、サン・フルーヴ帝都の鐘楼の頂上に腰をかけて、活気あふれる街並みを静かに見下ろしていた。
往来の人々からの目につかないこの場所は、この世界で誰にも探されず、誰にも襲われず、一人になりたいときの彼の居場所なのは、4年前から変わらない。
輻射熱をはらんだ風に吹き煽られながら、鉱石ラジオで公共音楽放送を聞き流し、クラシックの音楽をかすかに口ずさむ。
ラジオが奏でる豊かなハーモニーに重なって、彼には世界の崩れゆく音が聞こえていた。
「そろそろか」
1152年5月9日、午前12時を告げる楼の鐘が大きく打ち鳴らされる。
「その日」は確かに近づいてきていた。
17歳の青年、ファルマ・ド・メディシスはラジオを止め、立ち上がる。
鐘楼の端を静かに蹴りその体を大気の中へと投げ出すと、彼の姿は誰にも見えなくなった。
8章本編終了です。




