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【完結済】異世界薬局(EP4)/【連載中】世界薬局(EP4.1)  作者: 高山 理図
Chapitre 8 崩壊し、つながる世界  Réduire et connexion(1148年)
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8章13話 到達と邂逅

 1148年8月3日になった。

 アガタの率いる帝国医師会は、狂犬病感染の疑いのある野犬に噛まれた平民猟師の最初の一例に遭遇した。

 咬傷事故を起こした野犬が狂犬病の症状を呈し、その後死亡していたことから、患者検体をアップデートした臨床検査で狂犬病ウイルスを検出し、狂犬病ワクチンの曝露後接種を開始した。

 当該患者においては診眼でも狂犬病のウイルス感染は検出されており、拡大視によれば右手指の末梢神経にとどまっている。

 潜伏感染期に狂犬病ウイルスが少しずつ神経内部に感染を広げ、やがて中枢神経を介して脳に達したとき、通常は発症する。

 アガタら帝国医師ギルドは専用隔離施設を設置し、果たしてこの最初の接種患者が狂犬病を発症するかに注目している。

 数か月後には答えが出るが、ファルマは緊張をもって経過を見守っている。


 狂犬病感染拡大の報告を受けた聖帝エリザベスはいちはやく、帝都内で飼育されている食肉目に順次ワクチンを接種することを義務付けた。

 人に接種をするより、飼育動物に接種をするほうがコストがかからずに済むという目算からだ。

 当然、宮殿で飼育されている聖帝のトラやライオンなどの大型ネコ科動物も対象になった。

 宮廷獣医や街の獣医ら、咬傷事故などを受ける可能性のある職種にある者も優先して予防接種されることになった。


 ファルマは宮殿の薬師控室で狂犬病ワクチンを準備をしている。

 パッレとファルマは手分けをしてワクチン接種を担当することになった。


「狂犬病ワクチン、俺は動物に打ってくるから、兄上はここに来た人に順番に問診をして投与していってよ」

「人は分かった。だが動物って、あの獰猛な番犬や猟犬、ライオンやトラ、ヒョウにも?」


 大型動物相手だといくらか格闘する羽目になるかもしれないが、そこは獣医に保定を手伝ってもらうしかない。


「そう、少し緊張するけど」


 結局物理無効なので、気持ちの問題でしかないのだが。


「一応お前もワクチンを打って行ったほうがいいんじゃないか? ワクチンを打ちに行って噛まれましたじゃシャレにならねーぞ」

「そのつもり。兄上が打ってくれる?」


 ファルマはこの世界においてはありとあらゆる感染症にかからないため、今さら予防接種も無駄なのかもしれないが、他の接種者への啓発のためにパッレにワクチンを打ってもらう。

 ファルマも問診と検温をしてパッレに投与をする。

 互いに接種後の経過観察をしながら会話を交わす。


「人間の接種予定者は何名いる?」

「宮廷獣医と飼育者、猟師、合わせて五十名ほどかな。これが最新のリスト。咬傷歴のある人をピックアップしておいてほしい」


 ファルマは準備しておいたカルテ一式をパッレに手渡す。

 少しずつ担当患者の引き継ぎをしているので、これもパッレの臨床経験となり、担当薬師として顔を覚えてもらう契機にもなる。そんなことはプライドの高いパッレには伝える必要もないが。


「わかった。数か月前の咬傷歴の聴取も必要か?」

「潜伏期間が長い場合もあるから、必ず聴いてほしい。それから、ふせんをつけた三人ほど結構強烈な反ワクチンの人がいるから、対応は任せる」

「どうすんだよ。反ワクチンの職員には打たねーのか? 無理やり打つわけにもいくまいに、曝露後接種でいいだろうって言い出したら?」


 患者自身が医療を選択できる現代地球とは異なり、勅令だからといって強制してしまってもいい世界なのだが、強制的な接種は不信感につながる。


「狂犬病ワクチンの曝露前接種と曝露後接種の違い、メリットとデメリットをきちんと説明して選んでもらって」


 曝露前接種を行っておけば投与回数が少なくて済むだけでなく、曝露後接種より生存確率が上がる。言葉を尽くし、丁寧に質問をくみ取り、接種者の不安を和らげることができれば、命を守る行動をとってくれるはずだと諭す。


「針を刺すのが嫌いな人間もいるだろうしな」

「宮廷の人たちは月に一回行われていた瀉血を廃止したから感謝してくれているよ。瀉血とは違うといって普通に話せばわかってくれる」


 瀉血嫌いの宮廷人は多く、ファルマはクロードを説得して瀉血を廃止したため、多くの人々を味方につけている。


「ああ、瀉血は厄介だものなあ……全面禁止の流れになったのはよかった」


 訪れた数人の専門職らのワクチン接種が終わったところで、宮廷獣医ジョセフィーヌが薬師詰所にやってきた。

 ファルマにとってはいつも学生として接しているジョセフィーヌだが、宮廷獣医としての制服を着てバッジをつけた彼女は凛々しく見える。

 ジョセフィーヌはファルマを見つけると、嬉しそうに駆け寄ってくる。


「あ、教授! お疲れ様です。狂犬病ワクチンの接種に参りました。その後、動物への接種をお願いします」

「こちらこそよろしくお願いします。そういえばジョセフィーヌさんは咬傷歴はあるといっていたよね。それは最近でも?」


 以前聞いたときはあるといって傷を見せてくれたが、更に新しい傷が更新されていた。


「そんなの年がら年じゅう生傷だらけですよ。ほら、ここも。ここもです」


 ジョセフィーヌは手足に勲章とも呼べるほどの咬傷痕を作っている。

 あれもこれも今年の傷ですと見せてくれるので、ファルマは「改めて、獣医師って大変な仕事なんだな」と恐れ入る。


「咬傷対策って不可能なんだっけ」


 こう、保定の前に動物を手なづけるコツなどがあるのではないか。

 分厚いグローブなどを遣えば、と問うが、まさに素人は口をはさむべきではない。

 ファルマとしては本格的に噛まれる動物としてマウスやラットの取り扱いぐらいしか経験がないため、獣医とはそういうものなのかと納得するほかにない。


「防御神術が間に合えば使いますが、そんなもの患畜の気分次第ですし、たいていは神術を立ち上げるより患畜の攻撃のほうが早いです」とのこと。

 最近では保定技術が上がってあまり噛まれなくなってきたというが、それでも予想外の行動をする個体、急に機嫌が悪くなる個体はいるそうだ。

 ちなみに、一番困ったのは毒蛇に噛まれたときだという。


「え、蛇? 毒蛇?」

「いやぁ、噛んだらどんどん牙が食い込んで放してくれなくてですね……決死の格闘を繰り広げましたよ」


 誰も助けに来てくれなくて死ぬかと思いました。

 などと遠い目をしながら語るジョセフィーヌはタフすぎた。


(それ以前に宮殿で飼ってる動物がおかしい……)


 さすがにファルマも、毒蛇を素手で触らないほうがいいのでは、そもそも毒蛇を飼育すべきではないのでは、というコメントしか出てこなかった。


「え、毒蛇はペットではなくて抗毒血清を作るために飼っているんですよ。いつもはカラッカラになるまで毒を絞っていたんですけど」

「あ、そうか! 抗毒血清はどの動物で作っているの?」

「私は牛で作りますね、馬で作る獣医もいますけれど。持ち回りで作って規定の量を保存しています」

「へえー……」

「契約している猟師が結構毒蛇に噛まれるので、必需品ですよ。あとは聖下が狩猟にお出ましのときにもしものことがあってはいけませんからね」


 サン・フルーヴ帝国には鎖模様のついた毒蛇がいる。

 いつかに備えて毒蛇の血清を取り揃えておくことも宮廷内でのジョセフィーヌの仕事なのかと思うと、彼女も言わないだけで多忙な日々を過ごしているのだと感心する。


「抗毒血清を作るのは獣医師ではなく薬師の仕事ではないの?」

「えっ、教授がやってくださるなら大歓迎です」

「また分担については相談しよう。そういえば、蛇毒は動物を使わず人間に打って抗毒血清を得るという手もあるよ」


 パッレがファルマの視線に気づいた。いわゆるミトリダート法である。


「は? 俺がやんのか? 牛馬でやるもんだろうがよ!」


 ファルマでもいいのだが、抗毒血清以外の何かも紛れ込んでしまいそうで避けたい。

 地球には数十年にもわたって蛇毒を注入し続けて抗毒血清を作っているパンクロッカーなどがいた。

 意味深な視線を向けてパッレを怖がらせてしまったが、もちろんそんな方法はファルマも推奨しない。


「何も言ってないよ」

「何故今のタイミングでこっちを見た。俺を殺す気か、元白血病患者でやろうとすな」

「そうだね」


 ファルマは適当に流して問診を続ける。


「それで、過去はともかくとして、今は体調に問題は?」

「はい、私は宮殿で飼育されている動物にしか触れていませんので」


 宮殿で飼育されているのは確かに血統や品種などはやんごとなき動物たちなのだろうが、感染症は別の話だ。


「それは何の担保にもならないよ。講義でもやったけど、人畜共通感染症もあるし」

「そういえばパスツレラ症にかかって関節炎を起こしたことならありますよ。というか、帝国医薬大に入ってからあれがパスツレラ症だったことを知りました。新しい知見を得ました」

「ほらー……」


 ファルマがヒヤヒヤしながら診眼を使うが、ジョセフィーヌの体には今は特に異常はなさそうだ。 

 重篤なアナフィラキシーを起こしたことがあるか、発熱はないかなどの問診ののち、パッレがワクチンを希釈、調製して注射器に充填し、ファルマが監査と投与をする。

 接種後、経過観察をして異常がなかったので今度は彼女と食肉目のワクチン接種に向かう。

 ファルマがワクチンを調製し、ジョセフィーヌに保定をしてもらって投与してゆく予定だ。


「この子達からいきますか。大丈夫、檻から出さなければどうということはありません」


 ジョセフィーヌとファルマはエリザベスの愛猫? のトラの檻の前に立つ。

 ふいにお尻を向けたのでファルマは何かを察して氷の壁を作っておくと、案の定スプレー行為を働いた。


「ふふ、さすが教授。おしっこを飛ばして来ると読み切るとは!」


 ジョセフィーヌが興奮しているので、まさかと思い尋ねる。


「え、ジョセフィーヌさんはかぶるの?」

「まあ、今かと思ったときには来ないし、ほかの作業に夢中になっているといつもかぶりますね。最近では愛情表現かなと思える余裕も出てきました」

「かぶるんだ……」


 本当に大変な仕事だ、とファルマは頭が下がる。


「マーキングの飛散防止に、檻の前面にガラスを張っておけばいいんじゃない?」

「まあまあ、そうしない理由は一目瞭然かと。さて、始めましょうか」


 ファルマはジョセフィーヌに促されてワクチンを調製する。

 ジョセフィーヌは生肉の入ったバケツを持ってきて肉でトラの気を引き、トラの体が檻に対して横向きになるように移動させる。その自然な誘導は見事だった。


「教授はこの隙に、横から檻に手を入れて皮膚をつまんで皮下注射してください。あ、肉というよりは毛を引っ張ると皮膚が盛り上がってやりやすいです」


 ジョセフィーヌがトラに声をかけながら肉を食べさせ、ファルマがその隙に檻ごしに投与を済ませる。

 トラは何も気づかず、美味しそうに生肉を貪っている。あっという間の仕事だった。


「すごい、こんなに簡単に終わるなんて。多少格闘になるのを覚悟してたのに」

「まさか格闘して投与しようとしていたんですか。教授も面白いところありますね」


 ジョセフィーヌはぷぷっと吹き出す。

 ジョセフィーヌはその調子で大小の食肉目のケージを回り、ファルマが皮下注射をしてゆく。

 子ライオンはジョセフィーヌが首根っこを捕まえて保定したり、小動物は彼女自身が投与をしてゆく。

 ジョセフィーヌは注射器を隠しながら投与のスピードも速い。


「投与完了かな」

「無事に終わって、というか無傷で終わってやれやれです。これで動物たちが聖下を噛んだとしても狂犬病に感染なさることはないんですね。獣医師としても一つリスクが減ってありがたいです」

「複数回投与が必要なので、私たちも含め抗体ができるまではまだなので油断はできないけど」


 狂犬病ワクチンだけでなく、人畜共通感染症のうち、例えば人に対する影響が大きいものから順にワクチンを開発、普及させてゆく必要性を感じている。

 それがひいては、動物だけでなく帝都市民の保健衛生に繋がる。ジョセフィーヌにそんな話をしていると、


「教授」


 ジョセフィーヌがふとファルマの目を覗き込む。


「これからもご指導ご鞭撻をお願いしますね?」

「もちろん」


 ファルマもジョセフィーヌの真剣な口調に応えて頷いた。


「ジョセフィーヌさんは医薬大を卒業したら宮廷獣医に専念するんだっけ」


 学生の進路相談はまだ実施していないが、何気なく尋ねてみる。

 確か、入学時はそう言っていたはずだと思い出す。


「そうですね、教育課程を終えて一級薬師の資格を得たら、宮廷獣医に奉職しつつ、大学院に進んで動物の感染症に関する研究を続けたいと思っています。エメリッヒ君とそんな話をしていたんです」


 ファルマは総長のブリュノにかけあって、来年にも帝国医薬大に世界初の大学院をサン・フルーヴ帝国医薬学校総合薬学大学院として設置する準備を進めている。

 五年間の学部教育に引き続き、三年間の博士課程を設ける。

 ほかの学部についても検討を進めているが、薬学研究拠点を先んじて設置する。


 地球における大学院の歴史を振り返れば、意外に歴史は浅く、1876年、アメリカのジョンズ・ホプキンス大学に最初の大学院が誕生したとされる。

 エメリッヒは既に大学院入学への強い意向をファルマに伝えており、その準備手伝いまでしていた。エメリッヒはパッレとは違って臨床よりも研究、というタイプの薬学者になりそうだ。

 ファルマは将来、彼に薬学研究の中心的な研究者になってほしいと考えている。


 また、エメリッヒには内緒なのだが、ファルマは既に彼の致死性家族性不眠症にまつわる遺伝子を修復して、発症しない状態にしておいた。

 仮にエメリッヒが致死性家族性不眠症の治療法を発見できなくとも、ファルマがいなくなった状態であってもエメリッヒが死亡することはない。

 恐怖心に囚われたり、残り時間を気にせず研究に没頭してほしかった。


「教授はどう思われますか?」

「そっか、獣医をしながら研究を続けるんだね。もちろん、大歓迎だよ」

「両親には反対されたのですが」

「どうして」

「婚期を逃すから、だそうです」

「婚期か。別に研究が結婚の妨げになるとは思わないけどな」

「男性だからそう思うのかもしれませんよ?」


 この世界の因習として、女性薬師や女性研究者は結婚をして引退するか、もしくは生涯独身が普通のようだ。

 だからこそファルマは逆に、メディークや関連薬局で既婚の優秀な女性薬師を大量に引き抜くことができた。

 結婚、出産が女性研究者にとって大きな負担となることは、ファルマにも理解できているつもりだ。女性研究者が結婚や出産を諦めてしまわないよう、周囲のサポートが必要だ。

 既婚女性も既婚男性と同じように活躍できる、それが普通となる社会にしなければならないと思う。


「そうかもしれないね。ジョセフィーヌさんは結婚をしたいと思っているの? 今、お付き合いをしている人がいるとかは」

「いえ、まったく。他人と暮らすのが嫌いなので、そう言われるのも鬱陶しくて」


 それが本心なら、独身を貫くのは何ら非難される覚えはないとファルマは思う。


「私も一生独身のつもりだよ。独身仲間だね」


 ファルマは何気なく伝える。


「教授もですか。そう言われると、気にならなくなってきました」

「どんな生き方があってもいい。学問の世界は自由だ。もし、何か研究の妨げや懸念になっているものがあるなら、指導教官として支援するからいつでも伝えて」

「はいっ、ありがとうございます」


 ファルマはジョセフィーヌの意向を聞いて、彼らが快適に研究を続けて行けるように整備をしておかなければと強く思った。


「大学院に進学して、薬学の博士号というものをとって、立派に研究者になれるよう頑張ります」


 指導教官として彼らが学位をとるまで指導ができるかは分からないが、ファルマは筆頭宮廷薬師から大学研究者へと軸足を移し、最後の最後まで彼らの歩む道を支えてゆきたいと願っていた。


 ◆


 1148年8月7日になった。

 ファルマは表面上、帝都の保健日常生活を送りながらも、墓守との最終決戦に備えて単身、あるいはメレネーと様々な考察や検討を続けていた。


 その日、ファルマは地上から七百キロ以上離れた宇宙空間の中にいた。

 地球の大気でいうといわゆる熱圏を抜け、真空の世界に身を浸す。

 なぜこんな遠くまで来ているかというと、反物質を取り扱うには真空が望ましいからだ。

 エレンの提案を受けて、独自に反神力と反物質の関係を調べていた。


 ファルマは惑星の壮大な眺めと青い輝きを眼下に見下ろしながら、エレンから教わった方法、すなわち薬神紋に神力を押し込んで逆側から引き出す方法を試す。

 宇宙空間、絶対真空ではないながらも真空に近い状況で左手をかざし、細心の注意を払いながら薬神紋から反神力を操り、反物質の水を創造する。


(反物質の水を消去)


 どう念じていいものか分からないが、物質消去に成功した。

 反物質は電気的に安定で、一般的に物質とされるものと変わらないようだ。

 ただ、物質に衝突すると莫大なエネルギーを放出することから、地上でそれを創るには危険すぎたし、ファルマも長時間の安定的な観察は憚られた。

 ファルマは極寒の闇の中で考える。


(反神力で反物質を作れるとしても、使い道がない。ひたすら反神力を使って神力との調整をとったとしても、大量の反物質をこの世界に安定的に保管しておくことができない)


 ファルマはエレンのアイデアが突破口となるには弱いと感じた。


(ただ……世界ごと全ての物質を反物質にすることができれば、物質と同じように安定化はする)


 神力や呪力を調律するための理論は成り立つ。決まった周期で反転し続ければいい。

 呪力と神力、反呪力と反神力を交互に使い続ければ。


(ああ、もしかして墓守は拙いながらもそれを試みていたのか)


 ファルマはこの惑星の歴史の浅さと関連づけて、墓守の意図を推測しようとする。

 そして、この惑星がまるで地球をコピーしたかのような構造をしていて、極端に歴史が浅い理由にも思いをはせる。


(この世界では何度か、宇宙の構造物が物質ではなく反物質で構成され、反神力を用いていた時期があったのかもしれない)


 打開策を得られないまま、研究室に戻ってインターネットで地球側の動向を調べる。

 薬谷 完治の人生をネット上で掘り返していると、かつての自分とは全く異なる人生を送っていることに気づく。

 かつての自分と出身高校が違う。ファルマ少年が通っていたのはスーパーサイエンスハイスクールのある、有名な公立高校だ。

 彼は高校の時点から出身大学の研究室に出入りをしていたし、部活の一環として国際科学オリンピックに出て入賞したりしていた。

 そのころの薬谷は私立の進学校で大学受験勉強に明け暮れていたから、ファルマ少年は三年も早く研究生活を始めて、大学へのコネを作っていたことになる。

 彼の完全記憶能力をもってすれば、受験など楽勝だったことだろう。

 大学に入ってからは学生馬術大会で連続優勝している。


(そりゃ、馬術も得意か……)


 今さらになってファルマは元のファルマ少年のスペックの高さを思い知る。

 現代日本の生活に順応していただけではなく、しっかりとした目的意識をもって、彼は最先端の薬学者になっていた。


(どんだけ優秀なんだよ……ファルマ・ド・メディシス。大した取柄もない俺の体に憑依してただろうに)


 まだ会ったこともないファルマ少年と比較して落ち込む。

 ファルマ少年の記憶はファルマ・ド・メディシスの体にも残されている。

 それでもこちら側に彼の自我がないのは、意識の本体部分が地球側にあるからだろう。

 それに対して、今のファルマ、すなわち薬谷 完治は逆にファルマ・ド・メディシスの肉体、頭脳の潜在的な性能を十全に引き出せているのだろうかと自問する。

 もし、彼がこちらの世界で規格外の神力と完全記憶能力、現代薬学知識を手にしていたら、いったいどんな立ち回りをしただろう。

 あの疾患やあのパンデミックに対しても、最適解は別にあったのではないか。そんな思いにも囚われる。

 インターネットではどれだけ調べても薬谷 完治に入っているファルマ・ド・メディシスが神力を使っていると推測できる情報に当たることはできなかった。

 メレネーが見た、あちら側の薬谷 完治が白衣のポケットに挿していたという黒い神杖らしきもの。

 メレネーから特徴を聞き取った限り、どうしてもそれは神杖ではなくペンだとしか思えない。

 ネット上の彼の写真や動画を見ていても、胸ポケットには同一と思われる黒いペンを挿してはいた。メレネーの言っていた杖とはこのことだろうか。

 薬谷 完治はもともとそのペンを使っていなかった。ただ、何の変哲もない形状でありながら、メーカーを検索しても出てこない。


 確かに、ペンの内部に晶石などを仕込めば杖化は不可能ではないし、クロードも手術の際にはメス状の極小神杖を使っている。


(ペン型神杖であれば、携行していても不自然ではない……おそらくは、思い入れのある海外土産か、特注品のペンなどだろうが)


 向こうにいるファルマに連絡をとることはできないだろうか。

 それが一番手っ取り早い。向こうのファルマ少年は、こちらが知らない情報を知っている可能性がある。ネットを介して繋がることができれば、情報交換ができるかもしれないのに……そう思ってはたと疑問に思う。


(考えてみれば、HTTP通信ができているのに受信しかできない、アップロードができないってそもそもおかしいんだよな。通常の状態ではありえない。うやむやにすべき問題じゃなかった)

 

 通信に関してはこちらの世界の管理者である墓守か、あちら側の何者かに干渉されて片側をブロックされているとみるべきだ。


(向こうのファルマ少年は、俺がネットを見ていることに気づいているのか?)


 こちらの存在に気付いていれば、薬谷 完治宛に分かりやすいメッセージを出す気がする。

 例えばSNSにサン・フルーヴ語で書かれたメッセージの写真などをあげればいい。

 しかし、遡ってもそういったメッセージは発見できなかった。SOMAを調べようとしただけで情報がブロックされていることを鑑みれば、消されている、という見方も成り立つが。

 通信を邪魔されずファルマ・ド・メディシスと直接接触できる機会が唯一あるとすれば、異界の研究室内で遭遇することだ。


(でも、ドアがもう、物理的に開かないんだよな……電子錠も開錠するかわからないし)


 うまくいけばあと一回、指先一本ぐらいは入る隙間はあるだろうが。


(ドアをこじ開ける方法を探したほうがいいか。例えば外側から物質消去をかければドアは消えるだろうか)


 十分ほど教授室のドアを睨み据えながら頬杖をついて思案した挙句、ファルマはひらめいて思わず「あっ」と声が出た。


(普通に蝶番を開けてドア自体を外せばいい! 荷物の搬入で外せるようになってるじゃん……)


 思いついてみれば簡単な事だった。

 聖泉に入るたび、ドアは錆びて経年劣化をしているようだった。

 つまり、研究室のドアは毎回新しくなっていない。

 ということは、研究室の扉を一度取り外してしまえばその結果は固定され、地球への通路として使える!


(完全に取り外してしまうことで、向こう側から何か侵入して来るかもしれないけれど……。あっ、でも蝶番ってドアを開ききらなければ外せないんだっけ。そもそも何故、ドアが開かなくなってきているのかを考えるか……)


 経年劣化による蝶番の緩み、などという理由であれば、ドアの下か上の隙間に物理的にパッキンを噛ませれば開くようになるはずだ。

 あと一回開錠してくれれば、電子錠はラッチの部分をドライバーを使って取り外すことができる。いずれにしろ、ドアは開く。

 研究室に自由に出入りができる状態になれば、あとは制限時間の問題をクリアするだけだ。

 研究室内にいるのが死にかけの薬谷 完治ではなくファルマ・ド・メディシスが研究室内にいるパターンも存在したことから、ファルマと話すことはできるはずだ。


(早めにドアを開放にしておいたほうがいいかもしれない)


 もし、経年劣化だとすれば、一日も早く対処する必要がある。

 ファルマはそうかと気づいて工具を持って聖泉の研究室へと向かった。

 聖泉へと飛び込み、泉の裏から水面を凍らせて虚無の空間へと出る。そして、さび付いた研究室301の扉の前に立った。扉は以前見た時より状態が悪くなっている。ファルマは手始めにスチール製のドアに対しアルミニウムと鉄で物質消去を使ってみたが、発動しなかった。


(神術が使えないのは室内だけではなかったのか)

 

 ファルマは迷いなくドアの下部にスペーサーを噛ませて、電子錠を開錠する。

 そして中にバールを突っ込んでドアをこじ開けると、ドアは全開した。

 研究室には入らず、そのままドライバーでドアの蝶番のネジをとってしまう。


(よし、ドアが外れた。これでまた出入りできるようになる)


 ファルマは外したドアを聖泉側へと引き出して、「ドアを外した」という結果を空間へ固定した。

 ドアの外れた301准教授室の内部を覗き込む。ソファの上は直接はパーテーションで見えないので、少し301室内の鏡を使って確認する。

 ソファの上に横たわっているはずの薬谷 完治はいなかった。

 ファルマは息をのむ。


(ということは……どこかで行動している)


 思わず身構えたそのとき、302号室、つまり研究室側から何者かがドアを開く音がした。

 准教授室に入ってきたのは正真正銘、彼は動画で見ていた薬谷 完治その人だった。

 その彼と、厳密な意味で視線が合った。


「なるほど、ドアを外すとは考えましたね。初めまして、薬谷 完治さん。私のことはわかりますよね」


 彼の第一声は、ファルマの行動に対して感心を含ませていた。


「ファルマ・ド・メディシスさんですね」


 思わず近づこうとすると、待ってと手を突き出された。


「研究室に入らないでください。二つの宇宙をショートカットするこの特異な空間は、私かあなたの片方しか存在を許容されていないのです」

「この空間についての構造解析が終わっているのですか?」


 ファルマが片鱗すら把握できなかったこの空間についての解析を既に終えている。

 それがどれほど心強く聞こえるだろうか。

 広い大海で遭難中に、あたかも救援の船が来たかのようだ。


「ええ、とっくに。そちらにはあなたたった一人で、あなたは宇宙物理学者ではありませんが、地球にはご存じの通り、ありとあらゆる分野の専門家の助力を仰ぐことができます。得られる情報量が異なります。空間を挟んで今後の打ち合わせをしましょう。この空間はどちらかが入ると、どちらかが締め出されます。あなたが機転を利かせて研究室に入らずにドアを開けたおかげで、あなたの持ち時間がなくなる代わりに、私は301号室側に到達することができました。私がここに滞在できるのも58分ほどしかないので、手短に打ち合わせをしましょう」


 まさかの、今一番会いたかった人物との直接の対面が叶った。


「ああそうそう、いつ通信が切れてもいいようにデータを送っておきます。この研究室からだと通信妨害はされませんので。あなたも何か試みられたかもしれませんが、おそらく何もできなかったのではないでしょうか」


 ドア向こうのファルマは、ファルマがスマホを胸ポケットに入れているのに気づくと、Bluetoothで画像や文章のデータを送ってきた。

 彼の言葉で、やはり何者かによって通信妨害は行われていたのだなと確信する。


「薬谷 完治さん、これまでのあなたのご功労に敬意を表します。よく、そちらの世界で一人で苦難を乗り越えてこられましたね。あなたなしでは滅んでいたかもしれない私の故郷を救っていただいてありがとうございました。心から感謝します」


 端末の操作をしながらかけられたのは、優しいねぎらいの言葉だ。

 ファルマ「少年」、という子供のイメージが強いが、彼は10歳の少年ではなく地球側に21年も暮らしている31歳の成熟した青年だ。

 ファルマは彼の人格に触れ、殴られたような衝撃を受けた。そして、伝えなければと思っていたことを伝えておく。


「私も、決して一人ではありませんでしたよ。あなたの家族や、周囲の人々にたくさん助けていただきました。それからファルマさん、私の妹を救っていただいてありがとうございました」


 ファルマは瞼を閉じて、これまでの出来事を噛みしめながら言葉を返した。


「ええ、私にとっても大切な妹です」


 そう言われると、ファルマは複雑な気分になる。


「私とあなたは対となる存在で、対となる力を持っています」

「……対?」


 つまりそれは、人格と記憶の入れ替わりを指すのだろうか。

 そんな解釈ではないように思う。


「あなたが守護神であるならば、私は邪神と呼ばれる存在です」

「つまり、神力と反神力を使う存在、物質と反物質で構成された存在ということですか」

「一般人にしては理解が早くて助かります。私たちが力を合わせれば、必ず二つの世界、そして私たち自身を救うことができます」


 彼の言葉は穏やかながら、自信と希望に満ちていた。

 彼は今、ファルマの前に一人で現れたが、彼は地球世界で大勢の協力者、助言を受けているに違いない。

 そのうえで、この途方もない、宇宙を巻き込んだ辻褄合わせを可能とする最適解を見つけていたのだ、そう思わせるには十分だった。


東京側で何が起こっているかは

EP3 TOKYO INVERSE -東京反転世界-で明かされていきます。

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