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【完結済】異世界薬局(EP4)/【連載中】世界薬局(EP4.1)  作者: 高山 理図
Chapitre 8 崩壊し、つながる世界  Réduire et connexion(1148年)
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8章12話 老いてゆくもの、置いてゆくもの

 1148年7月26日。

 その日、ファルマは異世界薬局に研修にきたブランシュの相手をしていた。

 エレンに弟子入りをして薬師を目指しているブランシュは、エレンに連れられて時々異世界薬局にやってくる。見習いの身なので当然調剤に携わることはないが、店舗で学ぶことも多いということで、エレンの後ろをついてちょこまかと動き、客にかわいがられている。

 午前中はエレンが診療に行ったので、異世界薬局の制服を着て、ファルマのあとについてくる。

 彼女は貴族令嬢ではあるが、掃除や洗濯、雑用も薬師の修行のうちだ。

 薬局の清掃は毎朝職員全員で行う。

 清掃の手順、消毒の方法、薬局から出るごみの廃棄の方法、汚物処理の方法なども細かく決まっている。

 臨時の清掃の方法も教える、今日は朝いちで薬局の床に盛大に嘔吐をしたノロウイルス患者がいたので、ファルマとブランシュはマスク、プラスチックエプロンで防御をして、次亜塩素酸ナトリウムで清拭、消毒をした。

 汚染された手袋などはウイルスが付着しているものとして感染性廃棄物として処理する。

 嘔吐物が乾燥すると汚染を拡大してしまう。

 など一つ一つ教えてゆく。

 ちなみにブランシュは作業終了直後にもらい嘔吐をしていた。


「薬師になって調剤はできるかもしれないけど、血や嘔吐物のにおいに慣れられる自信がないのー……」


 彼女はそう言いながら、しばらくバックヤードの流しの前でくの字になっていた。

 一度ツボに入ったらもうだめなようで、自分の吐しゃ物のにおいでまた吐くということを繰り返していた。


「そのうち順応すると思うよ。ちなみに吐しゃ物も観察材料だから、患者さんのそれはよく観察するんだよ」

「観察はできるけど、においがもうだめ」

「でもブランシュは家にあるかなり臭い薬草も平気じゃない」


 ファルマはそういって明後日の方向に励ましたりする。


「えっ、家にくさい薬草なんてあるっけ」


 彼女の顔面が固まった。一時的に嘔気もおさまっているようだ。


「ブランシュの部屋で栽培している薬草なんて、相当くさいと思うけど」


 ブランシュの部屋には食虫植物のような形状の薬草を窓辺に置いているが、かなりの悪臭を漂わせている。あれが平気なら薬師の才能があるのではないかな、とファルマは内心思っていた。


「知らなかった……いいにおいだと思ってた」

「ま、まあ。人の嗅覚はそれぞれだし。俺がそう思うだけで、ブランシュがそう思っていないならそれでいいから」

「えっ、私ってもしかしてにおいのセンスがおかしい? もしかしていつも使っている香水もくさいとか? でも母上も何もいってないし」


 などと言い出して涙目で慌てているので、大丈夫だよとなだめる。


「母上がよく腰に貼っている湿布もいいにおいだと思ってた」

「それは人によるな……じゃあ、気分を変えるために庭で少し外の空気を吸おうか」


 嘔吐が落ち着いて、少しげっそりした顔のブランシュを連れて、店舗の裏庭で栽培している薬草の管理に向かう。


「小さい兄上って、遺伝子組換え植物以外の薬草も店舗で取り扱ってるんだね」

「これまで伝統薬学の薬を使ってきた人の中には、現代医薬品に不信感や抵抗のある人がいる。そういう人がまず求める伝統薬を、薬草や伝統薬専門の薬師ギルド提携店だけでなくうちの店舗にも少しおいておけば、うちに足を運ぶきっかけにもなるし、カウンセリングを受けて現代医薬品を試してもいいかという気になってくれる人もいる」

「へえー……」


 ブランシュは薬草にまんべんなく水やりをしながらファルマの話を聞いている。

 彼女はエレンについて、少しずつ薬草をはじめとする植物栽培にも挑戦している。


「あ。そっちは今日は水をあげてはだめ。もちろん、明らかに有害だとわかっている薬草はうちの店には置かないよ。そして薬師ギルド提携店でも、手に余ると思った患者はうちに送ってもらうようにしている」

「なんか……大変なんだね、小さい兄上も。お店に来ない患者さんのことまで考えてあの手この手で」

「それはもちろん。薬師は公衆衛生の向上や増進のために働いているからね。うちに来た客だけ助けます、あとは知りません。というのは違うよ」

「なんだろうな。そんな世のため人のためにとか考えながら生きてて疲れない?」


 ブランシュは胡散臭いといったように白い目で見てくる。

 これにはファルマもどう答えてよいやらと閉口する。


「ノブレス・オブリージュも、確かに父上とかからしつこく言われるけど、まず自分があってこそでしょ」


 最近ブランシュの口がたつようになってきたのは、エレンのおかげなのだろうか。

 なぜか怒られ気味なファルマである。


「基本的には自分のやりたいことしかやってないよ」

「ふーん……。あっ、この薬草はたくさんとったから、挿し木を作って増殖するんだよね。師匠に教わったよ」


 ブランシュが葉を摘んだばかりの薬草を指さしてファルマに確認する。

 株数が少なくなってきたところなので、ファルマも同じように考えていた。

 エレンの指導が生きているな、とファルマは安心する。


「そうだね。これからの夏の暑さで株がいたんでしまうことも考えて、挿し木を作って増やしておいたほうがいい。それから、細い枝はいい葉がつかないから、思い切って切り戻しをしておく」

「じゃあ、挿し木用に切っとくね」


 ブランシュがハサミを構えたので、ファルマはとめる。


「ほかの作業が終わってないけど今やるの? 挿し木を作るなら切ってすぐ発根処置をして水にささないと。切り口から雑菌が入ってしまうと発根の確率が下がるよ」

「そっか。わかった、すぐやるのね」


「採取した植物はきちんと形状を確認して、数量を記録してね」

「えっ、でも植えたもの以外に生えてくるわけないじゃん、植えたときにちゃんと看板を作ってるからその通りに収穫すればいいでしょ」

「それが先入観なんだな。結構あるよ。似た形の雑草や有毒植物がどこからか侵入してきたりすること。それに、そもそも種を間違えて植えていたりすること」

「ええー。そっか」

「ここにこれを植えたはず、という思い込みはなくそうね。俺も一回、知らない雑草を見逃していて大変な目に遭ったことがある」


 ファルマも、薬師たちも収穫時にはよく植物体を確認するようにしている。

 風に乗って雑草の種が敷地内に入り込んでしまうということはままある。

 薬草に限らず植物の栽培で面倒なもののひとつが、雑草とりだ。現代地球では除草機もあり、マーセイルの薬草園でも一部は利用されているが、薬局の敷地内の規模だと地道に手でとってゆくしかない。

 ブランシュは土まみれになりながら雑草とりに奮闘している。

 二人していい汗をかいている、とファルマは思う。


「ブランシュ、種がついた雑草を見逃さないで。種が畑に落ちたらますます作業が増えるよ。それから、そっちの雑草はもう少し待ってから抜いたほうがいい。小さすぎて抜きづらいでしょ。雑草とりにも最適な時期があるんだよ」

「注意が多い。一個ずつ言って」

「多いか。まず、雑草の種を畑に落とさないで」

「わかった。おりゃー」


 ブランシュは見逃してなるものかとオクサリス(カタバミ)を抜いている。


「抜いた雑草はそこらへんに放り投げない。袋に入れて」

「なんで、ほうっておけば枯れるでしょ」

「茎は枯れるけど種が落ちる。これだけの種が落ちるとどうなる?」

「えらいことになる?」

「そう、えらいことにさせないで」


 ファルマも軽く注意を促しながら、黙々と雑草を抜いてゆく。

 こういう作業は嫌いではない、無心になってむしる。


「もー、雑草嫌いー! 薬草育てるのか雑草育ててるのかわからなくなるのー! なんかない? ぱぱっと除草できる方法」

「除草剤を使ってもいいけど、結局生薬にするとき成分を除去しないといけないから、手で抜いちゃうほうが早いね」

「やっぱりー」


 ああだこうだ言うブランシュにファルマが薬草の管理方法を教えていると。


「ただいまー。あら、ここにいたの」


 往診に出ていたエレンが戻ってきて、門衛に馬を預けて裏庭を通りがかる。

 ファルマとブランシュが同時に振り向く。


「あっ、師匠! おかえりなさいー!」

「ただいま。ファルマ君は店に出ていないのね」

「ブランシュに薬草の管理について教えていたんだ。エレンは今日は早かったね」

「今日はアガタ先生がいらっしゃるから、早めに帰ってきたのよ」


 ファルマは朝礼のときにエレンがそう言っていたのを思い出した。


「そうだったね、エレンが対応できそう?」

「まかせて。準備も万端だから」


 エレンは自信に満ちた顔でほほ笑む。

 いい笑顔だ、とファルマもつられて笑顔になる。


「じゃあ、お願いするよ」


 このところ、ファルマは薬局業務において、何もかも自分で引き受けるのではなく、できるだけ職員たちに対応を任せている。間違いは忌憚なく指摘するが、過剰な口出しも控えている。

 自分がいなくてもやっていけるのが一番望ましい。

 やり方を変えたいと言われれば、妥当性を検証したうえで、その薬師のやり方を採用したりもする。

 少しずつ難しい疾患もエレンやほかの薬師に引き継いでいっている。

 いつ、この風景の中から自分だけがいなくなってもいいように。

 あと一年もすれば、エレンに店主の名義を譲るつもりでいた。


 午後になって帝国医師ギルド長のアガタが、数名の平民医師を率いて異世界薬局に狂犬病ワクチンを取りに来た。

 依頼をしたのは町医師のドナルドだが、狂犬病ワクチンの提供先は医師ギルド長アガタの名義になっている。

 医師ギルドで一括して購入・管理し、必要があれば専用の配達便で各医院に届ける、という方式になっていた。そうすれば、温度・湿度・消費期限等の管理を厳密にしたり、各医院での管理コストを減らすことができる。

 ファルマはこのシステムを、日本における医薬品管理センターのようなものかな、と解釈している。

 アガタは帝国医師ギルドの紋章の入ったガウンを着てフォーマルないでたちだが、右目に黒い革の眼帯をしていた。ファルマは何かあったかと気になったが、ひとまず仕事の後で尋ねることにする。


「いらっしゃいませ、ご注文通りのロットで狂犬病ワクチン用意してございます」


 最初に注文を受けたエレンが挨拶をし、店舗の個室へと招く。

 ファルマも責任者として同席する。エレンもアガタの眼帯を見ていたが、アガタがまるで気にしていないので、今は尋ねないことにしたようだ。


「こちらにおかけください」 


 ファルマはエレンのサポートに回り、随行の医師らにも椅子を出す。お茶出しもファルマがする。


「いやあ、まさかもう狂犬病のワクチンが完成するとは。早く使ってみたいものですな」


 ドナルドはファルマから見てもそれとわかるほど、そわそわとしていた。


「納期に関して、無理を言ってしまいましたか」


 アガタが尋ねると、エレンは自信をもって答える。


「いいえ、弊社のマーセイル工場では納期に余裕をもって生産しておりますわ」

「ならばよかった。また継続的によろしくお願いします」

「それでは、納品書にサインと、弊社指定の銀行にお振込みをお願いいたします」


 エレンが手際よく各種書類にサインを求める。


「ええ、もう入金は済ませてありますよ」

「恐れ入ります。補助金の手続きもされましたか」

「おかげさまで。公的手続きは得意でございますの」

「さすがでございます」


 もと貴族にして侍医長のアガタに抜かりはなかった。


「それでは薬剤の説明をしてちょうだい」

「はい、こちらはニワトリ胚の初代培養細胞に狂犬病ウイルスを感染させ不活化後、濃縮精製して安定化剤を加え、粉末化したものです」


 エレンはバイアルの現物を一瞬見せて、アイスボックスの中に戻して保冷する。

 温度管理の逸脱があってはならない。


「犬に噛まれた時に投与すればよいのかしら」

「はい。野生の犬、猫、スカンク、アライグマ、キツネ、蝙蝠、肉食動物であれば基本的に狂犬病に感染しているものとして考えます。齧歯類に対しては特に対策は必要ありません。投与の前にまず、噛まれた傷を石鹸と流水で15分以上洗い流してください。その後、塩化ベンザルコニウムで消毒し清潔にします」

「消毒薬も売ってくださる?」

 

 アガタが不安そうに尋ねるので、エレンは代替方法も提示する。


「ええ、先生方は何をお使いですか。ポビドンヨードなども使用できますよ、後でリストをお渡しします。傷を洗浄した後、狂犬病免疫グロブリンをすぐに、狂犬病ワクチンを予防として投与します」

「狂犬病免疫グロブリンも一式の中に入っているかしら」

「もちろんです。望ましくは帝都市民全員に曝露前の予防接種をしておくことなのですが、ワクチンの生産体制と供給体制が整うまでは、現時点では受傷後の投与開始となります」


 帝国と新大陸との往来に伴い、現在は貿易関係者のみに義務付けられている破傷風菌、黄熱、麻疹・風疹、水痘などのワクチンの、帝都市民に対する公費接種については、ファルマもエリザベスとともに準備を進めているところだ。とファルマは補足してアガタに伝えた。


「聖下のご英断に感謝するわ」

「まことに。いち臣民としてますます敬愛するばかりです」

「狂犬病ワクチンはいつ投与するの?」

「粉末のワクチンは遮光して、10度以下にて保存してください。被接種者には、問診、検温を行って体調を確認してください。使用する場合は1バイアルについて規定用量の注射用水で希釈し、受傷当日、3日後、一週間後、二週間後、一か月後、九十日目に皮下接種をします」


 エレンは時間をかけて接種上の注意点などを説明する。

 同席の医師らからいくつかの質問が飛び、エレンが答えられないものはファルマが答える。


「わかったわ。受傷後、狂犬病を発症するリスクを前もって評価できるかしら」

「もし、噛んだ動物を捕獲することができたならば、その動物が一週間から二週間以内に狂犬病を発症するかどうかを観察すれば前もってわかります」

「そう、人より発症が早いのね」


 動物の場合は、初期のうちは食欲不振や異常行動がみられる。

 その後の経過は、

 興奮症状、よだれ、恐水症状、咽頭部の痙攣を伴う狂操型と、

 麻痺状態の続く麻痺型にわけられる。

 いずれも発症すればほぼ100%死亡する人畜共通感染症である。

 などと、エレンはアガタらに説明する。

 アガタもドナルドをはじめとする医師たちも、教科書を横に置き、メモを書き込んで真剣に聞いている。


「ちなみに、一度狂犬病を発症した患者を助ける方法はないのよね」

「ゼロとは言いませんが、きわめて困難かと」


 ファルマは地球の症例において、狂犬病から生還した例を数例知っている。

 2004年、ミルウォーキーでコウモリに噛まれて一ヶ月後に狂犬病を発症した子供に対して、医師らは患児を昏睡状態にし、抗ウイルス薬リバビリンとアマンタジンを投与し、患児自身の免疫系によって生還した。

 この治療法にはミルウォーキー・プロトコルと名付けられ、現代地球においては狂犬病患者数十名に対して実施され、わずかに数名が生還している。

 ファルマはアガタに治療の可能性がゼロではないことを伝えるが、有効性についてはまだ明らかになっておらず、成功率は低いということも説明しておく。


「なるほど、それではやはり予防が全てということになりますね。狂犬病を発症した時点で咬傷歴があるかを聴取できるかも鍵となりそうです」


 アガタは気を引き締めたかのように背筋を伸ばす。

 ファルマとエレンも全面的に同意する。


「まさにそうです。特に、曝露前の投与であればほぼ確実に防げますからね」

「では、わしら外科医も狂犬病患者の治療をするからには、体液や血液に触れる可能性も考慮して、曝露前投与として狂犬病ワクチンを打った方がいいんですかのう?」


 ドナルドが不安そうにファルマとエレンに尋ねるので、ファルマは強くお勧めしますと伝えておいた。


「失礼ですがアガタ先生、目にお怪我を?」


 薬剤の受け渡しの前に、エレンが気になっていたことをアガタに尋ねる。

 薬剤を渡してしまえば、温度管理のために長話ができなくなる。「数日前にやりとりをしたときにはなかったものなので」とエレンが尋ねると、アガタは上品に笑った。


「いいえ、これはね。つい昨日白内障の手術を受けたの。きちんと見え方を確認してから成功の報告したかったのだけれど、やっぱり眼帯をしていたら気になるわよね」

「白内障の手術、ですか」


 ファルマが半ば驚き、確認するように尋ねる。

 昨日手術をして今日外出とはその行動力に恐れ入るが、


(一体どこで受けたんだ? 白内障の手術はこの世界ではまだ確立していない。自分の手術はできないから、アガタ師ではない。帝国医薬大で受けたのでもない。帝国医薬大なら、俺に相談がくるはず)


 アガタが白内障を患っていたことはファルマももちろん知っていた。

 そしてそれが、外科医としてメスを置く原因となったことも把握はしていた。

 アガタが現役として復帰し、手術を手掛けたいと考えている。

 そんな噂も聞いていたが、ファルマにはどうすることもできずにいた。

 アガタが白内障の手術を受けたという話はファルマにとって驚愕だ。

 白内障とは、本来透明な構造を維持している水晶体の大部分を構成するクリスタリンというタンパク質の構造が変化することによって異常な凝集や変化を起こし、水晶体の透明性が維持できなくなり混濁する加齢性の疾患で、80歳以上の高齢者ほぼ全員に起こる。

 白内障によって水晶体が混濁してくると、視界がかすんだり、視力が低下する。視力の低下は老眼によっても引き起こされるため、高齢者の視力低下については判別がつかないこともある。

 加齢のみではなく、アトピー性の白内障などもある。

 

 地球における白内障の手術の歴史は意外に古く、墜下法という術式で、古来インドで行われていたものが中国を経て日本へと伝来した。

 その方法とは無麻酔下で針で白濁した水晶体を突き、硝子体内に脱落させるという単純なもので、病草紙などにも挿絵として記録されている。この処置により感染し、命を落とす者も多かったとされる。

 さらに、水晶体を脱落させた後はレンズがない状態となるため、やはり分厚い眼鏡が必要となる。

 現代地球においては、白内障の手術は比較的安全に、一般的に行われている。

 白内障手術においては、点眼麻酔を使用し、1ミリから3ミリの非常に小さい切開創から水晶体前嚢を切開し、水晶体を破砕する。

 吸引によって水晶体を取り除き、折り畳み式の眼内レンズを挿入することによって屈折矯正を行う。

 レーザーを使って切開する場合もある。

 眼内レンズも、保険適用の単焦点や多焦点のレンズの選択肢がある。

 ファルマが以前アガタの目をみたとき、右目は成熟白内障の状態で、左目は辺縁部に濁りがみられる皮質白内障だった。

 その時にアガタに「何とか治らないかしら」、と尋ねられたが「私には手が出せません」というほかになかった。

 ファルマの手持ちの技術では精度の高い眼内レンズを作ることができないため、断念せざるをえなかった。それを少し、心苦しく思っていたのだが。


「水晶体はきちんと切除していただきましたよ」


 アガタはいわゆる墜下式で水晶体を除去したのではないと説明する。


「水晶体を除去したその後はどうなさいましたか?」

「水晶体の代わりとなるレンズを入れました。さて、何の材料を使用したと思いますか?」

「……ガラスでしょうか」


 ファルマはアガタの顔を伺いながら尋ねる。

 もし、ガラスだとしたらファルマは残念な報告をせざるをえない。

 ガラス製のレンズは硝子体内に脱臼しやすく、さらにガラスを挿入する際に大きく切開をしただろうから、屈折が強く出てしまう。

 眼帯をとった頃には、期待した見え方にならない可能性が高い。

 すると、アガタはファルマを出し抜いたといった子供っぽい表情をする。


「いいえ。やはりガラスだと思いましたか。正解は、アクリル樹脂製の眼内レンズです」

「アクリル樹脂ですか! すごい!」


 ファルマは興奮と歓喜で目を見開く。


「ふふ。すごいでしょう」


 アガタはファルマの反応に満足したかのように片目を細めた。


「ドナルド先生に入れていただいたのよ。ここの医院は感染症対策をしっかりしているから、安心して任せられたわ」

「うまくいっているといいんですが」


 老医師ドナルドは隣で恥ずかしそうに頭をかいている。

 そんなドナルドに柔らかなまなざしを向けながら、アガタはファルマに説明する。


「私はこの一か月、技術局に通いつめまして。おそらくはあなたが登録された技術だと思いますが、多くの技術を参照させていただきました。アクリルポリマーの合成方法、その加工方法。すべて読んで実際に手を動かしました。そして、アクリル樹脂の造形を満足になすことができるようになったとき、思いついたのです。生体材料、たとえば私の水晶体に使ってみようかしらと」


 眼内レンズの技術開発史のうえで、アクリル樹脂やシリコン製のレンズが用いられたこともあった。ファルマはアクリル樹脂の合成方法を技術局に登録していた。

 アガタはその知識を学び、応用した。

 しかしアガタはファルマの反応を奇妙に思ったようだ。


「その顔は、アクリルポリマーが水晶体たり得ると知っていたかのようですね」

「……ご想像にお任せします」


 ファルマは口を濁す。


「この術式が確立しましたら、私も技術局へ登録しますよ」

「しかし、麻酔等はお体にご負担ではなかったですか?」


 エレンがアガタの体を気遣う。


「局所麻酔ですもの、何ということはないわ。こんな老い先短い八十歳のおばあちゃんなのにわざわざ手術を? もしかしてそう思ったかしら」


 アガタは不敵な笑みを浮かべる。


「いえ……そのようなことは」


 エレンは慌てて否定する。エレンがどうフォローすべきか困ってしまったようなので、アガタは寛容な笑みを見せる。


「逆です。八十歳だから手術をしたの。もう老い先短いのだし、うまくいけば新たな術式を確立できるかもしれない。私にも大いに利点があって、片目だけでも見えるようになるかもしれない。どちらにしても見えないのだし、失うものはない。やらなくて後悔はしたくないわ」

「眼内レンズは一体どんな形状を?」


 ファルマが気になって仕方がなく尋ねる。するとアガタはこれですといって宝石箱に入った模型を取り出した。それは四本の支持部のついた水晶体で、特殊な形状をしている。


「解剖学的知見から、そのまま水晶体を入れるとずれたり落ちたりすると思いましたので、レンズの端に支持部を取り付けてみましたの」

「おお! これならば落ちたりずれにくいですね」


 ファルマは声を上げて感心する。

 現代地球における眼内レンズと、少し異なるとはいえ似た形状をしている。

 アガタや医師らが知恵を集めて編み出した形状なのだろう。


「よろしければ、抗菌点眼薬を出しましょうか」

「ご心配なく、すでに使っているわ。一日経ったし、眼帯を外してみようかしら」


 アガタは自分で判断してゆっくりと眼帯を外す。

 そして瞬きをすると、個室の窓から薬局の外の風景をうっとりと眺めた。


「あら、鮮やかなお花畑だこと。見え方は問題ありません、素晴らしいわ。どこも歪んでいませんし」


 アガタの使用した眼内レンズは単焦点であるため、眼鏡が必要になるだろうが、少なくとも、視界の白濁はなくなっているはずだ。


「それに、待って。空がやけに青く見えるわ! 気のせいかしら」

「気のせいではありません。加齢によって水晶体は黄変してきますからね。白内障を患っておられなかったとしても、アガタ先生の風景は少しずつ黄色く見えていたはずです」


 ファルマは、アガタがそう感じるからくりを伝える。


「ですので今は、お若いころと同じように空が鮮やかに見えるかもしれません。帝都を御覧になりますか」

「ええ、ぜひ」


 ファルマはエレベーターで店舗の四階、研究室のある階の通路へと案内する。

 異世界薬局四階正面の窓からは、帝都の街並みが一望できる。

 ファルマとエレンは窓を開け放つと、風が吹き込んでくる。そして彼女は帝都をじっと眺めていた。ドナルドもアガタの隣で同じ風景を見ている。

 アガタはハンカチを取り、そっと目元にあてた。


「ああ、なんて美しいこと。どこまでも見える気がするわ。私の人生を包んでいた霞が取り払われ、青い空を取り戻せてよかったわ」

「それでは左目のほうも、やってみますか」


 ドナルドがもったいぶった調子で尋ねる。


「ええ、ぜひ。できる限り早い日程で」


 アガタははっきりと、近日中に左目の手術にもとりかかる意向をドナルドに伝えた。


「いくつになっても、挑戦を忘れてはいけないわね。そうでなければ、この景色は見えなかった」


 ここに置いてゆく技術はきっと、世代を超えて一人一人の人生に寄り添うのだ。

 ファルマはそんな思いを胸に留めた。


「今日はオレンジを食べてみてください。きっと、鮮やかで懐かしい色をしていますので」

 

 昨日までは彼女にとって茶色に見えていたオレンジも、オレンジ色を取り戻すはずだ。


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