8章7話 全遺伝子疾患治療薬:SOMA
ファルマとメレネーは聖泉から帝国医薬大の教授室に戻る。
濡れた服で飛ぶと体温を奪われるので、綿毛布をかぶせて帰ってきた。
内側からしっかりと鍵をかけて窓を開けていたので、教授室の中へは誰も立ち入ってはいなかった。前回はゾエにエレンと二人でいるところを目撃されて誤解に誤解を重ね大変なことになってしまったので、同じ失敗は繰り返したくない。
「風邪ひくから着替えて」
くしゃみをしかけていたので、今度こそメレネーに濡れた服を着替えてもらって、薬学校の制服を着てもらう。
「ありがとう、付き合ってくれて。メレネーの体調と霊の調子はどう?」
ファルマは薬谷 完治と思しき人物に神術で浄化された、メレネーの持ち霊のことも心配する。
「私は平気だ。だが私の霊に関しては頭の中にわずかに残していたもの以外は殺されてしまった。もう戻らん」
メレネーはむすっとして、納得がいかないといった顔をしている。
彼女にとっては家族も同然の霊だ。彼女は数体の霊を使えるようだが、失われた霊は戻ってこない。
彼女の霊はファルマと薬谷 完治の双方に殺されたということになる。
「だが、ファルマが悪いのでもない。仕方がない、あいつが強かったのだし」
「ごめん、ほんとに。まさか襲撃されるとは思わなくて」
「もし、制限時間となって強制的にあの部屋の外に排出されなかったら、あの男は扉を通じてこちら側に出てこれたんだろうか。いや、それ以前にあいつがこちら側に出てきて追ってくる可能性はないか。なんならその辺に来ているのではないか」
メレネーが恐ろしい疑問を口にする。
「いや、それはないでしょ。俺たちに気付かれずに飛んで追ってきたことになるよ?」
「お前にできることなら、向こうにもできるだろう。お前なんだから」
「たしかに、特殊な杖を持っていたらね。そして仮に俺が向こうに行けるなら、向こうの俺もこっちにも来れるということだ。しかし俺は向こう側にはまだ到達していないから、こちら側に来れるかはわからない」
(向こう側の薬谷がこっちに出てきたら。今ここにいる俺はどうなるんだろう?)
自分がこの世界に二人いる、という矛盾が発生することになる。
どちらかが消えるか、統合されるのだろうか。
あるいは対消滅のように完全に消えるのだろうか。
考えるだけでもぞっとする。
こちらは研究室から繋がる異界の構造すら把握していないが、向こうの薬谷はとっくに調査を終えていて、異世界へのゲートの安定化方法も心得ているかもしれない。
自分が敵だった場合は厄介だ。
思考回路が同じなので、行動が読まれてしまう。
さらに薬谷以外のほかの神術使いもいるのなら、向こうには世界的な科学者、技術者、軍事専門家等も大勢いるだろうし設備も武装もすべてがこちらの文明より上だ。
こちらが神術を駆使して迎撃しても、一日に使える神力量に上限があるために、一般神術使いたちは大規模空爆などを防ぎきれない。
科学文明の差で一方的な展開となる。
二つの世界の生存競争へともつれ込んだ場合、大義名分を得た地球人はどれだけでも残酷になれる。
ファルマは軍事には詳しくないが、ドローンを用いた無人爆撃機、大量殺戮の使用も躊躇しないだろう。
(核兵器を使われたら……)
物質消去があるので防御は簡単だが、では防御できるかというと現実的ではない。
(一瞬で核分裂反応を起こす核種を特定できなければ終わりだし、どれがそうなのかも見分けがつかない。大陸各地に複数打ち込まれたら対応できない。生物兵器、化学兵器、放射線兵器、とりそろえてる。現代地球と全面戦争になったとしても勝ち目なんてない。一か月もあればこっちが大陸ごと消し飛んでるぞ)
地球人って……残忍!
と三年あまりの滞在ですっかり異世界人側の立場になってしまったファルマである。
神術や呪術に利用価値を見出すかもしれないが、それが地球人には使えないとわかると、それを攻撃に使われるリスクをわざわざ放置しておく理由もないだろう。
何故、薬谷があそこにいたのか。
ファルマはそこに立ち返る。
(普通に考えれば実験の途中だった、だ。もし、異世界人の襲撃を予測していて待ち伏せしていたなら、主戦力の中に装備も不十分な俺が入っているわけがない。やはり実験をしていたら偶然、廊下側から室内に悪霊が見えたのでドアを開けて撃った、そんな感じか?)
「いや、でも……もし、俺の中に入っているのが俺ではないのなら」
「なぜそう思う」
悶々としていると独り言になっていて、メレネーの存在を忘れていた。
(だって、こっちのファルマは俺に意識の大部分をとられてるんだからな。向こうの薬谷だって……中に俺以外の誰かがいないとも限らない)
「向こうの世界の俺は水の神術は使えないから。神力もない」
「その仕組みがわからないんだが、水の神術が使えるのはどういう人間なんだ」
マイラカ族たちの呪術の中には、属性は存在しない。
神術属性や守護神、正と負の概念は理解しにくいようだ。
「この国のうち、水属性とよばれる貴族なら使える……。もう少し技名なんかの特徴がわかればいいんだけど。あれ、メレネー? そいつ、どっちの手で撃ってきた?」
はたと、ファルマは重要な確認方法を思い出した。
薬谷 完治は左利きだ。
「こっちの手だ。マイラカ族の中でもこっちの手を使う者が多いが、何か参考になるのか」
メレネーは身振りで、右手だったと教えてくれる。
左胸のポケットから、右手で筆記用具を取り出して、そのまま撃ってきた。
「いや、大きなヒントになった。中にいるのは俺じゃない。俺は筆記用具は左手でとっていた」
考えたくないが……ファルマは一つの可能性に思い至る。
あの、サン・フルーヴ中心部でファルマ少年が落雷に遭った日。
こちらの世界の薬谷 完治の意識の中にとけていなくなってしまったと錯覚していた彼。
(向こう側の俺の中にいたのは、ファルマ少年ではないのか?)
ファルマが慄いてると、メレネーがソファの上にねそべって、眠気に耐えられなくなったらしくすやすやと寝始めた。
戻ってくる途中、呪力を消費すると眠たくなってしまうのだと聞いていた。
異界の研究室への侵入、薬谷 完治からの襲撃への対応で呪力を使い、ついに力尽きたといったところだろう。
そのあたりはパッレが神力を使いすぎて倒れるのに似ている。
ファルマは寝入ってしまった彼女の体温を確認して少し体が冷えていたので毛布をしっかりと着せ込んで、そのまま寝てもらうことにした。
メレネーの頭の中に少し霊を残していたからこそ、まだファルマと意思疎通がはかれる。
長旅のあと、帝都観光、慣れない文化風俗に取り囲まれ、そして聖泉への突撃といった弾丸ツアーは、13歳の少女にはハードだったことだろう。
「ありがとう、メレネー……」
寝顔を見ると幼く見えて、ファルマは感謝する。
ファルマは意を決しPCを開く。
(むこうの世界は今、どうなっている?)
聖泉から戻るたびに向こうの世界の因果関係が少しずつ変わっているかもしれない、というのはこれまでにも気付いていた。
だが、今回の侵入では初めて外からドアが開いて中に誰かが入ってきた。
明らかに、これまでとは違うことが起こっている。
薬谷 完治。
向こうにいるのはたしかに自分のはずなのに、彼が何者なのかわからない。
インターネットにつなぐと、ヘッドラインのニュースをみてゆく。
そこには全く知らない世界が広がっていた。
トップに見えたのは、首相会見の動画だ。
「え? いきなり首相が違わないか?」
見慣れない首相がうつっていた。
名前を見ても、全く知らない。そんな国会議員いたっけなというレベルだ。
「ちょっとまって、令和って? 今年は2048年で、令和30年!? 向こうの世界の元号は万保ではなく令和になったのか?」
まだ薬谷の生まれる前の話だが、元号からしてファルマの知っている元号と違う。
ファルマの知る世界では、
明治→大正→昭和→平成→万保となっている。
そして、現在は、
明治→大正→昭和→平成→令和と元号がつながれている。
令和はファルマの知らない元号で、200年ぶりの譲位によって元号が変わったというのも驚きだった。そんなシステムがあったことすら知らなかった。
「れいわ……れいわ……かなり違和感があるな」
前回、異界の研究室に入った後のネットで確認した元号は万保だったことを思い起こせば、かなりダイナミックな変化が起こっている。
ファルマは飛び跳ねそうになる心臓の鼓動をおさえつけながら、過去数十年にわたって起こった出来事を探す。
近代史のまとめサイトのほかに、新聞、報道各社には、各年の出来事をまとめたアーカイブが存在する。
20XXの出来事、などのように大きなニュースがまとめてある。
2019年からその後数年にかけて、薬谷の知らない大きな相違点があった。
分岐点になったのはこのあたりだ。
「COVID-19ってなんだ? SARS-CoV-2ウイルスによるパンデミック……? 21世紀の地球でか? 東京オリンピックは一年延期……オリンピック延期レベルで流行した?」
ファルマの知る限り、東京オリンピックは2020年に開催されたし、小規模な鳥インフルエンザウイルスの流行はあったが、そんなウイルスの発生も流行もなかった。
ファルマは頭を抱えそうになりながら、何があったのかとWHO、CDC、厚生労働省、国立感染症研究所などの総括の報告を読む。
ファルマが現代において医学情報を収集するときは、適切なデータを取り扱い適切な方法で評価され、学説の検証、相互批判が担保された研究者や専門家のコミュニティでの査読を経た学術論文や、それらをまとめた国際機関、公的機関の情報にあたる。
民間で作成された陰謀論じみたサイト、非専門家の意見、専門家であっても検証の不十分な個人の意見にとどまるものには注意が必要だ。
インターネット上では2000年初頭より深刻な医学・薬学情報の汚染がおこっており、容易に疑似科学や、医学的根拠のない極端な意見のサイト、詐欺まがいの業者のページにたどり着いてしまう。
もしくは、学術論文のフリーアクセス化にともない一般の人々が論文にアクセスできる機会は増えたが、雑に機械翻訳をかけて書かれている文脈を理解できず、あるいはデータを読み解く力がないばかりに適切な解釈ができず「ここに書いてあった」と、書かれてもいない誤情報を発信したり、疾患のリスクや標準治療を受けないリスクを過小評価したり、陰謀論にとらわれたり、多くの人々が誤情報に迷わされ適切な治療の機会を失ったりした。
それは、ファルマのいた世界でも日常的に起こっていた。
2019年末に初めて発症が報告され、流行が拡大した新型コロナウイルス感染症は、史上最悪クラスのパンデミックであり、全世界の人々を感染症の脅威の中に巻き込んだ。
世界各地でロックダウン、緊急事態宣言、入国制限や行動制限が繰り返され、イベントの中止や縮小、公共サービス、経済活動、学業などの制限にまで及び、医療資源のひっ迫や医療崩壊を起こした時期もあった。
「スペイン風邪を彷彿とさせる流行だったのか……信じられない」
疫学的な知見や医療技術を積み重ね続けているにもかかわらず、人類の歴史において、感染症の流行は繰り返される。それは理解できていたが、世界で3億人近く感染し、数百万人に迫るまで死者数が増えるものかと驚愕する。
結局この感染症はmRNAワクチンをはじめとする、世界各国で迅速に開発承認されたワクチンの継続的な投与と、世界的に発生する変異株とのいたちごっこの末、集団免疫を形成し、ようやくのことで終息を迎えた。
ファルマはこちらの世界ではほぼチートともいえるニューキノロン系の抗菌薬、レボフロキサシンを、濫用と言われても申し開きのできない、薬剤耐性のリスクを無視し薬剤師の判断としては好ましくないレベルで(もちろん厳密に用法容量を指定してはいたが)用い、こちらの世界で黒死病の世界的な拡大を抑え込むことに成功したが、地球ではCOVID-19が世界的な流行となり、多くの死者を抱えていた。
二つの世界には、疫学的にも大きな出来事が起こっていた。
かつて薬谷が在籍していた大学のHPを訪れる。
これほど歴史が変わってしまっているなら、異界の研究室の外から白衣を着て入ってきたという状況証拠から推測するに、職位や常勤、非常勤の別はどうなっているかわからないが大学に在籍はしているはずだ。部外者が電子認証付きの研究室に入ってくるのは難しい。自分が在籍しているかどうか、こんなに不安になるなんて……とファルマはいつにない緊張感をもつ。
検索: 薬谷 完治
所属:
職名:
所属と職名をフリーにして検索する。
名前が変わっていたらもう打つ手がないが……
薬谷 完治
所属: 大学院薬学系研究科
職名: 教授
「ん……?」
ファルマは思わず二度見した。
薬谷 完治は31歳時点で准教授だったが、同じ研究室の教授になってしまっている。
「31歳で? 何をやったらそんなことになるんだよ」
フィクションにしても設定盛りすぎかと突っ込みたくなる。
ファルマは業績欄を確認する。
すると、業績はそれほど多くはなく、たった一つの薬剤の開発に集約されていた。
2045年。
3年前にSOMAという遺伝子治療薬を開発していた。
「SOMAって……なんの略だ?」
SOMAといえば、リグ・ヴェーダにも記載があり、インド神話に登場する不老不死の霊薬の名でもある。こちらの世界でいうところの、エリクシールという神薬にコンセプトが似ている。ファルマ少年はエレンの弟子だったから、禁術について聞いたことがあったかもしれない。あるいは、禁書を読んだことだってあるかもしれない。
(まさか……神薬を再現した? 禁書でも持って行ったか、神術薬をむこうに持ち込んだ?)
ファルマはあることに気付いて、嫌な予感がしてくる。
相手は神術使いだということは確定しているのだ、この世界ではめったにないが、神殿以外の宗教があるとすればそれは異端として扱われる。
異端の宗教に登場する霊薬の名を名付けたということは、もうそれは直截的に神殿への背信行為になる。
(こんなに堂々と異世界で神殿への背信行為ができるとすれば、信仰を捨てたか、守護神の正体を知って信じる気をなくしたか……)
薬谷完治がSOMAを発表した論文のリンクをあたる。
「メンテ中だと?」
発表元の雑誌のサイトが、ちょうどメンテナンス中になって閲覧できなかった。
ネットで検索してみるが、ことごとく原文にアクセスできない。関連論文もリンク切れになる。
まるで、ファルマに“カンニング”をさせないように故意に情報を遮断されているかのような。臨床研究情報ポータルサイトなどもあたってみるが、こちらも、臨床試験を実施中だという情報はあるが、どんな薬剤なのか詳細が見えない。
「すごい……徹底的に妨害されてる。邪魔してくるのが墓守なのか誰か知らないけど、この情報を絶対俺に見せないぞって気概を感じる。俺があの時点で持ち出した以上の知識をこっち側に持ち出すのは禁忌なのか」
SNSの反応や個人サイト、ブログ、ニュースサイト、各種バイオインフォマティクス系のデータベースなどから、読める部分を断片的に拾い読みすると、どうやら疾患治療関連酵素群、染色体維持ユニット、DNA修復関連酵素群からなる、遺伝子異常を徹底的に修正する、個別化医療を用いた複数の遺伝子治療薬のようだった。
要するに、自己複製機能を持ちながら遺伝子異常を修正し、生涯にわたって治療してゆく、という薬剤のようだ。
「てかそれどんな構造してんだよ! 何種類あるんだよ、見せろよそれを!」
さすがに興奮してしまう。
気の早い一般人からは「夢の万能薬」との期待も高く、人類の寿命は大幅に伸びるだろうと予期されていた。
こちらのファルマが考えるに、万能薬というコンセプトは、はっきりいって無駄だと思う。
そして、すべての疾患を治療するというコンセプトも意味がわからない。
WHOの定義では、健康とは「身体的・精神的・社会的に完全に良好な状態」であることをいう。予防医学は大切だが、健康とは将来疾患になるリスクを徹底的に取り除いたり、懸念される遺伝子異常がない、ということではない。
ヒポクラテスだって「良いことをするか、できなければ少なくとも悪いことをするな」というコンセプトだったのに、わざわざその時代以前の考えに戻ってしまうのか、とファルマは絶句する。
ただ、その薬剤のポテンシャルは途方もない。
エメリッヒの一族の遺伝性疾患だって一発で治る。
ナタリー・ブロンデルも脳腫瘍から解放される。
パッレも白血病の再発はなくなる。
(向こうの俺、めちゃくちゃピーキーなもの作ってるけど、こんな薬作って承認通っていいのかよ)
少なくとも、SOMAなどと名付けたりするネーミングセンスはファルマにはなかった。
趣向が変わってしまったか、薬剤名の頭文字をとるとたまたまそういう略称になったかだが。
(俺が喋ってる動画はないのか)
SOMAの詳細を話していると思しき講演動画などはかたっぱしから見れなくなっていたが、一つだけ閲覧できるものがあった。
薬谷 完治がその道のプロに密着取材をするというテレビ番組で特集を組まれていたときの動画があったので目を通す。SOMAの発表の時期に注目され、特集が組まれたらしい。薬谷教授の生い立ちにも触れられていた。
ファルマは自分自身をこれほどうさん臭く、険しい顔をして見つめるとは思わなかった。
(いや、なんかイケメンだな。肌つやもいいし、体も鍛えてそうだし、外見が健康的すぎる。研究者っていうよりスポーツインストラクターじゃないか? アスリートみたいな体つきしてるし。こりゃ、効率よく仕事して家に帰って普通にジムとか私生活も楽しんでる勝ち組パターンだな。話し方が俺と全然違うし、話の間合いのとりかたや目線の配り方、イントネーションも微妙に違う。言葉の抑揚が少ない。えっと。中にいるのは、俺じゃない)
ファルマは動画を見て確信を深めつつ、雑談まじりの会話の中で、プロデューサーの質問に答えた薬谷に耳を疑った。
『薬谷先生は幼少期に不思議な体験をされたとか』
『はい、一時的な記憶の混乱や脳機能障害だったのかもしれないのですが……』
彼は10歳のころに意識不明で救急搬送をされたことがあり、それを境に目が覚めると人格が変わったかのような錯覚を覚えたそうだ。
その後、それまで全く興味を持っていなかった医学や薬学に興味を持ち始めたという。
(10歳……)
ファルマは思い返してみるが、自身が薬谷完治であった人生のなかで、10歳時点で強烈なエピソードを経験してはいない。
緊急搬送されたことも、自分を異世界人だと思ったこともない。
それはもう、何も考えず、悩みもなく部活にあけくれていた。
動画を視聴していると、驚くべきことに、向こうの世界の薬谷 完治は一度覚えた情報を一文一句まで決して忘れることができない状態になっていたという。
『え、一言一句ですか?』
台本はあったのだろうが、プロデューサーは大げさに驚いてみせる。
薬谷は照れくさそうに笑う。
『そうなんです』
『えっ、それ見たいです。今これ、私が読んでる推理小説なんですけど、これ数ページ読んでもらっていいですか?』
プロデューサーがページをペラペラめくって、ランダムに選びましたといわんばかり目を閉じて指をはさみこむ。
薬谷 完治は受け取って、そこから数ページ目を通す。
『彼女が警察署に戻ったのはいつですか?』
『127ページの3行目、“午後八時、彼女は上司に予定を変更する旨を告げ、捜査協力をはねつけた香川の件を洗いなおすとして帰署した”です』
『うわーほんとだー、すごいですねー』
「すごい、あいつ。記憶力無駄に使ってないか?」
わがことではないかのように、ファルマは面食らった。
そしてファルマは思い出した。
薬谷 完治、現ファルマがこの世界にきたとき。ロッテは、もとのファルマ・ド・メディシスはド・メディシス家にあった書物の内容をすべて覚えていたと言っていた。
覚えているのレベルを見誤っていたが、一言一句だったのかもしれない。
現ファルマも化学構造式や薬学関連については覚えているが、それはもちろん努力のたまものであって、知識も専門分野に限定される。
(間違いない、ファルマ・ド・メディシスだ。21年もそっちにいたのか)
ファルマは彼が異世界、東京で過ごした時間に思いをはせる。
10歳のファルマ・ド・メディシスの魂と31歳の薬谷 完治の魂が交換されたとき、片方は31歳が10歳に入り、10歳はタイムリープして10歳に入った。
動画を流しっぱなしにしていると、妹が脳腫瘍をわずらったが治験に参加してそれが奏功したことにも感銘を受け、薬学の道を目指すようになったというエピソードを話していた。
(ん? 奏功? 一時的に腫瘍が縮小したのか? ちゆは死んでるんだよな? でもこれだとまるで、一命をとりとめたかのような)
ファルマは息をとめて、検索してしまった。
薬谷 ちゆという名前を。
一般人だった場合、出てくるかどうかわからない。
しかし……無防備なのか肝がすわっているのか、SNSを実名でやっていた。
(危ないんだからもっと警戒しなよ)
そこには大人になった薬谷ちゆの写真や動画が数多くアップロードされていた。
あまりにも頻繁に動画をあげているので、微妙な気分になってくる。
(ちゆ、前からそうだったけど自分大好きなタイプだな……)
ファルマの知る限り、絶対にみることのできなかったちゆの未来がそこにあふれている。
情報に溺れそうになる。彼女は証券会社に就職したようで、同期会にあけくれていた。
時折家族の話題もでていることから、向こうの世界ではまだ両親が健在であることにも驚く。交通事故で二人とも亡くなった歴史も覆ったらしい。
「ああ……こうなったのか。元気そうだ」
「どんな方法であれ、相当な苦労をしただろうな、ファルマ少年は」
繋がれたちゆと家族の命。
誰一人、本人も含めて、悲惨な境遇に陥っていない。
「よかったなあ……」
耐えられず、涙がこみあげてくる。
ファルマ少年は21年の歳月の中で、それが適切な方法であるのかはともかく、地上から疾患を駆逐しようとしている。
あたかも天より舞い降りた薬神のように。
それはまさに、薬谷 完治が究極、地球世界でなしとげたかったが叶わなかったことであった。
(俺たちは、お互いがやりたかったであろうことをしていたんだな)
ちゆのSNSの最新の投稿をみて、ファルマは絶句する。
「今年の夏はお兄ちゃんとフランス旅行に行きます! マルセイユのプラド・ビーチ(Plages du Prado)、楽しみです! ビーチに大きな観覧車が出るらしいんですよ!」
(い、いきてー! ちゆとフランス旅行いきてー! お前けしからん、代われ! 成果出して息抜きに妹と二人で行く旅行はさぞかし楽しいだろうよ!)
こちらのファルマにダメージが突き刺さって悶絶した。
まあでもマーセイルでエレン、ブランシュ、ロッテとバカンスをしていたと知ったら「おまえけしからん代われ」と言われるかもな、とファルマも拳をおさめる。
そしてファルマは「彼も故郷を思い出すことがあるのかな」、と、十歳で家族と引き裂かれ遠く故郷を離れたファルマ少年の心境も慮る。
ファルマが画面をみながらもだもだしていたら、メレネーが起きて不審そうな顔をしているので、ざっと説明する。
「なるほど。お前の中にもともといた人格が、あの男の中に入っていたのかもしれない。そして、彼は向こうの世界に神薬を再現した……と」
「そんな薬剤が承認されるのも意味がわからないし、俺には理解できないんだけど。不思議な力が働いている気がする」
「それは、お前の世界の造物主がもう一人のお前を受け入れてくれたのかもしれないぞ」
「いや、いないでしょ」
そこだけはどうしても譲りたくないのが、地球育ちの科学者というものである。
「また先入観にとらわれたな。見えないことはいないことではない。墓守が存在するのだから、同じようにその世界を育成している存在がいるかもしれないだろう?」
「……そうかなあ」
「しかし不思議な造物主だ。墓守がお前を守護神に仕立て上げてお前の世界の知識や技術にただ乗りして一方的に奪おうとしていたとき、お前の世界の造物主は敵地からやってきた人間を殺さず、10歳時点のお前に憑依させた」
「百歩譲ってそういうのがいたとして、なんで10歳の俺にしたんだろ」
「さっき言っていたではないか、大人の体に子供の頭脳でなくてよかった、って」
「確かに……」
「そればかりでなく、31歳になるまで安全に育つことを許して、向こうの世界でも、この世界の崩壊の原因となっている神術を使わせてやった。そして薬をつくる環境を用意して名声まで与えるとは。至れり尽くせりだ」
「向こうの世界に神術を持ち込まれて、向こうは壊れないんだろうか」
「神術を持ち込まれることで世界が壊れるなら、受け入れなければいい。そうしない、手厚く育てるということは、その造物主には受け入れる余裕があるということだろう。もしくは、何かをやらせたかったか」
(造物主を信じているメレネーと話してると調子くるってくるな……単にすべて偶然の産物なんだと思うけど。たしかに10歳にタイムリープしてるのは意味わかんないな)
胡散臭い話になっているのは自覚しつつも、しかしメレネーから鋭い指摘が飛んでくるので、ファルマはメレネーの話に「そっか……」と相槌をうって合わせる。
「あくまで私の一族ではだが、部族抗争中、敵地からなわばりに侵入してきた人間は皆殺しにするか捕虜にしておくものだ。自由に行動などさせはしない、名声を与えるなどもってのほかだ」
(サン・フルーヴや各国が国際法を遵守してるってありがたいもんなんだなあ……)
ルール無用の部族抗争だと当然そうなる。やるか、やられるかだ。
この世界では神殿が幅を利かせていて、全世界の神術使いの神力を握って国際法を守らせているため、神術使いが政府の枢要に存在する国々ではそういったことは起こりにくい。
誰もがみな、神力をはく奪されることを恐れている。
「異世界人の知識にも利用価値があると踏んだのだろう、だとしたら向こうの造物主の方が上手かもしれない」
墓守の存在を知覚してしまった以上、上位存在の実在を否定しないのが科学的態度というものだが、ファルマの感情は抵抗してくる。
「利用価値か……」
「ところで、むこうのお前はなんの薬を創ったのだ?」
「ざっと簡単にいえば、どんな病気にも効くという薬だ」
ファルマは手放しでそれを歓迎することはできない。
遺伝子疾患を遺伝子治療で治療して、生殖系列にまで影響を及ぼすということは、遺伝的多様性を手放すことになる。極端な話、アフリカにおいて鎌形赤血球貧血症を治してしまったら、マラリアへの抵抗性が低くなる。
遺伝子変異を悉く正常化させ、染色体の安定化に全振りするということは、進化をやめるということにもつながりかねない。
「その万能薬は、向こうの世界の人間には作れなかったのではないか? 例えば、神術を使って作ったとか」
「……科学的根拠を示してデータを提示し、世界中のどの研究室でも再現がとれないと薬剤にはならないから、それはないと思うけど……神術が使えることが何かに関係はしていたのかもしれないな」
ファルマは参考までに尋ねてみた。
「もし、万能薬があるといわれたら、メレネーは飲みたいと思う?」
メレネーは乱れた髪の毛を布で編み込んでいきながらしばし考えていた。
「私は、一族の大人を半数にわける。そして、くじをひかせて半数に飲ませる」
「何で大人で、何で半数なの?」
「かりに、あらゆる病を治す素晴らしい薬だったとしよう。しかし、予想外の出来事が起こるかもしれない」
「それは薬剤そのもののリスクのため? 仮に、副作用も長期的な影響も全くない薬であっても?」
「たとえばだが、それを飲むと呪力がなくなるなど、特定の人種には効かないなど。そうなったとき、全員で飲んでしまっていたら取り返しがつかない。そして、子供に飲ませないことで、わずか1世代で個体数を回復することができる。だから飲んでも飲まなくても一族の繁栄に影響のない方法をとる」
(真田父子の犬伏の別れかな?)
生物としては、様々な生存戦略が考えられる。どんなに安全で便利で画期的な発明が生まれたとしても、全員が使うべきではないというのがメレネーの考え方だ。
(だよな。懐疑的なものにはそういう反応になる。でもたぶん、このSOMAという薬剤の安全性が長期的に裏付けられたら、人類の殆どが一気にのっかる。SOMAには寿命を1.5倍ほど延ばす可能性を秘めている。老化による肉体の衰えからも解放され、健康寿命も最長になる、若返りと生病老死のうちの病、老、死から解放されるメリットに抗える人間はほとんどいない)
人類のほとんどが、SOMAを受け入れてしまったら。
人類という種の遺伝子の多様性は一気に乏しくなり、人類という種の生存と環境への適応においてのアドバンテージを損ねる。
人類の遠い未来に思いをはせると、SOMAを使うべきではないと思う。
SOMA、それが穏やかに人類を滅ぼすとしたら。
ファルマ少年は人類にとっての救世主などではなく、
災厄の神、人類を終わらせる邪神ともいえる存在になるのかもしれない。
地球にもし造物主がいるとしたら、
知恵をつけ進化をやめた人類は最適解となりうるのだろうか?
これまでの実績からふりかえるに、地球の造物主は延々と進化ゲームを続けている。
6500万年前、メキシコのユカタン半島に小惑星が衝突し陸生および海生生物の大半が死滅したときに代表される、ビッグファイブと呼ばれる五度の大量絶滅をも繰り返し許容したように。
(気づけ! そっちのファルマ! 無数の分岐点があるのなら、その道は”正解”じゃない!)
(その造物主はお前を守っていない!)
人類の絶滅のあと、新たな生物が適応放散し空席となったニッチ(生態的地位)を奪い合い
新たな生態系を築き上げることを望み、進化ゲームの継続を楽しむだろう。




