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【完結済】異世界薬局(EP4)/【連載中】世界薬局(EP4.1)  作者: 高山 理図
Chapitre 8 崩壊し、つながる世界  Réduire et connexion(1148年)
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8章6話 薬谷完治とファルマ・ド・メディシス

 薬草園での密談を終えたファルマは、メレネーを教授室に招き入れて、ソファをすすめた。

 秘書のゾエには今日は外してくれと言っておいたので、二人きりだ。

 当然ながら、エメリッヒにも来るなと言ってある。来るなといっても納得しなかったので、あとでファルマが彼の実験を代行する段取りになっている。


「ここが教授室。適当に座って。何飲む?」

「お前の別荘の部屋か。水でいい」


 メレネーは教授室の飾り棚の置物などを珍しそうに触り倒している。


「仕事場だよ。ここで仕事をしているんだ」

「薬屋もやっていると言っていなかったか? 仕事が多すぎなのでは?」

「経営者と店主をね。今は結構ほかの人にも任せてる」


 メレネーとのやりとりにおいて、彼女たちの呪術体系の基本構造や社会システムを知ったことは大いにファルマに刺激を与え、一気に世界に対する解像度が上がった気がした。

 ファルマの頭の中に、一つのアイデアが宿る。

 メレネーのヒントから、ファルマが人々の信仰と祈りの力を蓄えて、神術や呪術の力を預かる。この世界の管理者、「墓守」と比肩するほどの存在となり、墓守の支配を覆す。

 そして、世界を破綻させる力である神力や呪術を使わなくても人々が平穏に暮らして行ける世界に変えてゆく。


「納得せん者も多いだろうが、方向性は間違っていないと思う」

「同意見だ。でも順序通りにやらないと、ただ悪霊や墓守に蹂躙されて終わる」

「薬の神はその墓守という巨人をみたのだな」

「ごめん、名前で呼んで。落ち着かないし」


 こう、うまく言えないがそわそわする。

 神聖国では公式に人間をやめはしたが、せめて個体名で呼んでほしい。

 つけてほしくないあだ名をつけられて冷やかされている気分だ。

 メレネーは首をひねる。


「ん? 神殿は薬の神と呼んでいるようだが」

「あそこはそういう宗教だから事情が違って……なんかもう、諦めてる」

「わかった。私は称号で呼ばれると誇りに思うが、お前はそう思わないのだな。では個人名で呼ぶ。ファルマは巨人を見たのだろうが、どんな奴だった?」

「ありがとう。半物質の杖で攻撃してみたけど、次元をずらされたよ」

 

 ファルマが墓守を目撃したのは一度だけ。

 帝都が悪霊によって襲撃されたときだ。


「次元?」

 

 メレネーは当然ながら知らない用語だ。

 

「なんだろうな。杖が届かないところに逃げられた」


 つまり、墓守は上位次元の存在なのだろう。

 ファルマはこの神力や呪力という、ファルマのいた地球においては到底説明のできない力が、どのようにこの世界の維持に寄与しているのか理解できない。

 理解できなければ先入観を取り払い、観測から始めるのが科学なのだが……。

 エネルギー保存の法則を破ってうまくいくとはどうも思えない。


「なぜ、地球に似た世界にしたかったんだろうか」


 ファルマはこの世界に来てからずっと疑問に思っていた。

 この世界の歴史は浅く、墓守は確実に地球史を参考にしてこの世界を作った。

 神力や呪力、わずかな地理の相違を除けば、この世界は地球環境のそれに酷似している。

 そうまでして、墓守は何をしたかったのだろうか。

 農神の少女は地球出身ではなかったが、地球とよく似た場所から来た。

 しかし薬谷の学友、物理学者の中嶋は「仮に別の宇宙に知的生命体がいたとして、地球に似た文明をたどることはありえない」と断定していた。

 となると、物理学者ではない薬谷にも思いつくのは、


(この世界は地球とは異なり、地球文明をコピーして育成ゲームみたいに動かしている世界なんだろう……そんなの、うまくいくわけがない)


 分子進化学の観点からみても、地球史が土台に存在しない状態で地球文明をコピーをしたとしても、同じようにはならない。 

 しかも、化石燃料や土壌資源までコピーするのを忘れているし、なぜか極東アジア大陸がない。火山活動も弱い。

 少しでも初期値が異なっていれば同じ結果にはたどり着かない。

 しかも、地球史を完全に巻き戻したって、また同じような生物進化の歴史を辿るとも限らないのだ。

 コピーが雑!

 管理が未熟!

 45億年分を省くな!

 創世期に四つの力が決まり、鉱石の分布なども決まるというのに、そこを省くな!

 ビッグバンからやり直せ!

 あと、太陽系の動きはもちろん、隕石の衝突まで計算して完コピしろ!

 未熟者のくせしてオリジナリティを出すな!

 アニメ、漫画、小説等、映画、ゲーム等のフィクション内の「魔法」という概念を真に受けるな!

 薬谷が墓守の地球育成ゲームのプレイを見ていたら、横からそんな言葉を投げたくなる。

 それでうまくいかなくなった部分を取り繕うために、神力や呪力などのチートで辻褄を合わせようと頑張っているのだろう。


(まあ言い過ぎだけど、やるからにはちゃんとやってくれ。頼むから。この世界の人々の命運を握ってるんだから)


 ただ一つはっきりしていることは……この世界の管理者は、世界の管理がヘタクソなくせにこの世界への愛着が強すぎる。

 ファルマはメレネーに、遠からぬ未来に起こるであろう確定事項を告げる。


「結局墓守は、この世界の運営に失敗している。どれだけ鎹の歯車で延命をはかっても、遅かれ早かれこの世界は終わる」


 破綻を繕うための存在を拉致してきて守護神とし、この世界のためにすり潰している。

 拉致されるほうも、たまったものではない。

 それに、自分はもう死んでいるからいいとしても、地球のある空間が巻き添えを食らうのは看過できない、とファルマは嘆く。


 ファルマは、この世界を破綻から立て直すまでの道筋を考えた。

 1,悪霊のいない世界を作る。

 2,神力、呪力を使うことをやめ、物理学による整合をとる。

 3,鎹の歯車を寄生先の世界から引き抜いて、この世界を自立させ安定化させる。

 4, 1~3の状態が保たれているか、信頼できる管理者が監視し続ける。


 墓守の支配を覆す、などと威勢のいいことを考えてみても、一介の人間であったファルマに、ひとつの世界の運営などできそうにない。

 だから、墓守をそそのかすか、説得するか、意思決定を司る領域に介入する。


「ほかの世界を巻き込まず、自分で独り立ちできるように整合性のとれた自然法則に切り替えていきましょう。経験を積めば、きっとうまくいくから」


 これを守らせるのが最低ラインだ。

 素直に聞き分けてくれればいいのだが。


「もう一つ方法がある気がする」


 メレネーがファルマに提案する。


「壊れていない、鎹の歯車と繋がっている向こう側の世界に行く」

「え?」


 メレネーの発想はぶっ飛んでいた。

 つまり、薬谷完治が存在していた世界。

 地球。

 日本。

 東京。

 そこへ行くとメレネーは言っている。

 懐かしすぎる地名だが、もうあまり向こう側の記憶を思い出すことができない。

 記憶を侵す禁術に踏み込み、霊薬や神薬を創りすぎた。それよりも、


「あの、それは異世界への侵略っていうんだけど」


 これはさすがにまずい。

 B級パニック映画に発展する。


「あちら側の世界は壊れていないんだろう?」

「知らないけど、たぶん壊れてない」

「こちらが侵略しなければいい。お前が私たちの大陸においてそうさせたように」

「丸腰で行ったとしても、普通に向こうの人類にやられるし普通に権力者に怒られる」


 鎹の歯車にすり潰されるルートを克服して異世界への通路を開いたとして、その先の世界へと突き進むと、薬谷 完治のいた研究室へとつながる。

 研究室から出た瞬間、その気がなかったとしても地球への侵攻ということになる。

 地球側の立場で考えると、異星人の侵入など許されるわけがない。


「誰に怒られる? 人の王か?」


 NASAとかかな、とファルマは真顔になる。

 あとは、SETI(地球外知的生命体探査)という機構がある。

 電波望遠鏡を利用して地球外生命の電波を受信したり、探査機を探している。

 東京の某大学の研究室からワラワラと異世界人が出てきたら、地球人一丸となって殲滅作戦をとられてしまうだろう。

 怒られが発生する、どころの騒ぎではない。


「そうだね、色々ある。普通に攻撃されて鎹の歯車ごと破壊されて終わりだと思う」

「ファルマは向こう側の世界から来たのだな。ハリスがそうだったように」

「そうだよ」

「向こうの世界のことをもっと教えてくれ」


 ファルマは教授室の鍵付き棚に置いていたPCを出してきてデスクの上に置き、開いてみる。

 PCはこの世界の人々には見えないし触れられないので、盗難は起こりえない。

 地球の写真ならば、大量に持っていたはずだ。

 それをフィルムにトレースして、メレネーに見せてあげることはできる。

 見えれば、だが。


「ん。なんだその箱は」


 メレネーはそう言いながら、透明化しているノートPCの輪郭にそって指でなぞっている。


「メレネーにも液晶部分が見えるのか。エレンもそういえば見えていたよな。もしかしてこの写真も見える?」

「いや、輪郭はわかってもそれ以上は見えない」

「残念だ。見れたら一目瞭然なんだけど……」


 しかし、それを見せてしまったらいよいよ大々的に地球の文明を目撃させてしまうことになる。

 メレネーは地球文明に興味津々だ。ファルマは何枚かトレースをして地球の風景をメレネーに見せる。


「この箱の群れ、見てみたいな」

「高層ビルのそびえる街だよ。この一番高いビルの頂上は雲がかかっていたりする」

「なるほど。そっち側に行ったらどうなる? 向こうの世界には、墓守のような管理者はいるのか?」

「さあ……宗教の問題になってくるな。少なくとも、会ったことはないし、向こうの世界の人間はその証明すらできてないな」

「なんだ、ファルマ。お前は向こうの世界の仕組みを全くわかっていなかったのだな」


 言われてみれば、とファルマは反省する。


「うん、まあ……でも、それらしき伝承や聖遺物は世界各地に残っているけど。事実ではないと思う」

「ファルマ、お前はハリスの日記を事実ではないと思うか?」

「いや、事実だと思うけど。現物も残ってるし」


 何しろ日記という現物が残っている。


「なぜ、お前の世界の各地に存在した伝承は事実ではないと思った」

「反論しにくいことを言うなあ……」


 何故、神話や伝承を創作物だと思ってしまうのだろう。

 ファルマはただこの世界より進んだ知識と神力こそ持っているが、脳内は普通に地球における一般人なので、地球上でさらに上位存在がいるかどうかわからない。

 メレネーは鋭い突っ込みを放ってくる。

 メレネーはファルマの目を見て断定した。


「いると思う」

「いないと思うけど」

「いいや、いる」

「いないよ」

「“見えない”ことはいないことではない。私は霊の世界を知っている。現に、お前の言っている墓守という巨人は、お前にしか見えないのだろう?」

「そうだけどさあ……」


 子供の喧嘩のような言い合いになっていて見苦しいところだ。

 地球で大々的に「造物主などいない」と言ってしまえば、世界各地の宗教家から狙われて大変なことになる気がする。

 そして物理学者であり薬谷の学友である中嶋のいうように、大統一理論が完成したとき、地球の存在する時空における神の存在は希薄化し、地球人は神を殺す。


「では、鎹の歯車というものの先に行って向こうの世界に出て、向こうの造物主に少し間借りしていいか聞いてみよう」

「いやいやいや……勘弁して」


 もはやメレネーの発想についていけない。


「鎹の歯車ってどんなものだと思う? 人をすり潰す形をしてるし近づいただけで死ねるよ。現に、何人もの人間や守護神を食らってるんだ」

「私は入らないが?」


 え、どういうこと? とファルマは自分を指差す。


「俺? 俺も行きたくないよ。まだこの世界で思い残してることがたくさんある」

「そうは言ってない。死んだ者、つまり私の霊を行かせればいい。霊なら通れるし、霊は私の心に見た映像を伝えられる」

「向こうの世界に霊の偵察を送るってことか……」


 ありかもしれない。

 ファルマはメレネーの意見に乗ってみることにした。

 となると、メレネーの滞在中に試してみたい。しかし、鎹の歯車に近づくのは危険すぎる。

 また蓋が抜けて何かが解放されてしまったら、もう対処できそうにない。

 どうしたものかと思案して、そういえばと思い出す。


「待って。鎹の歯車経由ではなく、ほかに異界に繋がっているかもしれない場所がある」

「それはいい。今から行こう。今から行けるのか?」

 

 メレネーは先ほど供された「ファルマのおいしい水」を飲み干して席を立った。

 鎹の歯車より比較的安全に立ち入れる異界。

 つまり、聖泉から入れる異界の研究室だ。


「でも、少し装備を整えてからのほうがいいと思うな。思いついて即行動ではちょっと。しかも、あの研究室に入るには回数制限があるんだよ」

「二人きりで行動できる日がほかにあるのか?」


 ファルマは相変わらず真っ黒なスケジュール帳に目を落とす。

 

「ごめん、スケジュールがいっぱいだった」

「どうせそんなことだろう。では、私の絵鳥に乗っていこう。そこの薬学校の庭に絵を描いていいか?」

「芝生を荒らしたら怒られるよ。それよりもっと速い方法がある」


 ファルマは「寒くなるから」といって自分の厚手のコートをメレネーに着せ、窓を開け、手慣れた様子でリュックに手早く色々なものを突っ込んで背負う。

 窓の下と周囲を見渡すが、人目はないようだ。


「お前に乗っていくのか。神の使う飛翔方法には興味がある」

「俺のことを乗り物みたいに言わないでよ」


 ファルマが彼女をエスコートするように手を差し伸べると、メレネーはにこっとして手を取る。

 ファルマはメレネーの手を取ると、彼女の体に自らの神力を含ませる。

 パッレがパラダイムシフトを起こした結果色々と挑戦的な神術の使い方に取り組んでいるので、それに刺激を受けてファルマも人体を物として扱うことにした。

 位相幾何学的には、ファルマが杖を持って飛ぼうが、杖を腰に差したまま飛ぼうが、メレネーと手を繋いでいようがまったく相同なのだ。

 ファルマが杖といえば「乗らなくてはならない」、という先入観にとらわれていた。

 魔女がほうきに乗って飛ぶ姿のイメージが強すぎた。

 つまり、杖は帯びてさえいれば乗らなくてもいい。

 さらに、コアさえあれば杖を持たなくてもいい。


「なるほど、私の体を自分の一部にしたな。お前は人をモノのように扱うのだな」

「もうちょっと、言い方がさ……容赦ないというか」


 たじたじになりつつファルマは窓を蹴り、二人で空へと飛び立った。


「兄のおかげで、いろいろ学ぶことも多くてね」

「兄とはあの銀髪の奴か」

「尊敬できる兄だよ。新旧の神術にも詳しい」


 雲を抜け、急激に気温が下がってくる。

 メレネーの息が凍り付く。


「加速するよ。寒いからしっかりくっついてて」


 ファルマはメレネーを抱き込んで神体と一体化させると、空気の層でメレネーを守りながら、空気の薄い高高度へ脱出し、空気抵抗を避けながら音速に達する。

 かつて、目的地までは一時間ほどかかっていたが、この状況では十分もすれば到達できる。

 メレネーは何も言わずファルマの邪魔をしないように身を寄せていた。

 目指すは帝都より遠く離れた場所に位置する、人を寄せ付けない断崖絶壁の切り立った台地。  

 そこは雲に覆われて、人が立ち入ることができない。

 ファルマとメレネーは寂寥とした大地の上に降り立つ。


「どうした?」

「あの距離をこの短時間で飛べるとは」

「メレネー一人なら運べるよ」

「お前、つくづく人間が歯向かってはいけない存在だな……」

「メレネーにはかなり追いつめられてたけど。ルタレカを取られたときには終わったって思ったし。実際、尻尾巻いて逃げただろ?」

「はは、お前も焦っていたのか」

「日和って逃げたのはたぶんあれが初めてだよ」


 それは痛快だ、とメレネーは少し得意げになる。


「ファルマが神術を手放すと、こういったこともできなくなる。ここには二度と来れないがいいのか?」

「この世界が滅びるよりましだし。それにその時はまた、飛行機で来るよ。今俺がやっていることは、科学技術の進歩で達成できることばかりだ。人間は神術を使わなくたって宇宙にだって行けるんだよ」

「そうなのか……ではなおさら、なくしてしまったほうがいいな」


 メレネーは決意を固めるようにそう呟く。

 このあたりにあったはずだ、と予想をつけながらファルマは聖泉へと近づく。


「ここには本当に、お前以外には誰も来たことがないのだな」


 メレネーが呪術を使い、霊を駆使して地形の分析する。


「そういうのわかる?」

「人や動物が死んだ痕跡がない」

「へえー……すごいよ。メレネーって長になるまでにどれだけ訓練を積んだの?」

「まあ、長となるまでには色々あった。それでもこうやって誰かの役に立っているなら、努力も報われるというものだ」

「尊敬する」

「お前もそうなのではないか?」

「俺は、この世界に来た時に何も知らずに力を持たされていた。神力を得るために努力なんてしてない。借り物の力感がずっとある」


 この世界で落雷で死んでしまったファルマ少年は、血反吐を吐くようなトレーニングを積んでいたに違いないが、薬谷 完治にとって、神力とは貰い物なのだ。

 だからこそ、彼がこの世界でしたかったであろうことに尽力する。

 ファルマは霧の大地の中を歩き、水を消去せずに目視で探す。

 しばらく探すと、窪地に小さな聖泉が見つかった。


「あった!」


 少し離れて探していたメレネーが駆け寄ってくる。


「この泉の底に異界があるのか」

「結構複雑でね……泉の中に飛び込んで、水の中から水面だけ凍らせる。そこに、裏側から体を突っ込むと、何もない空間に出る。その先に、異界へとつながる研究室がある。その研究室の奥に進むと、真っ暗な窓がある。向こう側に脱出できるとしたら、たぶんその先だ」

「全然わからん。ファルマと一緒に聖泉に飛び込んでみなければ」

「じゃあ、その作戦で行こう。水の中では話せないから研究室の間取りを教えるね」


 ファルマは手帳に図面を書き、メレネーに解説する。


 挿絵(By みてみん)

 

 薬谷研は薬学研究棟の301~305、321に居室を持っている。

 聖泉から入れる入口は、廊下から准教授室の301号室に対して一方向のみだ。

 地球世界側には存在するはずのほかの入口は聖泉側からみると存在しておらず、開かない。

 おそらく、実体であるメレネーはこの空間に入れないし、入るべきでない。

 この異界の研究室に滞在できる時間は、だんだんと短くなってきている。一定の時間になると、研究室の外に締め出される。

 ファルマが研究室の扉を開くので、彼女の霊に制限時間内に向こう側へ突破してもらうしかない。

 301号室では薬谷がソファの上で仮眠をとっており、生死の境をさ迷っている。

 それを無視して、研究室302を経由し、304の培養室に進む。

 そこから見える窓の外にはあるはずの廊下がなく、虚無の深淵がある。

 異世界への脱出口があるとすれば、その先だ。出入りを繰り返すたび、段々と異界は広くなっている。

 ひょっとすると、廊下側に出られるかもしれない。

 メレネーには事前にそんな情報を伝えておく。


「わかった?」

「わかった」

「時計が何時何分になってるか見てきてほしいんだけど」


 異界の研究室は、3時30分から4時30分までの時間を繰り返し、薬谷完治の生死の結果が重なり合っている。

 そして、そこを何度も往復をしたために、研究室に入っていられる時間が短くなっている。

 タイムリミットとなる4時30分まであと何分あるのか、知っておきたい。

 前回は、3時50分まで進んでいた。


「時計とやらの読み方がわからん」


 時計のある場所を教えて、デジタル時計の時刻のうち、右側の二つの図形を覚えてきてほしいと伝える。

 それならわかった、とメレネーは渋々頷く。


「その、異界の部屋で寝ているという男は何者なんだ?」

「それが本当の俺だ。たぶん、たまたま異世界への入口が発生した場所で死んだ、だからこっちに連れてこられた。放っておいたらそのうち死ぬから何もしなくていい」


 ファルマは秘宝化しているT大学の職員証を見せる。

 30歳の時の写真だが、すでに顔色が悪い。そりゃ、死ぬよなと今になって思う。

 メレネーは職員証を眺めて、ぷっと笑った。


「人の顔を見て笑わないでよ」

「いや、そうじゃない。お前、子供じゃなかったのか。道理で言うことが子供らしくないわけだ」

「老けてるってこと?」

「落ち着いているというか、達観しているというか。違和感があったのだが、大人だと思えば納得がいく。子供の体に大人の精神。ごまかすのも大変だろう?」

「大人の体に子供の精神よりはましかな」


 かけあいもそこそこに、ファルマとメレネーは上着を脱いでタオルを用意し、聖泉へと飛び込む。

 ファルマが聖泉の裏側から神術で水面を凍らせると、メレネーは氷の中に手を突っ込もうとする。

 しかし、メレネーの手は氷の表面で弾かれてしまった。メレネーの息が水中で続かなくなったので、ファルマは物質創造で彼女の周囲に酸素をまとわせる。

 ファルマは手を伸ばして氷を貫通させ、向こう側の空間に出る。

 メレネーに手を伸ばして、異空間越しに掌を合わせる。

 メレネーはファルマの体を貫通させて異界に霊を送り込む。

 准教授室への入口のカードリーダーはほぼ壊れかけている。

 それでも、職員証を押し付けると、数秒の間のあと、認証を受け付けてくれた。

 ピッと音がして、准教授室への扉を開く。

 准教授室のうち開きの扉はもう、人が入れるほどの隙間はない。腕が一本、やっと通るぐらいだ。

 ファルマがドアの内側に腕を差し入れていると、腕を伝ってメレネーの霊が異界へと侵入した。

 中を見ようとするが、内部が暗くなっていてよくわからない。

 しかし、一分もしないうちに研究室のドアが閉まり、聖泉の外にはじき出された。

 ファルマは危うく腕を挟まれるところだった。


(あぶねー……腕がなくなるところだった)


 放心状態になったまま二人で聖泉の水面を漂う。霧がわたっていて、空も見えない。

 今回は異界の研究室に侵入していないので、ファルマの神力量に変化はない。

 体が透明化するという現象も起こらない。


「お疲れ様、メレネー。はじき出されるまで早かったけど……何かわかった?」

「一回外に出よう。少し時間をくれ」


 メレネーは状況を整理しつつ、考え込んでいるようだった。

 ファルマはメレネーを助け起こして聖泉の外に出る。

 二人ともすっかり水浸しになってしまったので、タオルを頭からすっぽりかぶり水分を拭う。


「ええと、着替えあるよ」


 聖泉で何が起こるかわかっていたので、ファルマも準備は万端だ。メレネーは着替えはいらないといってタオルドライで水気を切った。


「話せそう?」

「ああ。気を取り直した。順繰りに話していこう」


 まず、メレネーの霊は研究室に入り、時計を確認した。

 時計は、12を指していたらしい。

 デジタル時計なので、4時12分しかない。

 やはり以前きたときより進んでいる。

 次に、メレネーの霊はファルマが薬谷 完治が寝ていると言っていたソファを確認したが、誰もいなかった。

 不審に思ったが、301室を通り過ぎ、302室を通過、303室を通り抜けようとしたとき、303室のドアが外側から開いて、誰かが入ってきた。

 そして、ファルマやエレン、パッレの使うものと同じ神術と思しき術でやられたというのだ。


「は? あの空間は神術は使えないはず……」


 メレネーの霊はオタマジャクシのように霊体を細長く展開していたので、303室に入っていた部分はやられてしまったが、302室側にいた体部は無事だった。

 霊が301室に逃げ帰ると、303室から誰かが追ってきたという。

 霊がその正体を見極めようとしたが、ぼんやりとしかわからなかった。


「はっきりと断定はできないが、お前だった。そのカードの人物が、霊を殺した」

「もとの世界の俺、薬谷 完治には神術は使えないよ……それに、神杖も持っていないし、神技は打てない。不可能だ」

「杖はなかったが、小さな黒い棒を持っていた。左胸から取り出して構えて、その先から神術を放った」

「胸ポケットから取り出したのはペンのこと? 単なる筆記用具だよ? 神杖じゃない」

「私に言われても知るか」


 メレネーはむすっとしている。彼女からすれば大切な霊をやられたのだ。

 しかし、腹を立てることもできないというところだろう。

 

「そうだね、ごめん。それを向けて神術を使ったの? 俺が?」

「何か話しかけてきたが、言葉が翻訳できなかった」

「そいつ、本当に俺?」

「もう一回行って覗いてくるか?」

「いや、もう入れたとしても指一本ぐらいしか入らないと思う。本当に入れなくなっていると困るから、あとの一回はまだとっておいたほうがいい」


(向こう側にいるのは、誰だ?)


 確か、異界の研究室の中で、一度だけ心筋梗塞から生還して元の世界に戻ったであろう薬谷 完治が存在するのはファルマ自身が目撃した。

 彼なのだろうか。


(生還した影響で……?)


 もし、メレネーの霊を浄化した何者かがこちらの世界の神術使いなら、メレネーの霊が東京側に出ようとしているのを侵入ととらえ、悪霊だと認識した。

 異界の向こう、東京側から分析室のドアを開けて入ってきて、霊を認識し、浄化神術を使ったのは何者だ?


「向こう側の世界、変わってるのか? 俺が神術を使えるようになっている?」


 インターネットで情報を確認しなければ。

 何か変わっていれば情報の更新があるはずだ。

 ファルマは向こう側の薬谷が何を考えているのか、そして本当に薬谷なのか、もはやわからなかった。

 ただ、こちら側の世界にとってはまずいことになった。

 それだけは飲み込めた。


(もし、俺のことが見える俺と異界の研究室で鉢合わせしたら……どうなったんだろう?)


 即死だったかもしれない。

 そんな可能性に思い至った。


(なんてこった。異界の外に待ち受けるのは自分なのか……)

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