8章4話 帝都観覧
全員がレストランでの食事を終えたところで、「じゃあ、移動しようか」とファルマが声をかけると、メレネーが財布を出した。帝国で買ったものとうかがえる。
ファルマが目をまるくすると、メレネーはどうだとばかりの得意げな態度だ。
「店に入ったら料金というものがいるのだろう? いくらだ。航海の間に、帝国の文化風習についての話を船員らに聞いてきた。財布はマーセイルの漁港で買った」
「へえー」
予習はばっちりというわけだ。だが、ファルマは受け取らない。
「今日は歓迎会を兼ねて、こちらがもてなすから気にしないでよ。気楽にしていて」
「それは恩に着る。次、お前がきたらこちらも精一杯もてなす」
「それは楽しみだな」
「たくさん食べたので腹ごなしがしたい」
メレネーはレストランの外に出ると、そういってその場で屈伸運動をはじめた。
随行者たちもメレネーにならって運動が始まる。ほかの五人もじっとしてはいられないようだった。
「ここで食後のエクササイズはやめて。あと、食後すぐ運動はよくないよ、胃痛になったり」
自由すぎる一行に、ファルマとクララは困り果てる。
「満腹になると眠気を誘う。そうならないように、体を動かしていたいのだ」
ダイエットという概念はないようだが、満腹になるのは嫌なのだろう。
メレネー以外のマイラカ族の随行者たちは翻訳用の霊を連れてきていないようで、帝国語を話せない。なので、ファルマがメレネーに伝えて、メレネーが窓口となって彼らに通訳をする。
「じゃあ、散策がてら、エリザベス聖下のところに歩いて行ってみる?」
「それがいい。エリザベスというのは、あの偉そうな女のことだな」
通行人がぎょっとした顔で振り返る。
「ふええ、実際にこの大陸で一番偉い人なんですよう」
それを聞いたクララが不敬にならないかと慌て始めた。誰かに聞かれでもすれば大変だ。
どっちが偉そうなんだ、とファルマは内心思うが、口には出さない理性を持っていた。
メレネーたち一行には往来の人々の好奇のまなざしがそそがれるが、ファルマの姿をみると、安心したように見なかったふりをした。ファルマはこの時点では、異世界薬局の店主兼宮廷薬師として、それなりの知名度を持っていた。今回はそれが幸いした。
一行は徒歩で帝都を観覧しながら、帝都の人々の生活にふれつつ、宮殿に到着する。
「ここが聖帝エリザベス聖下の住まう宮殿で、広大な庭園と離宮をもつ、華やかなバロック建築様式と内装が特徴の王宮。のべ五万人の職人さんが先帝の命令で何十年とかけて建築、造園したそうだよ。内部の様式は……」
ファルマも観光ガイドの様相を呈してきた。宮殿が勤務先ということもあり、迎賓などの行事があるときには、筆頭宮廷薬師として国内外からの賓客から詳しく宮殿の説明を求められる。
「何という建築物だ。これは人間が造ったものなのか? 空から見てもいいか?」
メレネーが絵を具現化した怪鳥を呼び出そうとしているので、ファルマは慌てて止めた。
「飛行はだめ、帝都の人たちひっくり返るから」
「お前も飛べるではないか。何が珍しいものか」
そうだけども! と思いながらも、何か違う気がする。ファルマは一応、帝都市民からは見えないように雲間に隠れるということをしている。
「俺は人に見えるようには飛ばないよ! 飛ぶときにはマナーを守って。普通のことだろ!」
ファルマはメレネーの気ままなペースにもっていかれてしまう。
通行人の耳も気になるので、ファルマたちは詰所を顔パスで通り抜け、聖帝との待ち合わせ場所を目指す。クララは特別に宮殿への立ち入りを許されているので随行する。
「普通、人って飛ばないんですけど、自信がなくなってきましたぁ……」
クララの突っ込みもいまいちキレがない。
この場のメンツの中では、クララだけが飛べない少数派だ。
聖帝がメレネーたちを招いたのは、宮殿の敷地内にある隠れ家的な別荘であり、彼女が最近造営させた離宮だった。
迎賓館としての機能もある。
他の五人は宮廷内ガイドツアーに行くといって別行動となってしまったので、メレネー一人での面会だ。
(わー、これか。聖下が建造させていた迎賓館、初公開だな)
マリー・アントワネットが愛したプチ・トリアノンみたいだなとファルマは懐かしく地球の建造物を思い出す。
ロココ様式の優美かつ緻密な内装とは対照的に、離宮の正面には人工湖を配し、自然と調和した田園風の中庭も堪能できる。
そんな帝国の威光を思わせる風光明媚な場所の雰囲気に似つかわしくない、ふてぶてしい態度の少女が一人。
「足労をかけたな。メレネー」
聖帝が友好的な笑顔を見せると、メレネーは何とも言えない渋い顔をした。
「わざわざ顔を見せに来てやったぞエリザベス。お前、でかい家に住んでいるのだな!」
メレネーの挑発に、聖帝の側近が戦闘になるのではと警戒して慌てている。
「よい、親しき友人のただの冗句だ。外で控えておれ」
聖帝はそのお節介がわずらわしいと思ったのか、側近を下がらせた。
「友人と言った覚えはないけれどな」
「まあ固いことを言うな。ここは余の家ではあるが、ただの家ではない、行政の中心であり、立法、司法の中枢でもある。いわば小さな国家ともいえよう」
聖帝は中庭を眺めながら、蜂のようにくびれた腰に両手を当てている。
どうだと言わんばかりの態度に、メレネーは呆れているようにも見えた。
「一つ疑問なのだが、このような富を独占し、同じ国の人間には分け与えるつもりはないのか? 我らは一族の誰かが得た富は等しく分配する。分配は大切だ、将来に禍根を残さない」
エリザベスはメレネーの言葉をどこか嬉しそうに受け止める。
彼女をテーブルにつかせ、喉を潤す飲み物をすすめる。
「そこで突っ立っているのもなんだ、飲み物でも?」
「いただこう」
搾りたてのフルーツジュースがふるまわれた。
もう一杯すすめながら、聖帝は彼女に説明する。
「大規模公共工事というものを知っているか? 宮殿の造営は帝都で仕事を求める種々の職人に十分な仕事と報酬を与える。職人は家族を養い、子弟らは技術を継ぎ、他業種を潤す。これもまた、持続可能な富の再分配のひとつだ」
「いいや、知らん。我が部族では職種が固定化されていないので」
メレネーは子供っぽく首を横に振る。そんな彼女に、聖帝が「老婆心ながらな」と歩み寄る。
「そなたがこれから一大帝国を築くやもしれぬから教えておくと、集落が拡大すれば村や町となり、さらに大きくなれば国となる。そうなる頃には、人々は役割分担をするようになる。各地に勢力が生まれ、統治も一筋縄ではいかん」
「ふむ」
納得がいかないながらも、メレネーはひとまずは聞き入れる様子だ。
「人気取りに走るなら、市民らに贅沢をさせることはもっとも容易だ。富をばらまき、消費させればよい。だが、そんな帝国は一代限りで終わる。国家を百年、千年と繁栄させるためには、大きな人々の営みの円環を作らねばならんのだ。また、国家の財力と宮殿の威容を示すことは、不幸な武力衝突を回避するにも役立つ。現に余が即位してより一度も、サン・フルーヴ帝国は国家侵略を受けてはいない。反乱も、武装蜂起も」
聖帝はインペリアリズム制における彼女の政治観を要約する。
「力で押さえつけているだけだろうが?」
「まあそうともいうが、皇帝は世襲でもなく、終身制でもないのだよ。みなが在位中の余の行いを監視し、世論という名の刃を研いでいる。皇帝の力が衰えれば世論を味方につけた若獅子に帝位争奪の決闘をしかけられて討取られる。代替わりの決闘中に弑逆されたとて罪には問われぬ。退位後の安寧な生活を望むならば、わざわざ暴君になろうとする者はいない。そこで最善の行動とは、民の幸福を第一とすること」
「……意外と大変だな、この国の皇帝。なりたい奴なんていないだろ」
メレネーは振り上げた拳をどこにおろしてよいかわからない。
そうだったのか、とファルマは彼女の考えを知った思いだ。
彼女の政治哲学について尋ねたこともなかったし、それはファルマの仕事ではないと考えていた。
「いかにも。逃げを打てぬよう、皇帝の器たるものに聖印という名の呪いが刻まれている。そういうそなたこそ、歳のわりには随分と重いものを背負っているように見えるが?」
「そうだったが、それは全部ファルマに押し付けた」
突然名前を出されたファルマは、きょとんとする。
「ピチカカ湖の呪いも解けたし、晴れやかな気分だ。よく寝れるようにもなった。ルタレカを失った今、私の宿命とやらもどこかへ行った。これからはもっと面白おかしく、惰性で生きてゆく」
メレネーには出会ったころの怨恨に満ちた、殺気立った気配はもうない。
彼女を苦しめていた問題がすべて解決してしまって、牙を抜かれたというのが正しいだろう。
二人のやりとりに、ファルマは複雑な心境になっていた。
だが、誰かが背負った荷を下ろせるならば、ファルマも多少は「これでよかったのだろう」と感じる。
騒々しいやりとりを察したのか、隣の部屋からルイが顔を出す。
いいタイミングだ、とファルマはルイの登場を歓迎する。
「ははうえー、誰かきたのか? その人誰?」
ルイはビリヤードのキューを振り回していた。
「客人だ」
「母上? なんとお前! 子持ちだったのか!」
メレネーがエリザベスとルイを交互に指をさして驚いている。
「そうだが?」
するとメレネーは気が抜けたようにのけぞった。
「子持ちで長ができるものなのか!」
「できるが?」
メレネーはカルチャーショックを受けたようだ。
「長に子供などいたら、他部族からすぐに狙われるか殺されてしまう」
だから、長は在位中は必ず独身なのだと彼女は説明する。
「世襲ではないからルイを狙ったとて意味がない」
聖帝からそう言われてファルマが地球の日本史や世界史を思い出すに、世継ぎの暗殺はあるあるな話だが、それは世襲だからだ。
(王族の子は暗殺や毒殺が相次いだりするけど、大統領の子が狙われるのは身代金目的ぐらいだもんな)
ファルマもそんなことを思う。
「そうなのか。意外と考えられた、すぐれた仕組みだな」
メレネーは苦虫をかみつぶしたような顔で称賛を送る。
「最善とは思わんが、国の民のことを思えば悪くはないと思っているよ。何しろ、臣民にとって皇帝とは武力であり兵器だ。安心して担ぎ上げ、身を寄せられる者でなければ、退けたくもなるだろう」
聖帝は自らの立場をどこか割り切ってとらえていた。
「なるほど。大国の王は、大量の反逆者に怯えているのだな」
「寝首をかかれぬようにはしておるつもりだがな」
聖帝は何もかも含んだようにふふっと笑う。
「みたことのない髪の色だな。ビリヤードするか?」
先ほどから突っ立っていたルイが、空気を読まずメレネーをビリヤードに誘う。
背後から現れたノアが「マジ今は空気読んでください」とルイを引っ張っていこうとするが、メレネーは霊が翻訳できない言葉を物珍しく思ったのか、首をかしげる。
「なんだそのビリヤードというものは。翻訳ができん」
「杖と玉を使って、どちらが狙い通りに玉を打てるかの真剣勝負だ」
ルイは羽交い絞めで連行されながら説明を続ける。
この空気の中で平気な顔をしているルイの度胸もなかなかのものだった。
「はいはい、こちらへ行きましょうね、殿下! 私がお相手しましょう」
ノアがルイの背中をぐいぐい押してはけさせようとしていると、メレネーもついてきた
「おもしろい、受けて立つ!」
「えええっ?」
ファルマとノアは思わぬ展開に顔を見合わせる。
エリザベスはメレネーにそっとビリヤードのキューを渡す。
「余の愛用のキューだ」
しばしの後、メレネーが皇子に挑みかかかってはボロ負けを喫しているので、それを見守るファルマは気まずい思いだ。
「残念だけど、暫く勝てないと思うよ」
三連敗になってしまったところで、ファルマはメレネーに降参を促す。
「他の人たちも戻ってきたし、次の予定が」
宮廷ガイドツアーから戻ってきた随行者たちも、面白そうに眺めている。
「何を言っている! 勝てるまでやる!」
「殿下は一日三時間もビリヤードを練習なさっているので、厳しいと思う」
更に敗北を喫したところで、ルイが「弱すぎて退屈」といって打ち止めになった。
「次に来たときは叩きのめしてやるからな!」
メレネーが吠えるが、ルイは真に受けていないようだった。
「ええと。ビリヤード台一式、持って帰る?」
うちにある台を一台プレゼントしてもいいかな、とファルマが気を利かせる。
「殿下はビリヤードがお強いから、仕方ないよ」
ルイは神術訓練が大嫌いなので、彼が神術の腕を上げて皇帝になる可能性は低そうだ。聖帝も「あやつは神力量も頭も足りぬから鍛えても無駄」という見解で、息子の怠慢についてとやかくいわないというのもある。
神術についてはからっきしな代わりに、ここ最近でビリヤードのコーチをつけて熱心に練習しているところをみると、プロハスラーにでもなるんじゃないかな、とファルマは予想している。
「ファルマはあの子に勝てたことがあるのか?」
「何年か前はともかく、勝てなくなったよ。やっぱり、日ごろのトレーニングがものをいうよ」
接待ビリヤードなので、もともと本気を出してはならないのだが、最近は本気を出しても勝てなくなった。
「まだ子供なのに凄いな」
「それに乗っているのも凄いと思うけど」
メレネーは聖帝が「庭内見学用に」と貸し出したライオンに乗って宮殿内を散策している。
ファルマが感想を述べると、メレネーはライオンの鬣をくしけずってやる。
「何となく乗ってみたが、なんの動物なんだろうな、これ」
ライオンだった。
ファルマとクララ、そしてマイラカ族の者たちはライオンを断って徒歩でついていく。
メレネーは霊を通じてライオンに指示を出しているようで、ライオンはエリザベスよりも従順に指示を聞いている。
(聖下のライオンとなじんでんなー、飼い主みたいだ)
ファルマは何の躊躇もなく、いとも簡単にライオンを操るメレネーの度胸に感心してしまう。メレネーはというと、目の前の光景に目を輝かせていた。
「いいものをみた。特にこれ」
メレネーは大噴水の前でライオンの足を止めた。
「噴水か」
宮殿の大噴水は一見の価値がある。
皇帝を模した彫像を中心に、幾重にも噴水が立ち上る。
「これ、よかったら」
まめな男、ファルマは宮殿の名所とエリザベスを写真におさめたポストカードを事前に買っておいたので、メレネーと随行者に渡す。
帰国してからの土産話にも役立つし、インテリアにも最適だ。
「やあ、これは嬉しい」
メレネーと随行者らは素直に喜んでいた。
「ところで、どうして水が低い方から高いほうへ流れている? 神術というものを使っているのか?」
「これはただの物理現象だ。水が高いほうから低いほうへと流れるしくみを利用して、貯水槽から噴水の高低差で水圧をかけて、水が噴きあがっているように見える」
「へえ……私がこれをやろうと思えば、霊の力を借りるしかないけれどな」
宮廷庭園の美しさに見とれているメレネーに、ファルマが念のため忠告をしておく。
「ええと、この地の霊を呼び出さないように気を付けてよ。このあたりには悪霊しかいないから。マジで、やばいのがいるから」
近場でいうと、目の前に現れるであろう納期に遅れて庭園の噴水で自殺したという造園家。ファルマの前には現れたことはないが、宮廷人たちから話を聞くに、グロテスクな容貌をしているらしい。
「この地には縁もゆかりもないから、そもそもこの地の祖霊を呼ぶことはしていない。祖霊には日々に手を合わせ、彼らの功績と恩義を語り継ぎ、祖先に感謝をたやさない。そういうものだ」
(日本人みたいなこと言うなこの人……)
ファルマはどこか懐かしい気分になる。
「それにしても、お前ら基準で悪霊しかいないとは呪われた大陸だな。お前たちが祖霊を粗末にしたのだろう」
ファルマは帝国の暗部を突かれてぐうの音もでない。
確かに、この大陸の人々は守護神を信奉しているが、死者が霊として現れるのを恐れていた。
霊を大切に崇め、手厚く祀っていればあるいは、悪霊に怯える暮らしをする必要もなかったのだろうかと、この大陸の辿りえた別の可能性に思いを馳せる。
(いや、それで何とかなる感じじゃないんだよな。こっちの大陸の霊は性質が違う気がすんだよね。でもそれって、もしかして守護神にも責任がある?)
あるいはファルマの存在そのものが、霊を挑発しているのかもしれない。確かに、神力を駆使して霊をその場所から退けたなら、反発も起こるかもしれないなという気もしてくる。
「もしかして、霊を鎮めたりするの得意だったりする?」
「ん? できるが? 何か頼みたそうな顔をしているな?」
ファルマは思わず活路を見つけたように思った。
「きちんと依頼案をまとめてからにするよ」
「まあ、そのくらいはお互い様だ」
そんなにあるのか、とメレネーはいったん驚いた顔をするが、メレネーは朝飯前だといわんばかりに請け負う。
(もしかして、メレネーって霊のいざこざに関してはすごく頼りになります?)
クララが思わぬ展開に驚き、ファルマに「よかったですね」とこそこそと耳打ちをした。
◆
その夜は計画通り、ド・メディシス家で歓迎パーティーを開催した。
せっかくの機会だからということで、異世界薬局の職員たち、帝国薬学校のゾエ、ジョセフィーヌ、エメリッヒらも招いている。
エメリッヒは明らかにメレネーらが帝国とは異なる人種だとみるや、興味津々でDNAをとりたがった。
「もう俺我慢できません」
「いったん落ち着こう」
会話もそこそこに試験管を出そうとしていた彼の手首を、ファルマがよいタイミングでがしっとおさえる。
「歓迎パーティーで客人のルーツ解析をしようとするのはやめて」
「いやでも、彼らと俺たちと共通の祖先なのかどうか気になりませんか。しかも、呪力ってどんな遺伝子制御で動いてるんでしょうか」
「気にはなるけれども」
「もしかしたら、神脈に対する呪脈のようなものが、俺たちの体に眠っているかもしれないんですよ。今日を逃せばいつ会えるっていうんですか。そう思うといてもたってもいられなくて。ちょっとだけ口の中こすらせてほしくて。同意説明していいですか?」
キリッとした顔でファルマに伺いを立てるエメリッヒは好奇心の塊だ。
口腔上皮細胞のスワブ用の綿棒を取り出そうとしていたので即没収した。
「早い、早いよ! やるとしても今じゃないし、得られた情報はすべて相手に提供するんだよ。あと、未成年の検査はだめだ」
ファルマがエメリッヒに提供していた遺伝子提供の同意文書は厳密なもので、被験者が完全に理解したうえで、同意して採取されなければならない。
「遺伝子検査のガイドライン的にはそうでしたよね」
「藪から棒はだめでしょ。君は初対面の相手にいきなり告白してしまうタイプなの?」
「え? はい。失敗したことありませんし」
ファルマは前につんのめりそうになった。
「そうなんだ」
ファルマがちらりとロッテやエレン、ジョセフィーヌらをみると、コミュ強の彼女らは凄まじい打ち解け方である。
メレネーらはエレンにすすめられて初めてワインを嗜み、ほろよい気分になってきた。
「ちょ、ちょっと! メレネーはお酒、飲んだことあるの?」
ファルマが急性アルコール中毒の対応をしなければならないかと気を回していると、
「果実酒を作って飲んでいたぞ。適当にまぜたら何かできた」
「たしかにそれでできるけれども! 初めてじゃないの? ならいいか。よくないけど……」
未成年は飲酒すべきでない。というのはファルマの持論であり、未成年の自身もそれを守っている。
「このワインというものは不純物がなくて面白い味がする」
メレネーはお気に入りだ。
「買って帰ったら」
「そうする」
宴もたけなわで、本日の目玉の宮廷楽団の演奏が始まった。
よりすぐりの熟練者の宮廷楽団の、メディシス家への私的派遣は、聖帝の心遣いだ。
帝国語を解する霊を脳裏に住まわせるメレネー以外の随行者は帝国民と会話ができないながら、音楽には国境がないらしく、ボディランゲージで薬局職員らと踊り始めた者もいた。
打楽器が得意な者がオーケストラのティンパニやスネアを借りて、メレネーはアカペラで手足を打ち鳴らし、マイラカ族らの打楽器のパーカッションがはじまる。
彼らに触発された宮廷楽団も、負けじと即興セッションをたちあげる。
数分後には民族音楽のセッションが成立するのは、さすがに貴族たちの我儘にアドリブで即応してきた宮廷楽団といったところだ。
「今の、新しくていい感じじゃなかったですか? 新時代、きてますよ!」
「ほんと! 聴いたこともない音楽!」
エレンやロッテらは頬を紅潮させて感動している。
ファルマの反応はというと、ビルボードでなじみのあるフュージョンミュージックかなあという感じで新しくは聞こえないが、興奮さめやらぬコンサートマスターにとっては革命的なセッションだったようだ。
「こうしちゃいられない、譜おこししてきます!」
コンサートマスターはペンと紙を持って、走ってどこかにいってしまった。
異文化交流、大いに結構だと思う。
その後、テーブルゲームやボウリングなどを楽しむ。
メレネーたちはもてなしの礼にと、ド・メディシス家の絵画に霊を通じて干渉し、絵を動かしたり額縁から出してみせた。
(これは屏風から虎も出せそうだし、4DXの映画館ができそうな勢いだな)
久々に見た4DXアニメーションに、これにはファルマも喝采を送る。
「この、絵を動かすのってものすごく需要があるんじゃない?」
エレンが恐ろしいものを見たといった具合にコメントする。
「も、もう一回やってくださぁい」
宮廷画家のロッテはコラボしたい気持ちが昂ぶっていた。
「たとえば故人や恋人のポートレートが、生きているかのように動きだしたら……ほしい人は沢山いるだろうな」
と、ファルマは実用化への想像を巡らせる。
「もしかして、恋人同士のちょっぴりエッチな絵なんかも……動くんですか?」
何かのスイッチの入ったレベッカの妄想が止まらない。
なにやら帝国民が盛り上がっているのに気付いたメレネーが、ぴしゃりと言った。
「呪力を持った術者がいないと絵はうごかんぞ」
「ですよねー」
ここまでの構想があれば、きっと映画館ができるのもすぐだろうな、とファルマは予想する。
メディシス家のバルコニーに、酔い覚ましに出てきたメレネーをファルマが介抱する。
「やっぱり、とめればよかったよ」
「気持ちはいいのだが、どうしてよいかわからん」
メレネーはファルマにしなだれかかると、前後不覚になったかしっとりと腕を回してきた。
(これは、誰かにみられたら終わるやつだぞ)
酔っ払いにはつきあいきれない。
スキャンダルもごめんだ、そう思ったファルマはメレネーに右手をかざす。
メレネーは目を閉じるとファルマに唇を寄せてきて危うい雰囲気になってきたので、
「誰とまちがえてるの。抜くよ」
ファルマは物質消去でエタノールを抜いてメレネーの酔いを醒ます。
「な、なにをしている! まさか私を手籠めにしようと!」
「ええっ! 処置しただけだって!」
理不尽ながら、正気に戻ったメレネーに叱られるほかなかった。
【謝辞】
本文中にロッテが過呼吸になった場面があり、ファルマが紙袋を渡して対応していましたが、血中酸素濃度が低下するおそれから、現在ではこの方法は推奨されていませんとのご指摘をいただきました。
薬剤師の冥咲梓先生、ご指摘ありがとうございました。この場面を削除することにより対応させていただきました。