8章2話 帝国外科医ギルドと狂犬病
サン・フルーヴ帝都のはずれに、由緒のある大きな平民屋敷がある。
幾重もの野バラの生垣に囲まれ、人を寄せ付けない深い森を抜けた先にあるそこは通称、アガタの薔薇屋敷と呼ばれていた。
門柱にあしらわれた大きな医神の彫刻が目印の、このバラ屋敷には別名がある。
サン・フルーヴ帝国外科医ギルド(別名帝国平民外科医師会)本部だ。
この組織は帝国の平民医師のためのギルドであり、床屋外科を前身とする。
専門範囲は外傷、体表面に存在する(深部ではない)潰瘍の切除、浣腸、創傷治療、瀉血、周産期管理など。
たまに、床屋を兼業で営んでいる医師もいる。
基本的に、平民以外を診ることはない。
外科医ギルドが辺鄙な場所にある一因は、その不遇の歴史に由来する。
この世界では長らく、医学の花形というと薬草学を用いた薬学だった。
床屋外科は血を扱うことで穢れを引き受ける職業とされ、貴族世界でも平民世界においても帝国薬師ギルドの一段下に置かれていた。
暴利をむさぼり私腹を肥やし、各地に豪邸を建てた薬師の集う薬師ギルドとは異なり、帝国の中心部に堂々とギルドを構えることができなかったのも、迫害の名残をにおわせる。
帝国における外科医の立場を引き上げたのは、先帝の腫瘍摘出手術に成功し侍医長の座に就任した、医神の加護を持つ外科医のクロード・ド・ショーリアックだと言われている。
彼は平民医院や施療院の保護を行い、皇帝への働きかけを通じて、床屋外科医たちに一定の予算を措置し続けている。
そして、クロードの師にあたる人物が、この薔薇屋敷の女主人、アガタ医師だった。
彼女は現在は平民であるが、もとは侍医を務めていたほどの人物であり、数々の手術手技を開発した。宮廷内でクロードに技量を追い越されたと知るや、神殿に乞い、自ら神力を封鎖して平民へ降下し、身を引いてこの地に隠居して数十年たつ。
彼女は医師として築いた財を投じ平民の床屋外科らを組織し、外科技術を伝え、外科医師ギルドを立ち上げた。
ただ、平民の組織であるため、帝国侍医団や、貴族の医師らを会員とする帝国医師会とは交流はない。
今年で八十歳になるアガタは、帝国各地から集った主要な平民医師ら二十名ほどを会議のテーブルに招き、彼女が庭で育てたローズヒップティーと、ハーブの練りこまれたクッキーをふるまい、それらを嗜みながら憂わし気に議題を読み上げる。
「最近、辺境を中心に帝国の医院での平民の死亡率が高くなっているようですね」
先月も、憂慮すべき事項として報告が上がっていた。だが、今月は顕著に悪化している。
「は、そのようです」
アガタは資料を読み込んでいる。
「帝国医師会は、貴族・平民医師ともに筆頭宮廷薬師ファルマ師の経営する異世界薬局の薬を術前、術後管理に採用しました。師の提言通りに手術部位、血管、血流に対する感染防御を行うこと、深刻な出血には輸血を行うことで、以来目覚ましい治療成績をあげてきました。医師会本部にファルマ師を招き、研修会を執り行ったこともありましたね。うまくいっていた、そのはずでした……」
思い切った改革として、帝国医師会はそれまで多大な需要のあった瀉血の施療をとりやめた。
何かあれば瀉血。よくわからなくても瀉血と、安易に用いられ、患者も瀉血を希望してきたのだが、ファルマの報告書によれば意味のないどころか有害な治療法であったとして、アガタの旗振りにより、真正多血症の場合を除き、帝国中の医師たちに一切禁止したのだ。このため、瀉血患者におんぶにだっこだった各医院の収入は激減している。減収にくわえて、この難局。アガタのため息は深くなる。
「アガタ先生……」
「どこで道を間違えたのかしら」
アガタはファルマの方針に従ったのは間違っていたのだろうか、と振り返っていた。
所詮、貴族の開発した治療法では平民を救うことはできないのだろうか、とも。
「ファルマ師のもたらした知識は確固たる理論に基づいた革新的なものでした。私は目を悪くして、もう十年も前にメスを置きました。ですが一人の外科医として、神術に頼らない外科技術確立のための最短の道を、外科技術の躍進を信じていました。しかし、その希望が崩れ去ろうとしています」
アガタは眼鏡をはずして、深いため息をつく。
「私があと二十年も若ければ、寝食を忘れ徹底的に原因を調べ尽くしてやれたでしょうに」
この世界では、外科医は視力、集中力、長時間の手術への負担が大きいため、体力がもたなくなれば引退し後進に道を譲りマネジメントに精を出すというキャリアが一般的だ。ごくまれに、床屋に戻る者もいる。ずっとはできない仕事だからこそ、後輩へは道標を示したい、アガタは強くそう願っていた。
「まってください」
帝都の中心部に医院を構えるドナルド医院の老医師が、深い皺の刻まれた手を挙げる。
「私の医院では、手術成績に変化はありません。むしろ向上の一途をたどっています」
暗雲の立ち込めていた議論に光明が差してくる。
「あら。そうなの?」
「本当です」
「ドナルド先生の医院は、異世界薬局から最も近い医院ですね。ファルマ師が手伝いにきてくださるのですか? 最近、繁盛していると聞いています。異世界薬局の恩恵があるのですか?」
帝都在住の別の医師がドナルドにかねてよりのやっかみをぶつける。
「はい、輸血が必要なときには異世界薬局の薬師が直接きてくださいます」
ドナルドは思いがけない糾弾に面食らったか、うつむいてしまった。
「異世界薬局には貴族の薬師がいますし、貴族は神術を使いますからねえ……応援にきてくれれば……浄化神術でもかけてもらっているので?」
「い、いえ。そのような」
「ははあ、なるほど」
「しかしドナルド先生は羨ましいなあ、うちも異世界薬局の近くに引っ越しをしましょうかねえ」
ドナルドの隣の医師がドナルドの医院の立地の優位性を述べる。
ほかの医師も羨望のまなざしを向ける。治療成績は医院の繁盛に直結するのだ。
「貴族の医師も薬師も鼻で笑って、平民医師の応援になんてきませんからね。門前払いがいいところです、対応してくれるのは異世界薬局だけですよ」
思わぬところから流れ弾を食らったアガタは、貴族とも平民ともどちらともつかない立場に居心地悪そうに咳払いをする。
「そうですね、貴族の医師も薬師も浄化神術も使いながら治療をしますからね。ですが、そういうことではないのでしょう? ドナルド先生」
「はい。ファルマ師は手を出しません。浄化神術もかけていただいたことはないです。辺境の医院で成績が悪いのでしたら、症例をもっとよく検証するべきかと」
批判そらしともとれる発言だが、ドナルドは俯瞰的な検証を求めた。
「そうですね。集計によると、動物による噛傷の治療の成績が著しく低下しています。手術例を見ても、どれも深刻な咬傷ではありません」
「死因は?」
「発熱や錯乱、最終的には昏睡からの死亡です」
「何かに感染したのでは」
感染、という概念はこの数年で世界中の医師と薬師の間に急速に広まった。
今や悪疫と呼んでいたものの一部は、感染症によるものであったということが、顕微鏡の発見によって明らかにされた。感染症の概念を学ぶことによって、かつて死病として恐れられていた症候群、黒死病や白死病などは治療見込みのある感染症となった。
外科医の天敵、傷の腐敗を防ぐこともできるようになった。
感染制御を学ぶことによって、今や帝都の出産は世界一安全だ。
何もかもが変わったのだ。ファルマが世に広めた。
彼を信奉するものは多く、帝都は彼の手によって何度も救われていた。
「私もそう思いましてね。かつての教え子のつてを使って帝国医薬大の臨床検査部に検体を送りました。あそこにはファルマ師が教育した精鋭の技師団がいます。でも、何も出ませんでした」
医薬大の検査結果は世界最先端の科学技術に基づいて検査が行われている。感染症ではないと否定されてしまってはどうしようもない。それ以上、疑義を出せる判断材料もない。
感染症は、外科医の専門外だ。
「悪霊憑きの動物に噛まれたからではないのですか?」
ドナルド医師は可能性の限りを並べてみた。アガタは大きくため息をついた。
「それでしたらもっとも厄介で、打つ手がありません。悪霊憑きは貴族の外科医に診てもらうか、神官を呼ぶしかなくなります」
平民は悪霊をはらうことができない。
そして、平民を診てくれる貴族の外科医もいないのだ。ドナルドは納得がいかないという様子だ。
「症例報告を持ち帰っても?」
「かまいませんよ、手分けして原因の究明にあたりましょう」
医師ギルドは大きな課題を抱えることになった。
ドナルド医師は帝都に戻るなり、一直線に異世界薬局を目指した。
(なんとでも言うがいい、軽蔑するがいいさ! 私は叡智を仰ぐ)
あてになるのは遠くの同業者より、近所の薬店だ。
なんでも相談をしてほしい、と口癖のように言っていたファルマの言葉を鵜呑みにして、ドナルドは相談をしてみることにした。
(社交辞令だろうがかまうものか、きっと彼は答えにたどり着く)
閉店に間に合ったので思い切って異世界薬局に突撃してみると、そこにファルマの姿はなかった。エレオノールという薬師が対応した。
「あら。ドナルド先生。あいにく、店主は今いませんけど何か」
「では明日また出直してきます」
エレオノールでは手に余る案件だろう、とドナルドは彼女を値踏みする。
「店主でないとできないお話ですか」
エレオノールが落胆したように見えたので、ドナルドは慌てて否定する。
「いえ……詳しい方でしたらどなたでも」
「では私が伺いますよ。せめて、解決しなくても用件だけでも」
エレオノールは人懐っこくほほ笑み、店舗を閉めてしまった。
じっくりと話を聞くつもりがあるのだろう。
「僕も聞きたいです!」
さわやかな印象の、大柄な青年が寄ってきた。ロジェと名札に書いてある。
「私もうかがっても?」
集まってきた薬師の名札にはセルスト、レベッカと書いてある。仕事を終えた四人の貴族の薬師がドナルドを囲んでくるので、ドナルドは圧倒されてしまう。
(貴族に囲まれるとは贅沢な気分じゃのう!)
ドナルドはそれでも若干面映ゆくなりながら、手早く床屋外科医たちが直面している問題を資料とともに打ち明けた。
資料を閲覧していたエレオノールが、確信したように頷いて分厚い教科書をとりにいく。
バッサと教科書を開いて、ドナルドに示す。
「私は狂犬病を疑いますわ」
「です」
「はい」
「私も」
エレオノールの後に、三人の薬師が頷く。話を聞いた全員がそう口を揃えた。
ドナルドはリアクションできずにいた。
(えっ、何でそんな一瞬でわかるんじゃ。この薬師らはみな、筆頭宮廷薬師のファルマ師に匹敵する知識量があるんか!)
ドナルドは示された項目の概要欄を読んでみる。感染症だとある。
「え、でも感染症ではないと帝国医薬大の臨床検査部のお墨付きで」
ドナルドはアガタから借りてきた検査結果の写しを示す。エレオノールは検査項目を確認して、首を横に振った。
「この項目では無理です。狂犬病ウイルスは帝国医薬大では検出できないんですよ。あ、ほら。やっぱりそうです」
エレオノールは念のため、帝国医薬大の臨床検査部の内部資料を確認しているようだった。
「それに、どんな検体を出しましたか? 患者が生きているうちですか? 唾液、髄液、角膜塗抹標本、頸部皮膚……」
新品の一級薬師のバッジをつけたレベッカが後を続ける。
「いや……アルコールで固定した組織片じゃ」
「それでは固定も悪いし難しいですね、ギリ、蛍光抗体法ができるかどうか」
さらにレベッカの後を受けて、エレオノールが困ったような顔をする。
「狂犬病とは人畜共通感染症のひとつで、狂犬病ウイルスによって引き起こされるものです。ウイルスを保有する特定の動物に噛まれたり、ひっかかれたりすると傷口からウイルスに感染し、噛まれた部位より神経系を通ってウイルスがゆっくりと脳を目指し、数か月の潜伏期間の後、風邪のような症状に始まり、最終的には昏睡、呼吸の停止によって死亡します。一度発症すれば、必ず死亡に至ります。まだ治療法が打ち立てられていない、恐ろしい感染症ですわ……」
ドナルドはエレオノールの説明に鼻水がたれそうになった。
「はぁ……ゴホッ、ガハッ」
彼らとは知識量のレベルが違う、とドナルドは実感し、口を開けすぎたので痰が喉に絡んだ。
「あら失礼、お飲み物も出さず」
エレオノールがよく冷えたアイスティーを出してくれる。
それで喉を潤しながら、ドナルドは言われた内容を反芻する。
最近では認知機能の衰え始めた脳には、理解するのもきつい内容だ。
「ういるす?」というところから聞かなければならない。
「完全に治療法がないんですっけ。たしかそう書いてあったと思いますけど」
ロジェという名札をつけた薬師がエレオノールから奪った教科書をペラペラとめくっている。
「完全にないのよ。有史以来、世界一致死率の高い病気といわれているそうよ。だからファルマ君がワクチンを開発しようと奮闘していたの」
「砂糖と一緒にてんさいの葉の中で作らせてしまおっかな! とおっしゃっていたやつですか?」
エレオノールの言葉を受け、セルストが思い出したように手をぽんとうつ。
「いえ、狂犬病ワクチンに関しては野犬からウイルスを採取して培養細胞を使って増殖させ、それを分離して不活化ワクチンの試作品を作っていたわ。ファルマ君はできないからエメリッヒ君とジョセフィーヌちゃんが」
「用意周到ですね、さすがは店主様です」
レベッカが感心したように頷く。
「そういえば店主さんってなんで細菌やウイルス培養できないんですか?」
ロジェが不思議そうに尋ねると、エレオノールも歯切れが悪い。
「さあ……神力の影響かしら。ファルマ君が微生物を飼うと殆ど死滅するんだって」
「チーズ工場とかこないでほしいですね」
「ワイン工場も酵母菌が死ぬです」
「パン屋立ち入り禁止ですね」
はた迷惑な能力に、三人の薬師らは率直なコメントを出していた。
「いや、そんな体質があるなら外科医にとっては守護神のようなものですじゃ。手術の際に傍にいてほしいぐらいですじゃ。ファルマ師は外科医になるべきお人ですじゃ」
「たしかにそうですわね」
エレオノールはドナルドを置き去りにしていたことに気付いたらしく、愛想笑いをした。
「ファルマ師の名前からして、そういう星のもとに生まれているような気がしますのじゃ」
「名前については、お師匠様の思いつきだからあまり言わないであげてください」
ブリュノ・ド・メディシスのネーミングセンスについては触れてはいけないようだった。
「ええと、すみません脱線しました。異世界薬局には外傷の患者さんがあまりこないので、狂犬病が流行していることに気付きませんでした。それは一大事ですので、さっそくワクチンを外科医院に提供し、動物に噛まれた後に曝露後ワクチン接種をしましょう」
「え、ええんですか! というか、ワクチンって?」
エレオノールは嫌な顔ひとつせず、ワクチンについてイラストをまじえてドナルドに説明をはじめる。
「感染症にかかると、体内ではその病原体を攻撃し排除する免疫がつくられます。この免疫のしくみを利用して、あらかじめ細菌やウイルスに対する病原体に抵抗するための免疫を作り出し、実際に病原体が体内に侵入したときに発症や重症化を防ぎます。ワクチンには主に三種類あり、生きたウイルスや細菌の病原性をおさえた生ワクチン、病原体の感染能力を失わせた不活化ワクチン、病原体の毒性をなくしたトキソイドにわけられます。店主が造っていたのは不活化ワクチンで、実際に動物細胞に感染させて増殖させ、それを不活化。ウイルスのパーツをバラバラにすることによって得られます」
「ということは、病原性のないウイルスということになるんか」
ドナルドは混乱しながらも要点をまとめる。
「そうなります。完全な弱毒化ウイルスの生ワクチンと比較して、不活化ワクチンは残骸なので、私たちの体にある免疫細胞に、これは攻撃対象だと学習させるために何回か接種する必要がありますが。そういうことなので、狂犬病ワクチンは安全ですよ」
「血液中にそんな異物を取り込んで問題ないんか?」
「もともと、血液中には数えきれないほどの、活動中の細菌やウイルスが侵入してきていますよ。私たちの免疫細胞はそれと日夜戦っているのです」
レベッカが諭すような口調で補足した。
「異世界薬局マーセイル工場にワクチン精製指示の電報を打ちましょうか。店主様にも報告しておきますね! 弟にも指示を送りますわ」
「おねがいね。助かるわ」
セルストがすぐに打電の準備をする。
あわただしくなった薬局で、取り残された医師が一人。
「どういうことですかのう」
「店主が現在手掛けている新薬の準備は、数百種類にものぼっていますが、もちろん一人では手におえないので、各地の生産拠点、研究拠点に技術を分散して預けてあるんです。細胞培養の実験手法もマーセイルの工場で軌道に乗せているので、電信を使って同じ品質で大量生産を依頼することができるんですよ」
エレオノールはカレンダーを見て、余裕をもって納期の日数を計算する。
「納期はまた連絡しますが、一か月もあれば可能だと思いますわ。どのくらいのロット数が必要ですの?」
「そ、そんなにすぐ……薬剤の代金の見積もりをいただいても。それから必要数を考えます。消費期限も教えていただいていいですかのう」
ドナルドは震える声で返事をする。えらいことになった! と全身に鳥肌がたつ。
「ええ、ではすぐに。セドリックさん、マーセイルに確認がとれたら、見積もりをお願いします」
「かしこまりました」
あまりにも薬価が高すぎると、患者が薬剤代金を支払えないかもしれない。場合によっては、金銭的な事情で治療を諦めるかもしれないとなれば、医師が治療費を建て替えるしかない。
すわ、破産しそうだぞ! しかし依頼した手前、払えないというのも言い出せない。
どうしたものかとドナルドの脳裏に金策がよぎる。
「あのう、その新薬は特注ということで、きっと目が飛び出るほど高いですよのう?」
「ええ、もちろん特注品ですので、それなりに費用はいただきます」
「うう……」
ドナルドの顔に脂汗が滴り始めたのに気づいたのか、エレオノールが何かに気付いたように、カウンターの奥に控えていた事務の男性に耳打ちをしていた。すると、セドリックという名札をつけた男が、書類一式を整えてドナルドに手渡す。
「帝国医薬品普及補助金の申請用紙はこれですので、これを所定の場所に持っていけば、高額な薬剤の代金を九割還付される補助金をもらえますよ」
「そんな制度が!」
「先月からできましたよ」
ドナルドは地獄から救われたように思った。
「それでは、今日は店をしめますわ。またいらしてくださいね!」
夢でも見ているような気分でドナルドは異世界薬局をあとにした。
「さすがは、聖域の薬局。ここに来て、何とかならないことがない」
こんなに都合のいい薬局が現世に存在してもいいんだろうか、とドナルドは信じられない思いだ。
◆
「え、原因がわかったうえに解決できそう、ですって?」
バラ屋敷の主人、アガタは早朝、馬車を飛ばして訪ねてきたドナルドの報告に驚いて階段をつまずきそうになっていた。この歳で骨折でもしたら、とドナルドは気が気ではない。
「まだ一日も経ってないのにですか?」
「はい、異世界薬局の薬師に相談しましたら、即解決の運びでして。狂犬病が疑われるとのことです」
ドナルドは脱いだ帽子を両手で持ってハンドルのようにゆっくりと回している。
あそこで何が起こったのか、まだよくわかっていないのだ。
「ファルマ師に相談をしたのですか」
「いえ、彼は不在で。対応してくださったのはほかの薬師でした。四人の貴族の若い薬師が全員で話をきいてくれまして……なんというか、平民にも厚待遇で恐れ多いというか」
「身分は関係ありません。同じ医業を営む者です、卑屈になるのはおやめなさい」
それは常々アガタが外科医たちに言ってきたことだが、平民出身の医師、特に高齢の者には意識改革は難しいことだった。
「人畜共通の感染症ですので、犬の捕獲とワクチンの接種を推奨するということでした。詳しくは、このワクチンの説明書に書いてあります」
「新薬の受け渡し日はいつ?」
昨日の今日持ってきたにしては、情報量が多すぎる。
資料は印刷物だったので、アガタは二度驚く。
「一か月後に、異世界薬局に取りに行くことになっています」
「それまでに……追いつくわよ」
アガタは髪を振り乱して宣じた。
「たしか……ワクチンの製造方法は技術局に登録されているのよね」
「はい」
アガタは外套を羽織り、帽子をかぶる。半年ぶりのお出かけだ。
「私はこれから技術局に行きます。洗いざらい開示して、ワクチンの受け渡し日までには完璧に準備を整え、狂犬病に対する治療の最初の症例報告を出しますよ!」
「お供しましょう」
ドナルドが仰々しく礼をする。
アガタはワクチンの製造技術とともに、聴診器に注射筒、手術器具、老眼鏡の設計図まで開示して帰ってきた。
そして数日後、アガタが外科医として現役復帰するとの知らせがギルドを駆け巡った。
「へえ、アガタ先輩、あの御年でさすがだ。これは私も負けていられないな」
アガタの完全復活を耳に挟んだクロードがそんなことを言ったとか。
【謝辞】
本項の平民外科のとり扱う診療範囲について北極28号様にご指摘いただきましたので修正しました。
ご指摘ありがとうございました。




