8章1話 闇日食への備え
ファルマら一行は、十時間近くもの空の旅の果てに無事に帝都に戻ってきた。
ファルマ自身の疲労や船員らの休憩のため、到着時間は予想より大幅に過ぎた。
その間、聖帝が借り上げていた宿屋では、聖帝が消えただの、誘拐されただのといって上へ下への大捜索が始まっていたが、最終的に聖帝は宮殿にひょっこり帰還していたので大事には至らなかった。
「聖下、もしかしてお忍びで街に繰り出しておられたのでは?」
クロードが疑いのまなざしを向けるが、まさか彼女が新大陸までの道のりを往復していたとは夢にも思わなかったようだ。
「おひとりの行動は、謹んでいただかないと。私ども廷臣は引責で全員首を吊らなければなりません」
国務卿が縛り首のポーズをして舌を出す。
何を大げさな、と聖帝は失笑した。
「余もたまには一人になりたいこともある。いらぬ詮索はせぬように」
「そうはいいましても」
「聖下は帝国の国体にあらせられます。勝手な行動をなさってはいけません。警護もつけずに……」
「警護もつけずに危険と?」
世界最強の神術使いの座を守る聖帝エリザベスをして、危険に遭おうとするほうが難しい。
「正面からの襲撃はかなわぬとあらば、卑怯な方法で陛下を襲ってくる連中もおりましょう。例えば毒物など使って!」
「その場合は侍医団や宮廷薬師を呼べばよい」
特にファルマを呼ぶと、医薬に関する問題はだいたい何とかなってしまう。
聖帝にはそんな認識だ。
「と、とにかく! 平たく申しますと我々が心配いたしますので!」
「まったくですぞ。今日という今日は重要書類にサインをしていただかないと」
傍付きの神官たちもあれこれとうるさい。
聖帝。大神官と皇帝を兼ねる世俗と聖職、双方の皇たらんとすることは、彼女には窮屈で仕方がなかった。
(やはり早々にパッレをサン・フルーヴの皇帝に据えねばならん。任務は大神官のみとして、仕事を減らしたい。パッレにはたんまりと仕事をふってやる)
聖帝はひそかに計画を立てるが、パッレを次期皇帝に擁立するにしても、色々と人事が難しい。
(その場合は、ブリュノやファルマがパッレの主治薬師となるのか? いや、パッレならば宮廷薬師、侍医団そのものを廃止しかねない)
皇帝と薬師団という形式は崩れ、単なるド・メディシスファミリーになってしまう。
それよりなにより、聖帝の計画には大きな障害があった。
これまでの慣習を考えると、パッレと命を賭けた神術戦闘で戦って、完膚なきまでに負けなければ譲位はなしえないのだ。それが彼女の望みとはいえ、衆人環視の中、わざと負けてやるのも悔しい。
無様な姿をさらしたくはない、という気持ちは彼女は人一倍強い。
(まあしかし、ストレートで負けそうな気もするな。それはそれで楽しみだ)
大規模演習で見せたパッレの卓越した神技と、新大陸で見せた異次元の思考の柔軟性。
正直、神力量で押す以外に勝てる手段が見当たらない。あれこれ思案していると、
「母上、今日という今日はお話があります」
仁王立ちになった息子のルイが、いかにも憤慨しているという顔つきで現れた。
その表情を見た母は、怒られの覚悟をきめる。
聖帝は有無をいわさず別室へ連れていかれ。息子からの苦情に延々三時間付き合ったのち、ようやく解放されていた。
「叱られましたか」
聖帝の消えたドアの前で三時間も出待ちしていたノアが、感想を伺う。
廷臣らは誰も、ノアが待機していることには気づいていなかった。
彼の隠形の能力のなせるわざである。
「やれやれ。喉がカラカラだ。飲み物を持ってきてくれ。あの子も口が立つようになって容赦がない」
「お疲れ様でございました。すぐにお持ちします。殿下をお部屋にお連れしましょうか」
「ルイは言いたいことを言って寝た。ここにいるのだそうだ」
「さようでございますか。帝国語にも堪能になられて、喜ばしいことでございますね」
「そうとも言うか。そのほうの言う通りだな」
聖帝は懲り懲りだというように頷いた。
「そなたも、吸虫症に感染したときく。しばらく休暇をとって、ゆっくり体調を整えてまいれ。いつも言っておることだが、余の身辺の警護は必要ない」
「お暇を頂いている間に、私のことをお忘れになりませんか? ただでさえ、影が薄いので」
「余をみくびるでない」
「ありがとうございます、聖下。お飲み物をお持ちして、今日は失礼します」
ノアは恭しく礼をし、足早に廊下を歩み去った。
「なるほど、余が退位すれば困るものもそこに一人はいるか」
皇帝の後ろ盾がなければ、存在自体が隠形状態のノアは忘れ去られてしまう。
まこと、政はしがらみだと聖帝は肩をすくめた。
◆
ファルマがド・メディシス家に戻れば、ロッテとブランシュは帰還にほっとしたようだ。
「よくぞご無事で!」
「ただいま。ごめんね、勝手に抜け出して」
今日は説教も覚悟しなければならないな、とファルマはひやひやだ。
帰宅したファルマは、屋敷に入るなり、いたるところに貼られた神術陣に気付く。
「多いな! 屋敷に神術陣を張り巡らせたのはロッテ?」
筆跡が全部同じなので、それと聞かなくてもわかっている。
やりすぎと思わなくもないが、ロッテはそれだけ必死だったようだ。
「はい、百枚書きました!」
「手書きで!」
「はい」
謄写版を使うわけにもいかないのだろうしな、とファルマはつっこまない。
「悪霊でも出たの?」
「出てはいけないから、です。ファルマ様と聖下のご不在とあっては、帝都に何が起こるかわかりません。前のようにならないために、お屋敷を守らなければと思いまして!」
ロッテは火焔神術陣の護符を書きすぎたのだろう。
腱鞘炎になったのか、手首に包帯を巻いていた。
「それは心配をかけてしまったね」
帝都には守護神殿の秘宝が戻ったといっても、ロッテは不安だったのだろう。
「でも、シャルロットのしたことは決して無駄ではありませんでした。屋敷の隅で、悪霊が火焔神術陣の護符にひっかかって浄化された形跡はありましたよ」
ファルマのカバンを受け取った、ファルマの専属使用人のシメオンがロッテを弁護する。
「えっ、本当ですか⁉ お役に立てて嬉しいです」
ファルマはロッテの苦労が報われてほっとする。
「ありがとうね、ロッテ。ロッテの神術陣は、大陸で探検隊の護身用に活用されたようだよ」
ファルマがそういってねぎらうと、ロッテはますます嬉しそうだった。
ロッテとやりとりをしていると、ブランシュからの視線に気づく。
そういえば、と振り返れば、ファルマはブランシュを置き去りにして新大陸に向かったのだ。
今更のようにそれを思い出したブランシュは、
「小さい兄上。私を置いて行ってひどいのー」
「ごめんな。でも、ブランシュにはやっぱり危険だったんだよ」
「もー! 子供扱いしてー!」
ブランシュが神杖でばしばしと叩いてくるが、ファルマは叩かれるに任せるしかなかった。
ブランシュがふと、パッレの姿が見えないのに気づく。
「いつもね、兄上がいつか帰ってこなかったらどうしようって思うんだよ」
ブランシュは本音をぶつける。
そしていつか、その懸念は現実のものとなる。
ファルマは切なくなって、ブランシュの頭を優しく撫でる。
ブランシュはひしっと抱きついてくる。その手に力がこもっている。
いつだって、残される者は立ち去る者より痛みを負う。
「大きい兄上は一緒に帰ってないの?」
「あれ、さっき馬車で一緒に帰ってきたのにどうしたんだろう」
てっきりパッレと二人で怒られていると思ったら、パッレがいない。
パッレはよほど疲れたのか、馬車の中で寝ていた。
揺さぶっても起きないので、今度こそ神力切れのようだった。
「これは、今日は起きないかもな」
神力を補充することもできるが、体力の回復も必要だろうと寝たいだけ寝かせていたら、翌日朝に起きてきた。
月日は流れ、一一四八年五月一日。
「五月一日になっちゃった」
ファルマは茫然としつつ、自室のカレンダーをめくる。
口に入れた歯ブラシを左右に動かしながら考え込む。
「この世界にもゴールデンウィークがあったらよかったのになぁ」
ファルマはこれでもかというほどたまっている仕事を消化するための大型連休がほしい。
それなのに、基本、貴族には大型連休というものがない。
日曜日が休み。
それから帝国の独立記念日。
聖下の誕生日。
ぱらぱらと入る守護神の祝日のみ。
薬局は土曜日と日曜日が定休日だが、それはファルマが無理やり休みにしているだけだ。
「闇日食は……八月のいつだっけ」
サロモンとジュリアナの教えてくれた闇日食の候補日は、きちんと特定できていないが、八月の下旬だったはずだ。
他の仕事に夢中になっていて、すっかり対策を後回しにしていた。
帝都に帰還してからも、ファルマも今まで以上に忙しかった。
探検隊のうちほとんど、住血吸虫症に侵された人々は帝国医薬大に収容され、入院措置がとられた。
ファルマはつきっきりで彼らの治療にあたっていたことになる。
ファルマは片山熱として知られる急性症状、すなわち住血吸虫に感染したことによって生じる発熱などの症状を呈する感染者に対し、糞便や尿中に虫卵を検出した場合はエレンが用意していたプラジカンテルを迅速に投与した。
プラジカンテルは二日間の服用で治療効果を発揮する短期決着型の薬剤で、副作用も軽度なものばかりで重篤なものはない。
ただ、プラジカンテルは成虫には効果があるが、幼虫には効果が不十分でもあった。
このためファルマは、診眼や帝国医薬大の検査技師の顕微鏡下で虫卵の有無を確認してもらいながら、投薬のタイミングに注意を払い、六週間後に再治療を計画している。
また、薬の飲み合わせにも気を付けなければならず、結核治療薬であるリファンピシンと併用すべきではない。
一部の抗けいれん薬、胃薬、抗真菌剤を使用中の患者がいないかを確認し、併用禁忌とならないよう薬歴を確認して神経をすり減らした。
症状の強い人には、追加でプレドニゾロンも数日投与を行った。
プラジカンテルの投薬のみならず、エメリッヒと協力して抗体を利用した住血吸虫の虫卵を破壊する措置をいくつか講じたおかげで、ようやく治療のめどがたち、重症化していた人々もおおむね回復してきた。
あとは帝国医薬大の医師や薬師らに患者を引き継ぎ、急変があったときには呼んでもらうようにしている。
すでに退院した人々も、再発に備えてフォローアップが必要だ。
そんなこんなで彼はいつものように多忙を極めていた。
カレンダーの前で動かなくなっているファルマに、シメオンがさっさとシャツを着せてタイを結んでくれる。
「リマインドが必要でしたら、私が記憶しておきます」
「ありがとう。でも、気軽なもんじゃないから、いいや」
「そうですか」
今日の予定は闇日食です! と言われても手遅れとしか言いようのない状態だ。
周到に対策をうっておきたい。
その日を境に世界が一変するかもしれないし、何ならファルマの命日になるかもしれないのだ。
「お食事のご用意ができております。スープを温めておきます」
「すぐ行くね」
ファルマは朝食の席で、あれやこれと考え事をしていたものだから、フィンガーボウルに神術水を張るのをしくじった。
それを見ていたブランシュがファルマの腕を引っ張る。
「あにうえ、おぎょうぎがわるいの!」
「ごめん。こぼれちゃった」
マナーは悪いが、ファルマはあたりを水浸しにしようが、全く問題に思っていない。
いつものように水を消そうとすると、シメオンが慌てている。
「ああっ、ファルマ様。今お拭きいたします」
同席していたパッレはシメオンがナプキンを持ってくる前に、ファルマの代わりにテーブルにこぼれた水にすっと指をあてがい、そつなく水滴を消してみせた。
「粗相はいかんぞ」
「すごい、兄上!」
水の負属性の能力を手に入れたパッレは、あたかも生来そうだったかのように使いこなしている。
「私も水を消すの、やるー!」
ブランシュもファルマたちに褒められたい一心で真似をしたがっているが、ブランシュには難しいようで、あまりに力を入れたものだから、ボウルに手を突っ込んで今度は全部ひっくり返してぶちまけていた。
「あにうえー、かわかして!」
ブランシュは納得がいかないといった顔で二人の兄に助けを求める。
「よしきた」
今度はファルマがシメオンから受け取ったタオルで頭をわしわしとふいてやった。
ファルマは一人、神聖国の統治を任されているサロモンを訪ねた。
サロモンは大神殿の中枢部で聖帝エリザベスの信任を受けて執務を行っており、現地の最高責任者だ。
ほかの神官からの評判によると、彼は何をやらせてもおそろしく有能で、実務者としててきぱきと任務にあたっているようだ。
内臓逆位を持つ彼が広い神聖国の中でどこにいるかは、ファルマには上空からすぐにわかる。サロモンの部屋を突き止めたファルマは、何事もなかったかのように執務室の前に立つ。
物理的にドアを叩くことのできないファルマは、物質界に干渉しうる新しい薬神杖を構えて勢いよくノックをしようとする。
「ようこそファルマ様」
サロモンはファルマがドアをノックする前に、内開きの執務室の扉を勢いよく開く。
ノックを空振りしたファルマは、サロモンの額を思いきり杖で打ってしまった。
「す、すみません……ドアが開くとは思わず」
「……いえ。ご来訪がわかりましたのでお出迎えをと」
サロモンが床に目を落とすので、ファルマは神聖国のすべてのフロアに仕掛けられた守護神トラップを思い出した。
「ああ、これですか……」
ファルマは念のため、サロモンに冷却用の氷塊を渡しておいた。それで額を冷やしながら、サロモンは何事もなかったかのように話を進める。たんこぶぐらいできるかもしれないな。とファルマは申し訳ない気持ちで一杯だ。
「それで、ご用向きは」
「闇日食の対策を打ちたいので、相談にきました」
「それは奇遇でございました。闇日食にむけては、もちろん神官全員が危機感をもって準備にあたっています」
闇日食とは大神官の背に刻まれた融解陣が溶け落ち、大神官が代替わりをする日だとして知られている。
聖帝エリザベスの背にはもう融解陣はないし、それは培養細胞上に隔離されている。とはいってもそれでうまくいくのか、絶対に彼女の安全が保障されているかというと不安になってくる。やれ安心だといって胡坐をかいているわけにはいかない。
「細胞の培養技官には常時平民を任用しており、闇日食の日を無事に経過すれば、他者への融解陣の憑依の可能性はないと考えます」
「ありがとうございます、適切な対応だと思います」
「ファルマ様とエリザベス聖下におかれましては、ぜひともご安心いただきたく」
サロモンは忠心をもって伝える。
「別の対策も講じていた方がいいでしょうか?」
「ほかに何か案が?」
融解陣は人を溶かし、鎹の歯車の潤滑油にするのならば、人体の融解、それを防ぐ薬があるとすれば、プロテアーゼ阻害剤や、カスパーゼ阻害剤かもしれない。
生体反応を超えて急速に進行する場合は手に負えないかもしれないが、これらの薬を準備しておく必要がある。
「憑依されると思しき人間全員、当日一日だけでも“爾今の神薬”を飲んで備えていたほうがいいかもしれません。それから、神聖国からはその日一日、全員退避していただきましょう」
それで十分だとは思えないが、最低限の対策も打たなかったとなれば後悔する。
「は、仰せのままに。前後三日間、神官全員を神聖国から遠ざけます」
「よろしくお願いします」
ファルマはサロモンに現地の指揮を任せることにした。
「しばらく見ていなかったので、鎹の歯車の様子を見に行ってもいいですか?」
「同行しましょう。決しておひとりではなりません」
サロモンは傍づきの神官に、一定時間が経って二人とも戻ってこなければ全員国外に脱出するようにと告げた。それは、ファルマとサロモンが二人とも鎹の歯車の犠牲になったことを意味する。
「付き添いに大人数は必要ありません」
「は、しかし危険では」
神官たちが心配するが、ファルマは首を横に振る。
「付き添ってもらうほうが危険です」
「はあ」
大人数がきても、何かあった場合に助けられないのだ。
サロモンに案内され、ファルマは床の鉄板を一枚隔てて再び地下にある鎹の歯車と対峙する。
床部の嵌入後にファルマが底うちした鎹の歯車の蓋は、ここを去ったその時と変わらない状態だった。
蓋を開けてみなければ中の様子はわからないが、ここを開いてはならない。
そんな直感がファルマに警鐘を鳴らしている。
「表向き、変化がないように見えます」
「ええ……融解陣に憑依されてしまうということもありえますから。このまま蓋をして誰も近づかないようにしています」
「それが最善だと思います」
ファルマはサロモンの判断に間違いはないと思う。
「よかった、お戻りになって」
ファルマとサロモンが地上に戻ると、ハラハラとしながら二人の帰りを待っていた神官らに出迎えられる。
「おかげで、戻ってきました」
ファルマは歓待をやり過ごしながら神聖国を歩くと、神官らがあとからついてくる。
神聖国に足を踏み入れた先ほどの瞬間を境に、ファルマの訪問はバレてしまうのだ。
いつまでたっても、内緒で訪問とはいかない。
「薬神様! ようこそお越しくださいました」
「道中お疲れでございましょう、沐浴などいかがですか」
「ああ、すみません。お構いなく」
あっという間に神官の人だかりに囲まれて動けなくなる。
顔見知りの神官がファルマに伺いをたてる。
「薬神様、今日の御昼食はお決まりですか?」
「軽食を持ってきています」
小腹がすいたとき用に、パンやドライフルーツなどを持ってきている。
神官らに用意してもらおうとは思っていなかったが、そうもいかないらしい。
「もしご迷惑でなければご昼食を用意しておきますので。ご用が終わりましたら、食堂へお越しください」
「ありがとうございます。ではありがたく伺います」
ファルマは神聖国内の案内板を眺める。
「図書館はどこかな」
小さな国だというのに、何度訪れてみても、神聖国内部の建物構造を把握できない。
複雑に建物が入り組んでいて、地下構造も凄まじい。
誰かの案内がなければ迷子になるが、あまり供を連れて歩きたくもないのだ。
ファルマはしばらく歩いて図書館を探し出し、リアラ・アベニウスを訪ねる。
「うわあっ、薬神様!」
リアラは禁書庫からでてきたところをファルマと鉢合わせして、持っていた本を全部落とした。
「すみません、突然現れたので」
リアラの本をひとつずつ拾ってあげながら、ファルマは彼女の体調を観察する。
「今日は何の御用でございますか! あ、ご依頼の調査内容なら既にまとめております!」
「早い調査結果をありがとうございます。あれから喘息は少しはよくなりましたか?」
「はい! 書庫の掃除をして、閲覧室もきれいにしました」
屋根裏がものすごいホコリだったんですよ、とリアラはおぞましそうに述べた。
「それで、きれいにすると、発作が出ることはなくなったんです。薬神様の出してくださったお薬もよく効きました」
目ヤニも出なくなって、禁書もよく読めますよ、と嬉しそうに語る。
「そろそろ薬が足りなくなるころかと思って、届けにきました」
「ええっ、私のことを覚えていてくださったのですね」
リアラは感激して何やら祈りを捧げはじめるが、ファルマは患者情報をノートに一元管理していて、誰の薬が切れるか、きちんと把握しているのだ。
ファルマは薬袋をリアラに渡して、依頼していた古い聖典の調査内容を受け取る。
「ありがとうございます。また調査をお願いしますね」
「よろこんで」
お互いにもちつもたれつの良い関係を築けているようだ。
◆
エルヴェティア王国はずれの寒村の平民の少女エマは、村の入口に現れたファルマに駆け寄った。
「宮廷薬師様!」
洗い場で野菜を洗っていたエマは、何もかも放り投げてファルマの元に駆け寄ってきた。
「エマさん。薬局に手紙をありがとうね」
「もしかして、手紙をよんでくださったのですね!」
「ちゃんと届いたから、顔が見たくなって」
先月、エマからは近況を記した手紙を受け取っていた。
その返事は直接、と思っていた。
「この私なんかのために、サン・フルーヴからですか?」
「神聖国に用があったから、そのついででもあるよ」
以前は高熱を出していたエマの母親も飛び出してきて、嬉しそうにしている。
「そのせつは、本当にお世話になりました」
ファルマが立ち寄ったのはついでだが、できるだけ足を延ばして、少しずつこれまでに出会った人々の元を訪れている。
もう、いつか最後がくるかもしれないから。
「血豆、あれからどうなった?」
エマはよい靴をはいている。ささやかな変化に、ファルマも嬉しくなる。
「はい、靴を替えたらできなくなりました!」
「それはなにより」
「神官様たちが神術陣を敷いてくださったおかげもあり、あれからぴたりと悪霊も出なくなりまして。村民一同、ほっとしたところです」
エマの母親が教えてくれる。
「こんど、近くの街道に薬局ができるみたいですよ。薬師様のおかげですか?」
エマははしゃいでいる。
聖帝の下命により、国外のギルドと提携して医薬品を供給する体制が整いつつある。
「ああ、あそこは異世界薬局の提携店なんだ。エルヴェティアの薬師ギルドと提携して、出店をすすめているよ。一般用医薬品が安価に買えるようになるはずだ」
エマが母親のために、血豆がつぶれるほど歩き求めた薬を、それほど遠くない場所で安価に買い求めることができたなら。
きっと人々の暮らしが変わるはずだ。
ファルマはそんな信念のもと、聖帝の強力なバックアップのもとに、提携薬局の国外出店、ノウハウの共有を急いでいる。
「わあ、嬉しいです。これで隣町まで買いに行かなくてもよくなります」
人々の健康を守るため、必要とする人に、薬が届くように。
そこで提供される医薬品は世界中のどこでも同じ品質であってほしい。
それを取り扱う薬師も、高度な知識を有する、頼れる専門家であってほしい。
今もファルマはこの世界に、そんな未来を思い抱いている。
次回更新は8月15日です。
◆謝辞:本頁の住血吸虫の治療法につきまして、医師の村尾命先生に監修いただきました。
どうもありがとうございました。




