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【完結済】異世界薬局(EP4)/【連載中】世界薬局(EP4.1)  作者: 高山 理図
Chapitre 7 新大陸の伝承  Légende du nouveau continent(1148年)
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7章13話 無の根

 暗闇をものともせず、その何者かは、ファルマめがけて全力疾走をかけてきた。

 ファルマが違和感に気づいたのは、その直後のことだった。


 診眼を通して世界を診たとき、視野は拡張現実のような世界に入る。

 こちらに向かってくる何者かは、一点の光として捕捉されているが、それは岩盤を貫通しながら“直進”してきていたのだ。

 診眼の光は、どこに宿っているかわからない。


(人。あるいはそれ以外か……?)


 相手の特性を判別するため、ファルマはその場にトラップを展開し待ち構えた。

 何者かが洞壁から飛び出した一瞬を狙い、その進路を塞ぐように鉄壁を生成する。


(これを貫通してくるようならば、結構厄介だな) 


 何者かは物音を聞き分けたのか岩盤内で急停止すると、ファルマの背後を取るようにして鉄壁をも貫通し、壁の中から姿を現した。

 ファルマは振り返らず前に跳び間合いをとり、そこでやっと振り向いてその正体を見極める。

 相手は特徴的な入れ墨を褐色の肌に施した、鋭い眼光を持つ黒髪の少女だった。

 その異様な雰囲気に、ファルマは息をのむ。


(女の子? 人間か? 俺と似た性質を持ってる……?)


 ファルマにそれ以上考える隙を与えないかのように、彼女は手に持った杖を握りしめて何かを叫ぶ。


「――、――!」


 彼女の呼びかけに呼応するかのように、ファルマの背後に描かれた壁画から物音がする。

 防壁とは反対側に描かれていた抽象画が次々に実体化され、彼に一斉に襲いかかった。


(なるほど……、実体で攻撃してくるか)


 壁画から生成される霊は、ひとたび実体化すると肉塊となって増殖を続けて空間を埋め尽くし、瞬く間に洞穴をふさぐまでの塊を形成した。


(悪性腫瘍みたいな殖え方をするな、分化度の低いのは腫瘍も霊も厄介そうだ)


 ファルマを観察しつつも少女の指は動き続けており、一気呵成に実体化した霊をけしかける。

 だが、有象無象の霊がしかけてくる攻撃はファルマには殆どダメージを与えないし、霊が実体化したとしても、それは人間や動物に襲われているのとさほど変わりない。

 ファルマは物理攻撃を受け付けないため、それらの攻撃も無効化される。

 物体には物体を、霊体には霊体をぶつけてこそ意味がある。


 ファルマは彼女のペースに飲まれそうになっていたが、次第に落ち着きを取り戻し、自らに教え込むように反芻する。


(実体化したとなれば……物理法則で対応できる。珪素を消去!)


 ファルマは頭を切り替えて右手を真横に一振りすると、壁から実体化した霊は構造の核となる珪素を抜かれて形状を保てず、少女の制御を逃れ瓦解した。

 彼女は、淡い光を纏いながら素手で神術を繰り出すファルマの両手をじっと観察していた。


(この子……俺の能力を分析しようとしているのか)


 そのうち、彼女の視線はファルマの肩にくぎづけになった。


(薬神紋に気付いたのか? 嫌な予感がするぞ)


 診眼と似た能力を持っているのかもしれない。

 そんな直感を得たファルマは、あまり彼女に思考時間を与えるべきでないと感じた。

 彼が次の一手を決めかねていたその時、彼女の姿が地面に溶けるように掻き消えた。


 次の瞬間、ファルマのすぐ背後の地面から現れた少女の杖がファルマの心臓のあたりをきれいに貫通していた。彼女の明確な殺意を感じたファルマは、彼女に対し一段と警戒を引き上げた。


(殺意があるか)


 ファルマは貫通した彼女の杖を掴むと、体から引き抜くようにして強奪する。

 ファルマでなければ致命傷になり勝負は決まっていたはずだ。

 しかし、そうはならなかった。

 少女の瞳に恐れの色が浮かんだかに見えた。


(こっちは物理攻撃が効かず、霊も蹴散らす人外だ。そんな相手には遭遇したことがないに違いないな、分析される前に離脱する)


 暗闇の中で薬神杖に神力を通じたファルマの体は、淡い発光を伴う。


「この杖はもらうからな」


 神術使いにとっての杖は、神術そのものにほかならない。

 少女が戦闘中にあっても握りしめていた杖は、神術使いのそれと同じく彼女の異質な力の増幅や発動を助けるものとみるべきだろう。

 杖を取り上げられた彼女はファルマへの攻撃をやめ、ふらりと体勢を崩し膝から頽れた。

 それと同時に、彼女の下にそれまでなかった彼女の濃い影が落ちた。


(俺と同じだ。杖を手にした時だけ半実体化していたのか……?)


 彼女は、ふらついたように見せかけ地面についた右手を即座に地面に張り付ける。

 なおも霊を召喚しようとしているようだ。


(まだやるか)


 ファルマはそれを見逃さず、一連の動作で物質創造と消去を同時にかけながら地上に鉄板を敷き、それ以上の召喚を妨げる。

 ファルマは放心し宙を漂う彼女の左手の中指をとると、彼女の肘のほうへゆっくりと曲げていった。たったそれだけではあるが、彼女はいとも簡単に無力化された。 

 些細な動作であったため、彼女が一番驚いているようでもあった。


「こんなに小さな動きで、力をかけなくても人を無力化することができるんだよ」


 ファルマは落ち着いた声のトーンで彼女に話しかけた。

 十分に痛みを伴っているはずなので、そこそこにしか力を加えていない。

 憎悪を向けさせることが目的ではないにしろ、和解できるとも思っていない。


「ちょっと落ち着かないかもしれないけど、話を聞いてほしい」


 しかし彼女は反抗心を失っておらず、なにやら罵倒らしき言葉をファルマに浴びせ続けた。


「手短にするよ。この子を知ってる?」


 ファルマは胸ポケットに挿した手帳を取りだし、中に挟んでいた写真を引っ張り出して鉄板の上に置く。

 出港の際に船員たちを撮った集合写真で、そこにはクララが映っている。


「見える? 俺はこの子を探していて、ここにいることを知っている」


 彼女はクララの写真に注意を向け、吟味するように少し顔を近づけた。


「面識があるって顔をしているね」


 ファルマは彼女の顔を覗き込み、断定する。彼女はファルマの視線を厭うように顔をそらす。


「この子を連れ戻すよ、彼女は非戦闘員で、攫われる理由も見当たらない。いいね?」


 ファルマが問いかけた直後、再び点火したトーチを携えた大勢の人間が、洞穴の通路を駆けてこちらに一気呵成に押し寄せてくる。

 彼らの目に飛び込んできたのは、彼女と同じくらいの背格好の少年が少女を制圧する姿であったはずだが、その方法が地味で控え目だったために、彼らはファルマが何をしているのか判断がつかないようだった。

 彼らは武器を構えながら、じっと様子をうかがっている。


「来るなよ。正直、誰とも戦いたくない。そこにいてくれ!」


 ファルマは物質創造で洞穴内部に氷壁を展開し、彼らとの間に隔壁を作った。

 診眼ごしにクララの居場所を見定めながら少女の拘束を解くと、少女はファルマを羽交い絞めにしようと掴みかかった。

 冷静な動作で、ファルマは彼女の腕をすりぬける。

 それと同時に彼女はバランスを崩し、その場に倒れ伏すと、その場からびくりとも動かなかった。

 ファルマはその場に全員を残し、濃霧に溶け込むように岩の中へとかき消えた。


 ファルマはクララの居場所を特定し、先ほどの少女がしたのと同様に洞穴の壁面を貫通しながら疾走する。


(いいね。最初からこうすればよかった、妙案だ)

 

 最短距離でクララのもとにたどり着くと、彼女が押し込められていたのは洞穴をくりぬいた鉄格子をはめ込んだ牢獄のような場所だった。

 ご丁寧に、入口には家具類などでバリケードが張り巡らされている。ファルマはクララのいる牢の奥から現れたが、牢の外の様子はここからではよく見えない。


(おあつらえむきだな。バリケードがあれば、見張りからの目隠しになる。あとは、物音さえさせなければ……)


 唐突に登場してクララに悲鳴を上げられると困ると考えたファルマは、壁の中からその姿を現すと同時に、背後から真っ先にクララの口を塞ぐ。

 クララは悲鳴と息を飲み込むと、軽くパニックになったのか、凄まじい勢いで指を噛んでくる。

 いくら噛もうが、ファルマには効果がなく、痛くもかゆくもない。

 その反撃の思い切りのよさに、ファルマは多少感心した。


(すごい噛むじゃん! これは完全に指を噛みちぎるぐらいの勢いだな、頼もしいよ)


 クララはなおも暴れるが、ファルマは押さえ込んで小声で告げる。


「クララさん、声を出さないで。こんなところから驚かせてごめんなさい、ファルマです」


 背後から現れた怪異がファルマだと気づいたらしいクララは、多少の混乱を見せる。


「えっ、本物ですか? 絵で作った偽物とかじゃ……」

「本物だよ。ええと、どうやったら信じてもらえるかな。あ、そうだ。船酔いの薬は効いた?」


 ファルマしか知りえない情報を聞いて、クララは半信半疑ながらも信じてくれたようだ。


「あの薬、よく効きましたよう……」


 じわりと涙をにじませつつ答えはしたものの、彼女的にはまだ違和感があるらしく首を傾げる。


「そう言われると、薬師様かも……? で、でもなあ……怪しいなあ……」


 クララは言葉に詰まる。


「そ、それに今、どこから来たのでしょうか。背後は岩で、前は格子とバリケードでふさがってるんですよ?」


 彼女は不審そうにもう一段階、斜めに首をかしげていた。


「ええと、そこの牢の隙間から入ったんだ」

「隙間、どこにあります? 私、通れませんでしたよ? 向かって正面から来たってことですか?」

「いや、ほら、細めの体形だから通ったよ」


 ファルマはいらぬことを言ってしまった。


「は? 私が太いみたいじゃないですか、私の方が細いですー」


 どう弁解してよいか困るファルマは、愛想笑いをしておいた。クララははっと我にかえる。


「本当に薬師様だとしたら、私の占いが当たってしまいましたね。この大陸で、あなたにもう一度お会いできるような気がしていました」

「まあ、的中だったね。君の予言の精度は凄まじいものがあるよ」


 ファルマはそう言いながら、複雑な表情を向ける。


「こんな遠くにまで来てくださって……胸がいっぱいです。皆さんは無事でしたか? 私だけここに連れてこられてて、ほかの人はどうなったか……」


 クララは彼らの安否を尋ねて緊張したのか、ぎゅっと目を閉じた。


「さっき救助したところだよ、みんな無事のはずだ」


 正確にはノアが見つかっていないが、とりあえずクララには心配をかけるのでまだ伝えない。

 クララは、ほっとしたように大きな息をついた。


「分かっていたはずなのにこうなってしまって、申し訳なさと感謝の気持ちでいっぱいです。最初から、もっと強く、取り返しがつかないことになる前に出航を止めるべきでした。色々と対策をしていただいたはずなのに、危機感が足りなくて」


 クララがしみじみと、感謝とともに複雑な心境を吐露する。


「危機感と先の見通しが足りなかったのは俺も同じだよ」


 ファルマは彼女の思いを受け止める。


「俺は、運命が定まっているとは思わない。どんな未来も、無数の選択肢の中から選びとっていくものだ。森羅万象の相互作用があって、今回はこの状況になった。ましてや君が謝ることなんて何もない」


 クララがうつむいてしまったので、ファルマはあたりを見渡す。


(ええと、このあたりは石灰洞でできているのかな。じゃあ、炭酸カルシウムを消去)


 ファルマは天井に向かって右手をかざすと、クララがうつむいている間に石灰洞の主な成分をいくつか消して大きな風穴を開けようとした。

 しかし、集中しようとしたところで、クララがファルマを引き留める。


「あの、薬師様。ここに来る前にメレネーという少女に会いましたか? 黒い長髪の、肩に入れ墨を入れた女の子なんですけど」

「会ったかもしれないけど、暗くて容姿まではよくわからなかったな。名前もわからないし」


 洞穴に踏み込んでくる前になら大勢の男女とまみえたが、一人一人の容姿にそこまで注意をしていなかった。


「じゃあ、その中でもめちゃくちゃ強い女の子です。ぶっちぎりです」

「さっき、気の強そうな女の子には会ったな。とりあえず、その話はあとにして先に逃げよう。足止めはしておいたけど、ここに戻ってこられたら大変だ」


 ファルマは少しの時間も惜しい。


「……それが、私は逃げられなくて」

「どうして?」


 救助を断られて、ファルマは肩透かしをくらった気になる。


「ええと、その子はとりわけ巧みに霊を操ることができて、霊の力を借りて絵を実物にして攻撃してきます。すみません、うまく説明できなくて……」


 クララは説明の語彙が追い付かないようで、あたふたしている。


「ああ! わかった。たった今、その子を撒いてきたところだよ」

「その子は無事ですか⁉」


 クララが必死の形相で迫ってくるので、ファルマは何かやらかしたかと冷や汗をかく。


「無事だと思うけど、どういう意味?」


 何故、彼女を心配するのだろう。ファルマは意図が呑み込めない。


「私、その子に強烈な呪いをかけられて。その子……ええと、メレネーって名前なんですけど、その子の身に何かあれば、たぶん私も連帯責任的なやつで死んじゃうんだと思います。なので、仮に自由の身となっても捕虜のままというか……逃げられないというか」


 クララはもじもじと指先をくっつけたり離したりしている。

 ドジを踏んだと恥じているのだろう。

 ファルマはクララの体に視線を走らせると、襟足のあたりに呪印のようなものがある。


(これ、ジュリアナさんがつけられていたやつに似てるな)


 ファルマは、かつて枢機神官であったジュリアナが大神殿からつけられていた聖呪紋を思い起こす。

 大神殿での文献閲覧の甲斐もあり、ファルマも神秘現象や呪いなどの知識の蓄積ができてきた。


「呪われたって、その首のやつ? そういうことなら、物騒だからすぐ対策をとっておこう。手をだして」


 ファルマは薬神杖を小脇に挟むと、空いた片手でクララの手に小瓶から水薬をたらした。

 先ほど創造したばかりの神薬“爾今の神薬”の残りだ。

 この神薬に当たれば何があっても一日間だけ不死化するので、クララに危害を及ぼすことができる人間はいなくなった。


「これで、その呪いはとりあえず保留にできたはず」

「今のは、解呪薬みたいなものですか?」


 クララは水薬をハンドジェルのようによく手に揉みこみながら尋ねる。


「そんな感じかな」

「よかったです。奴隷になれとか、叛けば死をとか言われてましたから……」

「ええ……そんなこと言ってたんだ……」


 言葉が分からないので、そんなキャラだとは気づかなかった。

 そこであれ、とファルマは引っかかりを覚えた。


「クララさんとメレネーって子は、言葉が通じるの? 実はあの子、帝国語が喋れるとか?」


 かくかくしかじかで、とクララは手短に、誘拐された後の経緯をファルマに伝えた。


「なるほど。メレネーはクララさんの予知能力に勘づいて、クララさんだけ捕まってしまったんだね。それで、メレネーという子とは霊を介して会話ができていたんだね?」

「そうなんです」


 思い出せば、彼女は地中から、あるいは洞壁から執拗に霊を呼び出そうとしていた。


(あれは攻撃のためではなくて、霊を通じての会話を試みようとしていたんだろうか?)


 その機会を反撃のしるしと見たファルマは、悉く、とにかく徹底的に潰してしまっていた。


(あー、悪いことをしたな……初手で異文化コミュニケーション失敗だ)


 ファルマは胸が痛む。


「薬師様。その解呪薬、私を除く探検隊の全員のぶんもあります? 皆さん、メレネーのいうピチカカ湖っていう湖に入ってしまったんですけど、そのことで死の呪いがかかったっていうんですよー!」 

「その話なら、さっき探検隊の人たちから聞いているよ」

「どうしましょう! 皆さんに生命の危険が迫っていますっ」


 クララは思い出したかのように慌て始めた。


「それなら、もう治療薬の投薬を開始しているから問題ないよ」

「薬師様は予言者ですか! そんな、呪われし湖の呪いに効く薬をピンポイントで持ってきてるもんなんですか! ちょっと神がかりすぎじゃないですか!」

「いや、俺の仕事じゃなくて、異様に旅の準備がいい子のお手柄というか……」


 ファルマはエレンの得意顔を思い出しながら告げる。


「よかった……一安心です」

「メレネーって子は、何の恨みがあって探検隊やクララさんたちをそんな目に遭わせるのかな。見知らぬ人々が上陸してきたのが気にくわないのかな? 何か言ってなかった?」


 彼らからすれば、探検隊は海から押しかけてきた、言語の通じない、目的も知れない侵略者に見えないこともないか、とファルマも襲撃には一定の理解を示してはいる。


「最初に上陸したとき、安全確保のために神官様や神術使いたちが、陸地のいたるところに浄化神術をかけてしまったんです」

「え? でも悪霊が消えたとして、何か問題ある? 彼らも安全に暮らせるじゃないか。そこをちゃんと説明できれば、和解もありえるんじゃ」


 むしろ善行ではないかと、とファルマは疑問だ。


「それが……私たちの大陸とは違って、ここには霊を大切にする文化があって、浄化神術でいなくなったのは一族が大切に祀っている先祖たちの霊だったみたいなんです、その大切なご先祖様たちの霊が姿を見せなくなってしまって、それでメレネーをはじめこの大陸の皆さんは怒りが収まらないみたいなんです」

「え――⁉」


 ファルマは頭を抱えそうになる。

 彼にも悪霊とその他の区別はつかないが、メレネー達からすれば、探検隊の存在は百害あって一利なしといったところなのだろう。


(それに、俺のせいでもあるのか……?)


 ファルマの周囲には聖域が発生しているため、大陸に下見に訪れたり、救助に駆け付けたりしたことでも、意図せず除霊に一役買ってしまっていただろう。


「ひとまず、ここを脱出しよう。これでは二人で投獄されてるのと変わらない。それから今後の方針を考えよう」


 ファルマは再び一帯の岩盤ごと炭酸カルシウムを消去して風穴を開けようと、右手をかざした。

 だが、いつもの別世界から薬神紋を通じて神力が流れ込んでくる感覚がない。

 ファルマははっとして右肩に触れた。


 ない。


 青白く輝き、脈動しながらファルマに薬神の恩恵を授けていた、薬神紋がないのだ。

 ファルマは全身が硬直しそうになる。

 反射的に左腕の薬神紋を探るが、こちらに異常はない。

 ファルマは背筋が凍るような思いで念じる。


(NaClを創造)


 ファルマの左手には、予期した通り白い粉末が現れる。

 それが塩化ナトリウムであってもなくとも、物質創造はまだ使えるという証拠だ。

 普段ならば物質消去を使って合成した物質の同定を可能にしていたのだが、これでは創造したものに間違いがないのか確認する術が途絶えてしまった。

 仕方なく、舐めてみることで先程創造したものの物性を部分的に確認すると、確かに塩分を感知する。


(合成したものを同定する方法は、古来より確立されてきた化学的分析手法を使えば、ほとんどは可能だ)


 だが、即座に、この場で、というと限度がある。実戦には使えない。


(診眼は?)


 次に診眼を発動すると、視覚が研ぎ澄まされてクララの体が透けて見える。

 診眼の発動の感覚や視野に特に変わった点はない。

右手の拡大視もまだ生きている。


(物質創造と診眼、拡大鏡には問題ない。つまり物質消去だけを奪われた!)


 奪われたのなら奪い返すまでだが、薬神紋を取り戻したとしても物質消去の能力は回復しないかもしれない。

それに、右上腕の薬神紋を盗られたのではなく消されたのであれば、薬神紋は永久に失われる。

 ファルマが気付いたのは、それだけではない。状況は悪化の一途をたどる。


(神力が激減してる……!)


 体に充填されていた神力が目減りしている感覚を自覚したファルマは、この世界に来て初めて自身の神力を満たす器の存在に気付かされた。

 その貯蔵量を神力計で数値化することはできないだろうが、確かに底はあり、ファルマは自身の神力が有限だったことを認識する。


(無限だと思っていた俺の神力は、薬神紋を二つ宿したことで初めて担保されていたんだな……)


 薬神紋は残り一つだが、神殿から収集していた情報によれば、歴代の守護神は聖紋を一つだけ持つのが“正常”な状態とされている。

 そう考えれば、薬神はもともと物質創造もしくは物質消去のみを擁する守護神だったと考えられる。

 本来の状態に戻っただけだとしても、やはり物質消去の喪失は痛い。


「薬師様、顔色がすぐれませんが……お腹痛いです?」


 クララが不安そうな顔を向ける。心なしか、胃も痛い。


「少し、まずいことになったかも」


 警戒すべきことは、他にもある。

 メレネーはファルマに残されたもう一つの薬神紋も奪う、もしくは消すことができる可能性があるということだ。


 いつ、どのタイミングで?

 メレネーに右の薬神紋を奪われたのか回想するが、これというタイミングを思い出せない。

 むやみに接触してしまったのは迂闊だった。


(もしかして、クララさんの言う“絵を具現化する能力”で薬神紋を剥がした?)


 どんな原理で、という疑問が付いて回るが、一旦それは横に置く。


(あるいは、俺が聖下の呪いを剥がしたのと類似の原理で、自らに薬神紋を憑依させたとか? いや、彼女は神力を持っていなかったし、それはありえない……神脈はなかったけど、呪脈のようなものがあったなら……?)


 ファルマの思考はもつれはじめた。


(ひとまず薬神紋の奪還は諦めて、メレネーから距離を取るべきだ。物質創造まで封じられたら、完全に詰む!)


 最悪、次々に能力を引きはがされ、大陸から戻れず嬲り殺されるかもしれない。

 ファルマがフリーズしていたからか、クララが恐る恐る尋ねる。


「まずいこと、というのは?」

「メレネーに神術の一部を封じられたみたいだ」

「え、神脈の剥奪とかでですか?」


(ああ、そういう手もあるか)


 ファルマは自分の神脈をみたことがない。

 エレンにもファルマの神脈は診えなかった。

 しかし、メレネーにはファルマの神脈が見えていて、それを閉鎖して自身にスイッチさせた、そんな仮説も思いつく。


(あの一瞬に?)


 ファルマは彼女の実力に慄く。クララはそんなファルマを心配そうに見守りながら重い口を開く。


「どうやって取られたにしても……少なくとも、それはこの旅では戻ってこないような気がします」


 旅神の加護を持つクララは、旅の期間中の予言を外さない。

 ファルマはマジかよ、という思いでクララの予言を受け入れた。

 薬神紋の奪還は、必ず失敗に終わるとの天啓が出た。

 であれば、いったん完全に諦める。


「わかった。クララさんの呪いは薬でしばらくは抑えられるから、メレネーを探すのはやめよう。即時に撤退だ」


 撤退を決断したはいいが、物質消去なしでクララを連れて洞穴から脱出するのは至難の業だ。

 二人とも牢に閉じ込められた状況になっている。

 物質創造にひきかえ、物質消去は破壊的かつ絶対的な能力だ。

 特に人体に対して行使すれば、ほぼ無敵といってもよい。


(落ち着け、物質消去を取られても彼女には使えないはずだ)


 ファルマは冷静さを取り戻す。

 彼女が物質消去を手にするには、二つの制限がある。


 一つは神力がないこと。

 彼女は神脈を持ちえず神術を使うことができないはずだ。


 もう一つは、物質消去に必要な物質名の特定ができないこと。

 

 物質消去の能力は、物質創造と比較すると制御が曖昧で、物質創造では必須である分子構造の想起は必要ない。

 それでも、明瞭に物体の性質を理解していなければ発動しない能力なのだ。


(彼女に物質消去は使えないはずだ、できるとすればギリで水ぐらいか?)


 そう考えていると、低くくぐもった思念がファルマの脳髄を揺さぶる。


『囚人が二人になったじゃないか?』


 目の前のバリケードが一つずつ取り払われ、土埃が舞う。

 その向こう――松明の光が照らす先に現れたのは、まさに今ファルマが全力で接触を避けるべきと考えていた少女、メレネーだった。

 原住民らを引き連れ、傍らには霊を従えていたメレネーは、クララに恨みのこもった鋭い眼差しを向ける。


『叛けば死あるのみ。しかと伝えたはずだ』


 メレネーの言葉を、彼女の従属させている霊がファルマにも思念で伝える。


「ひいっ……無理ですうう」


 クララは解呪されているとはいえ、メレネーの威圧感に萎縮したのか、動けなくなっている。

 ファルマはその間に入り、クララを庇う。


『まだ躾が足りないようだ。屈服するまで体で分からせてやらねばな』 


 メレネーは憎悪のこもった口調でファルマとクララに宣った。


「彼女からこれまでの経緯を聞いた。さきほどの非礼はお詫びする。もし言葉が通じるなら、話し合いができないか。あなたがたの大切な祖先の霊を私たちが追い払ってしまったと聞いた。それを償いたい」


 ファルマは交渉を試みる。

 霊を呼び込む性質を持つ呪器である疫神樹をうまく使えば、また祖先の霊を呼び寄せることができるかもしれないと考えたのだ。


『話しあいなど無用だ、時間稼ぎに興味はない』


 メレネーは霊を通してファルマの提案を一蹴する。


『なにやら焦りが見えるが、探していたものはこれか?』


 彼女は右手をかざし、握りこんでいた掌をほどいた。

 そこから零れたのは、眩い閃光を放つ、小さな赤い雷のように見えた。

 彼女の掌から少し離れた距離で、彼女の掌に吸い寄せられ激しく放電している。

 その禍々しい赤光に照らされながら、メレネーはファルマらを睨めつける。


(あれは、奪われて変化した薬神紋なのか……?)


 ファルマは地球において、一度だけそれに似たものをニュースで見たことがある。

 それはレッドスプライトと呼ばれるもので、雷雲の放電現象に付随してさらに上層で起こる発光現象だ。


 圧倒されつつも、ファルマが赤い雷に見入っている様子を察知したのか、クララが怖気づいたような顔をする。

 ファルマはクララの恐怖に気付いて、クララを後ろに下がらせた。


 人間の恐怖の感情は、悪霊を強靭にしてしまう。

 メレネーが霊を使役するならば、敵に塩を送るようなものだ。


「クララさん少し下がって、何も心配せずそこで動かないで」

「い、いえ、私も戦います」


 クララが息を飲む。

 気持ちは嬉しいのだが、わずかでも意識をほかにとられたくない。

 頼むからそこから動かないでくれと願いつつ、ファルマは改めてメレネーに呼びかけた。


「それを返してもらおう。君が持っていても使えないどころか、害のほうが大きい」

『それ、とは? “無の根”のことか?』


 メレネーはこれ見よがしに赤い雷をファルマに見せる。


(……なるほど。メレネーはこれを知っているんだな。名前がついているということは、この大陸には聖紋にまつわる別の伝承が存在するということか)


 ファルマは想像を巡らせつつ、彼女の言葉に応じる。


「名前は知らないけど、それだ」

『至高の呪術師に宿りし無の根、ルタレカは、祖霊に叛くあらゆるものを消し去る。これは、われらの生存に必須のものだ』

「その無の根というものを、どういう用途に使う?」


 よりにもよって物質消去の能力が生存に必須、というのはファルマの理解を超えている。

 物質創造はまだ理解できる。

 物質創造は、貴金属などに狙いを絞れば莫大な富をもたらす能力だ。

 でも、水のみに限定した物質消去の使い道がわからない。

 洪水を防いだり、治水に使うのだろうか、という想像がせいぜいだ。


『話してなどやるものか。無の根が失われてより、吾らが一族は二百年もの間、洞穴を褥とし、抑圧を強いられてきた。もう、侵略者の手には戻さんよ』


 それを聞いたクララが、ファルマに小声で忠告する。


「薬師様。私が捕らえられている間にここの住民から聞き出したんですけど、どうやらここの先住民の一部は、呪力という神力とは異なる超常の力を持っていて、呪術を使えるらしいのです。呪力のある者は入れ墨をしています」

「ありがとう、その情報は助かるよ」


 クララの土壇場での異文化コミュニケーション能力に驚きながらも、ファルマは素直に情報を受け取る。

 よく見れば、メレネーを含め後ろに控えている者たちは殆ど入れ墨が入っている。彼女が従えてきた三人も、呪術師のようだ。


(彼らはどうやって呪力を得ている? やっぱり、こちらの神脈に対応する呪脈のようなものがあるのか)


 ファルマは薬神杖を構え、改めて彼らに対して診眼を使う。

 メレネーの心臓のあたりに、青く見える病変がある。

 心臓病か何かをわずらっているのだろう。

 だが、呪脈に相当しそうなものは、何も見えない。


 左腕の薬神紋と、そこに宿る物質創造の能力をも取られることを懸念して、薬神杖の晶石に少し神力を逃しておく。備蓄された神力は、バッテリーのような役割を果たし、神力が枯渇しても神術を使える。

 急に体内の神力がなくなったとしても、最低限、神術陣などで応戦することはできる。


 ファルマは手持ちの能力を精査し、これから起こる衝撃に備えた。


次回更新日 7月15日

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