7章10話 クララの孤軍奮闘
神聖国武装神官とサン・フルーヴ帝国近衛師団らの合同大演習を終えたあと、ファルマが海軍伝令より報告を受けている間、戦闘に参加した神術使いらは帰り支度を整えていた。
解散の空気が漂う中、聖帝自らパッレのもとに足を向けた。
自然と道が開けたのに気付いて、だらしなく崩していたパッレが畏まる。
「パッレと申したな、そなたに取らせたいものがある」
「は、頂戴いたします」
「此度の演習での神技の数々、見事であった。そなた、歳は」
「18です」
パッレが緊張気味に答える。来月、彼は19歳になる。
エリザベスは何やらパッレを値踏みするように見下ろした。
「ふむ。成人しておるな。体に不完全な聖紋や、聖痕などはあるか」
「いえ、ございませんが」
「これを持ってみよ」
唐突に、エリザベスが持っていた特注の帝杖を差し出される。パッレは促されるままに、命令通り帝杖の先端を握る。
すると、神力計を兼ねた帝杖は、青い発光を示した。これは水属性を示す発光だ。
エリザベスは神力計の目盛りを読み、満足そうに頷く。
「ふむ。神力量も悪くない、よかろう。これを」
エリザベスは周囲の目から隠すようにして、パッレに帝室の紋章のついた小箱を渡す。
とはいえ、周囲の注目を浴びまくっていたので、パッレは手で影をつくり中をあらためると、中には純金のカードが入っていた。
「これは……」
パッレがカードの裏面を改める。裏面にはサン・フルーヴ帝国帝位御璽とあった。
パッレはその意味するところを察知して息をのんだ。これは、皇位継承戦に参加するための正式な資格だ。
世界最大の帝国、サン・フルーヴ帝国の帝位継承候補者は大神官が選出し、帝王学を学ばされ、帝位継承戦を経て先帝から玉座を奪い取る。
パッレは皇帝の座に挑むことをひそかに許されたということになる。
サン・フルーヴ帝国皇帝には帝位継承に厳密な基準があり、世界最強の神術使いでなければならない。現職である彼女からそう見込まれたということは、この上ない栄誉だ。
エリザベスは衝撃を受けて固まるパッレに耳打ちした。
「このときと思い定めたら、来い」
エリザベスはまだ、このカードを誰にも渡したことがない。
ファルマを次期皇帝にと見込んでいた時期もあったが、彼が成人していなかったため見送っていた。その間に、ファルマは人籍を捨て候補から外れたために、新たな後継者を探していた。
そこへ現れたのが、独自の神術体系を駆使するパッレだ。
彼女は彼の真価を見出した。
しかしパッレは、二つ返事では応じなかった。彼は絞り出すように、言葉を選びながら答える。
臣民にありながら皇帝に何か意見をするようなことは、本来あってはならないことだ。
「私には目標がありまして。まずは一人前の薬師になり、満足に人を治せるようになることです」
「ああ。それはそなたの身近な二人から常々聞いておった」
パッレの率直な希望を聞き、エリザベスは頷いた。パッレは薬師としての経験を積み、ゆくゆくは宮廷薬師を目指している。ファルマに先んじられてしまったとはいえ、今でも変わらず一途に宮廷薬師を目指している。
宮廷薬師は皇帝に仕え、皇帝の命を守る仕事、自身が皇帝として即位してしまえば、薬師として技能は衰えることになる。往診や調剤などもままならない。彼にとっては魅力的な地位ではなかった。
「王にとって、国民は我が子も同然。その我が子を、いずれ誰かに託さねばならん」
パッレは言葉に詰まる。
「なに、そう固くなるな。これは挑戦への許可であり、強制ではないのだよ」
彼がこわばった様子を見たエリザベスは、安心させるように笑顔を見せる。
それは、子を持つ彼女の気配りのようでもあった。
「薬師としてのその先に、世を治し、国家を守る仕事がある、そう思えた時でいい」
「…………では、お預かりいたします」
パッレは逡巡の末、受け取ることにした。
使うか使わないかは、よく考えて決めればよい。ただ、受け取りを拒否することはできない。彼女の思いを受け止めた。
「お話の途中で申し訳ございません」
話に区切りがついたのを見たファルマが、二人の間に割って入った。
彼らの会話は、ファルマの耳には入っていない。
「聖下、緊急にご報告したいことがございます」
ファルマはサン・フルーヴ帝国海軍伝令役とともに、聖帝に現況の報告をした。
「ふむ……先住民がいると判明した状態で、通信途絶か。打つ手がないな」
ファルマが報告した聖帝の反応は、沈痛な面持ちを見せながらも、どこか諦念を帯びたものだった。
ジャン提督の艦隊は、有事には救助を想定されていない決死隊である。
また、帝国は救助隊を送らない。送ろうにも、間に合わない。
たった今から救出のための船団が出航したとしても追い付かず、救出できないからだ。
過酷な旅路だった。だからこそファルマは、念には念をと支援してきたのだが、それでも足りなかったようだ。クララの予言から予想していたこととはいえ、あれだけ備えても避けられなかったファルマは、忸怩たる思いだ。
「クララの予言でも受難を避けることができず、かようなことが起これば、新大陸への船団派遣はしばらく見合わせるほかない」
これが彼女の政治的な判断だった。
ファルマは新大陸までの緊急の移動手段がないことの対処の限界を思い知る。
帝国の中では、暗黙の裡に彼らは殉職したということになりかねない。
「しかし、彼らはまだ生きているかもしれません。襲撃された船舶の位置を把握しています、私が行っても構わないでしょうか」
「たった一人で行ってなんとする」
「安否の確認と、救命措置、通信を回復させ、救援隊が来るまで安全な場所に避難させてくることはできます」
もしできるというなら、八面六臂の活躍だ。
「例えば数十名の傷病者がいたとして、一人では船員全員を連れて帰ってくることもできはすまい」
「工夫すれば四人は運べます、重傷者から順に何十回と往復すれば、数日で全員連れて帰れます。相手が悪霊ならともかく、人間相手なら、私は負けません」
ファルマは本気だ。かなり強気な発言だともいえる。
「まったく……そなたの着想はいつも人外のそれだな」
「恐れ入ります、ご許可を」
「サン・フルーヴ皇帝として宮廷薬師のそなたに下す命令は、否、だ」
ファルマの思いはエリザベスの拒否によって無残にも絶たれてしまった。ファルマは言葉を失いエリザベスを見つめたが、彼女を責めることはできなかった。
「……はい」
彼女が一度決めた命令を取り消したことはない。ファルマは引き下がるしかなかった。
ファルマはド・メディシス家に戻る馬車の中で、思案していた。対面にはエレンが座っている。
(聖下に許可を求めたのは失敗だった……一人で行けなんて、言えるわけがない。でも言わないと不在にするからバレるしな)
「何かできないかしら」
ファルマの話を聞いたエレンが、戦闘で腫れた腕に氷を当て、体を馬車の客席に預けながら心配そうに伺う。
「通信が機能しなかった場合に備えて海鳥を持ち運んでいて、イチかバチかで飛ばしてくれたおかげで状況を知れたわけだけど……知っているのに何もできないなんて」
「普通の海鳥ではなく、渡り鳥を使ったようだね」
大陸~マーセイル間は距離にして約8000キロほどだ。
渡り鳥は無着陸で何日も、果ては一か月近くも飛べるものもいる。
中には北極圏と南極圏の間を一か月程度ぶっ通しで無着陸で渡るキョクアジサシなどの鳥もいる。
遠洋航海の途中からマーセイルに向けて海鳥を飛ばし、独自のノウハウを持っていた東イドン会社は、多種多様な海鳥、渡り鳥をそろえていた。アナログな通信手段を確立していたのだろう。過去の遺産と化すかと思われた伝書鳥も、見直されることとなった。
「だからこそ、この報告を、無駄にするわけにはいかない」
事前にジャン提督らが上陸地を報告してくれていたおかげで、船団の位置は確認している。
予言が的中したことを嘆く時間はない。
無線通信の機能を持つ戦艦は五隻のうち二隻だが、襲撃や遭難などに備えて互いに距離をとって、全艦は上陸せず洋上待機していたはずだ。だから、上陸後に何かあって上陸した乗組員が全滅したとしても、一隻は生存して戻れるようになっていた。
それなのに、五隻とも通信が途絶。
これが意図するものは、残り一隻も襲撃者に追い付かれ全滅したか、少なくとも危機的な状況にあるということだ……。クララの予言だと、ファルマが到着するまで彼らは生存しているはずだ。
ならばこそ、聖帝の命令に反してでも行くしかない。
「暫く戻れないかもしれない。あとをよろしく、エレン」
ファルマの真剣な物言いに、エレンは何かを察知したようだ。
「まさか一人で飛んでいこうと思ってない⁉ 手練れの神術使いで組織された、百人からの船団からの連絡が忽然と消えたのよ? 手強い悪霊かもしれないし、ちょっとは作戦を練ってから行くべきだわ」
「いや、悪霊ではないよ」
ファルマが数度確認した限り、ジャン提督が上陸目標としていた地点に、危険となるようなものはなかったはずだ。
悪霊もいたが根こそぎ退治していたし、悪霊を寄せ付けないよう神術陣も張っておいた。
だから、襲撃者は悪霊ではなく、人か動物、未知の怪異だと断定していい。ファルマがそう説明しても、エレンは首を横に振る。
「じゃあ私も行く。君は向こう見ずだし、私も診眼を使えるから、要救助者のトリアージの手伝いはできると思うわ」
「でも……危険だし、君はケガをしてる。それにもう、診眼はしばらく使わないほうがいい」
「足手まといになると思ったら全力で逃げて、洋上にいるわ。さっき、四人なら同時に運べるって言ってたでしょ? じゃあ、君が搬送している間に怪我人を診ている人間が必要じゃない」
ファルマの新調した薬神杖は、他の秘宝で性能をブーストしたといっても、そもそも貨物運搬用の杖ではない。 荷重200kg程に達すると飛行性能が極端に落ち、コントロールも悪くなる。それで、頑張っても四人だ。険しい顔をしていたファルマが、ポンと手を打った。
「確かに……でも待てよ、ジャン提督が着いた場所なら……あれが使えるかもしれないぞ」
「あれって?」
ファルマは通信のあった場所を記録したメモを見る。
「マーセイル工場には、テオドールさんの失敗作の数々を商用化している、商品開発部って部署が新設されたんだ。廃棄したアレが大量にあるって言っていたよな」
「えぇ? テオドールさんの失敗作なのに? それを使ったらどうなるの?」
「理論的には、百人全員を一度に、片道だけで一日以内に運べる」
「ど、どんな神術を使おうっていうの?」
何かをひらめいたのか、眼を輝かせはじめたファルマに、エレンが不穏な顔をする。科学オタクにはついていけないといった具合だ。
「神術というより物理装置だな」
「マーセイル工場にそんなシロモノなかったでしょ?」
「いや、あるんだよそれが」
不意に、馬車が止まった。ファルマが外を覗くと、白馬が横付けされている。白馬に馬車が止められたのだろう。その白馬に跨っていたのは……
「エリザベス聖下⁈」
「ギャバン大陸直行便の定員はまだあいているか?」
先ほど、ファルマの上奏を真っ向否定したばかりのエリザベスが、面白そうに笑っている。
彼女は召し上げた近隣の町の宿泊所へ戻り休んでいるはずだが、どうやってか抜け出してきたようだ。
「四人は運べると申したであろう」
「聖下⁉ あの、先ほどのやりとりは……」
「大神官としては、そなたの行動を縛る権能は持ち合わせておらん」
彼女は二重の立場を使い分けていた。
「聖下をお連れするわけにはまいりません。御身に何かがあっては困ります」
「それはこちらも同じセリフを返すぞ」
大神官の立場としては、守護神は箱入りにして祀っていなければならない。
そのファルマに、自らの責任でといって自由を与えているのは彼女だ。
ファルマに何かがあれば、やはり大神官としての責任をとわれる。
「聖下が不在ですと、さすがに……」
「神力消耗を回復させるため、半日は寝室に入るな、誰も起こすなと言ってある。日が沈むまでに戻れば問題もなかろう」
「えっ、日帰りのつもりですか!」
「人間が相手なのだろう? 十分であろうが」
(聖下、強気すぎるだろ……トラップだってあるかもしれないんだぞ)
ファルマは渋い顔になった。
「これはこれはエリザベス聖下、いかがなさいましたか」
騒動に気づいて、パッレが前の馬車から出てきた。紛れもなく、俺も混ぜろ、という顔をしていた。
「では、家に到着したらすぐに薬や装備の支度をしますので、お待ちください」
にっちもさっちもいかなくなり、結局三人を伴って新大陸へ飛び立つことにあいなった。
ファルマはマーセイル領のアダムと、テオドール、そしてキアラに彼の計画についての電報を打ち、作業依頼を送信した。
そして、最短での旅支度にかかる。
一刻も早くと気は焦るが、準備不足で行っても役には立たない。
人間相手なら負けないと断言した手前、今更訂正することははばかられるが、ファルマはこうも思うのだった。
対人戦闘はそれほど怖くはない。
神力量の差で圧倒できる。
だが人間の謀略や心理戦があるとすれば、悪霊よりもおそるべきものだ。
◆
「ひゃっ」
滴る水滴に頬を打たれ、クララは目覚めた。
「ええっと」
きょろきょろとあたりを見渡し、状況を確認する。彼女のいるのは湿度の高い暗い洞穴で、天井から下がった鉄格子のようなもので空間を隔てられている。クララはどうやら格子の中に閉じ込められているようで、先ほどの水滴は洞穴の天井から落ちてきた。
格子の外には松明がともっており、その奥には通路のような開けた場所があり、そこを多くの人々が行き交っていた。
クララの目に映ったのは麦色の肌をした黒髪の人々だ。
しばらく目を奪われていると、杖を脇にかかえた女が、格子の外からクララをじっと眺めているのに気づいた。
少女のように見えるが、年齢は不詳。
長い髪の毛を、片側だけ三つ編みにしてさげて、カラフルな紐で縛っている。
好奇心の強そうな大きな黒い双眸が、クララに向けられていた。
(あっ、この子、船を沈めた子だ!)
あの時は暗闇ではよく見えなかったが、たった一人で神術使い百人を軽くいなした実力を持つ術者が、こんなにあどけない少女だったのか、と改めてクララは驚く。
「……、…………!」
女はクララが起きたのを見てか、近づいて話しかけてきた。何か言っているので愛想笑いをしてみるが、彼女の言葉がまったくわからない。
「あ、あのう……わかんないです」
クララは申し訳なさそうに首をひねって肩をすくめると、少女は小首をかしげて鼻で息をついた。
「できればその杖を返して……もらえませんよね」
クララは牢の中に押し込められ、杖を取り上げられている。
少女は杖を片手で握り、反対の掌にぽんぽんと杖の先を打ち付けてクララの様子をうかがっている。
そのうち、少女は誰かに呼ばれて立ち去っていった。
彼女と入れ違いに、二、三人の少年たちが身をかがめながら檻の前にやってきた。
見張りではなく野次馬なのだろう、明らかに彼らとは異なる容貌のクララに関心を持っているというのはわかる。そこで、クララは絵でコミュニケーションをとることを思いついた。幸い、牢の中は砂地で、指先で地面に絵を描くことができた。
彼女は彼らが知っていそうな生き物の例で、最初に鳥の絵を描いた。
「ピリ!」
少年が指をさして叫んだ。クララは絵を指さして尋ねる。
「ピリ?」
「ピリ!」
「わかったわ、ピリって言うのね!」
クララは幸先よく言葉の手がかりを得た。次に魚の絵を描し、指さす。
「カタナ」
「魚はカタナなのね」
クララにそれなりの絵心があったことが幸いした。
人の絵を描く。男と女を。子供と大人、体の各部。続いて、動作。
子供らが絵を見て、あるいはクララの動作を見て答える。
その単語を、クララは地面にメモをとり暗記していく。
クララは彼らが慣れたタイミングを見計らって、銃の絵を描いた。子供らは首をひねって、
「ニーネ?」
と返した。クララはすかさず馬車の絵を描いた。この時もまた「ニーネ?」と返した。
クララは彼らが知らないであろう、帝国に存在する事物を描き、ニーネと返ってくるのを確かめた。
クララは今でこそ貴族ではあるが、ファルマに神脈を見出されるまでは平民として、そして捨て子として育った。小銭を稼ぐために大市に集う異国の行商に、片言で野菜を売りつけることもあった。言葉の通じない相手と交渉するすべを、知らないわけではない。相手の言語を理解するために、まず必要なことがある。それは、「これは何?」に相当する、汎用性のある言葉を知ることだ。ニーネというのが、質問文だ。それさえ引き出せば、あとは根気との勝負だ。クララはぎこちなく微笑んで、自らを指先し、「クララ!」と名乗った。
そして、彼らの一人を指先し、こう言ってみた。
「ニーネ?」
子供らは驚いたようだったが、
「マリポ」
クララに指名された彼は自身を指して、笑って答えた。
これが、彼の名だ。クララは地面にメモを取って記憶した。初めての自己紹介、それから先は、地道なやりとりが続いた。
それからしばらくして、クララと子供たちのやりとりの声が大きすぎて、目に余ったのだろう。大人に呼ばれて、子供らが離れていった。クララの牢の前を横切る大人たちは、ジャン提督の艦隊の船員らが身に着けていた銃や杖を手にしていた。それを見たクララは、愕然とした。貴族にとって命の次に大事な杖。杖を取られるということは、彼らが無事ではないということだ。
(ジャン提督やほかの人たちはどうなったんだろう……無事なのは私だけかな)
考えたくはないが、とても無事とは思えなかった。
クララが何故助かったかというと、少女が攻撃に転じたその時に杖を手放した、だから無事だったのだ。何故杖を手放したかというと、クララには少女が杖や武器を通じて相手を攻撃してくる予測が瞬間的に見えていた。
旅神という守護神の加護、あるいは防衛本能のようなものだったのかもしれない。
クララはあのとき周囲に警告を発し叫んだが、誰もそれを受け入れなかった。
戦闘中に武器を手放せと言われても、どだい無理だったかもしれない。
(こんなことにならないように、私が船団に同行してきたはずだったのに)
くよくよしていても始まらない。それどころか、クララにも命の危険が迫っている。ジャン提督らは、最後の瞬間まで骸骨のようには見えなかった。
無事ではないが、命までは取られていないということだ。
しかし、クララには自分自身の命運はわからない。
一人だけ殺されるということもありえる。
クララは涙を拭くと、先程子供らから収集した単語を整理した。
「あ、そうだ。私はわからなくても、守護神様はすべてをご存じだわ」
クララはひらめいた。クララは猛烈な勢いで地面に「はい」と「いいえ」に当たる記号、そしてその周囲に占いのための略語、そして文字盤を書いた。
降守護神術というものだ。
これは、一時期サン・フルーヴでも貴族のサロンで流行っていたウィジャボードという類いのもので、守護神の使いを呼び出し、文字盤の上で神意を聞き出すというものだ。日本ではこっくりさんの原形として知られている。サロンで行われているものは心理遊びのようなものだったが、クララの場合は本当に旅神の加護を指先に宿らせているため、嘘のように当たる。クララは何度か、旅の道中に限って当たるこの占いを試してみたことがあった。
舞踏神術を踊ったのち、軽く念じる。
「守護神様、おいでください」
クララの指が勝手に動きはじめた。
(守護神様、守護神様、ようこそお越しくださいました。ジャン提督らは存命ですか)
“はい”
ひとまず、よかったという思いがこみ上げてくる。クララは一人ではない。孤立無援ではないという、たまらなく勇気づけられる。
(どこにいますか。近くにいますか)
“はい”
(無事ですか)
“いいえ”
「無事では、ない……のか」
ああ、そんな……。と、クララは絶望的な気分になった。大怪我をしているのだろうか。
(早く助けないと危険ですか)
“はい”
クララ一人でここから脱出して彼らを救助できるとも思えないが、ひとまず敵を知ることにした。
(私たちを襲撃した者は神術使いですか。メレネーという少女のことです)
“いいえ”
(彼女は何者ですか。神術使いでなければ、あの力はなんですか?)
文字盤をへとクララの指が誘導されてゆく。はい、いいえで答えられないものは、文字盤で示してくれる。
“呪術師”
「はえー……」
なるほど、とクララは思った。悪霊ではない、霊を呼び出して使う術だ。大地から鳥を、植物の化け物を喚び出し、そして大量の異形を動かしていた原動力は、呪術だったのだ。
錬金術にも似たようなものがあるが、大陸では禁忌であり、神殿の異端審問の対象とされてしまう。なので、ここまで実体化が強力な術式は大陸には残っていない。
(彼らの中で、メレネーが一番強力な術者ですか)
“はい”
そこでクララの、今日の分の神力が切れ、これ以上は神術を使えない。明日まで、神力の回復を待つしかない。明日が来れば、だが。
あの場にいた神術使いを一瞬で無力化したほどの使い手だ、戦闘神術の使えないクララが、神術で戦闘をしかけてどうにかなる相手ではない。
正攻法ではダメだ。クララに残された手段は、彼女に取り入り、篭絡するしかなかった。
急がなければ、こうしている間にもジャン提督らは危険な目に遭っている。
「メレネー!」
クララは意を決して呼びかけた。
彼女は驚いて振り返った。先ほど彼女の似顔絵を描いて、彼女がメレネーという名であることを子供たちへの取材で突き止めたばかりだ。持つべきものは絵心と度胸である。
相手はクララを瞬殺できる能力を持っている。心証を損なうことは得策でないが、怯えてばかりもいられない。ギリギリの駆け引きに、クララの心臓が高鳴る。
「イヘト マニ」
クララは腹部を撫でながらお腹がすいたというと、メレネーは不審そうな顔をした。しかし彼女の仲間に何かを言うと、ほかのものが、焼いた芋と焼き魚そして飲み水を持って現れた。
「ヤライヤライ」
これは、お礼の言葉に相当する。
クララは、覚えたわずかな言葉を駆使する。
メレネーはそれをじっと聞いていた。
「カタナ マナナ」
魚、良い。という意味だ。魚おいしいと意訳してほしい。実際においしいかというと魚自体のクセが強く、同行してきたサン・フルーヴの料理人の腕と比べるとあまりにもワイルドというか、スパイシーな味付けだ。クララの知らない香辛料をまぶしているようだった。
クララの舌には合わなかったが、ひとまず友好的な態度をとりつつ、相手の食文化を褒め素性をさぐる。
「マリポ!」
メレネーはマリポを呼んだ。マリポはメレネーと何かを話していたが、マリポがクララの前にやってきた。メレネーは、先ほどまでクララと身振り手振りで話していたマリポにクララの通訳係をさせようというのだろう。
メレネーは、杖をクララに掲げて見せた。マリポが問う。
「ニーネ?」
「神杖です」
クララが慌てて答える。
「マーネ?」
「神力で動かします」
マーネとは、どうやってという意味。どうやって使うかと聞かれている。クララはかしてと言って手を伸ばしたが、メレネーは杖を渡してはくれなかった。さすがに用心深い。メレネーは、これが武器にもなるものと知っている。
「ニーネ?」
「銃です」
「マーネ?」
「……ナンナ」
銃の使い方を教えれば、撃たれてしまうかもしれない。また、それで仲間が撃たれるかもしれない。クララは教えるわけにはいかなかった。だから、「ナンナ(わからない)」と言って質問から逃げた。メレネーは納得がいかなかったのだろう、地面に模式的な人の絵を描き、その絵に手を置き、手を引き上げるような動きをした。
すると、大地より人型の霊が現れた。クララは驚いて後ずさる。殺されるかと思いきや、メレネーはクララに話しかける。すると霊がメレネーと同じ口の動きで話し始めた。
『私の言葉が聞こえるか』
霊は、メレネーの言葉を翻訳してクララに伝えている。
そうか、とクララは気づく。
霊は思念の塊で、霊の発する言葉は言語を超越する。
メレネーは霊を介して互いの言葉を翻訳することができるのだ。マリポの通訳がうまくいかないとわかると、すぐに対話の方法を切り替えた。メレネーは霊術を使うばかりか、侮れない相手だと身を引き締める。
「はいっ、聞こえます!」
霊がクララの言葉を翻訳してメレネーに伝える。霊術を生かした異文化コミュニケーションだ。
『私たちは当初、お前たちを歓迎しようとしていた。そこで辛抱強く、お前たちがこの地で何をするかを見ていた。奴らは我々の領土を侵し、祖霊の眠りを妨げ、退けるための不吉な力を使った』
不吉な力というのは、神術のことだろう。
彼らにとっては、神術というのは忌まわしい術体系のように見えるらしい。
クララは思わぬ恨みを買っていたことに驚き、言葉に詰まる。
「そんなつもりは……私たち、あなたたちがいるとは知らなかったんです」
『静かに眠っていた古き霊たちを、追い払おうとした。それより四十日も前に、この地を守っていた偉大な霊が、邪悪な力によって消滅した。残されたわずかな霊たちはお前たちの仕業に違いないと怒っている』
(四十日前に、邪悪な力? メレネーたちが大切にしていた霊を一掃した?)
そんなの知らない、とクララは唸ってしまう。
ジャン提督に随行してきた神官らは、確かに腕利きばかりで、悪霊払いの神術を駆使する。
だが、まだ船は出航していなかったし、大陸を超えて神術を使ったなどありえない。
「その、何十日も前の件は知りません、私たちじゃない。だって私たちは、ここにきてまだ十日しか経ってないわ。それに、霊を退けようとしたのは、悪霊だけで……」
『ここには悪霊などいなかった』
メレネーは曇りのない瞳でそう言い切った。クララにとっては悪霊でも、彼女にとってはそうではないのだ。
「あなたたちは、霊を大切にしているのね。そして、私たちが守護神様を信仰し神力を得るように、あなたたちはこの地に宿る霊から加護と力を得ているのね。私たちはあなたたちの流儀を知らなかった、ごめんなさい」
クララのいた大陸では、死者の思念は悪霊になるばかりだった。
悪霊は駆逐され、神殿神術によって浄化される対象だった。
しかし、この大陸の人々はそうではないようだ。
霊とともに暮らし、霊を敬う。そんな世界観で生きているようだった。
「この大陸の悪霊は、人間を襲ったりしないの?」
『古き霊がいる限り、悪霊など現れない。だが、古き霊が滅んでしまった』
「どうして、私だけ助けてくれたの?」
『私を見た時の反応が、お前だけ他のものたちとは違っていた。また、お前だけ、私たちを攻撃しようと武器を向けなかった』
「そんなところまで見てたんだ……」
あの暗闇の中で、メレネーはそこまで見通していた聡明な少女だとわかった。
『お前はなぜ、あのとき杖を手放した?』
「あなたが杖をめがけて攻撃するとわかったから」
(そうか、メレネーが使役する霊には予知能力はないんだ。そして、彼女の霊は私の心を読むことはできないのね)
だから、クララに興味を示し、直接質問をしているのだ。
『お前はどうやって危険を回避している?』
メレネーはそう言うが、クララはたまったものではないと首を横に振る。
「こ、これはなんというか……勘のようなものです」
『嘘をつくと、お前の仲間が明日にも死ぬことになる』
「うわーっ! やめてください!」
クララの立場はというと、人質をとられた捕虜にも等しかった。
立場は弱いが、どうやら彼らもクララの能力をあてにして殺せないらしい。
「私が知っていることなら答えます。ですから、彼らを助けてください」
『お前たちの仲間は全員、ピチカカ湖に入って呪われた。その呪いはやがて死に至る、それが遅かれ早かれ』
(えーっ! やっぱりあの湖、何かいたんだ!)
クララは全身がすくむ。クララがなんとなく避けていた湖の水。
その湖に入ると、死に至る呪いを受ける。そんな罠がどこかに仕掛けられていたのだ。
『お前は湖には頑として入らなかったようだな。それも予知か』
「わー、それはなんとなくいやな予感がしただけです!」
メレネーの眼光が鋭く光る。
旅神の予知能力はクララ固有のものだ。相手に教えたとしても、守護神すら持たない者にできることではない。それでも返事ができなければ、クララもろとも殺される。クララは絶体絶命の窮地に陥った。
「っ……! わかりました。予知の能力は私にしか使えません、あなたの言う通りにしますから、あの人たちに手出しをしないでください!」
『いい返事だ、では奴らは無人島に置き去りで許してやる。手を出せ』
メレネーはクララの首に指先を押し付けると、呪印のような刻印が現れた。
『お前は私の奴隷となれ、叛けば死を』
(ひえーっ、不平等契約ーっ!)
クララは涙目だが、抵抗することもできない。
神力が切れた状態で従属の呪いをかけられれば、なすすべがない。
万事休すか。
クララは無力感に打ちひしがれながら、牢の中でへたりこんでしまった。