7章5話 日進月異
1148年3月中旬。
その日、ファルマは宮廷内守護神殿の神殿枢機部定例集会に参加していた。
神聖国大神官を兼務する聖帝エリザベスと、現地責任者として任じられたサロモンが推進した神聖国の宗教改革の恩恵を受ける形で、ファルマが執り行うべき神聖国の祭儀や会議は最小限となり、実務的なもののみにとどまっていた。
ファルマは週に一度神聖国を往復しているが、エリザベスは帝都に神殿仮本拠地を構えている。
「それでは、定例会を執り行います」
神官が準備した資料をファルマが受け取る。
以前は、守護神が神殿の重要な会議に出席し意見を述べることは認められていなかったのだが、エリザベスのはからいでファルマも参加している。
「守護神様より拝命した案件で、世界各地の呪器の所在地と神術網をまとめたものがこちらになります」
「早いですね、ありがとうございます」
そして最初は話の通じない人外扱いを受けていたファルマも、こまごまとした意見をしているうちに、神官たちも”人間の話ができる”とわかったらしく打ち解け始め、耳を貸すようになってきた。守護神殿やそれに代わる神術拠点の設置のため各地を飛び回っているサロモン、そしてジュリアナからの説得も随分あったと聞く。
「神殿の結界が及んでいない地域はこちらです」
「なるほど……ここはまったくの空白になっていますね」
ファルマも深刻そうな顔つきになる。
「こういうところは悪霊の吹き溜まりになるのでございます」
「この地図によると、大陸の北西部、エンランドか」
エリザベスが目をとめ、扇子で地図を示した。神官が事情を説明する。
「ええ。把握してはいるのですが、そこは手を施しようがないのでございます」
神術の秘蹟を掌握することにより大陸中の国家の実権を握ってきた神聖国であるが、極地には神殿の支配を受け付けていないエンランド王国を宗主国とする国々があり、反神殿勢力が存在する。
「では、神殿の結界の保護下にないということは、独自の防御をしているのでしょうか」
「とはいっても、神術が使えませんからな。物理防御のみになります」
「えっ、そうなんですか?」
「……ご存じなかったのですか?」
「すみません、世界情勢に疎くて」
ファルマはエンランド王国というのが地図上に存在することは記憶していたが、非神術国家だということは知らなかった。
(別に反神殿勢力はいてくれていいし、むしろ健全なんだけど)
悪霊のことを考えなければ、それはそれで結構だ、とファルマは思う。
思えば、単一宗教が世界を間接支配しているこの事態は異常であるし、ファルマとしては、悪霊からの防衛線を拡大するために神殿の支配地域を広げるということは望んでいない。
世界情勢についてさして知識のないファルマが、おそるおそるサロモンに尋ねる。
「あの、その国の人々は神術が使えないとおっしゃいましたよね」
「さようでございます。かの国は強大な武力を有していますが、神脈を開くことができないので、神術使いは一人もいません」
「そうですか……もうひとつ質問です。悪霊は追い払うことはできても消滅させることはないと言っていましたよね」
「はい。間違いなく、いかなる神術を使ったとしても、悪霊は消滅することはございません」
サロモンが頷く。神殿神術やこの世界のあらゆる神術は基本的に悪霊を祓って近づけさせないだけであって、悪霊そのものを消滅させることはできていない。
「あなた様以外の者には、という注釈が付きます」
「なるほど。悪霊は消滅しないし、悪霊は人の居住地へ集まる性質があります。では、私たちが神術経路を充実させ神殿を信仰している国々から悪霊が追い出されたとなると、行き場を失った悪霊は、未曾有の勢いでエンランド王国および諸国連合に押し寄せているのではないですか?」
悪霊の駆逐は、砂場を掃くことに似ている、という話をエレンから教わった。
どこかの砂をなくせば、どこかに砂山ができるだけだ。
「御明察です。すでにその兆候は掴んでおります。悪霊の密度が高まりすぎますと、それが融合・実体化して強力な悪霊が出現することも懸念されます」
別の神官がファルマの質問に答えた。
エンランド国内に偵察を送ることはできないが、悪霊が国にとりつこうとしているのは遠目からでも観察できるようだった。悪霊にとりつかれた国がどうなるかというのは、ネデール国での大惨事を振り返れば、おぞましい結末を招くとわかる。
「それでしたら放ってはおけません、彼らを助けないと。宗教上の対立はあるかもしれませんが、それは横に置いて行動しなければ、大勢の命が失われてしまいます」
ファルマは議場の神官らにうったえるが、一人の神官が反駁する。
「しかし、我々がかの国の救援と除霊のために武装した神術使いを派遣すれば、侵略だとしてただちに戦争が勃発するでしょう。ここは静観が無難です、もし援けを求めてくれば応じればよいことでして」
「それでは後手後手になる。神殿がエンランド王国の除霊に協力するとの使いを送っておけ、除霊後、神殿ではなく神術拠点を置かせろと要求しろ。除霊後は駐留も内政干渉もせん」
「よろしいのですか?」
「何がだ」
「派兵することによる利点がまったくありません。エンランド王国は神殿への敵対国家でございまして、ピウス聖下への挑発行為もありました」
「大神官は代替わりをした、過去のわだかまりは水に流せ。エンランド王国が悪霊によって陥落すれば、周辺国へも被害が広がる。その前に手をうつのだ」
聖帝エリザベスは皇帝であったときと変わらず、即断即決の人であった。
この決定だけでは心もとないと感じたファルマは、その日の深夜になって、エンランド上空へとんだ。エンランド王国は島国からなり、都市文明もかなり発展しているようにうかがえた。ファルマの目から見ると、イングランド北部の街並みに似ている。
ファルマは大きな街に、悪霊の発生を示す黒霧が渦巻きはじめているのを見つけた。
あの時と同じだ、サン・フルーヴ帝都を覆いつくした黒い霧。
その霧がある密度以上になると、悪霊は人々を襲い始める。
”疫滅聖域”
ファルマは地平線の先まで悪霊の凝縮された霧を吹き飛ばしたが、これが一時的な対処であることは知っている。よくて数日もつだろうか、といったところだ。
疫滅聖域は効果絶大だが噴霧型除虫剤と同じようなもので、持続時間を過ぎれば効果も薄くなり、また悪霊が優勢となってしまう。やはり、彼らを守るためには守護神殿を建てるか神術拠点を置き、神術経路の中に組み込まなければならない。
そうして考えてみると、かつて神殿が世界各地に支配域を拡大し、計画的に守護神殿を置いた手法が、きわめて合理的であったことに驚く。神殿もただ、やみくもに周辺国家を侵略していたわけではなかったとうかがえる。神殿神術と神殿の統治を受け入れることは、人民と神殿に相互に利があった。
エンランド王国の過疎地にこっそり神術拠点を置くこともできなくもないが、悪霊は人口密集地に集まるため、都市に置かなければ意味がなく、エンランド王国の人々に内緒で置いたものは破壊されてしまう。目立たないほど小規模なものは、効果が薄い。彼らの理解が必要だ。
しかし何もしないよりはと考え、ファルマは晶石に神力をため込んだ神術陣展開用の小型杭を高い鐘塔の壁面に穿ちこみ、塔の高低差を利用して傘で覆うように最小限の結界を張った。
敵国への不法侵入だが、仕方がない。
夢中で結界を固めていると、トイレに起きたらしい一人の少年が、三階の窓を開け、杖を片手に空を舞うファルマの姿を目撃していた。
ファルマは自分の口に手を当てて、黙っているようにというジェスチャーを送ると、少年は顔をこわばらせたまま頷いて窓を閉めた。数人の目撃者が現れるのはやむをえないが、あまり大勢になると厄介だ。
ファルマは適当なところで切り上げることにして、その街を飛び去った。
「んー……エンランドの島々は散在しているし、その島々の居住地に結界を張るのは不可能だな。それにこの国の悪霊を追い払ったとしても」
このエンランド王国から追い出された悪霊の群れは、次はどこへ行くのだろう?
いよいよ行き場をなくした悪霊たちは、残る人類の居住地である新大陸へと向かうに違いない。彼らは悪霊に対抗できるすべを持っているのだろうか?
(やはり悪霊に対する最終的な解決法は、神薬”千年聖界”の創造しかないのか)
しかしここのところ、最高難易度の神薬の創造については「あと少し」という感触ではあるものの、失敗続きで、試みようにもファルマの神体の崩壊もこれ以上は続けられないレベルにまで達していたため、回復を待っているところだ。
ファルマは悶々とした心境で神聖国へと降り立つ。
千年聖界以外に、利用できそうな神薬や秘宝の情報はないか、その手掛かりを探すためだ。
空から大神殿の屋上へ戻ってきたファルマに遭遇した警備の下級神官は、慌てて拝礼し、上役を呼びに走った。入れ替わるように上位神官が猛ダッシュでやってきてファルマを迎える。
「はあっ、はあっ、お帰りなさいませ薬神様。今日はお戻りの予定をうかがっておりませんが、急用でいらっしゃいますか? ブリュノ・ド・メディシス閣下をお呼びいたしましょうか」
「今日は神薬の創造の訓練に来たわけじゃないから父は呼ばなくて構いません。ちょっと立ち寄っただけで」
「それは大変失礼いたしました」
神術薬学の専門家でもあるブリュノは神聖国へとどまり、神官たちに資料を開示させて神薬の研究と改良を続けていた。今や、神聖国のすべての禁書は随意に入手できるため、神術の使えないブリュノ自身が、神官たちの神力を媒介に調合できた霊薬もいくつかあった。
何か大きな発見があれば、ファルマを呼ぶだろうし、ならば彼には研究に専念してほしいと思う。
「かわりに、神殿神術と悪霊に詳しい方を呼んでください」
「は。かしこまりました、大神殿髄一の神学者をお呼びいたします」
世俗の服を脱ぎ、神聖国での装いを整えたころに、学者風の神官服を着て眼鏡をかけた女性が、ファルマの部屋へやってきた。
「大神殿禁史書庫の司書、神学者リアラ・アベニウスであります」
「いらっしゃい、入ってください」
居室の前に直立不動で名乗りをあげた彼女は、ファルマを直視することもできずガチガチに緊張していた。ファルマは神殿にとって数百年ぶりに顕現した正統な守護神であり、その守護神から指名を受けるというのは、大変なことととらえているらしい。
「いえっ、ここで結構でございます」
リアラは、ファルマの居室の前の床に這いつくばるように平伏したまま動かない。
「相談があるんです。中で話しましょう。お願いします」
ファルマがもう一度入室を勧めたので、彼女は迷った挙句席についた。
「ご命令とあらば」
リアラは入室して着席した後もブルブルと手が震えていた。予想外の反応に、ファルマも困惑する。神聖国に入ってから、ここまで面と向かって怯えられたことはなかった。
「神学者の知見からすれば、守護神と呼ばれる存在と対面するのはそんなに怖いものですか?」
「……やはり、すべてお見通しなのですね」
「私があなたにどんな酷いことをすると思っているのか、逆に気になります」
彼女は観念した。
「守護神様とまみえて、殉職しなかった神官のほうが少ないのです。死因は多岐にわたります。守護神様に加害の意図がなかったとしても、強い神力にあてられて死んでしまった者も、暴行を受けたもの、お姿を直視したがために目が潰れた者もいます。現にピウス聖下もあなた様の不興をかったのではと……」
決死の覚悟でやってきたのだろう。
なるほど、ピウスの死因と関連付けられているのか、とファルマは小さくため息をついた。
「彼のことは不幸でした、ですがその死は偶然です。それに、私は人間社会で人として三年間暮らしてきました。私の周囲にいた人々は今も皆さん元気にしています、私の姿を見て目が潰れた人もいませんよ。それに今はあなたに用があるのではなく、あなたの知見に用があります」
「本当でございますか? それは大変失礼いたしました」
どうやら加害は免れそうだと思ったのだろうか、リアラはぎゅっと強張らせていた肩の力を抜き、ファルマの顔をおずおずと上目遣いに見つめた。
「それで、何をお調べいたしましょう」
「悪霊を完全に、恒久的にこの世から消してしまえる方法を探しています。私がいなくなってもこの世界の人々が悪霊に脅かされず安心して暮らせるように、それを実現したいのです。その方法は本当に神薬だけしかないのでしょうか」
神薬や霊薬についての研究はブリュノに任せて、禁書関係も徹底的に調べられているので、ファルマは別のアプローチで歴史的な背景をリアラに尋ねてみた。
リアラは失礼しますといって退出すると、禁書庫から書籍の山を抱えて戻ってきた。
ファルマも見たことのない表紙、「禁史書・原典」というものだ。彼女は司書らしく的確に書籍を引っ張り出してきて、ファルマに一冊ずつ記述を見せる。
「有史以来、悪霊の完全消滅に成功した守護神様はいらっしゃいません。ですので、悪霊を消す方法は現時点では存在しない、とお答えするしかないと思います」
「では、当座をしのぐにはやはり神薬”千年聖界”しかないということになりますか……」
抜け道はなく、ふりだしに戻りそうだ。すると、その言葉を聞いたリアラは慌て始めた。
「あなた様が神薬の創造に挑まれるとは存じ上げませんでした。と、いうことはもう、現世からはお隠れになるのですか?」
「ん? それはどういう」
「千年聖界を創り給うたあと、現世に留まられた薬神様はひと柱もあらせられません」
「えっ⁉」
神薬の創造の話はどうやら神聖国内でも公にはなっていなかったため、リアラはファルマが今何をしているのか、神殿中枢部から聞かされていなかったという。
これはブリュノらも知らなかったことなのだろう、もしくは知ったうえで、敢行させていたのかもしれないが。ファルマは息をのんだ。
「……つまり、神薬を創ると消滅してしまうということですか?」
「聖典には記載されておりませんが、古語を読み解くに、そういう解釈も可能と愚考いたします」
「道理で……術中に体が崩壊していくわけだ。あのまま完成させていたら、本当に戻ってこれなかったのか」
ファルマは体の芯から冷えてゆくかのような恐怖を感じた。
神薬を創れば消滅し、創らなくても時間切れで消滅する可能性がある。
危ないところだった、とファルマは胸をなでおろす。
この世界における神薬、神術、守護神、悪霊とは、そして墓守とは何なのかを考えたとき、それらの概念は確かに、宗教のような顔をしている。
地球における宗教は、人々の不安を取り除き、倫理を教導し、欲望を制御し、共同体の安寧を維持するための役割を担ってきた。細かい反論はあるだろうが、少なくとも宗教は人が人のために作った”人のための物語”だ、とファルマは理解している。
だが、この世界における宗教の縁起は地球のそれと明らかに異なる。
守護神と呼ばれる異界の生贄を次々に召喚し、悪霊への脅威を煽り、神術を与えることで守護神への人々の信仰を集め、信仰を神力へと変換し守護神を鎹の歯車で潰し、神力を世界を維持する駆動力へ変えてゆく。各守護神にまつわる伝記のようなものは存在し神殿はそれを崇め奉り聖典としているが、この宗教をこの世界に根付かせたのは墓守本体であり、異世界人が作り上げた”人のための物語”ではない。
だから、この世界の神話には、幾重にも仕組まれた巧妙なトラップが存在するのだ。
神薬の調合は魅力的で、歴代の薬神たちはそれに手をだしてきたに違いない。
しかし、その代償は禁書には完全には記載されておらず、ファルマも危うく罠に落ちるところだった。
「神薬の調合は、いよいよという時にされてはと。今がその時だとおっしゃるのでしたら、残念ですが」
「そうですね。有益な情報に感謝します。リアラさんのおかげで踏みとどまれました」
まだ、この世界でやり残したことはたくさんある。
今ここで、消えるわけにはいかない。
「今日はありがとうございました、また日を改めて、質問などをまとめてきます。あなたのほうから私に何か質問がありますか?」
ファルマがリアラに促すと、リアラは思い切って話しかけてきた。
「あの、一つ、薬神様のお知恵をお借りしてもよろしいでしょうか。書庫で書を読んでいるともう死ぬかと思うほど咳が出るときがあり最近特にそれがひどいのですが何がいけないのでしょうか」
リアラが息継ぎもなく一気に早口で言い切ってしまったので、ファルマは気が抜けて表情を緩める。そして、薬師の顔つきになった。
「書の間に挟まった埃やダニ、昆虫の死骸などを吸い込むことによっておこる喘息のようですね。書庫で本を読まず、掃除のいきとどいた別の部屋で、よく払ってから書物を閲覧してください。書庫ではマスクをすればよいかもしれません。発作が起きたときのために、薬を出しますよ。薬をあとで誰かに届けてもらいましょう」
「ありがとうございます! あ、今、薬神様というより薬師の先生に相談しているみたいでした」
「いつかただの薬師に戻ってこの世界で穏やかに暮らしてゆくために、今をもがいているところです」
ファルマは寂しげに微笑んで立ち上がった。
◆
ナタリー・ブロンデルの膠芽腫の脳手術から8日後。
彼女は神薬の効果が切れたあとも術後の合併症や感染症もなく良好な経過をたどり、抜糸も済んで、ついに退院の日を迎えた。
大学は試験の後春休みに入り、学生たちは故郷へ帰省などをしている者も多いが、帝都に住まうナタリーの大学の同輩たちの中には、退院を祝いに来ているものがあった。
傷を隠すためつば広のおしゃれな帽子をかぶったナタリーは、馬車に乗り込む前に、ファルマとクロード、その他のスタッフら、見送りの列をなす一人一人に懇ろに礼を述べる。彼女の病室の窓際のクロッカスの花はもう枯れてしまったが、手術成功と無事の退院は快挙だということで祝意を表した病院職員たちから大きな花束が渡され、はにかんだような笑顔を浮かべていた。
「何から何まで、ありがとうございます。こういっては失礼かもしれませんが、生きて病院を出ることができるとは思いませんでした。先生がたを信じてよかったです」
「退院おめでとう。しばらくは通院と療養生活が続くけれどね」
「あまり無理をしないことだよ」
ファルマとクロードがそれぞれ声をかける。ナタリーは笑顔で頷き、二人に感謝の手紙を渡す。
「体が鈍ってしまうので、散歩をしようと思います」
「必ず誰かに付き添ってもらってね」
「侍医長様と筆頭薬師様ご両名に休暇をいただきましたからには、親子水入らずで別荘でゆっくりしますわ」
答えたのは彼女の母親でもある、宮廷薬師フランソワーズだ。
今回の大病を機にこじれていた娘との仲も良好になり、今はもとの親子関係を取り戻しつつある。フランソワーズもまた、宮廷や大学、そして治療中の病院でファルマと出会うとよく話をするようになった。
「何か異変があったらすぐに戻ってきてくださいね」
「馬車で一時間ほどの領地に滞在しますので、急変時にはすぐに戻れますわ」
「それでしたら安心です」
ナタリーの病気によって、外科医と薬師、そして技師との連携も固まり、大学内には多くの改革が起こった。
「休暇から戻ったら、私と認知機能回復のためのリハビリを続けていこう」
「はいっ、教授。春休みの間に改善できるように頑張ります」
「それでは、これで」
フランソワーズとともに迎えの馬車に乗り込む彼女の晴れやかな笑顔を見送り、ファルマもクロードも手ごたえを感じていた。
「無事に終わってよかったわね。難しい局面だったでしょう?」
エレンがファルマの肩をぽんと叩いてウィンクをする。しかし、ファルマは複雑だ。
「毎回、綱渡りの状態なのを何とかしたいよ。それに、まだ再発の可能性だって残ってる」
「一時的にでも、成功を喜ぶ癖をつけたら? ぬか喜びだったとしても、楽しいことが多いほうがいいじゃない。ずっとそんな調子だと、息が詰まってしまうわ」
「まったくだ。やったね! 大成功だ!」
ファルマとエレンはハイタッチをして、それに加わりたそうな顔をしていたクロードや周りにいた病院スタッフたちともハイタッチをし、かなりの人数がいたのでそのまま胴上げの流れになった。ファルマも流れで胴上げをされたのだが、何名かはファルマのあまりの身軽さに首をかしげていた。
「ド・メディシス教授、中身が入ってないかと思うぐらい軽いですね」
「なんか霞か雲みたいでしたけど、気のせいでしょうか」
「そういわれるとなんか傷つく」
エレンは薬局へ戻り、ファルマはその足で大学の会議室へ向かう。
会場には、エメリッヒとジョセフィーヌ、医学薬学の専門家が続々と集まってきていた。
神術薬学の専門家らを集めて対外的に極秘裏に取り組んでいるテーマはいくつかあるが、最優先しているのは聖帝が大神官ピウスの代わりに負った融解陣の解呪だ。
「それでは第四回、融解陣対策研究進捗会議を行います」
コアメンバーであり、研究リーダーであるエメリッヒが黒板を使って現状を整理する。
往診を終えたパッレもやってきた。
エメリッヒの話を、ファルマたちが議席について聞いているという状況だ。
「まずはこれまでの背景を整理します。この世界の人々は、神術使い・平民にかかわらずゲノム中に神力の発現にかかわる、今回我々が神力遺伝子群と名付けたものを持っています、それはファルマ教授が遺伝子配列を解析して確認済みです」
「神力に関与する因子はゲノムだけではなくてミトコンドリアDNA中、その他の細胞内共生器官中も候補かな。そこはまだ調べていない」
「いやまて、ウイルスや核酸の潜伏感染もありえるぞ」
エメリッヒの仮説に、ファルマとパッレが即刻補足した。
ファルマが全ゲノム解析を行い、地球人とこの世界の人間の遺伝情報を比較した際に、それほどの機能を持ちそうな遺伝子領域は見当たらなかったからだ。また、平民と貴族の遺伝子を比較した際にも、発現していそうな遺伝子はそれほど多くはなかった。
ただ、それらの発現制御機構はゲノム以外にも存在しているかもしれないので、見逃している可能性は否定できない。この、神力遺伝子群の構成要素と全貌はまだ明らかになっていない。
「はい、今補足いただいたものも含め、神術使いはこれらの遺伝子群が正常に機能しています。我々が全員受ける神殿の洗礼儀の際、神力遺伝子群の最上流に位置する神脈遺伝子をオンにすることによって神力遺伝子群が動き始めます。神術使いは神力遺伝子群を駆動させ神力を呼び込み、各系統の神術を使えるようになります。例えば私は、周囲の気圧、気体の密度、湿度を操作することによって、風の神術が使えます」
エメリッヒは、指先で風を起こす。
神力が何を原動力とする力なのか、その解答をファルマの中では持ち合わせていない。上位次元の存在たる墓守が特定の遺伝子の保因者に付与したこの謎多きシステムだが、この世界に存在する神術の四属性は、すべて物質創造と物質消去の下位互換であると説明することができる。
水属性は水、火属性は可燃物、土属性は鉱物粒子、風属性は気体の調節。
ファルマは科学的な理解のもとに全ての属性を等質のものと見抜き、そう扱うことができるが、神術使いたちはほかの属性を使えないと暗示にかかっている、もしくは他属性の神力遺伝子群が制御されて使えないだけで、遺伝的には全ての属性を使える下地はあるのだ。
「私たちがなぜ一つの神術属性しか使えないかという疑問については、一つの属性が決まると、ほかの属性に関与する遺伝子群は抑制、または機能が破壊されるからと考えられます。その根拠は、生殖細胞と体細胞のDNAメチル化やヒストンの修飾……ええと、言い換えます。DNA変異を伴わない修飾が起こっているのを実験によって確認したからです」
生殖細胞の段階では、個人の神術属性は決まっていない。
だが、体細胞レベルでは一つの属性しか使えなくなるように、細胞内で調節されているようだ。
「いっぽう平民が神術を使えないのは、これらの遺伝子群が欠損または、遺伝子変異を伴わない制御によって部分的に機能不全になっているからと考察できます」
エメリッヒは全員の顔をゆっくりと見まわすと、おもむろに彼は黒板にスライドを吊るし、実験結果を発表する。大きな成果を発表できる場を与えられて興奮してきたのだろう、彼の頬は紅潮していた。
「この仮説を検証するため、神術使いである私の細胞を培養し、遺伝子工学的手法を用いて神脈遺伝子を機能不全にすると、その細胞は神力を産生することができなくなり、このように平民のそれと同じ状態になりました。その状態から、再び機能を活性化させると、細胞は神力を放出するようになりました」
エメリッヒが次々に聴衆に示した結果は、ファルマ以外の参加者たちを驚愕させた。
ちなみにファルマは彼の指導教官であり、当然研究の進捗は知っていた。
「また、私の親戚にあたり現在は平民のシャルロット・ソレルさんは、ファルマ教授により全ゲノム解析を実施済みで、神力遺伝子群の一つに欠損があるため彼女の父の代から神力を産生することができません。この彼女の培養細胞の遺伝子の変異を修復すると、再び神力を産生することに成功しました。さらに、数代前に遡って平民である者については、多くの遺伝子変異・機能喪失が起こっており、それら全てを修復しない限りは神力の回復が困難であるという結果も得られました。これは、世界初の報告であります」
「なんと!」
「これは大したものだ」
議場はどよめきに包まれた。その報告は、それまでの神術の常識を覆すだけのインパクトを持っていた。それはエメリッヒとジョセフィーヌが苦心の末突き止めた、もっとも大きな発見といえた。
ファルマはエメリッヒに研究を任せ主体性を重んじながら、彼への細やかな指導を欠かさず、初心者であった彼を超短期間で、自立目前の研究者へと育てつつあった。
「我々は今、神話の世界を、科学の言語を以って紐解こうとしています。これからの神術使いは守護神を盲目的に信仰し、天賦の属性に依存するばかりでなく、自分の体の中で何が起こっているのか、自分の頭で考えるのです。一人一人が、神術という現象を理解するための、科学的思考を始めなければなりません」
今やエメリッヒは、自分の頭で考え、自分でそれを実証することができる。
装置や手法はファルマのサポートを必要とするが、とにかく一人で研究をしていける人材として飛躍をみせていた。
「特別な神術使いに稀に現れるという聖紋、かつて枢機神官の用いていた聖呪紋、そしてエリザベス聖下の融解陣、さらに禁術の代償として受ける呪いすらも、この遺伝子群の制御によるのではと考えています。これらの遺伝子相互作用を明らかにすることによって、我々は神術体系を掌握できるのではないでしょうか」
エメリッヒはたたみかける。
議場はこのパラダイムシフトについてゆけず、しばらくの間動揺に見舞われていた。
「本当は、平民が貴族になることも、複数の神術属性を得ることも、神力の底上げにすら手が届くかもしれないというのか」
「知りすぎてしまったのではないか。そんなことをすれば、守護神の怒りをかうのでは」
神術に関する遺伝子にふれることを、宗教的な理由から危惧する者もいた。
「ええと、私の守護神は薬神ですが」
エメリッヒは咳払いをして言いにくそうに答えた。
エメリッヒがファルマに視線を向けようとしたが、ファルマはふいと視線をそらす。梯子を外されたエメリッヒは無難な発言にとどめた。
「少なくとも現在の驚異的な進捗状況を鑑みましても、薬神様からはご支援いただいているものと自負しております。ともあれ今回の発見が、神術のより体系的な理解に役立つと確信しております」
学者たちはノートをとるのに余念がなく、パッレはエメリッヒのデータに強い関心を示しいくつか鋭い質問を飛ばしていた。
「エメリッヒ・バウアー君、素晴らしい発表をありがとうございました」
「お褒めにあずかり光栄です、教授」
「本会議といたしましては、バウアー君の結果をもとに、融解陣の制御を次の目標とします。エリザベス聖下の背中にある融解陣は、皆既日食となる日にそれを宿すものを溶かします。聖下の神力遺伝子群は、融解陣を発現しうる独特の機構が働いていると考えられます。第一戦略といたしましては、聖下の融解陣を少しずつ切除し……」
ファルマがエメリッヒの後を受けて会議を進行していると、パッレがふらりと立ち上がった。
「一言言わせてくれ。確認なんだが、融解陣は”神術使いにしか”発現しないんだよな?」
「そうです。融解陣は周囲に居合わせた者の中で、それに相応しい神力遺伝子群の発現パターンを持つ者に、次に発現が誘導されます」
「培養細胞は、神力を産生しているんだよな?」
「そうです」
パッレが発言をし、ファルマが答える。
その答えを聞くと、パッレはにやけながらエメリッヒに向き直った。
「エメリッヒ・バウアー」
「はい、パッレ・ド・メディシス師。ご質問でしょうか」
「聖下の培養細胞の準備は整っているんだろう?」
「はい、すでに」
エメリッヒの言葉を受け、パッレは答えを言いたくて仕方がないといった顔をしていた。
「アガってるぞ」
「アガっている?」
ファルマとエメリッヒは互いに顔を見合わせたが、エメリッヒは首を傾げ、ファルマは何かに気付いてあっと息をのんだ。
「ならばもう、Erat Demonstrandum(すでに示された)だ」
エリザベスに傷一つつけず、彼女を融解陣から解放する方法はすでに、エメリッヒによって示されていた。
◆
「聖下、お話があります」
宮廷に参内したファルマが、クロードとジョセフィーヌを伴いエリザベスに声をかけた。貢献のあったエメリッヒやパッレを連れてきたかったところだが、宮廷人ではないので連れてくることができなかった。聖帝は神官と国務卿を侍らせ、一心不乱に政務を行っていた。
「なんだ、そんなにぞろぞろと改まって」
「聖下の融解陣を無力化するための一つの仮説が導き出せました。方法は何十通りもありますが、陛下のお体にとって負担のない方法はこれです」
「なんだと?」
エリザベスは急展開に首をかしげる。
「聖下の神脈を一時的に閉鎖します」
ファルマはエリザベスと神官、そして国務卿らを説得し了承を得る。
「それでは、失礼」
指先を彼女の背にあて、背面から神脈を一時的に閉鎖した。
するとエリザベスの背にあり存在感を放っていた融解陣は雲散霧消し、ファルマが持ってきた彼女の培養細胞表面に滲み出るように転写されたのである。
ファルマはしてやったりとばかりに頷き、ジョセフィーヌとクロードは仮説が正しかったことで驚愕の表情をみせた。
「どういうことだ……? 背中の紋が消えたのか……?」
エリザベスは侍女に持たせた合わせ鏡を見ながら、放心状態だ。
戸惑う彼女に、ファルマが説明をする。
「これを成しえた理由をご説明いたします。前提としてこの融解陣は、神術使いの細胞でしか存在することができません。今、神脈を閉鎖し聖下の神力が途絶えましたので、融解陣は宿主が死亡したと認識します。そして、付近に存在するもののうち、もっとも大神官となるにふさわしい者の細胞の遺伝子を活性化させて新たな融解陣を作り出します」
ファルマは説明用の模式図を示しながら話をする。
「以前聖下よりいただいた細胞を大量培養していましたので、そちらに発現を誘導したのです。あとはこれを神聖国へ持ち運び、平民技師の手で培養細胞に融解陣を転写し続けます」
ジョセフィーヌが写し終えた培養細胞の大型シャーレをエリザベスに見せる。
「安定的に培養が続けられれば、聖下の神脈を開いても支障なしでしょう。聖下の神力が途絶えると大神殿から世界各地を繋ぐ神術回路が遮断されますので、私が一時的に神力を注ぎ込み神術回路を維持しておきました。皆既日食が来たとしても、融解するのは培養細胞、新たに発現するのも培養細胞。誰も死ぬことはありません。これにて鎹の歯車からの呪縛は断ち切れました」
「なんと!」
鮮やかな手腕に、エリザベスはルビーのように鮮やかな輝きを持つ紅い瞳を見開いた。
信じられないといった顔つきだ。
「さっぱりわからん! だが、とうとうそなたの頭脳は人智を超えたようだな」
「それは違います。多くの人々の知と、そしてたゆまぬ努力によって解決法が、文字通り浮かび上がってきたのです」
「いずれにせよ、見事である」
エメリッヒの実験結果があり、ジョセフィーヌやパッレの思いつきが複雑な化学反応を起こしての、集合知の勝利ともいえる怒涛の解決策だった。
ファルマは着想に至った経緯と、それにかかわった人物をエリザベスに順繰りに説明する。
「そうであったか。では祝宴を開こう、功績のあったすべての者に褒美をつかわす。これで余も、雑念に煩わされず政務や祭事に専念することができよう」
エリザベスはまさに、憑き物が落ちたように大きくうーんと伸びをした。
ファルマは彼女の背をゆっくりとなでおろしながら神力を注ぎ込み、彼女の呪いを解き放った。
論功行賞の人事の結果、エメリッヒとジョセフィーヌは新領地を得、今回の研究にかかわり功績を上げたすべての者に勲章と報奨金が授与された。特に功績の大きかったエメリッヒについては、サン・フルーヴ帝国の伯爵位も与えられた。スパイン王国の貧乏貴族であったエメリッヒは、サン・フルーヴ帝国医薬大に届いた聖帝からの親書を受け取り恐縮していた。
「過分なお心遣いのような気がします。私は、スパイン王国の出で、まだ学生の身分なのに……。それに、見返りのために研究をしていたわけではないです」
「君がやったことを正当に評価していただいたのだと思うよ」
「すごいじゃない、叙爵だなんて! 世襲じゃない叙爵ってすごいのよ」
ファルマとエレンは、エメリッヒを惜しみなく讃える。エメリッヒは頭をかいて照れていた。
「それでは、ありがたくお受けいたします。これで弟や妹たちの暮らしも楽になるでしょう」
「しばらく研究室は休んで、しっかり春休みを満喫しておいで」
「そうすることにします」
エメリッヒは歯を見せて笑った。
(何があっても、諦めずに一つずつ解決していけばいい)
災難続きの毎日だが、決して後退し続けてはいない。
自分はこの世界に来たときは孤独だったが、もう、一人ではない。
数えきれない人々に支えられ、頼れる人々がいる。
ファルマはいまだ多くの謎に包まれた彼の肩に宿る薬神紋に触れ、それをぐっと握りこみながら、そんなことを考えていた。
◆謝辞:本頁の生物学的ギミックにつきまして、生物学者のmeso_cacase先生に考証していただきました。
どうもありがとうございました。