7章3話 医薬連携開始
お祭り騒ぎの様相を呈していたサン・フルーヴ医薬大の定期試験は何とか終了した。
医学部、薬学部、臨床検査学部では合計五人の学生が必修の単位を落とし落第しかけたが、教員会議の末、レポートや再試験などの救済措置がとられることとなった。
ファルマとエレンは、教授室で学生の成績を集計していた。ファルマは試験後の学生の提出したレポートを読むのに休日を返上して、疲労もピークを超えたところだった。
エレンはよほど疲れたのかソファの上に文字通り体を投げ出しており、素足が太ももまであらわとなっていた。それを無防備に組み替えたりするものだから、ファルマにとっては目の毒だったり保養だったりする。
「ファルマ君が試験前に脅しまくったから、総合医薬学部は無難に全員合格したわね」
「危機感を煽るために、きつく言っておいてよかったよ」
まさに目論見通りの結果となったというわけだ。
「ナタリー・ブロンデルちゃんも全試験科目合格したっていうのが奇跡よね。エメリッヒ君が何か言って刺激になったのかしら? 神術演習も体育に振り替えたし、手堅くやっているわ」
「エメリッヒやジョセフィーヌの協力や意見もあっただろうし、本人もよくやったと思うよ、しかもあの状態で……一刻も早く何とかしないとな」
「でも、脳腫瘍に手出しのできる薬は少ないんでしょ。もう一週間以上経ったわ、治療ははじめないの?」
私、気になってた、と言いながらエレンは飛び起きて前のめりに向き直る。
くつろぐのはいいけど、ブラウスの胸ボタンはもう一つとめてほしい、とファルマは思う。
「そのための検討を進めているところだよ」
エレンから視線をそらし、ファルマはPCとデバイスに集めた資料をあたっている。治療の厳しさは絶望的といってよいもので、ファルマが自身の持ちうるチート能力を全て駆使したとしても、確実な方法は見えてこない。
エレンは口をとがらせていたが、ある案を思いついた。
「そういえばどうして外科を頼らないんだっけ。せっかく同じ大学なのに」
「外科か……エメリッヒも言ってたけどそれは選択肢に入ってこないな」
ファルマはエレンの提案を一応反芻しながらも採用できないとする。
「呼びましたか?」
「呼んでない」
地獄耳らしいエメリッヒが隣の研究室から走ってきたが、そうでしたかと頷いて顔をひっこめた。
「やっぱり脳の手術には踏み切れない」
「どうしてそう思う? 侍医長様のグループ、脳手術の症例はいくつかあるはずよ。生存者もいるわ、私は無謀なんかじゃないと思うけど」
確かに標準的な治療法に従えば外科的切除が一番で、そうしたい気持ちはやまやまなのだが、それは現代の医療水準で、万全のバックアップがあればの話。
帝国医師団を信頼していないわけではない。
ここのところ、手術器具の改良、薬剤選択の増加、麻酔技術と術前術後管理も向上し臨床検査部による診療支援の強化もあり、教育カリキュラムの刷新もあって一般外科や整形外科でめざましい手術成績をあげ、ノバルート医大からも留学者が多く訪れるまでになった医学部医師団は、術前に厳密に症例を精査するようになった。
以前は医療占術をもとに、守護神の加護のありそうな患者を切って縫ってみるという博打だったのだが、ファルマの意見を聞き入れ、臨床検査学部との協働による術前診断を重視し、患者の全身状態を評価し、手術適応となるかを慎重に判断し、周術期管理計画をたて、分業化して患者の治療にあたるようになったのだ。これは目覚ましい進歩だった。
ファルマは完全に専門外なのだが、現代地球で行われていた外科的術式を調べ、彼らに情報提供、開示することはできた。ちなみに大神殿から世界各地の神殿をつなぐ神術路の神脈を操作することによって、大神殿でのみ発生していたWi-fiだが、研究室から持ち帰っていたルーターを噛ませてサン・フルーヴの守護神殿周囲へ飛ばすことにも成功したため、情報を集めるのに神聖国に赴かなくてもよくなって助かっている。
電気系統や設備機器の不足から現代地球での術式をそのまま用いることはできない場合もあるが、不可能な部分を補うべく、専門の研究者集団が動物実験をもとに日々研究開発にあたっている。
そういう現状にあっても、脳外科の手術を任せるには不安がある。
なにしろ正常な脳と腫瘍の境界は見分けがつきにくく、高度な手技を必要とし、腫瘍摘出の成否とその後の経過は脳外科医の経験や知識に大きく依存する。
「何もしなかったとしても命が危険なんでしょ? 神術と組み合わせることはできない?」
「神術や、俺の持っている能力との組み合わせはもう試したよ」
チート能力や薬剤治療を組み合わせて延命を図るほうが現実的なのだが、どんな治療法と組み合わせたとしても、完治する方法は見つからなかったというのが、ブロンデルに診眼を通して諮った結果だ。
「じゃあ、霊薬は?」
「今俺が創造できる霊薬と神薬は悪霊祓いの側面が強くて、脳腫瘍が治せそうなものはなかったよ。さらに万能薬は材料がない」
しかしファルマは、エレンの提案であることを思い出した。
「いや、”再誕の神薬”と”爾今の神薬”と手術を組み合わせるのはまだ考えてなかった」
「なにそれ」
「再誕の神薬とは、一日間何があっても死亡しない神薬、爾今の神薬とは、数日間瀕死者の命をつなぎ止められる神薬だ」
「ええー……とんでもないものがあるのね」
エレンはどんびきだ。ちなみに、エレンは眼鏡が不要となってからも、うっかりと眼鏡を上げるしぐさをしてしまう。今も、エア眼鏡をくいっとアクションをしてしまった。
「確かにそれを飲んでおけば術後すぐに死亡することは避けられるよ」
「連続して飲み続けたら?」
「それは効果がなくなる、せいぜい一回か二回が限度らしい」
連続して飲むことはできないとはいえ、神薬の効果は絶大だ。
ファルマがこれらの神薬の調合を習得したとき、正直いって使いどころが見つからなかった。場しのぎ的な延命効果はあれど、治療効果を持っていないからだ。
しかしこの神薬は病気の治療にでなく、術後管理の補助として使うならば完璧である。
(これを使えば徹底的に腫瘍を取り切ったうえで、標準的な治療ができるんだろうか)
ファルマはふらりと立ち上がった。
エレンはファルマが視線を彷徨わせ窓の外を見ているので、首をかしげる。
「何か思いついた?」
「神薬が使えるかもしれない」
「神薬って……ファルマ君、今度は何を代償にする気? そろそろ体壊すんじゃない?」
エレンの気遣いを心に留めながら、ファルマは撤退しない。
「心配してくれてありがとう。神薬での代償は髪の毛ぐらいだよ」
「ハゲてるファルマ君なんて、みんなが心配しちゃうわ」
「それなら、兄上が使ってたブランシュのかつらを借りるよ」
「あなたがやらなくてもいいじゃない」
「ほかに代理がいないよ」
霊薬は人間にも調合できるが、神薬を調合できるのは守護神だけだ。守護神の降臨は必ず一柱ずつで、同時に複数降臨したりしない。
薬神が降りているということは、ファルマ以外にはいないのだと、聖典からは読み取れる。ファルマの代わりはいないのだ、だから自分でやるしかないということはもう肚の底ではわかっている。
それでもエレンは見ていられないといった様子で、代案を探してくれる。
「過去の守護神の神薬とか残ってないの?」
「ないだろうね。神薬は創造後すぐに崩壊するものみたいだから、用時調製が基本だ。手探りながら効果を実証していくしかないさ」
彼はさっそく次の講義の中で、ブロンデルと対峙した。
診眼を通じ腫瘍摘出手術と神薬を組み合わせた治療法の成否をはかる。
しかし診眼によれば結果は芳しくなく、他の薬剤を使ったときより赤い光を帯びていた。一時的に延命できても、結局は死亡してしまう。
その結果はファルマを落胆させた。
(どういう意味だ? 誰がやってもだめなのか? それともこれは、俺がやった場合の予測か?)
この段階で、ブロンデルにはまだ告知をしていなかった。
だが外科手術を行うために彼女をクロードと引き合わせるからには、彼女にどのような病気を疑いなぜ検査が必要かを説明する必要があるだろう。これまでファルマは、自身の正体が発覚するのを恐れるあまり、薬での治療の際はともかく、自身の固有のチート能力を使った治療に関しては、患者に十分に治療方法、治療計画を説明することができなかった。
この異世界では神術があり、神術を用いた治療が行われていたがために、パターナリズム的な文脈の中で医療情報を提供しなくとも慣例的に許されてきたのだが、今後は神術に頼らないチーム医療に取り組むためにも、また患者の自己決定権を尊重するためにも、治療の必要性、方法、予測される結果と危険性、他の方法との比較など、情報は、患者と医療者の双方に提供するべきだと考えている。
特に今回のような、侵襲的で挑戦的な医療を提供するに当たっては、適切な説明を行い、医療を受ける者の理解、そして協力を得るようにも努めなければならない。
(彼女には術式や治療スケジュールが定まってから、早急に告知と説明をしよう)
そう心に決め、ファルマはアポイントメントを取ったうえで、サン・フルーヴ帝国聖帝の侍医長にして医学部長、クロード・ド・ショーリアックの研究室を訪ねる。
「急にどうしたんだ?」
「お忙しいところ申し訳ありません。言葉通り、あなたの外科医としてのお手を拝借したいのです」
ファルマが、資料をもとに簡単に経緯を説明する。クロードは、ほう、と呟くと真顔で応じた。
「二つ、質問がある。一つ目。どうして脳腫瘍があるとわかった、そういうのはだいたい、死後に解剖してわかるものだ」
「私の神術を用いました」
それで信用してもらおうというのもどうかと思うし、虫の良い話なのだが、この世界ではそれで通用する。
「二つ目、君が執刀じゃだめなのか?」
「だめだったんです」
「だめだった、と。それも君の神術かね」
「そうです。お手を拝見させていただいてよろしいでしょうか」
「かまわないよ」
クロードは懐疑的なまなざしを向けながらも、ファルマに手を差し出す。ファルマはクロードが差し出した指の環、その空白を通して診眼を発動し、隣の棟にいるブロンデルを特定し、遠隔から脳を透かし見て、治療法をはかる。
「ようやく君の固有の神術を見せてもらえるのか。前から思っていたがその動作は神術診断術や占術の一種だろう?」
「そうかもしれません」
「ちなみに、なんで壁の向こうを見ている?」
「壁は透けて、彼女の脳が見えています」
「こいつは驚いた! 前代未聞だ」
クロードは、帝国髄一と目される医神の加護を持っている。
その加護は、紛れもなく本物のようで、ファルマの腕ではできない手術が、クロードの指を通して見るとブロンデルの脳に灯った光の大部分が消える。
ファルマは小さく息をのんで、クロードの執刀による手術と、標準的な膠芽腫の治療法、そして神薬による補助的な治療法の三つを組み合わせ診眼に諮った。
その結果、光は完全に消え、すなわち完治が予測された。
「いける!」
「今ので何かわかったのかい?」
「彼女の脳腫瘍の手術をお願いできませんか? 先生ならば成功の見込みがあるようです」
「驚いた。君は未来視と組み合わせた診断ができるのか! そういうことか?」
ファルマはクロードへの敬意を素直に口にしたが、彼からは興奮気味に褒められてしまった。確かに診眼という能力を分解してみると、クロードのいうように確かに未来視の類なのかもしれない。
もし未来視であれば、クララの持つ能力にも共通したものであり、ファルマ固有の能力でも何でもなくなるし、ファルマが持ちうる物質創造と消去のチート能力だって、一般的な神術使いの持つそれの拡張版であるようにも思えてくる。それでクロードが納得してくれるなら、ひとまずこの場はよいとしよう。
「今でこそ失われた神術だが、昔は医師にも薬師にも未来視を使った診断術を使える者がいたそうだよ。その神術は何かコツや発動詠唱はあるのか? もし教えられる類のものなら、ご教示いただきたいな」
強く請われても、ファルマは診眼の発動方法をどう説明していいものかわからない。
「いや、その……発動詠唱も術式も何もないんです」
「……まあ、そうか。それはまたの機会に。まさかと思うが、腫瘍の位置や大きさまで見えているのかな?」
「ある程度は」
ファルマが応じると、クロードは瞳と口を大きく開いたまま絶句していた。
「話を戻そう。君が私の目となり、私が腫瘍を摘出する、それはかまわないよ。君の固有能力で支援してくれるんだろう?」
「手術の支援としては、腫瘍の浸潤や血管の位置のガイドと、数日間、何があっても死亡しない効果を持つ神薬を使えそうです」
神薬と聞いたクロードは耳を疑ったようだ。
「霊薬の間違いではなく神薬か」
「そうです」
「神薬なるものが実在するとは知らなかった。それは大量に調達できそうなのか?」
「正直なところ、一人分が限度です」
「そうか。まあ敢えて入手ルートは聞くまい、君の父上もそうだったが、どんな薬も調達してくるド・メディシス家のことだ。これで怖いものなしだな! これは愉快愉快!」
「クロード先生、あなたとこれからチーム医療のパートナーとなるので誤解のないよう申し上げておきますが、私ができるサポートは病を鑑別することと、神薬を含めた各種の薬剤を準備し提供することだけ。治療の結果はまったくの未知ですし、術中の死亡はないでしょうが、神薬の効果が切れれば死亡はありえます」
「まあ聞き給え。自分の腕に自信を持ち、相手に働きかけるのは、我が医学流派の流儀なのだ、特に相手が貴族である場合、神術の効果で生存率を向上させるのでね。君も少しは自信を持ったほうがいいぞ」
クロードの言っているのは、はっきり言ってプラセボ効果の延長にすぎない。しかしこの世界の医学は、守護神の存在と神術の神秘と切り離せず、貴族の治療に関しては大いにプラセボが影響する。
そうだったな、とファルマは実感した。
「手術の術式はカンファレンスで詰めていきましょう。術式の提案は、いくつかこちらからもできそうです」
「明日にでも全外科講師を招集しよう。新鮮な死体を調達しておくよ」
「ありがとうございます」
ファルマとクロードは膠芽腫の治療のためにタッグを組んだ。
◆
「悪霊、帝都からいなくなってしまいましたね」
メロディの屋敷の神術訓練場で神術の訓練に精を出していたロッテが、休憩時間のお茶会でぽつりとメロディに零した。ロッテは帝都に戻ってからも、週二回、休日を使ってメロディから火炎神術と神術陣の修行と手ほどきを受けていた。さながら習い事のようだ。
ロッテは神術使いではないので、メロディの神術を借りる。火焔神術陣を聖油で書きつけてそれにメロディが作った神術の炎を灯すという、非常にシンプルな方法だ。
「実戦のない神術訓練は物足りない? 悪霊なんていないほうがいいのよ」
気持ちはわかるわ、とメロディが相変わらずの美声で笑う。
「は、はい……ですが、メロディ様からお借りして私が使わせていただいている火炎神術が、悪霊に本当に効果があるか、確かめるすべがなくなってしまいました」
ロッテの教わっている神術は、悪霊に対して効果を発揮するものなので、悪霊がいなければ効果を評価しようがない。効果がわからないものを訓練し続けるのは、霞をつかむようなもので、目標も自分の立ち位置も把握できないのは、訓練に支障がある。
「そうかもしれないけど、聖下が大神官に即位して、帝都のみならず世界中の守護神殿を守ってくださっているから、不安がなくていいわね」
エリザベス一世が大神官と皇帝の兼務である「聖帝」として即位してからというもの、これまで謎に包まれていた神聖国の神秘が少しずつ公になりはじめた。
大神官の神術は、各地の守護神殿を結ぶ巨大な神術網を展開し、それが各地の悪霊の発生を抑えていたのだと知ったときは、ロッテはメロディともどもエリザベスの宮殿に感謝の祈りをささげたほどだ。しかしその守りが、ロッテの訓練には障害となっていた。
「神殿の加護の及ばない場所へ足を延ばせば、悪霊にも遭遇できますでしょうか」
「ばかなことはよしてちょうだい、神術陣で対応できない悪霊に遭遇した場合、あなたには神術が使えないのよ。神術陣は悪霊と戦うための主戦力ではないの、あくまで防御のためなのよ」
「そうですね」
メロディがロッテをたしなめると、ロッテはしょんぼりする。
それをけなげに思ったのか、メロディはロッテの手をとって手の甲をすべすべと撫でた。
「それに、悪霊と戦わなくてよくなるかもしれないわ。風のうわさによるとね」
「それはどういう」
「大神官様の即位だけでなく、神殿が正統な守護神様を見出し、擁立した。それで守護神殿の守りが万全になったようなの」
「えっ、えっ⁉」
ロッテは理解が追い付かないようで、目を思いきり見開いている。
「そういえば、守護神様にお仕えするのが大神官だから、エリザベス聖下はご存じないはずはないわ。聖下はきっと守護神様にお目にかかったはずよ」
「守護神様って、どんなお方なのでしょうか!」
目を輝かせて妄想を膨らませるロッテを、メロディはなだめた。
「神聖な存在だから、私たちがお目にかかる機会なんてないわよ。神聖国からお出ましにならないと思うわ」
それを聞いてからというもの、ロッテはこの世界に降臨したかもしれない守護神のことで頭がいっぱいだった。メロディの屋敷を出たその足で、情報収集のために新しい守護神殿へ向かってみた。帝都の守護神殿は悪霊によって破壊されていたため、宮殿内に新築した神殿が新たな守護神殿として市民に解放され、神聖国の神官たちも詰めている。
しかし、新しい帝都守護神殿の入口は固く閉ざされていた。
ロッテが神殿の扉でもじもじしていると、門番に追い返されてしまった。
「今日は神殿全域立ち入り禁止だ。何の用だ」
「神官様のお話を伺いたいと思いまして」
「明日にしなさい」
「はい、失礼しました。出直してまいります」
守護神殿は基本的に年中無休、貴族平民の別なく、深夜も早朝も聖堂には入れるものだ、今日に限って立入禁止という言葉に、ロッテは疑問を持った。
「工事中なのかな?」
おかしなこともあるものだと思いながら、その日は諦めてすごすごとド・メディシス家に戻ろうとしていたとき、ロッテの足元に黄金の神術陣の光が見えた。
図柄からするに、地中を通って、地上に抜けた光だろう。発信場所は、地中のようだ。
「何これ?」
ロッテはメロディの火炎神術だけではなく、ほかの三属性の神術陣も少しずつ見て学んでいた。美しい神術陣の紋様は、宮廷画家たるロッテの創作意欲を刺激する。その神術陣は、神殿を中心に編み上げられているようだったが、金色の神術陣など見たことも聞いたこともない。
「これ、何の属性だろう? 神官様の神術陣かな、でも神殿神術は白いはずだしな……」
ロッテは好奇心にかられて、神殿の真裏に回り、そっとステンドグラスの間から聖堂内を覗こうとした。しかし、神殿の奥に位置するその聖堂は絶妙に視線を遮る建物の構造になっており、手鏡を差し入れて文字通りのぞき見だ。
地上部は一般参拝者は入れない秘密の聖堂で、入り口はない。
しかしその聖堂は地下へ吹き抜け構造になっていて、底部に祭壇のようなものがあるのが見える。展開された神術陣の上に浮遊し、神術陣から伸びた黄金の神術帯を幾重にも操りながら細密構造を有する神術を構成している術者の少年を目撃した。
彼の体は透きとおり、星屑でできているかのように儚く見えた。
立体神術陣を繰るその黄金の輝きに、ロッテはすっかり魅了されてしまった。
上から覗き見ているため、顔ははっきりと見えない。
だが……ロッテは彼の体にある特徴的なしるしを見つけてしまった。
「ここで何をしている!」
神官服を着た男が、無防備に覗き見をしていたロッテを発見しとがめた。
ロッテは運悪く、普段着を着ていて宮廷画家見習いのバッジをつけていなかった。
なので、面識がないことも手伝って、単なる不審者と見間違えられたに違いない。
「正直に言え! どこの間諜だ」
「私は宮廷画家です、バッジは今日はもっていませんが、陛下にお会いできれば身分は保証できます!」
「宮廷画家が何を覗き見していた」
神官はあわてふためくロッテをますます怪しんだかのように無言で杖を向ける。
白状しなければ危害を加える意思表示だ。ロッテは観念した。
「誰かが下にいました」
「見たのか!」
「顔はみていませんっ」
はあ……と、神官はため息をついた。顔を見ていないというのは事実だ。
神官は何か詮索するような視線を向けてきたが、ロッテの持ち物に画材があるのを確認すると、それ以上追及はしなかった。聖帝の宮廷画家を追及するのは、聖帝の機嫌を損ねると考えたのだろう。
「もういい、行け!」
「あの、一つだけうかがっても」
「何だ」
「守護神様が現れたというのは本当でしょうか」
「巷にはそんな噂が流れているのか」
神官は顔をしかめた。明らかに、聞かれてはならないことを聞かれてしまったかというように。
「正統なる守護神様が神聖国に顕界したというのは事実であり、帝国には入ってきていないが神聖国では公表されている。守護神様と大神官の神術は大神殿に作用し、大神殿を経由して各地の神殿で効果を発揮している。世界中の悪霊の発生を食い止めておられるのだ」
「この聖堂の地下で神術陣を立ち上げていたのは、どなたですか?」
「誰でもない、忘れろ」
「ありがとうございました」
(……違う)
ロッテは膝から崩れ落ちそうになりながら、何とか心を強く持ちその場を立ち去った。
宮殿へつながる石段に腰をかけて、呼吸を整えても動悸がおさまらない。
先ほどの少年は、ファルマだった。彼の召使いとして、彼の至近で毎日奉仕しているのだ、顔が見えなくとも見間違えるはずがない。
そして何より、両腕には薬神紋の輝きがあった。
(ファルマ様、薬神紋に似た傷と体全体が光ってて、透けていた……知らなかった)
ロッテに見せていた彼の姿は、偽りだったのだろうか。
ロッテにとってのファルマは、長年仕えてきた主人であり、宮廷薬師で、異世界薬局の店主で、大学教授であった。それがロッテの知る、親愛なるファルマの全てだった。
だが、今まさに、ロッテの知らない一面を見てしまったのだ。
「ただいまー」
夕刻になってド・メディシス家に戻ってきたファルマは、いつものファルマだった。
平服に戻っていたし、体は透けていなかったし、光を纏ってもいない。ましてや、浮遊してもいない。あれは見間違いだったのでは、と無理に納得させることもできる。
ロッテはいつものようにファルマのコートを脱がせながら、震える声で応じた。
朝に確認したファルマのスケジュールでは、今日は聖帝の往診に宮殿へ出かけていたことになっている。
「おかえりなさいませ」
「元気ないね、どうしたの?」
ロッテの様子がおかしいことに、ファルマは気付いたようだ。
顔を覗き込もうとするファルマに、ロッテは拒絶の意思を示して手を小さく振った。
「わ、私は元気ですよ! 歌も歌えます!」
「何か変だよ? 悩みを抱えていないか? よかったら相談に乗るよ。ちょっと待ってて、荷物を置いてくるから」
「お荷物は私がお預かりします」
その立ち居振る舞いも、しぐさも、ファルマはいつもと変わらない。
「あなたはいつもお優しいです。私に何かあったらすぐに気付いてくださいます、でも、私は鈍感で脳天気で、もしかしたらあなたに大変なことが起こっていたのかもしれないのに、気付きませんでした」
「何も起こってないよ、どうしたの?」
ファルマはロッテを案じるかのように、柔らかく笑う。
その笑顔に絶対の隔絶を感じたロッテは、困ったように笑顔を返すしかできなかった。
そして、切なげに心情を吐露した。
「何か、起こりましたよね」
ロッテはファルマを直視できなくなって視線を伏せる。
ファルマはロッテの肩に左手を置き、右手で顎を自分に向かせた。
「こっち向いて」
二人はお互いの気持ちをはかるように見つめあう。
「君が何を聞きたがっているのか分かった。本当の話をしよう」
「えっ」
「嫌われたくないと思って、その場しのぎに取り繕っては君を傷つけていた。でもそれは卑怯だったよな」
ファルマは脱いだばかりのコートをロッテに着せかけて、中庭の外にロッテを連れ出すと、腰から神杖を抜く。
「誰もいないところで話そう。舌をかまないよう、口を閉じておいで」
ロッテの細い腰に手を伸ばし、ファルマは人目をさけるように一気に夜空へ飛翔した。
帝都の街並みが眼下に小さく遠ざかった頃、ファルマはロッテを抱えたまま杖の底を夜空へ打ち付けると、空中に衝撃が走って瞬間的に透明な神術陣が展開した。
ファルマは神術陣の上に着地し、ロッテも促されて着地する。それは空飛ぶ絨毯のようだ。
「ファルマ様、これは」
「これは空間固着神術陣だよ。そっか、ロッテは神術陣の勉強をしていたんだっけ」
「初めて見ました。それに、空に浮いています!」
「俺も習得したのは最近だよ。神術陣って奥が深いよね、ロッテが夢中になるのもわかるよ」
「私は一瞬でこんな複雑な陣は書けませんけど……これは何属性の神術ですか?」
「まあ、この世界では俺だけが使える無属性の神術かな。落ちないから適当に座って。さて、どこから話せばいいかな。あ、ポケットにチョコレートがあるよ、いる?」
「ください!」
そして、ファルマは神術陣の上にロッテと肩を並べて座りながら五月雨式に打ち明けはじめた。
落雷で死亡したファルマ少年のこと、彼の死体に憑依した異世界人であること、薬神の力を持っていること、影がなく、物質創造と消去ができること。
神聖国がファルマを守護神として擁立し、政治的、帝国の安全保障的判断から神聖国での守護神としての扱いを受け入れているが、自我は人間であること。
守護神の立場を得たことで、各地の秘宝や貴重な文献を読み解け、数々の神術にアクセスでき、最大限に力を引き出せるようになったこと。
それでもなお、霊薬や神薬でも治せない病気は数多く存在し、薬学、科学と神術を組み合わせて、技術の発展を目指してゆくこと。その一環として今は、悪霊の襲来から人々を守るすべを求めて神薬の調合に尽力していること。
全てを終えたら、穏やかな生活に戻りたいこと。
訥々と話していたのは、時間にして三十分ほどだった。
ロッテは相槌を打ちながら、黙って耳を傾けていた。
「たくさん教えてくださって、ありがとうございました」
ロッテは戸惑い、はにかみながら感謝の言葉を口にした。
ファルマは、以前とは違う関係になってしまったロッテをうかがっているかのようだ。
「少し変わられたなとは思っていましたが、落雷の影響だと……前のファルマ様に、ちゃんとお別れができなかったのは残念です」
「前のファルマの記憶もあるよ。呼びかけても出てこないけど、彼の存在はずっと感じているよ」
「なら、一緒に生きていらっしゃるのだと思います」
「そうだね」
ファルマはすがすがしそうに伸びをした。
秘密を打ち明けて、彼の心も落ち着いたのだろう。
「先ほどは何をしておられたのですか?」
「ああ、あれは神術陣の導入のついでに、手術に関する情報を取り寄せて情報端末に落としていたんだ」
「じょうほうたんまつ」
「ああ、いや、調べ物をしていたのさ」
「そういえばファルマ様の神力が、全世界に及んでいると神官様からお聞きしました」
「全世界は言い過ぎだ、神術陣を介して、せいぜい大陸中の掌握がいいところかな」
「すごいですけど、ちょっとすごすぎて怖い気もします」
ロッテが茫然としているのに気付いたファルマは、弁解を始める。
「怖がらなくて大丈夫だよ、掌握といっても、俺は別に世界を支配しにきた魔王じゃない」
「それは、今までのあなたの足跡を見てよくわかっています。あなたは、この世界の人々の命を守ること、私たちを癒すことに、全身全霊でいらっしゃいました」
「そう思ってもらえるなら、嬉しいよ」
「あなたが、あの薬局に異世界薬局という名前をつけた理由がわかりました。あなたにとっては、ここが異世界なのですね」
「ああ、あれはね。その通り」
「ほんとうの事を知ったら、もっと好きになってしまいました」
瞳を潤ませて思いを告げるロッテの手をとり、ファルマはそっとロッテの手にキスを落とす。プロポーズと受けとれる、意味ありげなキスだ。
ロッテが耳まで真っ赤になっていると、ファルマはロッテの反応に気付いて頭をかいた。
「これからもよろしくね」
「勘違い、してしまいました……」
「ロッテのことは好きだし、大切な存在だ。それは嘘じゃないよ。でも俺は神籍に入ったから人間ではなくなった。誰かと結ばれることはもうできない、勘違いではないけど、ごめんね」
どっちつかずの罪な言い方だ、とロッテは感じたが、彼としては精いっぱいの素直な表現なのだろうとも受け止めた。
「そうですよね。守護神様になったのですもんね、でも、ごめんなさい。前のファルマ様も、今のファルマ様も、なんだかんだでやっぱりファルマ様です」
「そんなこんなで、いままで通り、ただのファルマとして接してくれると嬉しいな」
「はいっ」
ロッテは、今後もファルマと呼ぶことに決めた。
ファルマとロッテはチョコレートを食べ終わり、ファルマはロッテをしっかりいだくと、神術陣を解除し、ゆっくりと地上へと降りていった。彼が何かしたのか、先ほどまで薄曇りだった空は晴れ上がり、満天の星が見える。
庭先に羽毛のように着地すると、ロッテは天真爛漫な笑顔を向けてファルマを誘った。
「ファルマ様、何か温かいものを飲みませんか?」
「いいね、はちみつを入れよう」
その後、二人はホットミルクティーで体を温めた。
ロッテはいつもより甘く、少しだけほろ苦く感じた。