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【完結済】異世界薬局(EP4)/【連載中】世界薬局(EP4.1)  作者: 高山 理図
Chapitre 7 新大陸の伝承  Légende du nouveau continent(1148年)
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7章2話 来年はこない

 ファルマは入学時、学生たちの健康診断に診眼を使わなかったことを後悔した。

 定期的に診ていれば、ブロンデルの脳腫瘍については絶対に見逃さなかったであろう疾患だ。

 ファルマが診眼を使う動作はやはり不自然で、日常の中で取り入れるのが難しい。

 それで控えていたのが仇になってしまった。ファルマが診眼を使っている間、ブロンデルは不思議そうに彼をのぞき込む。


「先生……? 目が霞むんですか?」

「違う、ちょっと動かないでいてくれ」


(固形腫瘍で、真っ赤、前頭葉に浸潤しているな。境界がはっきりしないというのは浸潤してるのかな。悪性度が高そうだ。腫瘍径は2cmほどある)


 この腫瘍のせいで認知機能が低下し、やむにやまれずテスト問題を盗んでしまったのかもしれない。

 などと考えれば考えるほど、事情を聴かずに彼女を責めたのは間違いだったのかもしれない。

 そんなことを考えながら、悪性腫瘍を検索してゆく。


(”髄芽腫、神経膠腫”)


 神経膠腫グリオーマのほうで反応がみられた。

 ファルマはさらに細かい分類を行いつつ、悪性度を見極めてゆく。


(”膠芽腫グリオブラストーマ”)


 膠芽腫で間違いないようだ。この膠芽腫という腫瘍は、脳のグリア細胞から発生し、脳腫瘍の中でも最悪の悪性度といっていい。

 腫瘍の境界がはっきりとせず、手術による全摘出は困難で、外科手術、化学療法、放射線療法などの集学的治療法を行ったとしても、根治するための有効な治療法はなく、平均余命は約十四ヶ月。


 五年生存率は、わずかに八パーセント。


 彼の妹であったちゆの命を奪った病気だった。

 神薬創造の代償として、もう今となっては顔も思い出せない彼の妹の薬谷ちゆ。彼女は手術、化学療法、放射線治療の壮絶な闘病の末に亡くなった。


 ファルマの手持ちの治療法を頭の中で広げてみる、まずは標準治療を視野に入れる。


 地球でならば第一にやるべきは開頭手術。脳手術に関しては、帝国医師団もファルマもまったくといって経験がない。

 ノバルート医薬大では実験的な手術が行われているというが、成功率は惨憺たるもので、術後は数週間以内にほぼ全員死亡している。

 神聖国で手術の術式情報を取り寄せ、帝国いちの外科医であるクロードの協力を得たとしてもやるべきではないだろう。手術実施日が彼女の命日になる。

 今の帝国医学部医学科に、脳手術を任せられるほどの信頼はない。

 しかしこうしている間にも、刻一刻と彼女の脳の機能は損なわれてゆく。

 手術を避けるとすれば放射線治療。放射性物質は創造できないこともないが、線量の管理ができそうにない。この案は保留。


 膠芽腫の標準治療としての化学療法は、手術の直後から放射線治療と化学療法が併用して行われる。


(初回治療薬としては、細胞障害薬であるテモゾロミドが、再発例に対しては、アバスチンやニムスチンなども検討されるが……)


 ファルマはめぼしき薬を診眼にはかると、すべて効果は限定的。

 増殖は押さえられるが、それは一時的なもので完治しない致死的であるというインジケータ、腫瘍に宿る赤い光は頑として消えないのだった。

 非切除で化学療法か、その他の治療法ということになる。


(これを確実に治す神薬があれば……)


 短期間の鍛錬の末に神薬を扱えるようになったファルマだが、それは対悪霊の効果を狙ったものが多く、一時しのぎ的なものが多い。

 レシピは存在していても、神秘原薬が不足していることから、万能薬的な効果を持つものの創造には至っていない。

 難治がんで死を迎える人の命を少しばかり延命する、などのことしかできず、根治には至らない。彼女の顔を見ているうち、ファルマは泣けてきた。


(俺の存在ってなんなんだ。神薬まで合成できるのに、彼女を助けられそうにないだなんて……)


 また、この病に負けてしまうのだろうか。

 二度も同じ喪失をするのか、そんな心の声がファルマを苛む。

 彼女は偶々ファルマの教え子となった女学生にすぎない、だが……だが、彼女を助けられなければまた過去に捕らわれたまま、前に進めない。


「私、何か病気なんですか? 今、何を……」


(確実に細胞を殺すものでないといけない。俺は脳外科の手術も放射線治療もできない)

 

 思考の渦に飲み込まれて硬直しているファルマに、ブロンデルが声をかける。


「次の講義が始まるので戻ってもいいですか?」

「ああ、わかった。とりあえず、次の講義へ行っておいで。また時間をみて話をする」

「はい……今日は取り乱してすみませんでした。落ちるかもしれませんが、ちゃんと試験を受けます」


 去ってゆく彼女の歩行を見守っていると、何もない場所で何度か躓きそうになっていた。

 それを危なっかしく見ていたファルマは杖を抜いて浮遊し彼女に追いつき、ぽんとブロンデルの背中に触れ、神術をかける。


(”始原の救援”)


 ブロンデルはファルマの接触に気付き、のけぞるようにした。


「な、何ですか?」

「あ、いや。激励のつもりで」

「気配がしませんでしたけど、走ってきました?」


 始原の救援は、瀕死の重傷者に対して覿面に効く。

 だが、脳腫瘍の進行を抑えることができるかどうかはわからない。それでも、保険のつもりでかけておいた。幸い、始原の救援をかけた後、彼女の歩行のふらつきは抑えられているようだ。


「おどかさないでください」

「ごめん」

 

 よく考えたらセクハラ寸前だったか、と思いファルマは頭をかく。

 ファルマは治療方針を欠いたまま、小さくため息をついて彼女を見送った。


(今の状態で試験を受けて、その成績を評価されても不本意だろうな)


 ほかの教授にも彼女の試験結果が悪ければ温情措置を根回ししておこう、腫瘍が存在することによって学習に差支えがあるようなら、試験は中止に……などとファルマは配慮した。

 ファルマは教授室へ戻りPCを立ち上げ、神聖国でDLしコピーして蓄えておいた資料の中から、脳の機能局在を示す脳地図を引っ張り出してくる。


「腫瘍はこのあたりだったか」


 彼女の脳腫瘍は、前頭前野に存在する。

 思考、運動能力、意欲をつかさどる脳の司令塔といってもよい場所、そこに2cmほどの腫瘍が居座っている。


「新しいことが覚えられないと言っていたよな……」


 それは記憶をつかさどる海馬に損傷を受けた場合に現れる症状なのだが、彼女の腫瘍の位置とは異なる。


「彼女の主訴によれば、集中できずに覚えられないという方が正確か。そして、テスト問題を盗んでしまうということは、善悪の判断もできない状態にあると。これは本人も辛かろうな」


 彼女の脳の損傷に対するリハビリは次の段階で、一刻も早く腫瘍を治療するのが先決だ。


(腫瘍を完全に摘出できればいい。でも、この腫瘍は脳領域に染み込むように広がっている)


 化学療法で効果のある薬がないと判明した以上、ファルマは腫瘍を切除せず化学療法を除いたアイデアを考えた。


「化学療法が効かないなら、物理的に死滅させるまでか」


 ①腫瘍に栄養を送っている血管を全部閉塞させて腫瘍を兵糧攻めにし壊死させる。

 ②抗体で腫瘍を標識して、標識物質を狙った消去能力で腫瘍ごと破壊する。

 ③ファルマの手を脳に突っ込んで、腫瘍を両手で握りこみ、その手の中で毒物や、カルシウムなどの細胞死を引き起こす物質を高濃度で処理する。

 ④範囲指定でDNAを構成するリン脂質などを消去をかけ細胞死を誘導する


 腫瘍を死滅させたとしても、気を付けなければならないことはある。

 一気に腫瘍を破壊してしまうと、死んだ細胞から放出された大量の核酸や細胞の分解産物が血中にあふれ出し、それが原因で腫瘍崩壊症候群というものが生じる。

 このため何回かに分けてやるか、領域指定で消去してしまったほうがいい。


 どれも、今のファルマならば実現可能なアイデアのはずだ。

 ただ、スポンジの中を浸透するようにこの腫瘍は細かく広がっていて、浸潤した細胞まで破壊できる完璧なものではない。


(だからといって一刻も放っておく時間はないぞ……)


 この腫瘍の進行は非常に早く、一週間や二週間で大きさが倍になったりもする。

 できることなら、今日にでも処置をしてしまいたいのだ。


「教授! お疲れ様です!」


 考え込んでいたファルマに、ゾエがお茶と茶菓子を出してくれた。


「今度は何のお悩みです?」

「ちょっと難しい患者の治療法を考えていたんだ」

「私ではお力になれませんよね。せめて肩でもお揉みしましょうか」


 ゾエがファルマの肩に手を添えて揉んでくれようとする。


「や、気持ちはありがたいけど今はいいよ」

「私、ここから教授が大温室で女生徒にスキンシップを図っておられるのを見ましたが、患者さんというのはあの子ですかね」


 どうも温室の中の出来事を、教授室から目撃されていたらしい。


「言い方があれだな。どうしてそう思うの」

「教授のほうから女子生徒に接触するのは珍しいと思いましたので、治療か何かしておられるのかと」

「鋭いんだな」

「誰にも言いませんからご安心ください。教授秘書ですから」


 ファルマは、セクハラ疑惑を晴らすために、ブロンデルの置かれた状況を簡単にゾエに打ち明けた。

 その話を、図らずも立ち聞きしていたものがいた。教授室の隣の研究室にいたエメリッヒだった。ドアが開いていて、丸聞こえだ。そして、運が悪くジョセフィーヌもやってきた。


「教授! ブロンデルがどうしたんですか⁉ 詳しく聞かせてください!」


(しまった、エメリッヒとジョセフィーヌがいたか……)


 エメリッヒは特にすっかり研究室の住人であり、彼が研究室にいることは日常になっていたのでファルマも気に留めていなかった。ファルマはやってしまったと額をおさえる。


「ブロンデルが脳腫瘍なんですか……? それは悪性のものですか?」


 エメリッヒが悲鳴にも近い声を上げてファルマに詰め寄り、次の瞬間には隣の部屋から彼のバイブルである教科書をとってきて脳腫瘍の頁を開いてファルマに見せに来る。

 そして、ジョセフィーヌも近寄ってきた。


「どれの疑いですか?」


 ファルマが渋々指をさすと、彼の表情は固まった。

 エメリッヒは膠芽腫の恐ろしさを知っているからだ。


「なんてことですか、家族性致死性不眠症の俺より状況が悪い……生存期間の中央値は、一年以内だったはず」

「そう、その膠芽腫なんだ」

「最悪、一年しか生きられないんですか、あいつは。あいつには来年がないかもしれないなんて」


 エメリッヒは、脳のどの領域にどの大きさで存在するのかを尋ねた。

 そして返ってきたファルマの回答、その言葉を一つ漏らさず、メモをとってゆく。エメリッヒはまいったというように呟く。


「……教授、今日はもう実験は終わったので早く切り上げて帰ります」

「おつかれさま。分かっていると思うけど今の話はまだ」

「はい、口が裂けても他言しません」

 

 ジョセフィーヌも「私もです」と青ざめた顔をしながら答えた。


 ファルマはエメリッヒとジョセフィーヌの口の堅さを信頼していないわけではなかったが、特にエメリッヒは顔に隠せないタイプなのでわかりやすすぎる。

 治療法が定まらないうちにブロンデルに気付かれてしまっては意味がない。


「教授はこの腫瘍をどうなさるおつもりですか」

 

 ジョセフィーヌがおそるおそる尋ねる。ジョセフィーヌも知る限り、治療法はないに等しく、絶望的なのだ。


「何をするかは考えているけど、そのままにはしておかないよ。それに、生存率は0%ではないからね」

「そのお言葉が聞きたかった。俺も治療法を考えてみます、外科的切除が最善ですが、それも考えておられますか?」

「ああ、あらゆる可能性を視野に入れている」

「では、俺も治療に参加したいです。失礼いたします」


 エメリッヒはファルマの言葉を耳に入れると、決然とした足取りで教授室を出ていった。


「わ、私も……何かできないでしょうか」

「ジョセフィーヌさんは彼女に勉強を教えてあげてもらえると嬉しいかな」

「わかりました。精一杯教えてみます」


 ジョセフィーヌは力強く頷くと、研究室へ引っ込んでいった。

 ファルマはこれまで、彼らを難治性疾患の治療のための戦力だとは思っていなかった。

 だが、すでにエメリッヒは現代薬学を学びはじめ、地球の医学ではまだ治療法の見つかっていない遺伝性疾患の克服への道を歩み始めている。

 エメリッヒは特に、致死的な脳疾患の保因者として、彼女に共感するものがあるのだろう。


「そうだな、頭脳は多いほうがいい」


 ファルマは教え子の成長に気づかされ、認識を改めるかのように大きく一つ頷いた。


 ◆


 エメリッヒは図書館で試験対策をしている学生たちの中に、ブロンデルの姿を見つけた。

 大股で近づき、どすんと隣の席に座る。ブロンデルは他にも席があいているにも関わらず隣に座ってきたエメリッヒに圧倒されたのか、肩をすくめた。

 エメリッヒはただでさえ大柄で、粗野な印象を受ける青年だ。しょっぱなからファルマに神術試合でケンカを売るという問題行動も起こしている。

 その彼がずいずいと迫ってくると、ブロンデルでなくても怯む。


「何よ?」

「これをやるから、絶対に試験を落とすな」


 エメリッヒは数冊のノートを、ばさっとブロンデルに押し付けるように手渡した。

 学年一の秀才である彼が、ほかの誰に請われても誰にも貸さなかったノートだ。


「やるって……これがなかったら、あなた勉強どうするのよ」

「今テストされたって満点に決まってる」


 真顔で答えるエメリッヒに、ブロンデルは面食らった。

 劣等生の前で自信満々に言ってしまうところがまた嫌味で、カチンとくる。


「お前、何回か講義に出なかっただろ。だから、抜けていた講義のぶんだ。やる」

「私がいつ出席しなかったかまで覚えているの? あんた、最前列にいたのに」

「講義中は気が張っているからな、どんな些細なことにも気づくさ」


 さも当然のことのように答える秀才に、ブロンデルは苛立ちをぶつけた。


「神経質なのね……何よ、私を笑いにきたんでしょ。ばっかみたい! あんたのノートなんて、願い下げよ!」

「俺が勉強に命をかけているのは、文字通り命をかけているからだ」

「は?」

「持てる技能と知識をもって全身全霊で戦わないと、俺は死ぬんだ」


 ひとつ深呼吸をして、エメリッヒはまっすぐな視線でブロンデルを射抜いた。


「俺もお前も、誰だって」


 エメリッヒは指先を彼女の額に突きつける。


「わずか先の未来を確実に生きていることすら、人間には難しいんだ。今日できたことは明日はできなくなるかもしれない、明日はどうなっているかわからない」

「……何を自分に酔ってるの?」


 ブロンデルは気持ち悪いものを見るような顔をして、目をしばたかせる。


「だから俺は、今日のみを全力で生きている。その積み重ねが、俺を生かしていく」

「何がいいたいのよ」

「明日死ぬと思って毎日を生きろ」


 エメリッヒはぶっきらぼうに言い捨てると、その場を去っていった。

 後にはブロンデルと、彼のノートが図書館机の上に残された。


「滔々と自分語りしてノートを押し付けて……いけすかないわ、あいつ。明日、このノートを突き返してやらなくちゃ」


 勉強する気をそがれたブロンデルが机の片づけをして図書館の外に出ると、ジョセフィーヌと鉢合わせをした。


「こんばんは、ナタリー・ブロンデルさん。試験勉強お疲れ様。これからの予定は?」

「……寮に帰るけど」

「よかった! 一緒に帰ろ!」


 ジョセフィーヌは肩をたたき、強引に誘う。


「ね。うちにこない? 今日はパパもママも出張で、召使いも暇を出して誰もいないから、泊まっていったっていいわ、それに、一緒に試験勉強しましょうよ。一人で勉強するより二人でやったほうがはかどるわ」


 ブロンデルとジョセフィーヌはそれほど仲の良い学友ではない。

 急になれなれしく話しかけてきて、家にまで誘われるのは、違和感がある。


「なんで? エメリッヒ・バウアーといい。あんたといい、もしかして、教授の差しがね?」

「同じ学部学科で、クラスメイトなんだから、気にしたっていいじゃない」

「……余計なお世話よ」

「ほらほら、寮に帰るだけなんでしょ? うちにいらっしゃいよ、朝仕込んだおいしいシチューがあるわ」


 ブロンデルは半ば引っ張られるようにしてジョセフィーヌの家についてきた。

 ジョセフィーヌは部屋で所在なさそうにもじもじとするブロンデルを席につかせ、パンとシチュー、そして焼き魚の夕食をブロンデルにふるまい、二人でおいしく食べた。


「ごちそうさま。じゃ、私は帰るわ。もう遅いから、お邪魔しました」

「えー、これから一緒にテスト勉強しようよ、どうせ家に帰ってからも勉強するんでしょ?」


 テスト前の学生のすることといえば、勉強しかない。ブロンデルは言葉に詰まる。

 ジョセフィーヌは二人分の紅茶を手早く準備し、ブロンデルを引き留めた。

 仕方なく彼女もノートとテキストを出す。

 暫く時間が経過したあと……ブロンデルの手元を見ていたジョセフィーヌは気づきを述べた。


「ねえ、ナタリー。そこは重要ではないわ。この項の要点はこっちよ。あと、一ページ飛ばしたわよ」

「え? なんでそんなに見てるのよ。あなた本当におせっかいだわ」

「ごめん、一緒に勉強すると気になっちゃって」


 ブロンデルは、脳腫瘍が思考力を妨げているのか、情報の取捨選択ができにくくなっているようだった。それに、易怒性も増している。そこで、ジョセフィーヌがそっと要点をかいつまんで話す。

 ブロンデルの勉強法だと、頭に入らないどころか、いつまでたっても終わらない。時間は無限ではないので、節約は必要だ。

 ジョセフィーヌの講義を聴いていると急に、ブロンデルが頭をかかえた。


「頭が痛くなってきた……」

「だっ、大丈夫? 頭痛薬のむ?」

「もののたとえよ。一気にたくさんしゃべられると頭がついていかないわ」

「なあんだ……」

 

 腫瘍による頭痛ではないと知ったジョセフィーヌがほっと溜息をつく。

 ブロンデルは思い出して、バッグの中からノートを取り出した。


「そういえば、エメリッヒ・バウアーがノートをくれたの」

「えっ、すごい! エメリッヒ君、誰にもノート貸したことないのに。って、くれたの!?」

「私も何で突然くれたのか分からない。あいつとはまともに話したこともなかったし。私が欠席していたところのノートだけ置いて行ったの」


 ジョセフィーヌは、エメリッヒの露骨なサポートに「あらら」という顔をしたが、左右にぷるぷると首を振って取り繕う。

 

「でも、これを見ながら要点を絞り込んで勉強すれば頭に入りやすいわ! せっかく貸してくれたんだし、これを使わせてもらいましょ」


 ジョセフィーヌが嬉しそうにノートをめくる。ジョセフィーヌも見たことがなかったものだ。

 そう言いながら彼女がパラパラとめくったノートには、メモが挟んであり、ブロンデルへと宛書がしてあった。


「あら、ナタリーちゃんに手紙だって。ラブレターかしら」

「ええ? そんなわけないわ、やめてよ」


 それでも早く内容を確認したほうがよいということで、ブロンデルはジョセフィーヌがトイレに席を立った間に手紙を読むことにした。そこに書かれていたのは、習ったばかりの記述形式で書かれていた、家族性疾患の遺伝様式を示した家系図であり、手紙というには不愛想だ。

 しかし、家系図の中のエメリッヒを示す個体の注釈に、こんな単語が添えてある。


「致死性家族性不眠症の保因者?」


 そんな言葉など知らないブロンデルは、教科書の索引から検索する。

 ようやく発見した記述に、かじりついて読んだ。


「あいつ……死ぬんだ……」


 エメリッヒだけではなく、弟も妹もみんな死ぬ。

 ブロンデルはエメリッヒの立場を知り、彼の言葉の意味を知り、頭をかかえた。


「死ぬ前の時間を使って、自分と家族の病気を治そうと不治の病に立ち向かっているっていうの?」


 ブロンデルはノートを閉ざす。

 そしてテーブルの上で拳を握りしめ、その拳はわなわなと震えた。


「ああ、何であいつが学年を先取して研究室に入り浸っているのかわかった。いつも必死なのかわかった」


 ブロンデルはその場で泣き崩れた。涙が枯れても号泣した。 

 トイレから戻ってきたジョセフィーヌが彼女にハンカチを差し出す。


「どしたの? エメリッヒ君、なんかひどいこと書いてた?」

「私、帰るね、こうしてはいられないわ」

「う、うん。気を付けて帰ってね?」


 その日から、夜遅くまで図書館に残るブロンデルの姿があった。

 ジョセフィーヌが時々声をかけると、エメリッヒのノートをもとに、猛烈な勢いで勉強をしているようだった。そして彼女は積極的にジョセフィーヌやエメリッヒに質問をするようになった。

 最初は効率の悪い勉強をしていた彼女も、だんだんと勉強のコツをつかんできたようだ。


 そうして、運命の定期試験の終わった数日後。最難関の難易度となったファルマのテストの後の最初の講義になった。


「試験が終わりましたので、テストの答案を返しますね」


 試験の採点を終えたファルマは一人ずつ答案を返してゆく。

 読み上げられた成績優秀者は五名。エメリッヒは宣告通り満点。ジョセフィーヌ・バリエが次点。当然のように成績上位者の中に名前はなかったブロンデルは、祈るようなしぐさをしていた。そして、とうとうブロンデルの名前が呼ばれた。

 教壇に立つ子供教授から、両手で答案を受け取る。彼女は留年宣告を受け止めるべく、ぎゅっと肩に力が入る。


「75点。合格ですよ」

「えっ」


 ブロンデルは目を見開き、信じられないといった表情を顔に張り付けて答案を凝視する。ファルマの直筆で、事細かに間違い部分の解説が書き込まれていた。


「普通に受かった……」

「よく頑張りましたね。あなたの実力ですよ」

 ファルマはさりげなく賞賛して、次の生徒の名前を呼んだ。


 その日、ブロンデルは、エメリッヒやジョセフィーヌたちに感謝をこめて昼食をおごった。

 エメリッヒはあてつけにか、これでもかというほどお代わりをした。


「ありがとう。二人とも。私、少し頑張れるようになった気がする」


 エメリッヒとジョセフィーヌは顔を見合わせて、思いを共有したかのように微笑んだ。


謝辞:

本頁は、企業研究員のとくがわ先生、研究職のUO先生、もり先生、山下敦先生に膠芽腫の治療に関するアイデアをご教示いただきました。

どうもありがとうございました。


2018/3/24に異世界薬局6巻が発売いたしました。詳細は活動報告にて。

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