決意
朝のウォーミングアップを終え、朝会った門兵に「よぉ、ただいま」と気さくに挨拶しながらこの巨大な街を守る壁の内側へと入った後、橘は適当な店で朝食を買って早速ギルドへ向かった。
不良の悪ふざけついでに書いた落書きデザインの扉を押し開けると、まだ早い時間だというのにギルド内には屈強な肉体を持った強面の男たちが酒を片手に泥酔した様子で騒いでいた。
「あらら、君だれ?」
男たちが腰掛けているテーブルのさらに向こうにあるカウンター席の奥から若い女性の声が届いた。
橘がそちらに目を向けると、長い髪を後ろで結った若い女性がこちらへトテトテ歩いてきた。
「ここはハンターズギルドなんだけど、君はうちのメンバーじゃないわよね?」
「あ、ここに知り合いがいるから顔出しただけだから」
「知り合い?」
女性は不思議そうな顔で橘の顔を見たあと、後ろで繰り広げられる男たちの宴に目を移し、また橘を吟味するような目つきで橘の全身を見回して言った。
「交友関係はしっかりね」
「大丈夫だ、あんな飲んだくれ共に友達はいないからな」
「そう。なら良かったわ。あ、そうそう自己紹介がまだだったわね。私の名前は『デイジー』、このハンターズギルドで事務と受付、あと後ろの連中の酒を運ぶ係やっているの」
よろしくね、と営業的な笑顔を振りまいてから丁寧にお辞儀をしたデイジー。
その姿はまさに仕事のデキる女、といった感じで橘もつい思わず流れで覚束無い挨拶を返する。
「輝です」
「テルくん?いい名前ね、その金髪も相まって輝いている感じがするわ」
「まぁ読んで字のごとくだからな」
皮肉ったように口元を引き上げた橘に、デイジーはフフフと微笑んだ。
「ところであんな野郎共が違うならテルくんのお友達って誰?」
「えーっと、黒沢……とか」
「マキちゃんの?へぇ!ってことは君がもしかしてあの噂の英雄くんなわけね!?」
「え、英雄?」
思わぬ言葉が自分にかけられ困惑して聞き返す。
デイジーはその様子を見て信じられないわね、と呟いてから続けた。
「悪魔の大群相手に剣一本で大立ち回りをやらかして、マキちゃん達を救ったんでしょ?」
「え、まぁそうだけど、俺は英雄なんてご大層な異名をつけられるほど何かをしたってわけじゃないから。英雄なんて呼ばれるのは何と言うか……むず痒い」
いろいろ隠そうと片手で頭を掻く仕草をして橘は口篭るように言った。
第一に英雄の称号を貰うなら師匠の方だろう。
結論から言えば時間稼ぎしただけよりも悪魔の大群とその総大将を追い払ったガイウスの方がよほど見栄えある功績だ。
そう思う橘は赤いコートを意識してその袖口を眺めた。
デイジーは珍しいものを見るような目で橘を眺めた。
その視線には興味と羨望が含まれていて、妙な居心地の悪さを橘に与える。
「随分と謙遜するのね。いいわねそういうの、嫌いじゃない。というかむしろ好感が持てるわ。ここのゴロツキ共は皆自慢するように自分の活躍を誇示するから。しかも釣った魚は大きいっていう感じで8割増の誇張なんて当たり前」
昨日も任務から帰ってきた男達にサブイボが立つような自慢話を聞かされたことを思い出して、デイジーは大層うんざりしたように息を吐いた。
こんな若い子が謙虚な姿勢を見せるのだからいい大人たちのあんたらはもうちょっと頑張ってよ、と心の中で呟くがそれが誰かに届くことはなく、一瞬だけ後ろで一際大きな騒ぎが起きてその雑音にかき消されるように彼女の心中は静まり返る。
たいへんだな、とさり気なく気遣った橘の言葉に思わず甘えたくなってしまうのも仕方ないくらい辟易していた。
「まぁうるさいけど、マキちゃん達が来るまで適当に座ってていいわよ。何か飲む?」
「じゃあコーヒーで」
「はいは~い、喜んで。あ、でも味に期待しないでね。使ってる豆は安物だから」
ひとつウインクを飛ばして颯爽とカウンターに戻っていくデイジーを見送って橘は二人席の片側に腰掛けた。
相変わらず男たちの騒ぎが煩いが、こちらを気にしてくる者もいない。
喧騒もボリューム調節が効かないBGMだと思えばそこまで居心地も悪くなかった。
カウンターで一生懸命細腕を回してコーヒー豆を挽いているデイジーの姿を横目に捉えながら、先程買っておいた朝食のパンを袋から取り出して頬張った。
それから未だにコーヒーが届かないぐらいの間があってから、ギルドの扉が開いた。
見れば黒髪の少女、黒沢真希がドアを開けてギルドの中に入ってきていた。
黒沢は騒がしいギルドの喧騒に表情を歪めて固めを閉じると、視界にその光景に見慣れない人物がいることに気付いて微笑んだ。
「おはよう橘くん」
朝から見るには網膜が焼けてしまいそうなほど眩しい笑顔を向けられ、橘は歳相応な思春期男児のウブな反応を示しながらも「おはよう」を返そうとしたのだが、さっきまで馬鹿騒ぎしていたはずの男たちが皆一斉に黒沢の前で跪き、
「「「「お早う御座います女神!!」」」」
実に異様な光景を演出してくれた。
おかげで橘の言葉は寸断され、宙を漂うように音にならない。
困り果て、苦笑いし、肩をすくめて視線を適当に逸らすと、カウンターでコーヒーをカップに注ぐデイジーも呆れた様子だったのが目に入った。
「もう!だからその挨拶やめてってば!恥ずかしいよ……」
顔を朱色に染めて、本当に恥ずかしそうに口ごもる黒沢だが。
――――やっぱりこいつは男を手玉にして遊んでるんじゃないか?気を付けておこう。
と、橘の目にはどうも黒沢の姿は悪女にしか映らないようだ。
それを女の勘的な何かで察知した黒沢がキッと鋭い睨みを向けてくるので素知らぬ顔で目を背けた。
手に残ったパンを一口に胃へ放り込む。
「はいはい解散解散!いつまでも床に張り付いてるなんて男のすることじゃないわよ」
橘にコーヒーを運んできたデイジーが手を叩いて黒沢に魅了された哀れな男どもを散らした。
やがて喧騒が戻り、デイジーは「まったくもう」と息をつく。
「おはようデイジーさん」
「おはようマキちゃん。朝から大変ね」
「デイジーさん程じゃないです」
二人共少し人生に疲れた苦労人の顔をして笑いあった。
「何か飲む?」
「ミルクを」
端的な会話を応答をして黒沢は橘の座るテーブルの席に座った。
「改めておはよう」
「おはよう。今日も大人気だな女神様」
「嫌味はやめてよ」
「なら悪女様か?」
「ぶっ飛ばして欲しいの?」
笑顔で拳を握る彼女はとてつもなく怖い。
橘はブンブンと首を横に振り「冗談冗談」と誤魔化すように言った。
「橘くん朝早いね」
「ここの飲んだくれ共よりは遅いさ」
「あの人たちは昨日の夜から飲み続けてるからノーカンだよ」
そんな下らない会話を繰り返して、時折コーヒーに口をつけてブレイクした。
――――まずい。
この黒い汁にはコクが全くなく、苦味だけが際立っていた。インスタントの大安売り品の方がまだ旨みもあっただろう。デイジーが先に断りを入れるわけだ。期待どころか絶望すら感じる味だった。
少し陰鬱な気分になりながらも、ちびちびと着実に減っていくカップの中身を見下ろした。
やがてガラスのコップに入ったミルクが黒沢の前に音もなく上品に置かれた。
デイジーはそのまま踵を返して行ってしまうが最後に「ね?」と聞いてきたので思わず苦笑い。
ほんとこの豆汁は苦い。
「ここのコーヒーまずいよね」
黒沢も飲んだことがあるのか、この苦さを思い出したかのように表情を歪めていた。
彼女は自分の前に置かれたコップを手に取ると、少し回してミルクが揺れるさまを見続けた。
なんとなく、そうしていると落ち着くのだ。
しばらくそうした後、やっとコップを両手で持って口元まで持っていく。
そこで橘の視線がミルクの入ったコップに集まっていることに気付いた。
隣の芝は青く見えると言うが、苦すぎるコーヒーを掴まされた橘には黒沢のミルクがさぞ美味しい飲み物であるように見えるのだった。
黒沢は一度グラス内で揺れるミルクに目を落としたあと、
「飲む?」
橘にグラスを差し出した。
それに戸惑ったのは当の橘だ。
舌は苦味で塗り潰され、程よい甘味を求めてはいるがクラスのマドンナ的存在から飲み物を渡されるというのは、妙にドキドキする。
「いいのか?」
「別にいいよ。でも全部飲まないでね」
機嫌が良さそうな笑顔。
だが何故だろう、橘はその笑顔の裏に目論見があるように思える。
黒沢が悪女にしか見えなくなってきた故か……。
「……」
まぁ橘のお粗末な思考は、別に毒が入ってるわけではないだろうし気にすることもないか、という結論に至るのだで、潔く黒沢からコップを受け取り一口飲んだ。
「うまいな」
「でしょ?このギルド、コーヒーは筆舌しがたい不味さだけどミルクは案外いけるの」
「俺もミルクにしときゃよかった」
「あとミックスジュースも美味しいよ。他には……」
饒舌にこの街について語り尽くさんばかりに言葉を並べる黒沢。
その姿はとても楽しそうで口を挟むのも野暮ったく思えた。
橘も大人しく時折相槌を入れながら聞いている。相槌がわりにミルクを煽った。
コップの中身が四分の一ほど目減りしたところで、これはマズいと惜しみながらも黒沢に返した。
すると黒沢はじっと受け取ったコップを見つめ、そのまま動かない。
よく見れば少し口元がニヤケているような気がする。
「く、黒沢?」
「え!な、なに?」
「どうした、ずっとコップ眺めるばかりで?」
「い、いや、なんでもないよ」
動揺を隠し切れない黒沢は、言葉を飲み込む代わりにミルクを一気に飲み干した。
「一気飲みしなくても……」
「だ、大丈夫。ところで橘くん、今日はどうするの?」
「いろいろ考えちゃいるんだけど、ギルドの依頼って俺でも受けれる?」
「え?」
橘からある意味予想外の質問が来た。
黒沢は不思議そうな顔をして、
「ギルドメンバー以外は依頼を受けれないよ」
「そっかぁ~、残念」
「……橘くん」
「うん?」
「ギルド入らないの?」
「入る気はないな」
それを聞いて黒沢はひどく落胆した。
黒沢はすっかり橘が自分たちと同じハンターズギルドに入るものだと思っていた。
言葉として聞いてはいないがどうやらこれからは一緒に行動を共にするみたいだし、ならば同じギルドに入った方が色々と便利なのだ。
いくら知らなくても橘は自分たちと同じ道を選択しようとしてくれると思っていたのに。
なんとなく、不愉快だった。
大切な人が離れていくような、そんな不快感があった。
だが黒沢は感情を一切表に出さず、いつも通りを心がけて
「そっか。残念だな」
何でとは聞かなかった。
黒沢は知っている。橘は確かに救いようがないほどバカだが、それでも何も考えていないわけではないことを。
たまにめんどくさくなって思考を放棄するが、それもこのまま進めば必ず正解にたどり着けると無意識で確信しているからに違いなかった。
橘は黒沢の心境に気付くこともなく、普通に告げた。
「俺はお前ら守るのが目的だから、ギルドに入るとむしろ行動制限が入りそうで嫌なんだ」
「相変わらずだね。もっと皆で助け合おうって気にはならない?」
「ならないとは言わないけど、こっちの方が俺には合ってるんだよ」
黒沢は閉口した。
四ヶ月前、橘が姿を消す直前もこんな会話をした覚えがある。
その時は割とポジティブに受け入れてくれた気がしたのだが、結果彼は一人でいなくなった。
そして今回も、彼は一人を選んだ。
馴れ合うのが嫌いだとか、一人が好きとかそういう訳ではないと思う。
アッチにいた頃は三馬鹿の一人として常に誰かと一緒にいて、騒がしいながらも誰からも悪い印象は受けずに中心で音頭をとっていた。
今回も彼のこの選択は黒沢たちの為のものだろう。
一人だけ無茶して、一人で突っ走って、結果他人を救う。
あの教会での悲劇を、単なる英雄譚に変えてしまったように。
だがやはり、同時に不安がある。
橘の存在は明るすぎて儚く見えてしまう。
消え入ることはないが、その光に目を焼かれ気付けば耄碌した自分たちの前から見えないで孤独に戦っていそうだ。背中すら見えない場所で、ただ他人を守るために自分の身を削って。
だから、黒沢はあることを決意した。
離してなるものか、と。
必ずこいつの隣で、その手を握っていてやると。
彼が逃げ出さないように。
橘を一人にさせない為に。
気が付けば黒沢の手は橘の手を握っていた。
ハッと視線を上げれると、時間が止まったように橘がマヌケヅラを掲げていた。
「あ、えっと……黒沢さん?」
「ごめん、何でもない!」
咄嗟に手を離して間違いの起こらぬよう両の手を膝の上に押し付けた。
目線をそちらに向ける。羞恥で視線を上げられない。
頬をカッと染め、自分は無意識に何をやっているんだと心の中で絶叫を上げる。
橘もいきなり黒沢に手を握られたものだからドギマギして表情が変だ。
一時の静寂がある。
手料理をご馳走し、自分の部屋にまで呼んでおいて今更手を握ったくらいで何を動揺しているんだとも思うが、黒沢にとっては耐え難いほど恥ずかしい行為だった。
やがて熱も冷め、黒沢の口から話題を切り出した。
「と、ところで橘くん行きたい依頼でもあったの?」
「ん、ああ。ダンジョンに行ってみたいんだ」
「ダンジョンに、なんで?」
「今木本たちが四大ダンジョンって所に行ってるんだろ?っで、これからも行く機会があるんなら今のうちにどんな所か下見しときたいなぁと思って」
朝、橘はノルマから帰ってきたとき門兵と少し話していろいろ聞いていたのだ。
そこでダンジョンに行くにはギルドで依頼を受けるか街や国の要請がいるということが分かった。
場所を調べて勝手に乗り込むことも出来るのだが、どうせなら正攻法で乗り込んだほうが手間がない。
そう考えて依頼を受けれるのかと聞いたのだが、橘はもうすでに不法侵入する気になっている。
それに勘づいた黒沢は考えた。
そして言った。
「私の付き添いって形なら行けないこともないよ」
「マジで?」
「うん、私の準備があるから一時間ぐらい待っててくれるなら」
「待つ待つ!師匠から女の仕度は長いから我慢強くとも教えられてるから問題ない!」
途端嬉しそうにテンションを上げる橘に、黒沢は微笑んだ。
「じゃあ適当に依頼見繕って準備してくるから、その不味いコーヒーでも飲んで待ってて」
「うげっ、正直もう舌の方が警報を鳴らしてるんだけど」
「勿体無いから、ちゃんと飲んじゃいなさい」
「へーい」
橘はまたコーヒーカップに口をつけ、不快そうに舌を出した。
その様子に笑いながら黒沢は依頼書の貼り出された掲示板に向かった。