後半
俺はあと五分、あと五分とごねるまちを三十分待ってようやく帰る許可をいただいた。その時、空の様相は行きとは一変していた。どんよりとした雨雲がその薄暗い灰色で空を埋め尽くし、吹き抜ける風が湿気を帯びていて妙に冷たい。俺たちは濃厚な雨の気配を肌で感じつつ歩いていた。
真直ぐ伸びた道路は両側に歩道があり、それに沿って街路樹が等間隔に並んでいる。近くに小学校でもあるのか、反対側の歩道を子供が何人か歩いていた。
道路の中では何台もの車が列を成し、勢いよく走り去って行く。この道は比較的広く、先で幹線道路とも繋がっているから大型トラックも多い。
俺は普段はここの道は使っていない。それはなんとなく危険な感じがするからである。確実に危険だという証拠があるわけではない。だがこの道路を走る車の列に入ると、焦らせるようなせわしない雰囲気と配慮を失った自己中心的な想いに駆られてしまうような気がしてならないのだ。
俺はまちに話しかけた。
「まち、この道は危ないから気をつけろよ」
するとまちは言った。
「うん。わたしもほんとは来たくなかったんだけど、でも藤の白鐘丸がこっちに寄ろうとするから」
「白鐘丸が?」
「うん。たしかにこの道のほうが早いけどー・・・ねぇ、藤の白鐘丸?つかれちゃったの?」
「わん」
「そうなの?そんなんじゃ大きくて立派な犬になれないよ?」
「わうん!」
「いい?みんながかっこいいって思うような犬になるんだよ?わかった?」
「わう!」
「よし!なら明日もとっくんだ!」
俺は分かってないんじゃないかなーと思っていたが口には出さなかった。藤の白鐘丸は決して若い犬じゃない。元気な犬であることは万人が認めるところであろうが、毛並みも他の犬と比べると薄めだし俊敏に動いているわけでもない。人間で言えば中年に当たるくらいだろうか。これ以上肉体的な成長は望めないんじゃないかと俺は考えていた。
「なぁまち。白鐘丸な、たぶん・・・」
まちは笑顔で振り返った。
「なぁに?」
俺はその笑顔を見つめて黙っていた。するとまちは小首をかしげた。
「どうしたの?」
俺は自分を落ち着かせるようにして言った。
「・・・藤の白鐘丸を、帰ったらマッサージしてやろう。きっと疲れてるだろうから」
まちはまた笑顔になった。
「うん!」
白鐘丸のことは今俺の言うべきことではないだろう。それにまちもそのことは自然と分かってくるはずだ。今は不用意に伝えるべきではない。そして俺達はまた歩き続けた。
それから少しすると藤の白鐘丸は突然、まちのリードも振り切って道路に飛び出した。
それは一瞬の出来事であった。
反対側の歩道を一人の男の子が石を蹴りながら歩いていた。男の子が道路に転がった石を追って道路に入ってしまった。俺はその姿を認めたが気に止めていなかった。だが、その子に向かって大型トラックが迫っていたことには気づかなかった。しかし白鐘丸はトラックに気づいて道路に躍り出た。俺は白鐘丸の行動からようやく事態に気づいた。同時に、俺の全ての能力を費やしても二人を一緒に助けることができないのを悟った。その時、まちはすでに地面を蹴っていた。彼女は必死だった。
俺はまちを後ろから抱きとめた。勢いで前倒れになる。まちはそれでもいっぱいに手を伸ばして一心に藤の白鐘丸を見ていた。
「しろかねまる!!」
まちは叫んだ。
男の子と藤の白鐘丸が重なって見えたとき、トラックがその場所を通り過ぎた。
トラックは何事も無かったかのように通り過ぎていった。運転手は全く気がついていなかったのかもしれない。だが、俺達は一部始終を見た。
男の子は藤の白鐘丸に突き飛ばされ歩道へ戻された。そして、その男の子の代わりに白鐘丸がトラックに轢かれた。白鐘丸は歩道の中まで転がり絶命していた。
俺たちが道路を渡りきるまでに、男の子はその場から居なくなっていた。
俺はまちと共に血を、臓器を口や腹から流し横たわる藤の白鐘丸をみた。俺は黙ったまま見下ろしていた。まちは泣いていた。ひっ・・・ひっ・・・ぐずっ・・・、と過呼吸のような嗚咽を漏らしながら、涙を流していた。
空も、まちの悲しみを写した様に涙を流し始めた。雨は、俺達の体を容赦なく濡らし、震えさせた。
まちは泣き果てたのかもう嗚咽は聞こえなくなっていた。そしてうつむいたまま俺に言った。
「藤の白鐘丸は・・・死んじゃったの?」
「・・・そうだ」
俺は藤の白鐘丸の体をそっと撫でた。あのやわらかい温かみは失われていた。その冷たさに驚くほどだった。まちも俺と同じように撫でた。
「どうして・・・?」
まちの言葉の本意が読み取れなかったため「どうして?」とオウム返しに訊いた。
「どうして藤の白鐘丸が死んじゃったの?」
「・・・子供を助けるために、トラックに轢かれたからだ」
俺は冷静さを保とうと努めて言った。
「どうして?どうして藤の白鐘丸が死ななくちゃならなかったの!?」
「それはね、まち。藤の白鐘丸が選んだからだよ」
「じぶんで死にたいとおもっていたの?」
「いいや。死にたいとは思っていなかっただろう。でもあの男の子を助けるために藤の白鐘丸は選んだんだ」
「あの子のために藤の白鐘丸は死んじゃったの?」
「・・・そうとも言える」
まちは一呼吸おいてからぼそっとつぶやいた。
「・・・あの子のせいで」
「まち」
まちの言葉を制し、俺は続けて言う。
「もしかしたら、まちは今、あの子が居なかったら白鐘丸は生きていたのに、と思ってあの男の子を憎んでいるかもしれない。でもね、まち。藤の白鐘丸が居なかったら、彼は死んでいたんだよ」
「でも・・・!」
「でも、白鐘丸が選んだんだ。・・・まち。恨んじゃいけない。彼を恨むことは白鐘丸の勇気を無駄にすることになる。そしてまち、君自身が苦しむことになる」
「でも・・・でも・・・!」
まちはまた泣きそうになった。俺は視線をあわせるために片膝をついた。まちは俺に抱きつくとむせるようになりながら、胸の中から問いかけた。
「わたしは・・・わたしはどうしたら・・・いいの・・・?」
俺はできるだけの優しさを込めて抱きしめた。
「・・・白鐘丸のためにお墓を建ててやろう。まち」
まちは泣き出した。
ビルの外の粗末な花壇に藤の白鐘丸と書かれた小さな木の板の粗末な墓が建った。そこでお祈りを済ませた後、俺とまちは事務所のソファーでぼっとしていた。しんみりした空気が重くて居心地が悪かったが、別に明るく振舞おうという気分も湧かなかった。俺も相当のショックを受けているのだと気がついた。まちの声が部屋に充満した静寂を破った。
「・・・伝ちゃん」
「・・・なんだい」
「もしさ・・・藤の白鐘丸が・・・生き返ったらうれしい?」
質問が示す意図が読めず俺はなんと言おうか迷ったが、素直な気持ちを言うことにした。
「そりゃ、うれしいよ」
「・・・やっぱり、伝ちゃんもそう思うよね」
また静寂が俺達を包み込んだ。
それからしばらくして、「夕ごはんの支度をしなきゃ」と立ち上がった。俺は「手伝う」と言ってその後に続いた。今日もカレーだった。
そしてまちが調理中にトイレに行ってしまったため、俺が鍋を見ていた。すると事務所の方から、がたっ!と音がした。はじめ俺は無視しようとした。だが、その数瞬後に台所から駆け出した。
そのときの俺の頭はいつもの数倍は働いていたような気がする。まちの「生き返ったら」という言葉。応接間からの音。そして応接間の俺の机の中にあるもの。それらが全て繋がった。
応接間にに駆け込むとまちが紺の細長い箱を手にして立っているのが見えた。もう箱は開かれていた。まちの周りに散乱した書類や道具類から、俺の机の鍵のついた引き出しを無理矢理こじ開けたのがわかった。まちも俺に気がついたようだった。
俺は全力で床を蹴り、手を伸ばした。どうか、どうかまちに願い事をさせないでくれ。猿の手は願いを叶えた人間を幸せにはしないのだ。
「まち、やめろ!!」
まちは向かってくる俺を無視した。まちは箱を捨て、震える手を押さえ込むように、しなびた茶色い手を握り締めた。
「ねぇー伝ちゃん?」
「んー?」
商人が怪しい一物を置いて帰ったその晩のことである。ソファーで仰向けになって読書に勤しんでいた俺の上にまちが乗っかってきて腹を叩いた。
「あの箱で願いが叶うってほんとなのー?」
「さぁね」
「えー?伝ちゃん知らないの?」
「本物の『猿の手』なんて初めて見たからね。わからないよ」
だが猿の手と聞いて思い出したことだ一つあった。
「でも、お話なら知ってる」
「お話?お話があるの?どんなお話なの?」
まちは興味津々といった様子だった。
「そう続けざまに質問すると相手が困る・・・。じゃあ今からお話してやろう」
そう言って俺はまちを腹の上から下ろしてソファーに座りなおした。まちは俺の左隣に座った。
「話をしよう。俺が知っている話というのはWilliam Wymark Jacobs…まぁジェイコブズという人が書いた短編小説だ。とある家がある。そこではおばあさんとおじいさんが住んでいたんだが、知り合いから猿の手のミイラをもらったんだ。それは願いを三つ叶えることができるというもの、ということを元の所有者…まぁ知り合いだな…が教えてくれた。」
「わたしたちとおなじだね」
「あの変なのとは知り合いでも何でもないけどな・・・。で、その夫婦は知り合いからそういう話を聞いたんだ。それならじゃあと試しに家のローンを返済できるだけのお金が欲しいとお願いしてみたんだ。そしたら自分の一人息子が死んでしまうという悲劇が起きた」
「え?」
「そしてその事故の慰謝料として家のローンと同じ金額のお金が送られてきたんだ」
「…」
「彼女たちは悲しんだ。そしておばあさんはまたお願いをしたんだ。なにか分るかい?」
「…息子を生き返らせる?」
「そう、大正解だ、100点満点だ。おばあさんは息子を生き返らせてと願った。そしてその晩ドアをどんどんと叩く音が聞こえたんだ」
「帰ってきたの?いい話?」
「じつは良くないんだ・・・。その願いをしたのがお葬式をして土に埋めてから10日ぐらい後だったんだ。それにその息子さんは機械に巻き込まれ服でしか息子だと分からなかったらしい・・・」
「?どういうこと」
「彼の体はボロボロで、場所によってはひき肉のような状態になっていただろう。それが戻ってきたんだ」
「う・・・」
「そしてそれが分かったおじいさんは三つ目のお願いごとをした。息子にもう一度会いたいと必死のおばあさんにそれを見ないために「息子を帰してやってくれ」とお願いしたんだ。そして息子との再会を果たせなかったおばあさんのむせび泣きと、ちらちらと揺れる街灯の焔とともに物語りは終わる。最後に彼らに残ったのは、愛する息子の死と、少なくはないお金だけだった」
まちは黙ってしまっている。
「・・・俺は、願い事をするのは悪いことじゃないと思う。それがだれかを恨んだり、傷つけたりするものでなければね。だけど、願い事を叶えるには必ずその代償・・・代わりになるものが必要だ。お菓子を買うのにお金が要るみたいに。スポーツ選手になるのにたくさんの練習が必要みたいにね。だからね、なにかお願いをするならそれを自分で叶える努力をする意志をもたなくちゃ、ダメなんだ。わかるかい?まち。手に入れるだけなんて、都合のいいことはできないんだよ」
「まち、やめろ!!」
まちは向かってくる俺を無視した。まちは箱を捨て、震える手を押さえ込むように、しなびた茶色い手を握り締めた。
「藤の白鐘丸を生きかえらせて!!」
俺はまちに飛びかかった勢いを殺せず床を転がった。俺は受身を取ってすばやく起き上がるとまちを見た。
まちの手に猿の手は握られていない。それはまちから離れた床に転がっていた。どうやらはたき落とし事体には成功したようだった。だが、たぶん、間に合っていない。まちの願いは俺もはっきりと聞き取った。まちは大丈夫なのだろうか。
「・・・まち」
声をかけても反応が無い。俺はおそるおそる近づいていった。まちは動かなかった。放心状態で何も目に映っていないようだった。
すると突然、目が覚めたようにまちの目に光が戻った。そしてきょろきょろと辺りを見回し始めた。その表情は落ち着いている、というよりなにがなんだか分からないといった風だった。不思議なことに明らかに俺が視界に入っているのにピクリとも反応しなかった。
「まち、大丈夫か」
またもやまちの反応は無かった。
泳いでいたまちの視線が、猿の手をみつけて止まった。まちは数秒の間それを凝視していたが、突然ビクッと体を震わせると恐怖の表情を浮かべ震え始めた。
「まち!」
俺はまちの肩をつかんだ。途端、世界が闇に包まれた。
わたしはお願いした。「藤の白鐘丸が生きかえりますように」って。でもそうお願いしても、目の前がぜんぶまっくろになっただけだった。わたしはまわりをぜんぶ見た。じぶんのまわりだけボンヤリと明るくて、見えてるってかんじはした。でもここがどこだかわからなかった。
でもひとつだけ・・・あのカサカサに干からびた腕だけはよく見えた。
だからじっとみた。その腕のまわりの黒色がゆらゆらしていた。
「どうして・・・」
声が聞こえてわたしはびっくりした。もういちどまわりを見た。
わたしの後ろの方に女の人が立っていた。下を向いているせいで長い髪がたれて顔がみえなかった。女の人のまわりも、腕とおんなじようにゆれていた。
「どうして・・・」
女の人はまたおんなじことをいった。
「どうして私がこんな目に遭わなくちゃならないの・・・?」
その人は髪をガシャガシャとひっかきはじめた。
「わたしは・・・わたしは・・・」
どんどん髪がボサボサになっていく。髪のあいだから顔が見えた。
「私は幸せになりたかっただけなのに!」
もし
「そうだ・・・あいつよ!あの女がいつもいつも人の邪魔ばかりしてたのよ!あの性悪女め・・・!!」
”鬼”がいるなら
「あの男もそうだったわ!なにが「幸せにしてやる」よ!!結局浮気したのはあいつの方じゃない!!」
きっと
「みんな、みんな私のために何もしてくれなかった!!私のことなんてどうでもいいんだわ!!」
こんな顔をしているのだろう。
「あいつら!畜生!死んでしまえ!!」
こわい。
わたしはからだが急に冷たくなっていくようなかんじがした。足が固くなってうごかない。
女の人が近づいてきた。
「あなたは・・・」
わたしはからだがガクガクしてなにもすることができなかった。
「あなたは私になにをしてくれるの?」
わたしは泣きそうになった。そして
「まち!!大丈夫か!?」
声が聞こえた気がした。
「まち!!大丈夫か!?」
俺はまちの肩を揺さぶり、背中をさすった。だがまちの震えは止まらない。がっちりと目をつぶって体全体を強張らせている。
「まち・・・!」
俺はまちを抱きしめた。そして言った。
「俺がいる!大丈夫だ!安心しろ・・・!」
まちは震える声で言った。
「伝ちゃんなの・・・?」
「そうだ。俺はここにいる」
まちは恐るおそる目をあけて俺を見た。
「伝ちゃん・・・こわかった・・・!」
まちは俺を抱きしめ返し、涙を流した。
「どうしてなの・・・?」
不意に後ろから女の声がした。
俺はさっと首をひねり、背後を確認した。
恐ろしいばかりの形相をした女が一人立っていた。
「どうして私には何もしてくれないのよ!!!」
突然女は俺達に飛び掛ってきた。まちの腕に力がこもるのが分かった。
俺はまちを左手で抱いて立ち上がり思いっきり振り向いた。振り向きざま右手の肘を突き出すと、それは女の眉間を割った。女は衝撃で平行に宙を飛び闇の中へ消えていった。
目の前で起きたことの不思議さに驚く暇もなく、揺らめく闇が俺達を取り囲んだ。
どれも人間の姿をしていた。その背格好は様々でエプロン姿の女性、眼鏡をかけた白衣の男、禿げたバーコード頭の中年、若い大学生くらいの女性もいる。みんなうつむき加減で俺達を見ているようには見えなかったが、強烈な想いが伝わって来ていた。激しい頭痛のような感覚とともにそれは俺の頭の中で木霊した。
「どうせぜんぶ私が悪かったんでしょ!!子供が学校を中退するような問題児になったのも、借金がなくならないのもね!あなたが家庭に無関心にしていたことは棚に上げて!ゆるせない!」「なぜ私がこんなことに・・・私の実験は完璧だったのに・・・私が作り上げた研究なのに・・・あの男が横取りして先に発表したら俺はパクリ扱い・・・?殺してやる・・・」「やってしまった・・・もう生きていけない・・・リストラなんてばれたら妻に追い出される・・・。誰も俺を助けてなんてくれないに決まってる・・・どうしよう・・・どうしよう・・・」「はっ!あんな短いスカートを穿いているのはどうせ男を誘ってたんだろ!?清潔ぶりやがって、どうせ安いホテルで猿みたいに腰振ってるんだろ!?このあばずれが俺をばかにすんじゃねぇ!」「私の美しさがなくなるなんてありえないわ・・・。世の男共は私の言うことをなんでも聞いたわ!!私は注目の的だった!最高の女だった!私以外が頂点になるなんてありえないわ」「楽しいことしてなにが悪いんだよ!あ!?俺の勝手じゃねーか!いちいちうざいんだよ!あーつまんねーつまんねーなんか楽しいことねーのかよーつまんねー」
頭痛は耳鳴りを伴ってますます俺をふらつかせた。
「ひどいな・・・ろくなやつらがいない・・・」
俺はそう毒づいて目の前の哀れな人々を眺めた。
「頭いたい・・・。きもちわるい・・・」
まちにもこの頭痛は起きているらしい。もう相当参っているようだ。
「いったいどうしたら・・・」
俺がこの状況の打開策を練っていると俺達を囲んでいた人間達がじわじわと近づいてきた。
やばそうだ・・・と俺は心の中でつぶやいた。周りは謎の人間たち。その周りは真っ暗闇。動こうにもどう動いていいか考え付かなかった。
彼らの中から一人の中年男がグワッと倒れこむようにして俺達にかぶさってきた。俺はまちを抱きしめて体に力を込めた。
俺たちの目の前を白い風が吹き抜けた。
「失せろ、死霊ども!!」
風は低いうなり声と共に中年男を吹き飛ばした。男は後ろ向きに四回転ほどして力なく倒れた。
「なん…だ…?」
でかくて白い何かが俺の視界を覆い隠している。顔を撫でるモフモフとした触感は動物の毛のようだ。
「まち…あなたが私にしてくれた恩返しを、今ここで果たそう」
白い何かがそうしゃべった。
「お前なんでまちのことを…てか何者だ?」
「ふん…お前ごときには分らんのも無理は無い」
目線高いな…、と俺が思っているとまちが大声を上げた。
「藤の白鐘丸!」
「え?」
「すぐに来れなくて済まなかった…」
「ええ!?」
「ううん!ねぇどうしたの?生きてたの?」
「それにはそうともちがうとも言えるが」
「まじなのか・・・?」
俺は目の前で起きたことが信じられなかった。この大きな毛の塊があの藤の白鐘丸だって?
「よう、元気?」
放心する俺に誰かが言った。その声は聞いた覚えのある、懐かしく、そして会いたくない声だった。
「まさか…いや、そんなはずは…」
「おーい。上、上」
俺はゆっくりと見上げた。毛玉の上に法衣を纏った坊主頭のおっさんが見えた。
「と…智和尚…」
「そうだとも」
「なんでこんなところに…」
「理由は後で話す。今はこの状況を打破するぞ…おらぁ!!」
和尚は法衣の袂から仏の描かれた札を取り出し投げつける。札はヘロヘロと宙を舞った。しかし死霊と呼ばれた人間たちは札を見た途端叫び声をあげて遠ざかった。
「まだまだぁ!」
和尚はさらに札を宙に投げた。
「陰陽二重結界!!」
札ははじかれたように散らばった。それらは俺たちを囲み、それぞれが光の線で結ばれて星の模様を作り出した。
「オイコラ!」
おれは叫んだ。
「なんだよそのどっかのシューティングゲームからパクッたような技は!だいたいお前坊主だろ!陰陽師じゃないのかそれは!」
和尚も負けじと大声をあげる。
「問題は無い!!人間と人間が生み出すものに国境はないのだ!!」
「そーいう問題じゃねぇ!!」
そして俺は気になっていたことを尋ねた。
「なんでお前らがここに居るんだ?藤の白鐘丸だって死んでたのになんでここに居る」
すると藤の白鐘丸がふん!と鼻を鳴らした。
「貴様には霊魂の存在も分らないのか」
「霊?ってことはお前のこのモフモフは肉体じゃないのか?」
「そうだ。この滑らかで美しく繊細な輝きを放ちながらも力強いこのモフモフも肉体ではない。私の想いが具現化しているのだ」
「じゃあおまえは幽霊か」
「あんな昼間からふらふらしている奴らと一緒にするんじゃない」
そこに和尚が割って入った。
「実はな、この犬が霊界に旅立とうとしていたところ、まちという娘の危険を感じたのだが、なにか空間がゆがんで入ることができない。で、通りがかった俺が助けてやった」
「またなんで通りがかったんだ」
「じつはこっそりお前の様子を見に来てた」
「・・・俺ここの場所教えてないような」
「あー、それなんだが」
突然和尚はにやけた面を俺に向けた。
「いや、な、地元のオープンカフェでココアを啜って居たらなぁ、すっごい美人のお姉ちゃんたちに声かけられてよ?すっかり意気投合してたらお前の話題が出てきたもんでびっくりしたぞ。こいつうまいことやりやがったなと」
「まてまてまて。そのお姉ちゃんたちってだれだ」
「私が知るか。でもいまどきの若い子は白と黒のずいぶん派手な服を着てるんだな。一人だけ着物を着てるっていうのも珍しかった。男物だったし。あの子たちかなりかわいかったなぁ…。またお茶が飲みたい」
俺は意気消沈した。百夜め・・・よりによってこいつなんかに住所バラしやがって・・・。
「なぁ…」
和尚が突然神妙な面持ちになって小さな声で言った。俺は耳を貸す。
「あのなかで誰かフリーの子、いない?」
「てめー!それでも坊主か!」
「はっはっは!ずいぶん元気だな」
俺たちが叫びあっている中、突然藤の白鐘丸が低いうなり声を立てた。俺は何事かと思って白鐘丸の視線の先に目をやる。
「!?」
「きたか…」
和尚は何かに備えて構えた。視線の先では干からびた茶色い腕が宙に浮いていた。そしてまた頭痛を伴う耳鳴りが起こった。
「願いは叶えた…対価を頂く」
「願い?」
「そうだ…対価を寄越せ」
猿の手だ。猿の手が語りかける声が頭に直接響いてくるんだ。その声を聞いて藤の白鐘丸が答えた。
「貴様!私はこうして生きている。生きていれば生き返れという願いは意味が無い。叶わない願いにも対価を寄越せというのか?」
そうだ。たしかに藤の白鐘丸は生きている。ただし魂としてだが。
「ちがう…。おまえじゃない…。そっちの男だ…」
猿の手はぼろぼろと手の破片を落としながら俺を指差した。
「俺?」
俺は戸惑った。俺はこんなやつに願いなんて叶えて貰おうとは一片たりとも思っていなかった。
「お前の願い…『まちの願いをとめる』は確かに叶えた…」
「なに?」
「お前が私に触れながらそう望んだだろう…」
「いや…あれはお前を弾き飛ばそうとしてだな」
「だが!!」
猿の手の声が一段と大きくなった。
「お前の願いを私は聞いた!お前の願いは叶えた!対価をもらう!!」
猿の手は弾丸のように俺に向かって飛んできた。
しかし猿の手は結界に衝突し、元の位置まで弾き返された。しかし結界が粉々に砕け散る。
「な…」
俺は壁を失ってたじろいだ。またもや猿の手は俺に向かって飛んできた。俺は何かをされても耐える覚悟を決め、身構えた。
突如視界に真っ白なものが立ち塞がった。藤の白鐘丸だった。藤の白鐘丸は毛を逆立て、身を震わせる。そして口を大きく開いた。
空気が爆風のように急速に広がっていくことを肌が感じとった。体が吹き飛ばされてしまいそうなほどの圧力だった。それが藤の白鐘丸の咆哮だと気づいたのは事が終わった後だった。
咆哮によって猿の手の動きが一瞬止まる。その瞬間、猿の手に向かって和尚が飛び降りた。和尚は札を貼り数珠を巻いた腕で猿の手を鷲掴みにする。するとどこからともなく無数の札が飛んできて猿の手をがんじがらめにした。ガタガタと抵抗していた猿の手の動きがだんだんと鈍くなる。和尚が手を離すとその隙間にも札が入り込んでくる。札で隙間も見えなくなる頃には、猿の手は全く動かなくなっていた。そして和尚はどこからか取り出した木の箱にそれを納めると札で封印を施した。
封印が終わると俺たちを取り囲んでいた闇は、砂が風に飛ばされるようにさらさらと崩れていった。消えていく闇の隙間から、木目の壁紙、散らばる紙類、観葉植物が顔を覗かせていく。
見慣れた間取りが展開されていく。日常の世界が戻ってきつつあった。
いつもの風景に戻ってきた俺はとりあえずソファーに腰を下ろした。まちは藤の白鐘丸に飛びつき抱きつきじゃれている。俺はその様子を見ながら、俺よりも早くソファーでくつろいでいる和尚に言った。
「なぁ・・・なんで白鐘丸はここ居るんだ」
和尚もじゃれあう2人を見ながら言った。
「なんか、お前達のことが心残りだったらしいぞ。お前があまりに頼りないからだと」
「失敬な・・・と言いたい所だが、たしかに自分で頼りがいがあるとは思ってない。けどそれだけが理由なのか?」
和尚は何か考えているようだった。話そうかどうか決めかねているようだった。そして言った。
「あいつも同じことを考えていたんだよ。あいつも自分が頼りない、役に立たない奴だと思っていたんだ。そうして生涯生きた。だれにも必要とされずただ生きていくことがどれほど心を痛めつけるか・・・それはお前も分かるだろう」
俺は黙っていた。
「あいつは死ぬつもりでいた。だがその直前にそこのお嬢ちゃんに出会った。そして名前をもらって、遊んで、信じあって―――。それがあいつにとってどれほどの救いになっただろうか。だが、あいつは同じ位の年の子を守るために死んだ。そのことをあいつは後悔していないと言ってはいたが、やはり残してきたそこの子が心配で成仏できずに彷徨っていたのだ」
和尚は虚空を眺めたまま言った。
「この下の小さい墓はこいつのだろう?」
俺はああ、と短い返事をした。
「あいつはその墓で簡素な葬式が行われているのを傍で見ていたらしい。あいつは自分の死を受け入れた。その上でそこのお嬢ちゃんを護ろうと思っていた。死んで精神の存在になっているからどこにでも、いつでも見守れる。お嬢ちゃんを護るために大きくて強い体を投影することもできる・・・・。まったくこんなに早く死を受け入れて霊体の生活になじめるやつなんてそうそういない」
「ふーん…」
「しかし・・・な。あいつももう還らねば」
そう言うと和尚は立ち上がった。
「藤の白鐘丸。時間だ」
藤の白鐘丸の動きが止まる。そしてそうか、と一言つぶやいてまちからそっと離れた。まちは悲しそうな表情を浮かべた。
「藤の白鐘丸…また死んじゃうの」
藤の白鐘丸はじっとまちの瞳を見据えて言った。
「私は死なない。肉体は動かなくなり土の下に在りはすれども、魂として生き続けている。それはお前も同じだ。魂は永遠なのだから」
「でも…もう会えないの?」
藤の白鐘丸は残念そうな表情を浮かべるだろうと思った。だが俺の予想に反し彼は笑った。
「はっはっは。たしかにこんな風には会えないかも知れない。だけれども、私はいつでもお前を見守り続ける。いつでも心は繋がっているさ」
「…ほんとうに?」
「本当だ。まち、私は約束しよう。お前を護るためこの姿になったように」
藤の白鐘丸は見せつけるようにその大きく立派な体躯を揺らした。
「…うん。約束だよ」
「ああ」
そう言い終ると同時に藤の白鐘丸の輪郭が崩れていく。輪郭の端から千切れては煙のように霧散していく。
「白鐘丸!」
まちは小さくなっていく藤の白鐘丸に向かって叫んだ。彼はあっという間に小さくなっていく。だが藤の白鐘丸は頭だけになった今でもまちを見ていた。
「まちよ。そう大きな声を出すな。…約束は必ず」
藤の白鐘丸の眼だけが優しく微笑む。
「守る」
そんな声が、頭の奥で、柔らかく響いていた。
それから二週間ほど経った。俺は以前からと同じようにソファーに寝転んでめったに来ない依頼の電話が来るのを待っていた。今日は静かで、テーブルの上で手入れを終えた銃器類が鈍い輝きを放っているばかりだ。
ドンドンドン ドンドンドン ドンドンドンドンドンドンドン
三三七拍子のリズムでドアが叩かれた。それを聞いて俺は飛び起きた。三三七拍子でノックするのは俺が信用の置ける人間にしか教えていない暗号である。俺はこのリズムでノックされたら必ず出ることにしているのだ。
俺はドアを開いた。そこには笑顔の百夜が立っていた。
「こんにちは、集金に来ま」
俺はドアを閉めた。
直後ドアが爆発した。百夜は笑顔のまま散らばるドアの残骸を踏み越え部屋に上がってきた。
「ど、ど、どうしたの!?伝ちゃん?」
まちが慌てて硝煙の舞う応接間に飛び込んできた。
「あ、百夜さん!」
「こんにちはまちちゃん。元気かしら?」
「うん、げんきだよ!」
「ふふふ、それは良かったわ。ところで伝助はどこかしら?」
「え?さっきまでそのへんに」
まちは部屋を見渡す。そして部屋の隅でごみのように横たわる俺を発見した。
「あ、あそこで寝てる」
「あら、寝相が悪いのね」
百夜は何事も無かったかのように客用のソファーに腰を下ろす。俺はふらふらと立ち上がり百夜の対面に座った。百夜は置いてあった拳銃をカチャカチャいじっていた。
「あら、ちゃんと弾倉の中まで磨かないと危ないわよ」
「え?ああ…そうですね」
「ちゃんと他に予備の弾倉は用意した?そっちも手入れしときなさいよ」
「…はい、やっときます。」
「でも他の手入れは行き届いているわね…。こういうの好き?」
「好きですよ、こういうの。…あの…どうしてわざわざ家まできたのでしょうか…?」
俺は話を中断して訊ねた。いつ借金の話になるんじゃないかと気が気でない。
「え?目的なんてないわ。遊びに着ただけよ?」
百夜はマガジンを抜いた拳銃の銃口を覗き込みながら言った。
「あなた、まちちゃんは大事にしてる?」
「…努力はしてるんじゃないかな」
「せめてはっきり頑張ってると言えるようにしなさいよ。…なぜあんなかわいい娘がこんなところにいるのか不思議でならないわ…うちにこないかしら…というかほしいわ」
百夜は視線を落としてぶつぶつと何か言っている。
「…お茶入れてくる」
そう言って席を立とうとするとまちがお茶とお菓子を持ってきた。
「おちゃとおかしです。どうぞ」
「まぁ、ありがとう」
「ありがとうな」
その礼儀正しい態度を見て百夜の眼が輝いた。
「あなたはほんとうにいい子ね…。それに比べてこっちは…」
「そんなに弄らんでください・・・」
百夜はお茶を飲みながら部屋の様子を見ていた。
「最近は仕事が入っているみたいね」
「ああ、うん。ありがたいことにこうやってお菓子が出せるくらいにはなった。これらもその準備だよ」
そういって俺はテーブル上に視線を走らせる。
「良かったじゃない。人間、仕事で忙しいくらいがちょうどいいのよ」
「そっちはどうです・・・といってもなにやってるか良くわかんないんだけれど」
「まぁ、繁盛してるわよ。最近は暑いからアイスがいい調子ね、あと水と火薬」
「アイス・・・」
結局百夜はなんの商売をしているのだろうか。その疑問はとうとう質問できなかった。
「ところで最近この界隈で変死体が連続で発生しているのは知ってる?」
「…変死体?」
「そう、死因不明の死体が何体も発見されてる。それらには共通の特徴があってね、どれも片腕が無い状態で死んでいるの」
「片腕が…」
「その変死体事件に着いてなにか知っていることがあればと思ったのよ。どう?」
正直言って心当たりが無い。第一そんな死体が発見されていることもはじめて知ったのだ。俺が知る由はない。
「知らないな」
百夜はうんうんと頷いた。
「まぁそうよね。むしろなにか重要なことを知っていた方が怖いわ」
「そうなのか?」
「そんなもんよ?」
それから2人の間で沈黙があった。俺は1つ話題を提供してやろうと思った。
「最近といえばさ、うちに猿の手が来たんだよ」
俺がそういうと百夜が驚いて訊ねた。
「猿の手?それってあの願いが叶うやつ?」
「そうそう。そのおかげで危なく殺されるところだったよ」
「それはどこに行ったの?」
「ああ、知り合いの坊主のところに預けたよ。俺には手が負えないから」
「その人の住んでる場所は分かるかしら」
「え?そりゃ分かるけど」
「早く教えて頂戴」
そういって百夜は紙とペンを取り出した。顔に若干の焦りが浮かんでいる。
「いったいどうしたんだ?」
「いいから早く!」
「お、おう」
俺は住所と外見、以前会ったことのあるはずだということを告げた。
「ありがとう。急がなくてはならないわね」
「なんか知らんが…焦るなよ」
「わかってるわ」
百夜は空中に赤く発光する魔方陣を創り出し片足を踏み込んだところで振り向いた。
「そうそう、伝助」
「あなた怖いわ」
微笑を浮かべてそう言うと百夜は魔方陣をくぐった。すぐに魔方陣は消え、また静かになった。
百夜の邸宅のとある一室で百夜は猿の手を眺めていた。そこには百夜が座椅子に座り、七人のメイドが立っていた。
「それが例の?」
一人のメイドが尋ねた。
「そうよ、辰。これが猿の手よ」
辰と呼ばれたメイドは興味深げに猿の手を覗き込んでいる。
「…はじめるわよ」
百夜は猿の手を魔方陣の書かれた紙の上に置き手をかざした。猿の手は球状の赤い発光に包まれ、ふわりと宙に浮いた。百夜はその球体を両手で挟み込むように触れた。
「あなたの記憶…見させて頂戴」
だんだんと百夜の感覚が研ぎ澄まされていく。音も光も、全ての感覚が遠のいていく。やがて猿の手が見てきた情報が濁流のように百夜の心に流れ込んでくきた。
圧倒されそうなほどの記憶。それを一度消えかけた感覚全てが今ははっきりと受け止めている。生まれた時の、家族での、学校での、会社での思い出。楽しいこともあったようだが、その大半は不満の感情、満たされない気持ちにあふれている。寂しさ、孤独。暗い感情がそのときの映像とともに流れ込んでくる。匂いも、肌触りも全て自分が体験しているように感じられた。鏡を見ているの画像が見えた。女性だった。髪が長い。その女性の与えて欲しいという渇望からくる苛つき、不満が生活から見て取れる。
百夜は耐えていた。まだ欲しい情報が見つかっていない。しかしこの”読み取り”はかなりの心労と体力を必要とする。百夜といえども限界があった。
まだ…まだ…あとちょっと…。映像がかすんでくる。気持ちが離れていこうとする。必死で百夜は襲い来る抵抗に耐えた。そのとき見えた全身をポケットだらけのコートに包んだ男を発見した。百夜は意識を集中させる。その男の記憶の後、この女性の激しい心の動きが感じられた。高揚、恍惚、全能感、緊張、絶望、恐怖。百夜は”読み取り”を終えるため意識をゆっくりと遠ざけていった。
意識が完全に現在へと戻ったとき、彼女は床に仰向けになっていた。
「大丈夫ですか!?」「「生きてる!?」」「起きたか!?」「おい百夜!」「百夜…!」「…!!」
次々と浴びせかけられる声に百夜は苦笑いで返した。
「大丈夫よ…。ちょっと疲れちゃっただけ」
百夜は自力で体を起こし辰にメモを取らせた。猿の手を売り回る男の容貌、声、動き、雰囲気。この猿の手がもともとは人間の手であること。それが今回変死体で発見された女性の一人とそっくりであったこと。
「猿の手は人の願いを叶える呪いがかかっているわ。だけどその対価を自身の命でもって支払わなければならないようね」
それを訊いていた髪が長く目つきの悪いメイドが言った。
「なるほど。それで死体が量産されてたのか。だが片腕が無い理由は?」
「記憶からだけでは分からなかったわ。でも」
「でも?」
「猿の手の呪いにかかった人たちは成仏していないみたい」
「それはつまり…?」
そこに辰が割って入った。
「つまり、死んだ人間の魂はその肉体の一部を使って地上に縛り付けられている…ってこと?」
「可能性はあると思う」
「しかし、それだと何体も猿の手はあるってことにならないか」
「考えられるわ」
辰はメモを取り終わると言った。
「で、これからどうする?犯人の居場所までは分からないぞ」
「そのヒントもこれが教えてくれたわ」
百夜は猿の手を横目で眺めた。
「この猿の手を作るのに使われる術のなかに理性を麻痺させるような効果のものがあるようなのよ」
「・・・それは?」
「それはつまり欲望を抑えにくくさせることになる。猿の手の呪いの成功率を高めるための処置ね。そしてその術は独特な波長の念力を発散している」
「なるほど、その念波を追えばいいのか。・・・でその手段は」
「私たちの方から巨大な波を広げて反射の具合からあぶりだす。いわばソナーね」
「はぁ~・・・また大掛かりな・・・。・・・ま、そうと決まればさっさと準備しますか」
「ふふふ、頑張ってね。楽しみはこれからだから」
「ふ~・・・」
疲れたため息が山の中でうるさく響いた。男はコートに取り付けられた数あるポケットの中の1つから紺色のケースを取り出した。その時、雲が裂けまぶしいくらい明るい月の光が注いできた。照らされたケースを見て男は思った。やっと負け分を取り返したと。まさか猿の手が坊主なんかに捕縛されて封印されるなんて思ってもみなかった。一つ作るのに呪いをかけ、居なくなってもよさそうな人間を探し、猿の手を使わせ、腕を回収する。けっこう手間のかかる作業だのにそれを奪われて行方不明である。やっと必要な分集まると思った矢先だったからそれなりにショックだった。だがそれも今日の仕事で取り戻したからよしとしよう。
さて今頃この奥で死に絶えている頃合だ。おっさんには悪いが腕と魂を頂こう。
ポケットの男は植物の生い茂った森を進む。男が一人倒れていた。腕は男の利き腕である右腕が干からびたように変色して細くなっていた。ポケットの男はよし、と思った。呪いが成功していることを確信し意気揚々と近づいていく。
「あなたが悪者でいいのかしら?」
突然背後から声をかけられ、男は振り向きもせず駆け出した。しかし暗闇から白い何かが腹に飛び込んできて男は悶絶した。男は続けざまに手足を魔方陣で縛られ完全に身動きが取れなくなった。
「見事な蹴り。流石辰ね」
「百夜のそれ、便利だな」
男の周りを百夜とその従者達が取り囲む。
百夜は悶える男に近づき、首根っこを鷲掴みにした。その小さな体のどこにこんな力があるのかと疑わしくなるようなほどの握力で締められ男は唸った。
「さて、持ち物全部出しなさい」
悪魔のような笑顔がそこにあった。
三日前と売って変わってニコニコと機嫌のよさそうな百夜に俺は軽い恐怖感を覚えた。
「今日はなにか?」
「遊びに来ただけ♪」
怖い。
俺はどうしようか迷った。とりあえず話題を引き出すため鎌をかけた。
「なにか良いことがあったので?」
「ふふふ、それは秘密。でもあなたから教えてもらったおかげよ」
俺が教えた?はて、以前のマイナーだけど面白い漫画を紹介したことだったか。それがそんなに嬉しそうなことにつながるのか想像がつかなかった。
「なにか役に立てたなら光栄だ」
「そうよ、あなたは大いに役に立ったわ。役に立った人間には褒美が与えられるのが当然よね。というわけであなたの借金は帳消しにしてあげる」
「!!本気か!?」
「本気よ?それとも払いたいのかしら?」
「いえ。借金帳消しの褒美、ありがたく頂戴します」
「それでよし。それとおまけ」
百夜は大きな白い紙の箱をとりだした。そして中身を滑らして取り出す。
それはおおきなロールケーキだった。
「ケーキだー!!!」
まちがものすごい勢いで駆けつけてきた。
「こりゃあおいしそうだな」
「ふふふ、あとこれもね」
そういって百夜はドッグフードを取り出した。
「ドッグフード?」
「ええ、あなたたちのペットにね」
「気持ちはありがたい。でもうちにはもう犬は居ない」
「え、そうなの?じゃあ、さっきからその辺うろうろしてるのは?」
「え・・・」
俺は部屋を見渡す。犬は居ない。
「おい。藤の白鐘丸。そこにいるのか」
返事は無い。
「元気のいい犬ねぇ」
「!?」
百夜がこう言う以上ほんとうのことだろう。どうやら白鐘丸は今この瞬間にも約束を遂行しているらしい。
俺はまちの切り分けてくれたロールケーキを頬張った。
「おいしいな、これ」
思わずそうこぼしてしまうほどのおいしさだった。
「おいしいね!」
俺の言葉に満面の笑みでまちが同意してくれた。まちの笑顔を見て心なしか部屋全体が明るくなったように感じた。
たしかに人も動物も植物も無機物さえもその形を永遠に保つことはできないだろう。だけれども、心が、魂が永遠に生き続けるならばこそ、その短い一生の中でこんな風な美しさを求めようとも思えるだろう。
俺は空いたまちの皿に厚めに切り分けたロールケーキを乗せた。
ここまで読んでくださってありがとうございます。




