『積み木』【掌編・文学】
『積み木』作:山田文公社
色々な積み木は重ねられていく。小さい手で様々な形の色々な色をした積み木が積み上げられていく。積める積み木がなくなると自慢げにこちらを見てにぃっと笑い、積み上げられた積み木は小さな手で崩されてしまう。そして散らばり崩れた積み木の前にちょこんと座り、また積み上げ始めるのだ。
児童館で働くようになって、こんな光景を何度となく目にするようになった。何気ない光景なのだが子供は理解して積み木を積み、積み上がると必ず壊すを繰り返している。積み木はよくできていてバランスや重心を考えないと容易に崩れる。しかも高くなればなるほど不安定になる。その証拠にある年齢までの子供は積む事ができず、口に入れるか投げる事しかしない。積む行為がひとつの建設的行為であり、完成は破壊へのスイッチに成っているのだ。作ると壊すが同じように存在している。しかしこれも年齢を重ねると様子は変わり、綺麗に整合性のある積み方へと代わり、崩すのではなく片づけるへと変わる。
いったい何がそうさせているのだろうか、と思いながら子供たちを眺めている。いったい何が作らせ破壊へと向かわせるのだろうか。そして作る行為はなぜ洗練され、破壊も洗練されていくのだろうか。いずれ彼も彼女も大きくなれば積み木などに興味はなくなり触れる事はなくなるだろう。子供たちが帰り誰もいなくなった遊戯室で、僕はおもちゃ箱から積み木を取り出し積んでいく。この形からどのような物でも造形できる。それが想像の産物なのかそれとも経験の賜物かは知らないけれど、こうして幾分か子供たちよりは立体的な創造が行える。
子供は学び大きくなる。大きくなっている僕が積み上げる積み木はキリンになった。するとこれを少し誰かに見てもらいたい気がしてきた。そこで僕は気づく『そうかそういうことか』なるほどと手を打ち合点がいく。つまりある年齢までは自己の世界があるときから外側へと向けられていき、それがあの積み上げる行為と積み上がった時の笑顔なのだと、思い立つ。
破壊においても同じでこれを綺麗に箱へと収める行為が、一連の建設的な収納とでも言えば良いのかもしれない。どちらにせよ人は作る行為において安息が得られる生き物なのかもしれない。腕を組みながら遠くで呼ばれているのに気づき急いで積み木をおもちゃ箱へと押し込めた。
夕暮れの児童館は寂しげに見える。僕が幼い時に感じた事は今でも変わらずに胸に去来する。僕は館内を一部屋一部屋巡回した後、管理人に報告してタイムカードを押し児童館を去る。
あかね色に染まる町中を歩きながらふと思う。これらすべての立ち並ぶ物がいわゆる積み木のような物なのだと、そう思うと自然に笑みがこぼれる。小さくも大きくも積まれた町が赤く彩られている。暗くなればそれぞれに灯がともり、星明かりや月明かりにも負けない町になる。積み木といえども馬鹿にはできない。
舞台が変わっても積む物が変わったとしても、僕らはこうして生涯を積み木のように積んでいる。積み上げた物がひとつの形であり人生なのだ。僕はこれから先どのように積み、あるいは崩していくのだろうか、僕にはまだ設計図がない。それはちょうど適当に積み上げる子供達と何も変わらない。
いつしか僕にも積み上げる形が見え、そのように積み上げていけるのだろうか、まだまだ積み木は形にならないけれど、いつしかきっと形になる……そう信じて、夕日を背に浴びて、そっと今日という日を積み上げた。
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