第50話:大収穫祭! 満月の下のカフェ・エル(第2部・完結)
魔導都市エテメンアンキの夜空に、これほどまでに美しく、大きく、そして澄み切った満月が昇ったことがあっただろうか。
都市の地下を巡っていた『搾取の魔法陣』が完全に沈黙し、大精霊樹がその優しい光で街を浄化してから数日。かつては分厚い煤と灰色の雲に覆われていた空は、今や一点の曇りもない瑠璃色のキャンバスへと生まれ変わっていた。
そして今宵、路地裏の『カフェ・エル』では、都市の歴史を塗り替える前代未聞の大宴会――『大収穫祭』が幕を開けようとしていた。
『……エレイン。……ヒロイオニワ、デキタヨ』
大地の精霊ドランが、苔むした顔を満足げにほころばせた。
彼の魔法と、大精霊樹の太く逞しい根の力によって、カフェの裏庭と地下庭園を隔てていた石壁は優しく取り払われ、見上げるような巨木を囲む、広大で幻想的なオープンエアの『大宴会場』が完成していたのだ。
満月の光と、木漏れ日の精霊ソラが作り出す柔らかいランタンの光が交差する。
その光の下、人間も精霊も、エリートも下級魔導士も関係なく、巨大な長机を囲んでひしめき合っていた。
「さあ、みんな! 今日はエテメンアンキの新しい門出と、帰ってきた精霊さんたちを祝う最高のお祭りよ! とびきりのご飯を、お腹がいっぱいになるまで食べてね!」
エレインが、新しい真っ白なエプロンをふわりと揺らし、満面の笑みで宣言した。
『ワァァァッ!! オマツリ! エレインノ、ゴハン、イッパイ!』
『……フニャァン……カンパイ、ダゾォ……』
ナギやラムたち精霊が一斉に歓声を上げ、それを合図に、宴会場のあちこちで木製のジョッキが打ち鳴らされた。
「乾杯だァァッ!! この最高に澄んだ空気と、極上の飯に!!」
「うおおおっ! 今日は上官も部下も無礼講だ! 食うぞォォッ!」
かつては冷たい完全食しか口にしなかった魔導院の精鋭兵士たちや、激務に追われていたティルとザックが、肩を組んで陽気に笑い合っている。
長机の上には、これまでのスローライフを彩ってきた絶品料理の数々が、山のように並べられていた。
外はカリッと、中はとろとろの『極上キノコの熱々パイ包みスープ』。
ラムの魔法で極限まで旨味を引き出された、ルビー色に輝く『極厚ローストビーフ』。
色鮮やかな夏野菜がキラキラと光る『極上ラタトゥイユ』に、黄金のハチミツがたっぷりと染み込んだ『極上厚切りフレンチトースト』。
「そして、今日の主役はこちらよ! ポポ、ラム、一気に仕上げるわよ!」
『オッケー! サイコウノ、ヒカゲンダヨ!』
『……マカセテ……ウマミ、ゼンブ、ヒキダスゥ……』
広場の中央で、エレインは直径が1メートルもある巨大な鉄鍋の前に立っていた。
たっぷりのオリーブオイルに、刻んだニンニクの香りが移ったところで、ナギが集めてくれた新鮮な海の幸――大ぶりのエビ、肉厚のホタテ、そしてたっぷりのアサリを一気に投入する。
――ジュウウゥゥゥッッ!!
熱された鉄板と魚介の水分が激しくぶつかり合い、鼓膜を心地よく震わせる凄まじいシズル音が夜空に響き渡る。
魚介の表面が薄紅色に染まり、香ばしい磯の香りが爆発したところで、ドランの畑で採れた黄金色のズッキーニや真っ赤なトマト、そしてたっぷりの生米を流し込む。
「チャイ、魔法のスパイスをお願い!」
『キュルルッ! コガネイロノ、サフランダヨォ!』
香りの精霊チャイが、最高級のサフランと数種類のハーブを振りかける。
そこに、魚介のアラと野菜の切れ端を煮込んで作った極上の特製ブイヨンを、なみなみと注ぎ入れた。
ジュワァァッという音と共に、真っ白だった米が、サフランの力で瞬く間に目にも鮮やかな黄金色へと染まっていく。
ポポが鍋底全体を均一に包み込むような魔法の炎を放ち、ラムが琥珀色の光でブイヨンの旨味を米の一粒一粒の中心まで強制的に浸透(熟成)させていく。
グツグツ、フツフツと小気味良い音を立ててスープが煮詰まり、やがて鍋底から「チリチリ……」という、米がお焦げに変わる魅惑的な音が聴こえ始めた。
「よし! 最後に新鮮なレモンをたっぷり搾って……『海と山の幸の、極上黄金パエリア』の完成よ!!」
エレインが巨大なパエリアパンを長机の中央にドンッと置いた瞬間、宴会場は割れんばかりの歓声に包まれた。
「う、美味ェェェェェッッ!! なんだこの米は! 魚介の暴力的なまでの旨味を、米の粒が全部吸い込んでやがるぞォォ!!」
魔導院総帥が、エリートの威厳を完全にかなぐり捨て、木のスプーンで熱々のパエリアを口に運び、涙を流して叫んだ。
サクッ、というお焦げの香ばしい食感の直後、噛み締めるほどにエビやアサリの濃厚な出汁が口の中でジュワァッと弾ける。そこにトマトの酸味とレモンの爽やかな香りが絡み合い、決して重くならずに次の一口を強烈に要求してくるのだ。
「あぁぁっ……熱い、熱いのに止まらんッ! このパリパリになった底の米が、噛むたびに脳を直接揺さぶってくるぞォォッ!」
「総帥! お焦げばっかりずるいっすよ! 俺にもエビをください!」
「待て貴様ら、エレイン殿が作ったこの傑作、まずは私が味わうのが筋というものだろうが!」
アリスターまでもが我を忘れ、ティルたちや総帥と一緒になって、黄金のパエリアを我先にと奪い合っている。
『ガウッ!! ニンゲンども、調子に乗るな! その一番美味そうな赤いエビは俺のものだ!』
三尾の雪狐ギルが、巨大なエビを殻ごとバリバリと噛み砕きながら、幸せそうに三本の尻尾をブンブンと振り回している。
「ふふっ、喧嘩しないでね。おかわりはまだまだたくさんあるんだから」
エレインは、アッサムが淹れてくれた温かい特製ハーブティーの入ったカップを両手で持ちながら、その賑やかで温かい光景を、ふにゃりと目を細めて見つめていた。
同じ頃、海を隔てた遠く離れた旧王国の王都は、取り返しのつかない完全な『死』を迎えていた。
分厚い鉛色の雲が空を覆い、季節外れの猛吹雪が、荒れ果てた王城に容赦なく吹き付けている。
すべての精霊に拒絶された王都は、防壁も、熱源も、光も失い、ただの凍りついた廃墟と化していた。貴族も民もとうの昔に街を捨てて逃げ出し、残っているのは、狂ったように自室に引きこもるレオンハルト王子と、自称聖女のミアだけだった。
「……寒い……。腹が、減った……ッ」
かつては豪奢だったレオンハルトの私室。今や窓ガラスは割れ、雪が直接部屋の中に吹き込んでいる。
彼は、ボロボロに引き裂いた最高級のカーテンを何重にも体に巻きつけ、部屋の隅でガタガタと震えていた。
彼の震える手には、完全に凍りつき、石のように硬くなった干し肉の欠片が握られている。
ガリッ。
無理やり干し肉を噛みちぎろうとした瞬間、彼の歯茎から血が滲み、鉄の味が口の中に広がった。
硬い。冷たい。そして、腐りかけたカビと灰の味がする。
「あ……あぁ……っ」
レオンハルトの虚ろな瞳から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
脳裏に浮かぶのは、かつてこの城の地下で、エレインがいつも自分に作ってくれていた、あの温かいスープの記憶だった。
冷え切った身体の芯から温めてくれる、優しい火加減。
野菜の甘みが溶け込んだ、とろけるような口当たり。
彼女はいつも、自分を気遣うような、柔らかく温かい笑顔を向けてくれていた。
(なぜ……俺は、あんなにも美味しく、温かいものを……自分から捨ててしまったんだ……)
しかし、いくら後悔して涙を流しても、冷え切った城にスープの香りが戻ることは二度とない。
部屋の反対側では、ミアが寒さと飢えで完全に正気を失い、「私が祈れば、精霊が極上のディナーを運んでくるわ……」と虚空に向かって呟き続けている。
レオンハルトは、血の滲む硬い干し肉を抱えながら、誰も助けに来ない暗闇の中で、ゆっくりと、しかし確実に、孤独と後悔の底へと沈んでいった。
そして再び、エテメンアンキの温かい夜。
宴もたけなわとなり、お腹を満たした人々や精霊たちが、ソラの木漏れ日の下で心地よさそうに微睡み始めていた。
「……エレイン殿」
食後の温かいカモミールティーを飲みながら、魔導院総帥が、憑き物が完全に落ちた穏やかな顔でエレインに歩み寄ってきた。
「本当に、素晴らしい夜だった。……私は、この都市の長として、数え切れないほどの過ちを犯してきた。魔法陣という冷たい機械で精霊を縛り付け、効率だけを求めた結果、私たちは『生きる喜び』を失っていたのだと、今日、この温かい食事を食べてようやく理解した」
総帥は、大精霊樹の満開の花を見上げ、深く頭を下げた。
「魔法陣を失ったこの都市は、これから少し不便になるかもしれない。だが、私たちはもう二度と、精霊を搾取することはない。……これからは、人間と精霊が共に笑い、共にこの美味しいご飯を囲めるような、新しいエテメンアンキを一から築き上げてみせる。……どうか、その行く末を見守っていてほしい」
「ええ、もちろん」
エレインは、鈴の転がるような声で笑い、コクリと頷いた。
「美味しいご飯があって、みんなが笑顔なら、きっとどんなことだって乗り越えられますよ」
その言葉に、総帥も、背後で聞いていたアリスターやティルたちも、深く、温かく頷いた。
エレインは少しだけ歩みを進め、宴会場の中心にそびえ立つ大精霊樹の根元へと腰を下ろした。
ふわり、と優しい夜風が吹き抜ける。
足元にはギルが丸くなって気持ちよさそうに眠り、肩にはポポとラムが乗り、頭の上ではソラとチャイがふらふらと漂い、ナギとドランがそのすぐ傍で笑っている。
(私……今、本当に、すっごく幸せだわ)
王城の冷たい地下室で、心を殺して翻訳の仕事をしていた日々。
そこから理不尽に追放された時は、少しだけ不安もあったけれど。
勇気を出して旅に出て、ギルたちという最高の家族に出会えた。
時間をかけて、美味しいご飯を作り、それを「美味しいね」と笑い合える人たちに出会えた。
冷たかった都市の常識さえも、温かいスープと極上のローストビーフが、優しく溶かしてくれたのだ。
『エレイン、エレイン』
精霊たちが、彼女の頬にすりすりと身を寄せ、大好きな家族の名前を呼ぶ。
「ふふっ。ありがとう、みんな」
エレインは、腕の中で眠るギルを優しく撫でながら、大精霊樹の枝葉の隙間から覗く、大きくて丸い満月を見上げた。
世界は、こんなにも広く、美しく、そして『美味しい』に満ち溢れている。
氷の令嬢と呼ばれた少女の、精霊たちとの自由で多幸感に満ちたスローライフは、月光に照らされた極上の笑顔と共に、どこまでも温かく、永遠に続いていくのであった。
【第2部・魔導都市エテメンアンキ編 完】
2部完結です。
ありがとうございました!!




