第1話 地震発生
午前九時二十四分。
恵比寿ガーデンプレイスのオフィスフロアは、いつもと変わらないざわめきに包まれていた。
佐伯悠斗(40)は紙コップのコーヒーをすすりながら、Slackの未読を流し読みしていた。
スマホのロック画面には、昨夜娘の七海が描いた“家族の似顔絵”。
妻・美咲からは「今日、お迎えお願いできる?」というLINE。
「了解。早めに帰るよ」
そう返信した直後だった。
――ゴッ。
床下から巨大な何かが突き上げたような衝撃。
紙コップが倒れ、コーヒーがデスクに広がる。
「地震……?」
言い終える前に、世界が揺れ始めた。
ガガガガガガッ――!
蛍光灯が激しく揺れ、天井のパネルが落ちる。
窓ガラスがビリビリと震え、悲鳴があちこちで上がった。
「机の下に! 伏せろ!」
誰かが叫ぶ。
悠斗も反射的に机の下へ潜り込んだ。
だが揺れは収まらない。むしろ強くなる。
ビル全体が軋む音が、骨の髄まで響いた。
スマホが遅れて緊急地震速報を鳴らす。
「震度7以上の強い揺れに警戒してください」という機械音声が、揺れの轟音にかき消される。
永遠に続くかと思われた揺れは、ようやく弱まり、止まった。
「……大丈夫か?」
机の下から這い出ると、オフィスは半壊していた。
書類が散乱し、倒れた棚の下敷きになった同僚が呻いている。
悠斗は助け起こしながら、窓の外を見た。
――東京が、壊れていた。
恵比寿の街から黒煙が上がり、遠くのビルが傾いている。
道路は割れ、車が横転し、逃げ惑う人々の姿が小さく見えた。
胸が締めつけられる。
「美咲……七海……」
スマホを取り出すが、圏外。
LINEも電話も繋がらない。
嫌な汗が背中を流れた。
「帰らなきゃ……」
誰に言うでもなく呟く。
二子玉川まで、普段なら電車で二十分。
だが今は――。
「歩くしかない」
そう決めた瞬間、余震が来た。
ビルが再び揺れ、天井のパネルが落ちる。
悠斗は身をかがめながら出口へ向かった。
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【恵比寿駅前 ―― 混乱の坩堝】
外に出ると、熱気と埃と焦げた匂いが混ざり合った空気が肺に流れ込んだ。
道路はひび割れ、信号は消え、車は動かない。
人々は泣き叫び、怒鳴り、走り回っている。
「渋谷方面は危険です! 戻ってください!」
警察官が叫んでいるが、誰も耳を貸さない。
悠斗は地図を思い浮かべる。
恵比寿から二子玉川へ行くには複数ルートがある。
だがどれも危険に見えた。
「とにかく、目黒方面へ……」
そう決めて歩き出したときだった。
「すみません! 助けてください!」
振り返ると、若い女性が倒れた自転車の下敷きになっていた。
足が挟まれて動けないらしい。
悠斗は迷わず駆け寄った。
「大丈夫ですか、今どけます!」
自転車を持ち上げ、女性を引き起こす。
女性は涙を浮かべながら何度も頭を下げた。
「ありがとうございます……!」
「気をつけて。余震が来るかもしれないから」
そう言って立ち上がった瞬間――
――バキィッ!
頭上で何かが折れる音。
見上げると、ビルの外壁が崩れ落ちてくるのが見えた。
「危ない!」
女性を突き飛ばし、悠斗は身を翻した。
だが遅かった。
巨大なコンクリート片が、視界いっぱいに迫る。
衝撃。
痛み。
暗転。
音も光も消え、ただ真っ暗な空間に落ちていく。
(……美咲……七海……)
最後に浮かんだのは、家族の顔だった。
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【そして――】
――ピピピピピッ。
耳元でアラーム音が鳴る。
悠斗は目を開けた。
そこは、恵比寿のオフィスだった。
机の上には倒れていない紙コップ。
Slackの未読。
妻からのLINE。
「……え?」
時計を見る。
午前九時二十四分。
地震が起きる“直前”。
心臓が凍りつく。
「なんで……?」
その瞬間――
――ゴッ。
床が突き上げた。
悠斗は理解した。
これは――
“やり直し”だ。




