第69話 聖女の癒やしと、逃げ場なき『ママみ』の檻
「お待ちしていました、ディランさん。……ふふ、今日はお天気も良くて、絶好の『新婚旅行日和』ですね」
第30階層『妖精の森と癒やしの泉』。
待ち合わせ場所にいたのは、普段のジャージ姿(保育士スタイル)でも、アイドル衣装でもない、とびきり家庭的な姿のノエルだった。
淡いピンクのワンピースに、白いフリルのエプロン。 手にはラタンのバスケット。 その姿は、絵に描いたような「休日の若奥様」そのものだ。
しかも、彼女の周りには小鳥やリス、さらにはダンジョンの小動物たちが集まり、彼女の歌に合わせて踊っている。 完全に某夢の国のプリンセス状態だ。
「……ノエル、気合が入ってるな。それに『新婚旅行』ってなんだ」
俺がツッコミを入れると、ノエルは小首を傾げてニコリと笑った。
「あら? 今日は保育園の遠足の下見、という名目ですが……実質的には『将来の予行演習』ですよね?」
「予行演習?」
「はい。ディランさんが私と結婚して、毎日イチャイチャして、子供たちに囲まれて暮らす……そのためのリハーサルです♡」
直球すぎる。 アリシアやヴェルザードのような駆け引きはない。 彼女は最初から「妻」のポジションに座る気満々だ。
「さあ、行きましょうあなた。……あ、手、繋ぎますか? それとも腕を組みますか?」
「……普通に歩くぞ」
俺たちは森の中を歩いた。 マイナスイオン溢れる清浄な空気。 しかし、ノエルが発する「聖母オーラ」の方が濃すぎて、俺の精神は徐々に削られて(癒やされて)いく。
「ディランさん、疲れてますよね? 目の下に隈ができてますよ」
泉のほとりに着くと、ノエルはレジャーシートを広げ、ポンポンと自分の太ももを叩いた。
「さあ、どうぞ。膝枕してあげますから」
「いや、外だし……」
「ダメです。園長先生の命令です。……ゴロンしてください」
彼女の笑顔には、拒否権を封殺する不思議な圧があった。 俺は観念して、彼女の膝に頭を預けた。
柔らかい。そして温かい。 視界にはノエルの慈愛に満ちた顔と、木漏れ日。 耳元では彼女が歌う子守唄が聞こえる。
「い~いこ、い~いこ。……ディランさんは毎日頑張ってて偉いですね~」
ノエルが俺の頭を優しく撫でる。 その手つきは、完全に『幼児を寝かしつけるプロ』のそれだ。 思考が溶ける。 王都の復興だの、帝国の侵略だの、借金の返済だの……どうでもよくなってくる。
(……あ、これヤバい。人間としてダメになる)
俺の本能が警鐘を鳴らした、その時だった。
『ガアアアアアッ!!』
森の奥から、巨大な『バイオレンス・ベア』が現れた。 身長5メートル、鋼鉄の爪を持つ凶暴な魔獣だ。 安らかな空間を切り裂く咆哮に、俺は飛び起きようとした。
「……チッ」
だが、ノエルの口から、信じられないほど低い舌打ちが聞こえた。
俺が動くより早く、ノエルは俺の耳を両手で優しく塞ぎ、魔獣の方を振り向いた。
そして、ニッコリと――しかし目は全く笑わずに、人差し指を口元に当てた。
「……シッ」
『!?』
「今、うちの『大きな赤ちゃん』が寝ているんです。……静かにできますよね?」
ドス黒いオーラが、聖女の背後から立ち昇る。 それは『怒り』ではない。 『子供の昼寝を妨害された母親の、静かなる殺意』だ。
『ヒッ……』
凶暴なバイオレンス・ベアが、一瞬で縮み上がった。 魔獣は冷や汗を流し、音を立てないようにゆっくりと、本当にゆっくりと地面に正座(?)し、地面に頭を擦り付けて謝罪の意を示した。
「……よろしい」
ノエルは何事もなかったように笑顔に戻り、俺の手を塞いでいた手を離した。
「あれ? 今の声は?」
「あ、気にしないでください。森のくまさんがご挨拶に来ただけですよ~。……ね?」
ノエルが視線を向けると、背景でクマが必死に無言で手を振っていた。
「さあ、続きをしましょうか。……次は耳かきですよ♡」
俺は再び、逃げ場のない膝枕の檻に戻された。
「……ねえ、ディランさん」
耳かきをされながら、ノエルが甘く囁く。
「私、思うんです。ディランさんはもう、十分に働きました。……だから、これからは私が養ってあげます」
「……は?」
「私、アイドル活動と保育園の経営で、結構稼いでるんですよ? だからディランさんは、お仕事なんか辞めて、毎日私に甘えて暮らせばいいんです」
彼女は俺の頬をぷにぷにと突っついた。
「私が一生、よしよししてあげます。ご飯も作って、お洗濯もして、お小遣いもあげます。……だから、私のお家に『就職』しませんか?」
究極のヒモへの勧誘。 あるいは、最強の『専業主夫』へのヘッドハンティング。 その提案は、疲れた俺の心にあまりにも甘美に響いた。
「……いや、俺は一応、この国の王だからな……」
俺が必死に理性を保って答えると、ノエルは「ちぇっ」と可愛く唇を尖らせた。
「まあ、焦らなくてもいいです。……どうせディランさんは、私の『癒やし』なしでは生きられない体になりますから♡」
そう言って、彼女は俺の額に、母性たっぷりのキスを落とした。
帰り道。 俺の手をギュッと握って離さない彼女の横顔は、もはや『守られるヒロイン』ではなかった。 俺の人生を丸ごと包み込み、管理しようとする、最強の「聖母」の顔だった。
四人とのデートを終えて、俺は確信した。 物理攻撃のアリシア。 精神支配のヴェルザード。 餌付けのソフィア。 そして、母性依存のノエル。
……どいつもこいつも、俺の『平穏な独身生活』を脅かす強敵すぎる。 だが、不思議と悪い気分ではなかった。




