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第55話 泥にまみれた元婚約者と、ドン引きするヒロインたち

「……臭いのう」


 王都の正門をくぐった瞬間、ソフィアが露骨に顔をしかめた。


「埃と、下水と……何より『敗北』の臭いがする。ディラン、帰ろう。こんな場所にいたら私の肌が荒れる」


「我慢しろ。まだ着いて5分だぞ」


 私は馬車の窓から、かつての故郷を眺めた。


 そこは、見るも無残な廃墟と化していた。 かつては貴族たちが馬車を並べた大通りには、ゴミと浮浪者が溢れている。建物は煤け、商店はすべて板張りされ、歩く人々は皆、死人のような目をしていた。


「ふん……これが人間の『王都』か? 余のダンジョンの『ゴミ捨て場』の方が、まだ分別があって綺麗だぞ」


 ヴェルザードが心底不快そうに、ドレスの裾を払う。 彼女の圧倒的な美貌と高級なドレスは、この薄汚れた街において異質すぎて、もはや暴力的なまでの輝きを放っていた。


「仕方ありませんよ。ディラン様がいなくなってから、この国の経済は崩壊しましたから」


 隣のアリシアが、秘書官スーツ(胸元強調)の襟を正しながら冷たく言い放つ。


「優秀な人材は皆、私たちの国へ逃げ込みました。残ったのは、逃げる知恵も金もなかった者たちだけ……。自業自得です」


 馬車が王城へと続く大通りを進んでいた、その時だった。


「あっ……! ああっ! その紋章は……!」


 道端で、ボロボロの雑巾を使って石畳を磨いていた『清掃員』の女性が、私たちの馬車を見て叫び声を上げた。


 彼女はなりふり構わず馬車に駆け寄ると、泥水が溜まった地面に膝から崩れ落ちた。


「ディラン様! ディラン様ですよね!? お待ちしておりましたぁぁ!!」


 その声に、私は眉をひそめた。 聞き覚えがある。しかし、あまりにも変わり果てていた。


 パサついた髪は油で汚れ、肌は荒れ放題。着ているのはかつてのドレスの成れ果てだろうか、継ぎ接ぎだらけの布切れだ。


「……リディア、か?」


 私の元婚約者。かつて「王都の宝石」と呼ばれ、私を「遊び人風情」と見下して婚約破棄を突きつけた公爵令嬢。


 その彼女が今、泥水に頭を擦り付け、必死に土下座をしていた。


「はいっ! リディアですぅ! うぅっ……申し訳ありませんでしたぁぁ!!」


 彼女は地面に額をガンガンと打ち付けながら、涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔を上げた。


「私が馬鹿でした! 愚かでした! 貴方様の才能を見抜けないなんて、私の目は腐っておりましたぁ! お願いです、許してください! なんでもします! 靴でも舐めますからぁぁ!!」


「……おいおい」


 あまりの転落ぶりに、私は言葉を失った。 高飛車な態度で来るなら言い返してやろうと思っていたが、これでは喧嘩にすらならない。 ただただ、哀れで、惨めで、痛々しい。


 リディアは馬車のステップにしがみつき、泥だらけの手で私に触れようとした。


「お願いです、連れて行ってください! ダンジョン国へ! 愛人でも、奴隷でも、家畜の世話係でも構いません! もう嫌なんです、こんな生活ぅぅ! 毎日芋の皮をかじるのは嫌ぁぁぁ!!」


「……下がれ」


 冷徹な声と共に、アリシアが私の前に立った。


「ひいっ!?」


「汚い手で、ディラン様に触れないでいただけますか。……バイ菌が移ります」


 アリシアは剣を抜くことさえせず、ただ純粋な『嫌悪感』と『憐憫』の目で見下ろした。 その視線は、人間を見る目ではなく、道端の汚物を見るそれだった。


「あ、アリシア……? そ、その綺麗な服……美味しいもの食べてそうな肌……うぅ、うらやましいぃぃ……」


 リディアはアリシアの輝くような美貌と豊満な肢体を見て、嫉妬する気力すら起きないのか、ただただ羨望の涙を流した。


「ふん。見るに耐えんな」


 ヴェルザードが窓から顔を出し、ため息をついた。


「かつてディランが選んだ女がこれか? プライドの欠片もない。……拾う価値もないな」


「そ、そんなぁ……魔王様ぁ……慈悲をぉ……」


「行くぞ、御者。時間を無駄にした」


 私の指示で、馬車は無慈悲にも動き出した。


「あっ、待って! ディラン様ぁ! 置いていかないでぇぇ! ワンッ! ワンワンッ! 犬になりますからぁぁぁ!!」


 遠ざかる元婚約者の、人間としての尊厳を捨てた絶叫が、廃墟のような街に虚しく響き渡った。


 車内には、重苦しい沈黙が流れた。


「……ディラン。あれが復讐相手か?」


 ソフィアが気まずそうに、おやつのクッキーを齧った。


「張り合いがないのう。いじめっ子が、いじめていた相手に泣いて許しを請うなど……興醒めじゃ」


「……ああ。全くだ」


 私はため息をついた。


 胸がすくような爽快感などない。あるのは、「ここまで落ちたか」というドン引きに近い感情だけだ。 彼女はもう、私の敵ですらない。ただの「敗北の残骸」だ。


 しかし、これで分かったことがある。 この国のトップ層は、もう完全に心が折れている。


 ならば――国王も同じか。


「次は城だ。……覚悟しておけよ。もっと酷いものを見るかもしれん」


 私の予感は的中する。 謁見の間に待っていたのは、威厳ある王ではなく、さらに哀れで、そして『致命的な秘密バーコード』を抱えた、一人の老人だったのだ。

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