第120話 最強の秘書天使、絶望する
女神アルテミスが我が家の居候になってから、数ヶ月が経過した。
さらに先日、「視察に来た」はずの天使長ミカエルまでもが、ここの温泉と地酒の味に魅了され、帰らぬ人(神?)となってしまった。
リビングでは、ジャージ姿の女神と、ステテコ姿の天使長が、コタツを挟んでオセロに興じている。
「あー、そこ置く? ミカエル、それ角取られるわよ」
「む……主殿、待った。今のなし」
「『待った』は三回までよ、ミカエル」
そんな平和で堕落した日常が、突然の轟音と共に破られたのは、夕暮れ時のことだった。
ズズズンッ! という地響きと共に、庭の芝生に巨大な影が落ちる。
俺とポチ、そして二人の駄天使たちが縁側から顔を出すと、そこには神々しい光を放つ、巨大な白い獅子が着地していた。
背中に大きな翼を生やした、威厳ある姿。間違いなく高位の神獣だ。
そして、その背中から颯爽と飛び降りたのは、一人の女性だった。
「アルテミス様! それに天使長閣下! こちらにいらしたのですね!」
ビシッとした黒のパンツスーツに、銀色の髪をきっちりとシニヨンにまとめた美女。
知的な眼鏡の奥で、釣り気味の瞳が鋭く光っている。
手にはバインダーを持ち、ハイヒールでカツカツと石畳を鳴らして歩み寄ってくる姿は、まさに『デキる秘書』そのものだった。
「げっ、メル……」
「うわ、メルちゃん来ちゃった……」
アルテミスとミカエルが、同時に青ざめて俺の背中に隠れる。
「『げっ』とは何ですか、『げっ』とは! アルテミス様の定期連絡が途絶え、様子を見に向かわれた天使長閣下まで音信不通! 天界の執務室はパニックですよ! あまりに連絡がないので、私が直々に神獣レオンを駆って来てみれば……なんですか、そのお二人の格好は!」
秘書天使メルと呼ばれた彼女は、バインダーをバンと叩いて声を張り上げた。
「あー、いや、その……ここの暮らしが快適すぎて、つい……」
「つい、ではありません! 特に閣下! ステテコ姿で昼間から何をなさっているのですか! 全天使の長としての威厳はどこへやったのです!」
メルの怒号が響き渡る。
その背後では、神獣レオンが「グルルル……」と喉を鳴らし、鋭い牙を覗かせていた。
横にいたポチが「わふ?(新入りか?)」と首を傾げている。
これはまずい。俺は慌てて間に入った。
「まあまあ、落ち着いてください、秘書さん。遠路はるばる大変だったでしょう。とりあえずお茶でもどうですか?」
「一般人は下がっていてください。これは天界の……くん?」
メルの鼻がぴくりと動く。
俺の手には、ちょうどおやつに出そうと思っていた焼きたての『特製ハニートースト』があった。
「グルゥ……?」
神獣レオンの視線は、俺がポチ用に持っていた『骨付きマンモス肉(特上)』に釘付けだ。
「よしよし、お前もお腹空いただろ? ほら」
俺が肉を放り投げると、神獣は空中でそれをパクりとキャッチし、着地するなり尻尾をブンブン振ってむしゃぶりつき始めた。
ポチが「わふん(やるな)」と鼻を鳴らし、一緒に肉を食べ始める。
ライオンと狼が並んで肉を食う、なんとも平和な光景だ。
「レ、レオン!? 誇り高き神獣が、初対面の人間から餌付けされている……!?」
「メルさんもどうぞ。これ、バニラアイス乗せです」
「わ、私はそのような餌付けには……甘いものは控えて……」
ぐぅぅぅ。
メルのお腹が、可愛らしい音を立てた。
彼女は顔を真っ赤にして、ほんの少しだけ視線を逸らす。
「……味見だけ、です。上司の管理責任もありますから」
そう言って彼女がトーストを一口食べた瞬間、眼鏡がずり落ちた。
「……んっ! ……あま……おいひ……」
アルテミスが「でしょ?」とニヤニヤしながら、ミカエルが「メルくん、ここのお風呂も最高だよ? 翼の凝りが一発で治るぞ」と悪魔の囁きをする。
「お、お風呂……? い、いえ、私は任務が……」
◇
二時間後。
そこには、見る影もなくなった『最強の秘書天使』の姿があった。
スーツは脱ぎ捨てられ、アルテミスが貸したブカブカのジャージ姿。
髪は下ろして少し湿っており、眼鏡はテーブルの上に無造作に置かれている。
彼女はリビングの魔道具『コタツ』に下半身を突っ込み、二人の上司に挟まれて、とろけきった表情で冷たい牛乳瓶を握りしめていた。
「……天界の激務とは……何だったのでしょうか……このぬくもり……離れがたい……」
「メル、帰還報告はどうするの?」
アルテミスが意地悪く尋ねると、メルはコタツにずりずりと沈み込みながら、うわ言のように呟いた。
「……報告書……? 今日はもう……定時を過ぎました……」
「うんうん、働きすぎは良くないよ、メルくん」
ミカエルがうんうんと頷き、みかんの皮を剥いて渡している。
「……はい……有給休暇を……消化します……むにゃ」
彼女はそのまま、コタツの魔力と上司たちのダメな空気に包まれて寝息を立て始めた。
庭を見れば、神獣レオンもポチと一緒に腹を出して芝生の上で爆睡している。
「……また増えたな」
俺は苦笑いしながら、三人の駄天使たちに毛布を掛けてやるのだった。




