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泥濘の心臓  作者: 秋刀魚
3/3

第3話 焦燥

 ばつん、と。肉を断ったような、最も聞きたくなかった音が、私の鼓膜を叩く。直後、右腕を締め上げる感覚は、不快な解放感に成り代わった。


 視線を落とすと、ちぎれた革ベルトが無残に横たわっていた。冷たい床で物言わぬそこからは、内なる獣を律するあの頼もしさは感じられない。今やそれは、脂に汚れ、赤黒く変色した裏側を晒すだけの死体だ。滲みだした変異の影が、じりじりと瞳の奥にこびりついていく。


 疼く。巻かれた聖包帯の下で、どろりと熱を帯びた血が駆け巡っているのが分かる。無数の針が皮膚の下を這い回っている。私は左手で必死に押さえつけ──いや、握りつぶし、眼前のドアにしがみついた。


 ざらついた木錠に手をかけ、叩き割らんばかりに引き落とす。早く、早く中へ。


 軋むドアを押しのけ、転がり込むようにして中に入る。クローゼットに予備があったはずだ。考えるより早く、押し開く。しかし、そこに並んでいたのは、どれも今の右腕を抑え込むには細く頼りないかつての遺物のみ。あるいは、湿気で黒ずんだ一巻の聖包帯。


「くそっ、これでは……っ」


 無いよりマシだと、必死につなぎ合わせる。間に合わせの布きれには変わりないが、幾分か気分を落ち着けてくれた。だが、こんなものでいつまでも持つわけはない。


 扉を蹴破り、逃げるように部屋を後にする。階段を駆け下りる足音は、自分のものとは思えぬほど荒々しかった。背後から誰かの話し声が聞こえるが、今の私には飢えた狼の遠吠えに等しい。追い立てられるようにして、兵舎を飛び出した。


 視界の端に、古びた馬車、そのすすけた幌が映りこんだ。救いか、あるいは地獄への案内人か。揺れる思考の最中、よたよたと近づいていった。


「執行部隊西支部、第三席のアーサーだ。……急用につき、南区画へ出してもらう」


 奥歯を噛み締めながらも、早口でまくし立てる。御者の男が、息をのむのがわかる。怯えに支配された瞳が、私の毛羽だった神経を逆撫でする。


「──早く!」


 めきめきと、お預けを食らっている右腕が吼える。男は弾かれたように鞭をふるい、古びた車輪は悲鳴を上げて駆け出した。私は暗い車内へと、身を隠すように投げ出した。


 落ち着け。聖包帯の色は大して変わっていない。焦っているだけだ。獣の喉元を締め上げながら、深く息を吸い込む。焼け付いた脳髄を、体の内を殴り続ける心臓を冷ましてやるように。


 不意に、跳ね上げていた馬車の振動が落ち着いた。滑らかな石畳が支える緩やかな加減速。次いで私の鼻をくすぐったのは、すえた獣の残り香でも、こびりついた硝煙の臭いでもなかった。幸福を固めて焼き上げたようなパン。美しい花々の押しつけがましい薫香。すれ違う馬車からは、突き刺すような上等の香油が漂ってくる。そして、馬車の窓から差し込んだ陽光は、私の身を容赦なく切り裂いていく。人間性の鎧を奪い去り、惨めな獣を白日の下に曝そうとしているのか。


「……おい、ここで停めてくれ」


 喉が震えるのを感じていたが、御者の耳には入ったようだ。ゆっくりと車輪の音が止み、代わりに無数の靴音が聞こえてくる。襟元を整え、前髪を直す。そして最後に、指先の一本に至るまで冷静という名の氷水を流し込む。これで私は、あの日の「お貴族様」に戻っているはずだ。今だけは、きっと。


 右腕をマントに深く沈め、扉に手をかける。


 ──そこは、人の楽園であった。


 女たちのドレスを鮮やかに彩る布地が、毒々しさを持って私の網膜を焦がす。子どもの無邪気な笑い声が、鑢のように耳の奥を掻き毟る。黒と灰色、血紅で澱み切った兵舎。穴倉に潜んでいた私の肉体はその瞬間、暴力的なまでの歓迎を受けた。一歩歩むごとに、全身に獣の唸りが突き抜ける。この甘く柔らかな世界は、私が手出しできぬと知って誘惑しているのだと。


 もし。この右腕を。涎を垂らす猛獣を解き放てば、どうなるだろうか?きっと、このまぶしすぎる色彩は、瞬く間にその色を変え、優しく私を抱きしめてくれるだろう。その光景を想像しただけで、舌に甘い唾液が乗っていく。


「きゃっ」


 ──熱。不意にぶつかった、軽く、柔らかな肉の感触。ベルトの代わりにつなぎ合わせた聖包帯が、悲鳴を上げた。ぶつかった衝撃で彼女の抱えていた籠から飛び出したのは、色とりどりの野花たち。血に塗れた獣には無用の長物だ。暴力的な命の芳香が、私の鼻腔を搔き乱していく。


 視線を落とすと、そこには怯えと、私の「外面」へのかすかな憧憬をもって見上げる若い町娘がいた。目端で、彼女の細い首筋ではねる頸動脈を捉えた。右腕の奥で、獣が吼えた気がした。応じるように、間に合わせの聖包帯がぎちぎちと軋み、傷んだ革の死体が私の肌を鋭く刺す。爆ぜるような渇望が、私の脳裏に恐ろしい爪を幻視させる。


 だが私は、湧き上がる唾液を無理やり飲み下し、凍てつくような自制心で唇の端を持ち上げた。


「……失礼。怪我は無いかな、お嬢さん」


 吐き出した言葉は、反吐が出るほど滑らかで、かつ使い古した「貴族」のそれだった。しかし、柔らかく差し伸べた手、その逆は、未だ彼女の喉笛の感触を求めて醜く蠢いている。


「あ、ありがとうございます……」


 朱が差した頬と素朴な感謝。それは、私の「仮面」と「本性」の隙間を、熱した剃刀のように切り裂いていった。引き起こした時に、右手が彼女の腰に触れた。その瞬間、マントの下の異形が、歓喜の声を上げる。もっと触れろ。指を食い込ませ、その瑞々しい血管を引きずり出せ。重く脳を揺さぶる獣の飢餓を、私は、微笑みという名の呪文で、必死に封じ込めた。


 獣を抑える薄氷のような理性が、ぱきぱきと音を立てて崩れていっているのが分かる。もはや、一刻の猶予もない。逃げ出したくなる衝動を押し込め、散らばった野花を、私に不似合いな命の残骸を、必死に拾い集めた。


「どうぞ。邪魔をして悪かったね。私も急ぎの用があるので、これで失礼するよ」


 返事は待たず、足早にその場を後にする。せめて彼女から見えなくなるまでは、獣の足音にならぬよう、背筋を伸ばしてまっすぐ歩くことにした。それでも、右腕の下劣な妄想は、収まる素振りなど露ほども見せない。


 一歩、また一歩。かつかつと、私の靴が鳴らす音だけが聞こえる。手から立ち上る花々の香りが、私の鼻腔に絡みつく。左手の柔らかな感触の残滓が、じくじくと肌を痛めつける。すべてを腹の奥に押しやり、石畳を踏みしめる感触だけに集中する。


 幾度それを繰り返しただろうか。目の前には、堅牢な樫の扉。隠した異形が、新たな檻を予感してか、最後の一あがきとばかりに骨を軋ませる。私は、震える左手を扉のノッカーへとかけた。吸い付くような鉄の冷徹な手応え。娘の腰に触れた際の、あの呪わしいほど柔らかな熱が、その冷気によって静かに剥がれ落ちていく。


 ――これでいい。


 二度、三度。人の拳が立てる硬質な音が、ようやく、脳裏を掻き毟る猛獣の咆哮を叩き伏せた。肺の底に溜まっていた熱い毒を吐き出す。指先を伝う確かな硬さだけが、私がまだ理性の側に踏み止まっていることを、何よりも強く証明してくれていた。

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