第2話 停滞
目を覚ましたのは、太陽が中天に差し掛かるころだった。昨日の任務のせいだろうか。執行部隊に配属されてそこそこ経つが、どうも任務の翌日は気が緩むらしい。……だが、それを安らぎとは、呼びたくはなかった。
ベッドから身を起こし、そのまま古びたテーブルに向かう。始まりの定位置。変わらぬ憂鬱。私の一日は、決まってそこから始まる。
卓上に置いた自身の右手に目をやる。固くとがった黒い指先は、戦い以外には何の役にも立たない。それでも、その影は浅ましく伸び続けている。放っておけば、いつかは私の人の輪郭を食い尽くすのだろうか。
机に備えておいた、特注の小刀で削り出す。そこに、人の柔らかい爪の感覚はない。むしろ、年老いた大樹の皮を剥ぐような重厚な響きだ。静かに、慎重に、己の歪みを削り落としていく。否が応でも自身の穢れと向き合わねばならぬ不快な時間ではあるが、この刃先の抵抗こそが、自分を人間に引き戻す実感のようにも感じる。敷いた布に積もった黒い粉は、私の業そのものだ。そして、私がいまだ人であることの証左なのだ。そんな奇妙な安堵が、冷たく胸の内を満たした。
一段落ついたころ、腹の奥に焼けるような飢餓感を感じた。寝過ごした代償としては、少々暴力的な要求だが。このまま階下に向かうのもいいが、削り出したカスのこともある。顔を洗いに行くついでに捨てるのがいいだろう。
小山のように積み重なった薄片を、布で丁寧に包み込む。おぞましい正体が露見せぬよう、丸めたそれを袋に放り込んだ。
階段を下りるにつれて、ねばつく喧騒が這い上がってくる。それが最大限に達したころ、ラウンジと渡り廊下を隔てる大扉が現れた。両手で押し開いたところで、一段と熱気が強くなる。
かと思えば、入ってきた私の姿を認めると、それらは俄かに勢いを失った。代わりに飛び込んできたのは、焦げた油、安酒、そして隠し切れぬ獣の臭いだった。少々の静寂ののち、誰かが吐き捨てる。
「…チッ、なんだ『熊公』かよ」
その呟きは、この空間の代弁に等しかった。確かな恐れを滲ませるそれは、暗い優越感をも含んでいる。しかし、私の眉を動かすには足らなかった。彼らにとって私は、自らの成れ果てを映す鏡なのだ。
男たちは徐々に騒がしさを取り戻していく。ダイスを振って賭け事に興じる者たち、昼間から酒に溺れる者、カトラリーで窮屈そうに食事する者など、様々である。
「畜生!なんでだよクソダイスが!」
そんな下品な叫びが背後から聞こえてきた。あの声はおそらくエドガーのものだ。入って日が浅いので、先輩たちのイカサマに気づいていないのだろう。益もないことを考えながら、私は部隊の兵舎を後にした。
井戸の中に木桶を放り投げ、水を汲み上げる。引き上げた桶にはたっぷりと水が入っており、水面に私の顔が映っている。自惚れを排しても、まだ「元貴族」の面影を留めている。だが、水に差し込んだ指先が桶底を叩く音は、家畜たちの乾いた足音と何ら変わらないのだ。
掬い上げた水が、顔の脂と汚れを無情に削ぎ落としていく。 刺すような冷たさ。それが、脳の奥に澱んでいた湿った思案を、一時だけ強引に押し流してくれた。
しかし、そろそろ空腹が限界だ。布袋を共用のゴミ捨て場に投げ入れ、幾分か軽い足取りで兵舎に戻ることにした。
外でつかの間の清浄を味わったからだろうか。安酒の焼けつくような匂いや、賭けに負けた男たちの品のない怒号がひどく鼻についた。ラウンジの喧騒は、先ほどよりも不愉快な熱をもって私を迎え入れた気がした。
「食事を頼めるか。パンとキドニーパイ、それと野菜のスープを」
「承知しました、アーサー様。すぐにお作り致しますので、少々お待ちください。完成次第そちらにお持ちします」
給仕の男に声をかけた後、食事をとれそうなスペースを探す。あたりを見回すと、古びたマホガニーテーブルに見知った背中が項垂れていた。先程までダイスを振っていた男たちは、一人を残して退散したらしい。
「こっぴどく負けたらしいな」
余程堪えているのか、私が向かいに座っても突っ伏したままだった。エドガーは、声をかけられて初めて私の存在に気付いたようだ。
「アーサーさんか…。次回の貧民街西方の掃討任務、監察官は誰だか知ってるかい?」
持ち上げた顔、その垂れた目元には、蜥蜴のような青い鱗が薄く生え揃っていた。
「オズボーン家次男のユリウス殿だったはずだ。昨日の任務中、あの──ロザリア様がそんなことを仰っていた」
私の答えを聞くや否や、茫洋としていた目が見開き、顔色が目元の鱗と同じくらい青くなった。
「オズボーンって、冗談でしょう!?中堅のくせに態度だけは騎士団張りの頭でっかちじゃないですか!」
「勘弁してくれよ…。なぁそうだ、あんた替わってくれよ!獲物を始末するたびに蹴りいれてくるような坊ちゃん、俺はごめんですぜ!」
「悪いが、今回ばかりは難しいだろう。ユリウス殿の潔癖は特に有名だ。血印が刻まれる死体が一つ増えるだけだろうな」
エドガーが顔をしかめる。同時に、目元の鱗が不安げに逆立った。
「それは…確かにそうだ。こうして話してるだけでもビリビリくるぜ、その右腕」
私が口を開こうとしたその時、トレイを持った給仕が現れる。料理が完成したようだ。
「お話の最中失礼いたします。料理をお持ちしました。アーサー様、お飲み物はお水とワイン、どちらになさいますか?」
彼は、料理を並べ終えると、ワゴンから安いワインボトルと水差しを取り出して言った。
「…ああ、ありがとう。水で頼む」
「承知いたしました。エドガー様もいかがですか?」
「俺はいい。そんな気分じゃねえからな」
「失礼いたしました。では、ごゆっくり」
白いパンに、肉料理、それに慇懃な料理人。遠い記憶が蘇りそうになるが、よく見ればパンは払い下げ品であるし、メインディッシュは臓物料理だ。何より、獲物を前に高鳴る右腕の鼓動こそ、私を現実に縫い留める。無意識に力が入り、きつく巻いたベルトが軋む音がした。ふと料理から目を外すと、エドガーが手慰みに銀貨を弄っているところだった。
「…エドガー。ウォルターのダイスに付き合うのは、もうやめておけ」
「え?なんです、急に。それに今回は負けが込んだだけでしょ」
「指でダイスの目を擦って消してるんだ。あいつの変異が人指し指と親指に表れているのは見たことはあるだろう?そうやって新兵を狩るのが、奴の十八番だ」
顔色が赤くなったり青くなったりした後、最終的には怒りが勝ったらしく、机に拳を打ちつけて立ち上がった。騒がしい彼を横目に、話しながら食べるうち半分ほどになっていたパイを切り分け、左手のフォークで口に運ぶ。
「あのクソ詐欺師が!南区画の酒場だっつってたな…。ぶっ殺してやる!」
パンをちぎって食べる。ウォルターの賭け好きは有名だが、あの男はヒキが弱いらしい。よくつるんでいる連中と振っている時、今日のエドガーの役回りは、決まって奴のものだ。
「やめておけ、腐ってもベテランだ。それにモンゴメリー家は血に恵まれぬ分、剣を重んじる武闘派で知られている」
少し冷めてしまったスープを啜る。
「チッ、納得いかねえぜ…。おい、給仕!アーサーさんが食べ終わったぜ!」
そうは言うものの、忠告は聞き入れてくれたようで、憮然とした顔ながら座りなおしていた。八つ当たり半分の呼びつけだったが、食べ終わっていることには変わりない。内心感謝しつつ、飛んできた給仕の男がトレイを片付けるのを眺めていた。
「ごちそうさま」
「光栄です、アーサー様」
「俺は、今度の任務の準備に出かけてきますわ。どっかのカスのせいで忙しくなりそうなんでね」
エドガーは、完全に機嫌を損ねてしまったらしく、乱暴に椅子を引いて立ち去って行った。
「ああ、それじゃあな」
私も、これ以上の長居は無用だろう。椅子を引き、自室に戻ることにした。




