第1話 夜雨の追跡者たち
王都外郭、貧民街の路地裏。激しい雨が不浄を隠すように降り注いでいる。
獣のごとき異様な呼吸音と、早鐘のような心臓の鼓動を響かせながら走る男は、その風貌もまた異様であった。薄汚い外套を纏い顔を隠しているが、ちらりと覗く目、その白眼と瞳の境界が失われている。おおよそ人のものではない。
そして何より、彼の背中には隠し切れぬ異形の肉塊がうごめいていた。所狭しと血管が浮き上がり、拍動に合わせてソレも動く。肉体の一部が変容した市民など、この貧民街では珍しいものではない。しかし、その中でも彼は一際おぞましく、だからこそ浄化の対象となったのだろう。
もつれる足で泥水を蹴り上げる。振り返る余裕すらない。背後に迫る足音こそが、何よりも雄弁に死の気配を告げていたからだ。
気配の出どころは後方、一組の男女であった。それが愛を語らう間柄でないことは、彼らの纏う空気、何より女の様子からも明らかである。
追跡者の男は雨に打たれ、撫でつけた髪が重く垂れさがっている。手の込んだ世話など久しく行われていないといった趣だが、その美しい亜麻色は、かつての品性を忘れぬよう、くすんだ輝きを放っている。逃げる男を捉える目からは一切の感情を読み取れず、闇に轟く呼吸音が前方の一つであることから、この男が熟達した戦士であることを窺わせる。
その数歩後ろを、まるで夜会の道すがらであるかのように優雅に歩く影があった。
「─ちょっと。泥が跳ねているじゃないの」
鈴を転がしたような、しかし苛立ちを多分に含んだ声が雨音を割く。声の主は、豪奢なドレスを纏った美しい女だった。薄汚れたスラムの汚泥に余りに似つかわしくないその姿は、しかし一切の汚れを受けていなかった。彼女を覆うように薄紅のヴェールが展開されている。降り注ぐ雨も、跳ね上がる汚泥も、その全てを拒絶する血界法である。
「…失礼致しました」
男は静かに答えた。だがその意識は彼女ではなく標的、そして革のベルトでぐる巻きにされた自身の右腕に向けられているようだった。封が綻んだ部分から除く腕は、奇しくも前方の男と同じ脈動を刻んでいた。
「私のドレスに飛んだら殺すわよ、獣」
心底うんざりしたように語るその口ぶりは、彼女の本来の居場所がここではないことを物語っている。
かくして逃走劇は、捨て置かれた廃材と瓦礫を終点とする袋小路が完成したことによって幕を閉じた。
逃走者と追跡者の距離がゆっくりと縮まっていくが、狩人の瞳からは、やはり何色も読み取れない。
「遊んでいるのかしら?獣らしくて素敵なことね。…ああ、やっぱり駄目よ。臭くてたまらないわ。腐った血に穢れた右腕。さっさと始末なさいな」
先ほどから右腕の疼きが強くなっているようで、女の言葉を無視して歩を進める。追い詰められた獲物は、恐怖のあまり失禁し、さらに呼吸を荒くする。
「や、やめてくれ…!頼む、お願いシます!嫌だ!死にたクなイ!」
「異形化がかなり進行しているな。痛むだろう」
男はゆっくりと口を開いた。まるで、暴れる犬をなだめすかすようかの声色だった。
「あ、あア…。熱イ、あツイ!シンゾうガヤケルヨウダ…!!」
一瞥したのち、再度口を開く。
「目を閉じて祈るんだ」
「…始祖よ、穢れた魂を赦したまえ。御身の代行たる裁きをもって、次なる生に祝福を…」
祈りを唱えた瞬間、封を施していた腕がみるみるうちに膨れ上がる。現れたのは熊のような腕部、先に備わっているのは二つに分かれた蹄であった。その異形をもたげた次の瞬間、男の頭部は消失した。
荒々しくも不吉な腕からは、似つかわしくない静けさをもって放たれた。死体上部、首元に残された蹄の痕だけが、その恐ろしさを物語る唯一の証人である。
「巡りて源へ、淀むことなかれ。─安らかに」
教句を唱え続ける彼とは対照的に、女の目線は冷ややかであった。扇子で隠された口許から告げる。
「相変わらず品のない。それに─」
一呼吸置いて、吐き捨てるように言った。
「獣が獣に祈るなんて、失笑ものだわ」
役目を終え、男の右腕が萎んでいく。しかしそれでも、奇妙な脈動とおぞましい獣の形質は、依然として存在感を主張していた。
執行部隊の任務は、標的となる異端者を抹殺、浄化するだけでは終わらない。彼らもそれを理解している。徐にナイフを抜いた男は、慣れた手つきで死体の胸部を切開し始める。女の表情に悪感情以外の色が宿ることは、終ぞなかった。
動きを止め、振り返った男の手のひらには、心臓が鎮座していた。黒ずんだ腫瘍に覆われ、常人のそれよりも遥かに肥大化している。物言わぬ主人とは異なり、取り出されてなおその動きを止めることはない。
男は黙って右手を差し出し続けていたが、監察役たる彼女は指一本触れることなく、心臓の状態を目視で確認する。
「深度3の異形進行。認定する」
いつからか、女の指には精緻な装飾が施された銀の針の姿があった。左手でつまんだそれで、躊躇いなく右手人差し指の先を傷つける。
不機嫌そうに、しかし洗練された指先の軌道が、虚空に幾何学的な円陣を浮かび上がらせる。それを二つ描き終えると、指を無造作に振って弾いた。緩やかに飛行するそれらは、一つは男の持つ心臓に、もう一つは背後の死体に音を立てて焼き付いた。
「監察官ロザリア・ヴァレンタイン、執行官アーサー。両名において、不浄なる魂の還元を証明する」
すらすらと言葉を紡ぐ。すると、焼き付いた紋様の空白だった中心部分に彼らの名前が刻印された。アーサーは、彼女のそれと比べて少ない文字数に、何度見ても心がざわつくのを抑えられない。しかし、一瞬の逡巡のうちにそうした感傷を消し去ることも、幾度となく繰り返してきたことである。
「ふん、手間を取らせてくれるものね」
全ての処理を終えたロザリアは、ハンカチで指先の血を拭い去ると、興味を失ったかのように踵を返した。肩越しに声をかけてくる。
「心臓をさっさと袋に入れなさいな。納品はいつも通りおまえに任せるわよ」
彼女が歩き出すと、周囲の泥水が恐れをなしたかのように道を開ける。数歩歩いた後、振り返った。
「ああそれと、帰りは風下を歩いてね。獣の臭いはもううんざりよ」
今日初めて笑顔を見せたかと思うと、再度歩き出してからはこちらを振り返ることもなく闇に消えていった。
残されたのは首の無い死体と、泥にまみれた執行人のみ。アーサーは無言で腰の回収袋を開くと、未だ痙攣を続ける心臓を放り込んだ。確かな重みを感じるが、それは命の重みといった類のものではなく、単なる資源としてのものだろう。
スラムの谷間、雨に煙る空の向こうには、煌々とした光が漏れ出していた。
王都内郭。選ばれしものしか入ることを許されぬその場所は、王城地下に安置される始祖の心臓の魔力によって、不夜城のごとく偉容を放っている。しかし、光が強ければ強いほど、この貧民街に落ちる影もまたその濃さを増す。
ふと、右腕に強い疼きを感じた。反射的に押さえつけた部分からは、巻きなおした包帯の感覚とともに、忌まわしい鼓動が伝わってきた。
「…戻ろう」
その呟きは何に向けたものだったのか。足取りは重く、降りしきる雨もまた、冷たく泥濘を叩き続けていた。




