世界樹の門番
アレンの決死の覚悟に支えられ、リコは再び旅を続ける。数々の困難を乗り越え、二人はついに夢に見た世界樹があるという「嘆きの森」へ辿り着く。しかし、森は邪悪な瘴気に覆われ、生命の気配が失われていた。そこで彼らを待っていたのは、世界樹の門番を名乗る謎の老婆。彼女は、リコこそが世界樹が待ち望んだ最後の巫女だと告げ、最後の試練を与える。
アレンの腕の中で目覚めた時、リコは自分の身体に起きた変化に気づいた。生命力を使いすぎた代償として、亜麻色だった髪の一部が、まるで月光を浴びたかのように白銀色に変じていたのだ。それは、彼女が禁断の秘術を使った、消えない証だった。
「…リコ様、申し訳ありません…!この俺が、不甲斐ないばかりに…!」
アレンは、自責の念に苛まれ、リコの前に深く頭を垂れた。彼にとって、リコのその白い髪は、自分の無力さを突きつける、何よりも痛々しい徴だった。
「ううん、アレンさんのせいじゃないよ」
リコは、静かに首を振った。その瞳は、以前よりも、さらに深く、澄み渡っているようだった。命のやり取りを経て、彼女の魂は、巫女として、また一つ、大きな成長を遂げていた。
「私は、あなたを守れて、よかった。それに、わかったことがあるの。私のこの力は、誰かを守りたい、助けたいって、心から思った時に、一番強くなるんだって」
彼女の言葉に、アレンは何も言えなかった。ただ、心に誓った。二度と、彼女にこのような無茶はさせない。この身が朽ち果てようとも、必ず自分が彼女を守り抜くのだ、と。
錬金術師ギルド「ウロボロス」の追跡は、その後も続いた。しかし、二人の間の絆は、以前とは比べ物にならないほど、強固なものになっていた。アレンは、リコの気配を探知する魔道具を持つ錬金術師たちを、巧みな陽動と罠で翻弄し、リコは、森の動物たちや精霊たちの助けを借りて、追跡の網を巧みに潜り抜けていく。守られるだけだった少女と、ただ守るだけだった騎士。二人は、いつしか、互いの弱さを補い合い、共に戦う、唯一無二のパートナーとなっていた。
そして、幾多の困難を乗り越え、旅を始めてから数ヶ月が過ぎた頃。二人は、ついに、目的地である「嘆きの森」の入り口にたどり着いた。
その光景に、二人は言葉を失った。
森は、その名の通り、まるで世界そのものが嘆き悲しんでいるかのように、深い絶望に包まれていた。木々は、生命力を失って黒く枯れ果て、ねじ曲がった枝が、まるで亡者の腕のように空を掴もうとしている。地面には苔一つ生えず、乾いた土がひび割れている。そして何より、森全体が、濃密で、息の詰まるような、紫色の「瘴気」に覆われていたのだ。
神殿の壁画で見た、あの厄災の光景。それが、今、目の前に広がっていた。
「…ひどい…。生命の気配が、全くしない…」
リコは、胸を押さえた。薬草師としての彼女の魂が、この大地の死に、悲鳴を上げている。
「世界樹は、この森の、中心にあるはずだ。リコ様、瘴気に気をつけて」
アレンは剣を抜き、警戒しながら、一歩、森へと足を踏み入れた。
足元の枯れ葉が、カサリ、と乾いた音を立てる。鳥の声も、虫の音も、風の音さえも聞こえない、完全な沈黙の世界。ただ、瘴気が淀む、重苦しい空気だけが、二人の行く手を阻むように、まとわりついてきた。
どれくらい歩いただろうか。森の中心に近づくにつれて、瘴気はさらに濃度を増していく。普通の人間なら、吸い込んだだけで肺を焼かれてしまうだろう。アレンは、リコが以前作ってくれた、瘴気を防ぐ薬草を詰めたお守りを握りしめ、必死に耐えていた。リコ自身は、巫女としての力か、瘴気の影響をほとんど受けていないようだったが、それでも、この淀んだ空気は、彼女の精神を少しずつ蝕んでいた。
やがて、二人の目の前に、ひときわ巨大な、枯れた大樹のシルエットが、瘴気の向こうにぼんやりと見えてきた。
あれが、世界樹だ。
夢で見た、光り輝く壮麗な姿は、どこにもない。まるで巨大な骸骨のように、ただ、黒く、空虚に、そびえ立っているだけだった。
二人が、その枯れた世界樹に近づこうとした、その時。
「…そこな若者たちよ。そこから先に、生者が足を踏み入れてはならぬ」
しわがれた、しかし、凛とした声が、どこからともなく響いた。
ハッとして周囲を見渡すと、世界樹の根元、巨大なうろの前に、一人の老婆が、いつの間にか立っていた。
背は低く、腰は深く曲がっている。顔には、深い皺が、まるで年輪のように刻まれている。しかし、その瞳だけが、長い年月を生きてきた者特有の、全てを見通すような、鋭い光を宿していた。
「あなたは…?」
アレンが、警戒して問いかける。
老婆は、二人を値踏みするように、じろりと見つめた。そして、その視線は、やがてリコに注がれると、ほんの少しだけ、和らいだ。
「…わしは、この世界樹を守る、門番のようなものさね」
老婆は、手にしていた樫の杖で、地面をコン、と突いた。
「そして、お前さん…その白い髪が混じった娘っ子。お前さんが、この樹が、永い、永い間、待ち続けていた、最後の一族の巫女じゃな?」
その言葉に、リコは息を呑んだ。
「どうして、そのことを…」
「わかるさ。お前さんの魂から、懐かしい、大地の匂いがする。そして、その身に宿した、純粋で、しかし、まだ不完全な、生命の力を感じる。よう、戻ってきた。いや、よう、目覚めてくれた、と言うべきかの」
老婆は、リコが壁画と夢で知った、全てを知っているかのようだった。
彼女は、自らを「エルダ」と名乗った。そして、リコの一族がまだ光と共にあった、遥か昔から、この森で、世界樹と共に生きてきたのだという。
「門番、と言ったな。ならば、我々を、世界樹の元へ通してはもらえないだろうか。この方は、世界樹を癒すために、永い時を超えて、ここにたどり着いたのだ」
アレンが、懇願するように言った。
しかし、エルダは、ゆっくりと首を横に振った。
「それは、できん相談じゃ。確かに、この樹は、巫女の訪れを待ち望んでおった。じゃが、今の、不完全なお前さんでは、世界樹を癒すことなど、できはしない。逆に、この樹に溜まった、強大な瘴気に、魂ごと喰われて、おしまいじゃろう」
「不完全…?」
「そうさね。お前さんの力は、まだ、母御によって、その大部分が封じられたまま。怒りや、自己犠牲のような、強い感情に揺さぶられた時に、その力の片鱗が、無意識に漏れ出しているに過ぎん」
エルダの言葉は、リコの現状を、的確に言い当てていた。
「世界樹を癒すには、お前さん自身の意志で、その力の全てを、完全にコントロールする必要がある。そのための、最後の試練を、今からお前さんに、課させてもらうよ」
エルダはそう言うと、樫の杖を、世界樹の枯れた幹に、そっと触れさせた。
すると、幹の表面から、どす黒い、凝縮された瘴気が、まるで生き物のように蠢きだし、一体の、巨大な魔物の姿を形作った。
それは、鹿のような角と、獅子のような胴体、そして、蛇の尾を持つ、伝説の魔獣「キマイラ」の姿をしていた。しかし、その身体は、全てが瘴気によって構成されており、その瞳は、憎悪と絶望の色に、どろりと濁っていた。
「こ、これは…!」
アレンが、その圧倒的なプレッシャーに、身構える。
「これは、この世界樹が、永い年月をかけて吸い込んできた、世界中の嘆きと、苦しみの、化身じゃ」
エルダは、静かに言った。「この『嘆きの化身』を、お前さんの力で、癒し、鎮めてみせい。それができなければ、お前さんに、巫女としての資格はない」
それは、あまりに過酷な試練だった。ただの魔物ではない。世界中の負の感情の集合体。そんなものを、どうやって癒せというのか。
「さあ、始めなされ。お前さんの『覚悟』を、わしに、そして、この世界樹に見せてみせい」
エルダの言葉を合図に、瘴気のキマイラが、咆哮を上げた。その声は、森全体を震わせ、聞く者の心を、絶望で凍てつかせるようだった。
アレンは、リコを守ろうと前に出ようとした。しかし、リコは、その彼の腕を、そっと制した。
「…アレンさん。ここは、私に任せて」
リコの瞳には、恐怖はなかった。そこにあるのは、巫女としての、揺るぎない覚悟だった。
彼女は、一人、ゆっくりと、キマイラの前へと歩みを進める。
巨大な魔獣の前に立つ、小さな少女。あまりに絶望的な、力の差。
しかし、リコは、ただ、静かに、その化身を見つめていた。
そして、彼女は、歌い始めた。
それは、薬草を調合する時に、いつも口ずさんでいた、優しい、子守唄のような歌。
悲しみを、怒りを、絶望を、ただ、受け入れ、包み込むような、慈愛に満ちた旋律。
彼女の歌声は、瘴気が渦巻く、この死の森に、唯一の、生命の光を灯した。
咆哮を上げていたキマイラの動きが、ぴたり、と止まった。
その濁った瞳が、目の前で歌う、小さな少女の姿を、ただ、じっと、見つめている。
最後の試練が、今、始まろうとしていた。