囚われの姫と夢の共鳴
城の一室に幽閉されたリコは、領主の娘・エリアーナと出会う。彼女の病は、心を蝕む特殊なものだった。治療の過程で、エリアーナが持つ「夢見」の力がリコの記憶と共鳴し、二人は夢の中で巨大な樹の新たな幻視を見る。
リコが案内された部屋は、村で与えられた粗末な寝床とは比べ物にならないほど豪華だった。天蓋付きのベッド、彫刻の施された衣装箪笥、銀の燭台。しかし、窓にはめられた鉄格子が、ここが客室ではなく、美しい牢獄であることを雄弁に物語っていた。
食事は日に三度、無口な侍女によって運ばれてくる。味は良かったが、砂を噛むようだった。リコは事実上の軟禁状態に置かれたのだ。領主の目的はただ一つ、彼の娘の病を治させること。そして、その力を独占すること。兵士たちの会話の端々から、そんな邪な思惑が透けて見えた。
「早く、行かなくちゃいけないのに…」
リコは鉄格子の隙間から空を見上げた。夢に出てくるあの巨大な樹。そこへ行かなければならないという焦燥感だけが、リコの心を支配していた。記憶のない彼女にとって、それは唯一の道しるべだった。ここに留まっている時間はない。
軟禁されてから三日目の朝、部屋の扉が重々しく開き、あの非情な領主、バルトークが姿を現した。その背後には、やつれた顔の侍医が控えている。
「薬師の娘よ、待たせたな。今日から、我が娘エリアーナの治療にあたってもらう。あらゆる手を尽くしたが、国中の名医ですら匙を投げた病だ。もしお前がこれを治せば、望むだけの金貨を与えよう。だが…」
バルトークはそこで言葉を切り、氷のように冷たい視線でリコを射抜いた。
「もし治せなければ、お前を村人たちを惑わした詐欺師として、相応の罰を与える。覚えておくがいい」
脅しだった。リコは道具であり、使えなければ壊す。彼の態度はそう言っていた。リコは小さく頷き、黙って彼に従った。
案内されたのは、城の北塔にある一室だった。扉を開けた瞬間、淀んだ空気がリコの肌を撫でた。分厚い深紅のカーテンが何重にも引かれ、昼間だというのに薄暗い。部屋の調度品はリコの部屋以上に豪華だが、まるで時が止まったかのように、すべてにうっすらと埃が積もっていた。
その部屋の中心、巨大なベッドの上に、領主の娘・エリアーナは横たわっていた。年はリコと同じくらいだろうか。象牙色の肌に、月光を思わせる銀色の髪。人形のように整った顔立ちは、病にやつれてなお、息を呑むほどの美しさを湛えていた。だが、その青い瞳は、どこか遠い場所を見つめているかのように虚ろで、生気が感じられなかった。
「エリアーナだ」と、バルトークが吐き捨てるように言った。「ひと月前から、こうしてただ眠るように衰弱していくだけだ。原因はわからん。さあ、お前の不思議な力とやらで、治してみせろ」
リコは侍医からこれまでの治療記録を受け取ると、静かにエリアーナのベッドサイドに近づいた。脈を取り、顔色を診る。体温を確かめる。しかし、身体的な異常はどこにも見当たらなかった。熱があるわけでも、どこかに痛みがあるわけでもない。ただ、魂がその肉体から抜け落ちてしまったかのように、生命の輝きだけが失われていた。
(これは、普通の病気じゃない…)
リコは直感した。これは、心の病。あるいはもっと根源的な、魂に関わる病だ。普通の薬草では治せない。
「…まずは、体力をつけてもらうための薬を作ります。衰弱が激しいので」
リコはそう告げ、必要な薬草のリストを侍医に渡した。領主の権力をもってすれば、どんな希少な薬草もすぐに手に入るだろう。果たして、半刻もしないうちに、要求した全ての薬草が届けられた。
リコは慣れた手つきで薬草をすり潰し、調合していく。その知識がどこから来るのか、彼女自身にもわからない。ただ、そうするのが当たり前であるかのように、手が動くのだ。完成した滋養強壮の薬を、リコはスプーンで少しずつエリアーナの口元へ運んだ。エリアーナは抵抗することなく、それをゆっくりと飲み下す。
薬の効果か、エリアーナの頬にわずかに血の気が戻った。しかし、虚ろな瞳は変わらない。根本的な解決には至っていないことを、リコは痛感した。
その日から、リコは毎日エリアーナの部屋へ通った。薬を飲ませ、そして、諦めずに彼女に話しかけ続けた。
「こんにちは、エリアーナ。今日はいい天気だよ。鉄格子の隙間からだけど、青い空が見える」
「私はリコ。自分の名前以外、何も覚えていないの。でも、行かなくちゃいけない場所があるんだ。とても、とても大きな樹なの。あなたも、見たことある?」
返事はない。だが、リコは気にしなかった。森で見つけた美しい花の話、薬草の不思議な効能の話、自分が覚えているわずかな記憶の断片。一方的な語りかけは、まるで自分自身に言い聞かせているかのようでもあった。
そんな日々が五日ほど続いた夜のことだった。
その日も、リコはエリアーナの手をとり、薬を飲ませていた。彼女の冷たい手に、自分の体温を分け与えるように。
「…おおきな、き…」
その時、か細く、掠れた声がリコの耳に届いた。ハッとして顔を上げると、エリアーナの唇がわずかに動いている。
「エリアーナ…?今、何か…」
「ゆめ…で、みるの…いつも…」
初めて聞く、彼女の声だった。リコは驚きと喜びで胸がいっぱいになり、思わず彼女の手を強く握り返した。
「大きな樹?あなたも、その夢を見るの!?」
リコがそう叫んだ瞬間だった。ぐらり、と世界が揺れた。いや、揺れたのはリコの意識だった。抗いがたい、強い眠気が奔流のように彼女を襲う。エリアーナの瞳も、同じように焦点が合わなくなり、ゆっくりと閉じていく。
握り合った手を通じて、二人の意識が一つの渦に吸い込まれていくような、不思議な感覚。そして、リコの世界は、暗転した。
次に目を開けた時、リコは夢の中にいた。
見慣れた、あの巨大な世界樹が、夜空の星々をその枝に宿しながらそびえ立つ、幻想的な光景。いつもは一人きりの、孤独な夢の世界。しかし、今日は違った。
「ここは…?あなたは…薬師の…」
隣から、澄んだ声がした。振り返ると、そこにはエリアーナが立っていた。現実での虚ろな姿が嘘のように、その瞳には理知的な光が宿り、自分の足でしっかりと立っている。
「エリアーナ!話せるのね!」
「ええ…。夢の中では、いつもこうなの。でも、誰かとこの場所で会うのは初めて…。あなたは一体、誰なの?」
夢の中ではっきりと保たれた意識。二人は互いに驚きながらも、目の前の壮大な光景に目を奪われた。いつもより、世界樹の姿が鮮明に見える。その枝葉のさざめき、樹皮を流れる淡い光の筋まで、手に取るようにわかる。
そして、二人は見た。
世界樹の根元に、白い光を纏った人々が集い、祈りを捧げている姿を。彼らは樹から滴り落ちる光の雫を、大切そうに器に受け止めている。その人々が着ている装束は、リコが森で目覚めた時から着ている、簡素だが独特な刺繍の施された服と酷似していた。
「あ、のひとたちは…」
エリアーナが呟いた、その時。
平和な光景は一変する。空が瞬時に暗雲で覆われ、大地が裂け、禍々しい紫色の瘴気が地底から噴き出した。瘴気は世界樹に絡みつき、その輝きを蝕んでいく。光の人々は杖を掲げて必死に抵抗するが、瘴気に触れた者は次々と黒い塵となって消えていった。阿鼻叫喚の地獄絵図。
幻視の最後に、一人の女性が必死の形相で、産着に包まれた赤子を抱きしめていた。彼女は巨大な世界樹の根元にある、大きなうろの中へ赤子をそっと隠す。
「どうか、生き延びて…。世界樹の癒しの力が、あなたを守ってくれるはず…。我が一族、最後の希望…『リコ』…」
その声が響いた瞬間、リコの頭を激痛が貫いた。
「きゃああっ!」
悲鳴と共に、リコとエリアーナは同時に夢から覚めた。二人とも、びっしょりと冷や汗をかいている。
「はぁっ、はぁっ…。今の夢は、一体…何…?」
エリアーナが震える声で言った。その瞳には、もはや虚ろな色はなく、恐怖と混乱、そして確かな「生」の光が宿っていた。
リコも、心臓が激しく鳴り響く中で、一つの真実を悟っていた。あれはただの夢ではない。失われた過去の記憶の断片だ。そして、夢の中の女性が呼んだ名前は――。
「…私の名前…」
エリアーナが、自分の秘密を打ち明けた。
「私には、『夢見』の力があるの。時々、未来や過去の出来事を、自分の意思とは関係なく夢として見てしまう…。でも、あんなに鮮明で、誰かと夢を共有するなんて、初めてだった。あなたの力が、私の力を増幅させたんだわ」
エリアーナの病の原因は、これだったのだ。制御できない「夢見」の力によって、彼女の魂は常に夢と現実の狭間を彷徨い、そのエネルギーを消耗し続けていたのだ。リコの存在が、その暴走していた力を正しい方向へと導いた。
翌朝、エリアーナが自らの足でベッドから起き上がり、はっきりと自分の意思で食事をとった姿を見て、領主バルトークは驚愕し、そして歓喜した。彼はリコを「奇跡の娘」と称賛したが、その瞳の奥には、彼女をさらに利用しようとするどす黒い独占欲が渦巻いているのを、リコは見逃さなかった。
エリアーナとリコの間には、誰にも言えない秘密を共有したことによる、確かな絆が生まれていた。
リコは、自分の旅の目的が、ただ漠然としたものではないことを確信した。あの世界樹へ行けば、自分が誰で、どこから来たのか、その全ての答えが待っている。
そのためには、この美しい牢獄から、脱出しなければならない。エリアーナという、初めてできた友と共に。リコの瞳に、それまでなかった強い決意の光が灯っていた。